ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


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桜と口笛と

めずらしくマダムが旅行することになり、一週間の留守の間、我が家はふたりの娘とぼくの3人家族になりました。娘たちは共に春休みなので、家事や食事は二人で分担してくれることになったのですが、高校2年生の下の娘は部活があって忙しく、やったとしても洗濯物を干すくらいで、どうしてもお姉ちゃんの負担が多くなります。それでも、買い物に行って、上手に食事は作ってくれるし、片づけもしてくれるしで、ぼくはちょっと彼女のことを見直しました。

 というのも、お姉ちゃんの方は本当に勉強が嫌いで、部活もせず、高校1年のころからバイトばかり。いつもスマホを触っているか部屋に閉じこもっているかで、よくわからない娘、というのがぼくの印象だったからです。それに、バイトしているからお小遣いもお年玉もいらないというので、ぼくにとっては、良くも悪くも手のかからない子でした。

 ところが、ある日帰宅すると、台所に洗い物がたまったままになっていました。「今日はどうしたの?」と尋ねたら、「疲れたから。」と言います。そこで、ぼくは言わなくてもいいことを言ってしまったのです。「それなら、オレの方が疲れていると思うけど、やってあげるわ」。

 そして、大人げないことに、とことんきれいにしてしまいました。

 お風呂から出てきた娘がその様子を見て、ぎゅっと目を閉じました。あれ、どうしたのかな、と思っていたら、ボロボロ泣き始めた。しまった、と思ったぼくはあわてて「いつもやってくれてるからたまには手伝おうと思ったんや」と言い訳したのですが、泣き止まない。「今日は朝から夜までずっとバイトやったから、明日の朝起きて片づけようと思ったのに。」。「ごめん、いつもご飯も用意してくれて、よくやってくれてると思ってるから。」と、父も必死の弁明をするのですが聞き届けてもらえない。「もうご飯作らへん」そして「もういやや」そう言って一層はげしく泣きます。それから、自分の部屋に入り、バタンと扉をしめてしまった。

 ぼくはそのとき、悟ったのです。実は、手のかからない子供というのは、子供がそうしているんだ、と。親がめいっぱい努力しているとき、子供も同じくめいっぱい努力しているのだ、と。

 高校1年生のときからバイトを始めたのは、自分だけでも親に負担をかけないようにしようという彼女の決意だったのでしょう。

 実際問題として、小さなレストラン一軒分の収入だけで子供を3人そだてるというのは、とても厳しい。そのことを彼女は子供ながら理解していたのでしょう。ぼくはそのことにまったく気付かず、彼女のことをよくわからない、でも、手のかからない子供だと思っていた。

 彼女のことをまったく理解していなかったことに今更ながら気づいて、ぼくはとても恥ずかしくなってしまいました。そして、父親として不甲斐ないことがこころから悲しくなった。こんな家庭の娘でいることが「もういやや」と言われたような気がして、とてもつらくて、抑えても抑えても涙が止まらなくなってしまった。

 もっと他に生きる道があったのではないか。少なくとも子供たちに、お金の心配をさせることのない職業に就けたのではないか。

 ただ、そこに彼女が自分の目的を見つけて、前向きに生きる道筋ができたという側面もあるのかもしれないのですが、それはそれ、ぼく自身の問題とはまた別です。

 明日も仕事だから眠ろうとするのですが、なかなか眠れません。真夜中に、娘にメールをしました。それでやっと明け方にうっすらと眠ることができました。

 翌日は、メールの返事が来ていないかと気にしていたのですが、帰宅するまでありませんでした。帰ったのが遅かったので、娘たちはすでに眠っていましたが、食事は用意してあって、その横に手紙が置いてありました。昨日は泣いてしまってごめんなさい、と書いてあった。そして、この春から彼女が通う専門学校のことが書かれてありました。

 早々と大学には行かないと宣言していたのですが、その専門学校への進学は、彼女が自分で決めてきました。3年制。とりあえず入学金はなんとかなったのですが、さて授業料はどう捻出するか?あれこれ算段は調えてはいたのですが、なにも言ってこなかった、その答えが、その手紙には書いてありました。

 「明日、1年分の授業料を払ってきます。3年間、バイトでためたお金です。あとの2年分は奨学金を申請しました。パパに負担はかけないから心配しなくていいです。それより、私がちゃんと資格がとれるようになるまで応援してくださいね。」。

 明日が彼女の入学式です。桜が満開でしょう。でも、その桜は同じように見えるけれども、去年の桜ではありません。毎年、新しい花が咲き、散り、1年が過ぎると、また新しい花が咲く。まっすぐに生きて、毎年、新しい花を咲かせてほしいと思います。そして、人を思いやるそのこころを失わず生きていってほしい。

 多分、本人は気付いていないだろうけれども、彼女が機嫌のいいときはわかりやすい。よく口笛を吹いているのです。それが随分と上手で楽しそうで、聞いている方も思わず微笑んでしまいます。

 今年の桜には口笛が似合います。ぼくにとっても、一生忘れられない思い出になりそうです。


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# by chefmessage | 2017-04-07 20:29

白いウサギ

 どの分野においても、いくつかの偶然が重なってできあがったものが、いつまでも記憶に残る作品になったりすることがあるようです。今回のぼくの料理、白いリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルもそのようにして完成し、ぼくにとっては忘れられない一品になりました。

 始まりは、関西イタリアンの雄、そして長年の友人でもある八島淳次君とのコラボの話でした。

 八島君とは、以前にもコラボのディナーをやったことがあるのですが、その時は、お互いが主張しすぎてうまく嚙み合わず、お客様にも決して満足していただける内容ではありませんでした。だから、いつかもう一度やろうと話し合ってはいたのですが、そうこうするうちに八島君の淀屋橋のお店が閉店となってしまい、立ち消えになりそうになる前に、今回はぼくの方から持ち掛けて、新年早々、開催する運びになったのです。

 どうせやるなら、だれもやったことのないテーマで、と考え、オールジビエのコースをぼくが提案しました。魚介類、一切なし。鳥類で八島、四足獣は道野が担当。デザートは八島君とうちのマダムが一品ずつ、ペアリングのワイン監修は八島君。とりあえず日時を決めてしまおうということで、19日成人の日に決定。

 全体的な量の問題を話し合い、食材と料理法が重ならないようにするために何度も打ち合わせをしました。歴史に残るような一日にしたいというのが、ぼくたちの望みでした。そして、フェア告知の第一弾ということでSNSにアップしたところ、ほぼ一日で満席になってしまいました。それでも問い合わせが続くので、急遽、前日の8日も開催することに。八島君と二人、これは年明けからえらいプレッシャーやな、と顔を見合わせました。

 そんなときに、旧知のハンターから電話がありました。野ウサギの入手ルートができたんですが、使いますか?実は、ぼくは過去25年間、野ウサギは触っていません。最後に使った個体の状態が良くなくて、二度とやりたくないと思っていたからです。だから、検討します、ということで一旦、電話を切りました。

 そういう時に、偶然、パリにおられる料理人のAさんという方がSNSでアップしている、リエーブル・ア・ラ・ロワイヤルの写真を目にしました。それが実に美しい料理で、ぼくは感動しました。でも、従来のやり方ではこういう風にならないと推察したぼくは、一面識もない、なぜSNSで友達になったのか記憶にもないその方に、厚かましくもメールをしました。これは、こういう風に作ってらっしゃるのではないでしょうか。

 すると、そのAさんは、実に丁寧に答えてくださった。おおよそは、ぼくの想像した通りだったのですが、そのときぼくの頭の中で、キラっと光るものがありました。ひょっとすると、今までだれもやらなかったリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルができるかもしれない!

 ぼくはAさんに感謝のメールを差し上げた後、いそいで例のハンターに電話しました。年始に、野ウサギ4羽、確保できますか。多分、大丈夫でしょう、という答え。それが12月の半ばのこと。それから年始の営業が始まり、野ウサギが店に届く1月4日まで、ぼくはこの料理のことをずっと考え続けました。設計図を、楽譜を、頭の中で書いては消し、書いては消し。同時に、理論的に間違ってはいないか推考を重ね。

 そして仕込み。4羽の野ウサギの皮を剥ぐところから始めて、本体の仕上げからソースのベース作りまで、ほぼひとりでやりました。熱に浮かされるとは、こういう状態のことを言うんだろうな、と思いながら。新しいものを生み出せるかもしれないという興奮が、疲れを忘れさせていたように思います。4日間、ぼくはひたすら仕事をし続けました。

 そもそもリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルとは、野ウサギの骨をすべて取り除いて一枚開きにし、あらかじめ外してあった前足や後ろ足、首回りの肉と内臓をミンチにしたものを、フォアグラ、トリュフと一緒に包み込み、赤ワインで煮込む料理です。ソースは、赤ワインでウサギのくず肉や骨を煮出してフォン(だし汁)をとり、それを煮詰め、フォアグラバター、ウサギの血、チョコレートなどでつなぎ、そして最後にアルマニャックをたらして仕上げるというのが定番。それを、筒切りにした本体にたっぷりと注ぎます。だから、この料理の仕上がりは、赤というより黒です。

 でも、ぼくは白いリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルを作りたいと思った!

 野ウサギを赤ワインで煮込むのは、それが一番妥当な料理法だからです。そうしないと臭みが取れないから。しかし、現在のように流通がスムーズになると、状態がよいままで食材を手に入れることができます。それをわざわざ煮込む必要はないのではないか。だから今回の料理は、煮込まないで、真空パックに入れて低温で火を通しています。そのことで、野ウサギの肉を煮込んだ時のパサついた感じはなくなります。肉本来のおいしさを表現できるのです。このテクニックが、Aさんの料理の美しさの秘訣でした。そして、フォンをとるときに、ぼくはくず肉や骨を焼きませんでした。煮こぼしたあと一度きれいに洗って、コンソメの2番を使って煮出し、それを漉して煮詰め、クリームを入れて、さらに煮詰めています。フォアグラバターでつなぎ、レモンを絞り込んで軽くし、最後にアルマニャックを数滴。

 クラシックではソースにウサギの血を入れますが、これも匂い消し、すなわち、より強い香りで臭みを制することが目的だとぼくは推察しました。それと、ソースに濃度をつけて、肉にたっぷり注いで食べさせよう、と。チョコレートは、さらに血の匂い消しと苦みの補給。苦みがまざることで、味に複雑さがでるから。また、チョコレートのポリフェノールが血の味を中和する役目もあるのかもしれません。そもそも、赤ワインにはポリフェノールが入っているし。アルマニャックは、最後の芳香。

 考えると、実によくできた素晴らしい料理です。ぼくは、この料理の考案者に畏敬の念を感じているし、この料理を上手に作ることができる料理人をこころから尊敬します。しかし、文化というものは時代に応じた変化があってしかるべきではないかと、ぼくは思います。選択肢が多い方が文化としては豊かだと思うし。

 でも、実際のコラボディナーの時には、一つの本体にクラシックなソースも添えて、2種類のソースで食べていただきました。本当は真っ白にしたかったのですが、初めてリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルを召し上がったお客様に、これが本来の姿だと誤解されると困るし、どこかのレストランでお話しされて、それを聞いた料理人が、「道野さん、間違っている」と言い出すと嫌なので、あえて、そのような形でお出ししました。どちらがおいしいと感じるか、お客様の感想も聞きたかったし。

 ある方が食後に、白いソースだと、リエーブル・ア・ラ・ロワイヤルの独特な匂いが薄まるという意見を言われましたが、それは無理難題だと申し上げたい。なぜなら、あの独特な香りは、元となる野ウサギの熟成香、あえていうなら、腐敗臭があるから出てくるものだからです。状態の良いものを適切に調理して、あの香りを立たせることはできません。

 レシピというものには、必ず背景があります。重要なことは、それを読み取ることです。必然性のない要素は含まれていない。そのうえで、ひとつひとつが組み合わさって全体がまとめられ、完成していくものです。だから、表面だけをとらえていては、その料理の神髄に触れることはできないと思います。

 リエーブル・ア・ラ・ロワイヤルとは煮込み料理のことではない。野ウサギをおいしく食べさせる知恵だと思います。それなら、元になる野ウサギの状態によって調理法やソースはかえるべきです。ただ、かえてはいけないところがあるとすれば、それは、野ウサギを開いて詰め物をする、いわゆるバロティーヌの形にすること、そして、フォアグラとトリュフをたっぷり使うことだとぼくは思います。

 ア・ラ・ロワイヤルの語源は貴族風ということになると思いますが、それは、庶民がなかなか口にすることができない食材を使っているからで、だから、フォアグラとトリュフははずせない。

 赤ワインが必然になるのは状態のよくないものを煮込む場合だから、鮮度の良いものが入手できるなら、それを白ワインに代えて、クリームとフォアグラバターで仕上げることには問題がない、血を入れる必要もないと、ぼくは結論付けました。

 相性としても、決してわるくない組み合わせだと思います。

 当日のお客様の中に、長年、業界紙記者を務めた方がおられたのですが、彼女がこの料理を口にした途端、「これ、ほんとにリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルだ!」と叫んだその瞬間、ぼくの胸にあった氷が一瞬にして溶けた、それほど熱い思いが、この料理にはこめられていたのです。

 一つの料理を繰り返しやり続けることで完成度を高めていく、それも尊い行為です。でも、ぼくはそうではない。まだ何かある、まだ知らないことがある、そう思って生きてきました。安定を潔しとしない気風が抜けない。そのことで、ずいぶん波風の多い人生を歩んできたし、毀誉褒貶にも巻き込まれてきました。

 苦しくなかった、と言えばうそになる。それは、今でも同じです。もっと別の生き方ができたのではないか、と思うこともよくある。この白いウサギ料理もそうです。批判する人も結構いるだろうとも思う。

 けれども、これがミチノの料理です。いろんな偶然に恵まれ、いろんな人に助けられて、ぼくはこの料理を完成させました。また一段、ぼくは階段を上ったと思います。

ぼくはすくなくとも、自分自身の選んだ道を歩んでいる。そして、少しだけ誇らしげに、こう言おうと思う。

 見ろ、これがオンリーワンということだ。

 

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# by chefmessage | 2017-01-12 17:59

 長い間、自分の作る料理の意味について考え、悩んできました。

フランス料理とはいったい何なのか。あまりに漠然とした疑問なので、答えようがない。もちろん、歴史的考察から導きだされる概念はあるし、食文化として分類すること、あるいは類型化することはできるでしょう。でも、ぼくの疑問に対する答えはそこにはありません。自分の作っている料理は何なのか、という自分自身への問いかけであり、答えなのです。

 日本人が日本で作り、主に日本人が食べるフランス料理とは何なのか。そんなものに意味があるのか。その答えをいつも探しながら、ぼくはもう40年近く、いわゆるフランス料理を作り続けてきました。


 ぼくはフランス料理しか学んでいません。調理師学校には行っていないし、フランス料理のコックになる前は、料理に対して何の興味もありませんでした。おいしいものを食べる、ということに熱心だったわけでもありません。それは今でも、あまり変わってないような気がします。ぼくの場合、外食はほとんどがフレンチかイタリアン、すなわち、自分の仕事に関係のあるところばかりです。もっと和食から学ぶべきだとある方から言われて、せっせと京都に通ったこともありましたが、ほとんど影響を受けることはありませんでした。それよりも、本を読んだり映画を観たりコンサートへ行くほうが楽しいし、得るところは多かったようです。そこから受けた感動をエネルギーに変えて、ぼくは料理を作り続けてきたような気がします。


 すなわち、ぼくはフランス料理以外の食に興味はないし、フランス料理以外は作らない、あるいは作れないと思って生きています。でも、自分の作る料理を本当にフランス料理と言ってしまっていいのか、という疑問はずっと消えずにありました。


 ぼくの母は和食が得意ではありませんでした。彼女が得意とするものは韓国料理だったのですが、ぼくは子供のころ、食べ物の発酵臭がとにかく嫌いだった。だから母は、ぼくたち子供にはいわゆる洋食で対応しようとしました。ぼくに料理に対するセンスがあるとするなら、それは確実に母から受け継いだものだと思うのですが、彼女のつくるカレーライスやハンバーグ、あるいはシチューはとてもおいしかった。そういう食生活で育ったことも影響しているのでしょうか、ぼくにとって和食や中国料理の職人になるという選択肢は考えられませんでした。料理を作る仕事に就くなら、それはイタリアンかフレンチあるいは洋食しかありませんでした。


 フランス料理のコックになったのは偶然というか行き当たりばったりとしかいえないようなきっかけだったのですが、とにかくぼくは、ぼくの考えるフランス料理を作り続けてきたのです。


 さて、最初の疑問に戻ります。ぼくにとってのフランス料理とは何なのか。


先日、ある料理人が食事に来ました。食後、その彼がこんなことを言いました。「ぼくは道野シェフに対して偏見を持っていました。でも、実に真っ当なフランス料理をやっていらっしゃる。」。この言葉はぼくにとっては意外でした、というのも、彼は若手にもかかわらず、古典的なフランス料理をできる限り忠実に現代によみがえらせようとすることで世間の耳目を集めている料理人だからです。彼にとってぼくの料理は、まったく邪道にしか見えないだろうと思っていたから。


ぼくは彼のように勉強熱心な料理人ではありません。料理本なんてほとんど読まないし、料理人の集まりにも行かない。業界団体には一切所属もしていません。新しいメニューを考える時も、ほとんど何も参考にしない。他人がやっている料理には興味がないし、それがはやりで受けると解っていても真似するのは嫌いです。ただぼくは、ぼくにとって新しいものだけを作り出そうとしています。自分にとって心躍るもの、そしてお客様の意表をついて感動へと導くもの。


 だからぼくの料理は、時として人の目には奇異にうつるだろうと思います。それに対して真っ当なフランス料理であるという評価は、ぼくにとっては意外だった。


 また、あるベテランソムリエからは、食後にこんな感想をいただきました。「今日はフランス料理を食べた、という気持ちにひたることができました。」。フランス料理の神髄である、積み重ねていって完成させるという構造をおおいに実感できた、と。


和食は引き算、フランス料理は足し算という定義をよく耳にします。その論法で行くなら、確かにぼくの料理は足し算をしながら組み立てて作るものです。


それは音楽に似ています。重ねるといってもくっつけることではありません。和音を構成する、ハーモニーとなるようにのせていく、というのが正確です。そのハーモニーをどのタイミングでどの楽器に担当させるかを決めなければなりません。強弱をつけることも必要です。そして、それらに流れをつけて一つのものとして完成させる。慎重で繊細な作業です。あるいは、建築にも例えることができるかもしれません。大まかな構造と、それにそった外観を決めたのちに細かな設計をして詰めていく。床があり天井というか屋根がある。食材の組み合わせがこれにあたります。それを支えるためには柱がいる。これが、床と天井を支える副素材です。でも、これだけだったら風が吹くと倒れてしまいます。大切なのは柱と床や天井を固定する接着剤あるいは釘です。これが香りであったり食感であったりします。


今やっている料理に、「燻煙とともに瓶に詰めたサーモンのブランダード、65度のコンソメで加熱した卵黄、ちりめんキャベツと芽キャベツのサラダ。」という料理があります。ブランダードというのは古い料理で、牛乳で柔らかく煮た干し鱈をほぐし、ジャガイモとニンニクのピューレで混ぜ合わせるものなのですが、市場で秋鮭を見つけたときに、これでブランダードを作れないか、と考えました。それに温泉卵を合わせて食べたらおいしいんじゃないかと思ったのですが、それだと風味がぼやけそうなので、コンソメの味をしみこませた卵黄だけを使うことにしました。この二つが最初の和音であり、床と屋根です。それをスモークの煙とともに瓶に詰めよう。これがおおまかな流れであり、外観です。


ちりめんキャベツは瓶の底に敷いて、ブランダードと卵黄を固定するもの、これが担当する楽器であり、柱です。芽キャベツはキャベツつながりでちりめんキャベツを補強するもの、これがさらに別の楽器であり、もう一本の柱です。そして野菜にはドレッシングで必ず味をつける。そして、サーモンを煮たニンニク風味の牛乳に生クリームを足して煮詰めたものをソースとしてかける。最後にふたをするときにスモークの煙を閉じ込めて全体を引き締める。これらが強弱をつけることであり、接着剤や釘になります。あとは外観を整えるだけ。色をぬったり壁紙を張ったり。ぼくは自然な外観が好きだし、無駄な装飾は必要ないと考えているので、花を飾ったり、無意味なソースを添えたりはしません。一つ一つの食材が手間をかけることによって存在感を増し、それぞれが調和しながら全体を形作る、それが理想です。


料理は立体です。今でいうなら3Dでしょうか。楽譜や設計図は平面ですが、実際には立体を図式化したものです。その楽譜や設計図をもとにシンフォニーを奏で、建物を作りあげる、これが技術です。料理人は、作曲家であるとともに演奏家、指揮者であり、設計家であるとともに大工さんや左官屋さんでもあるわけです。そして、なによりも大切なことは歴史に敬意を払うことと、己の仕事に対する理解というか造詣を身につけることです。


新しいものは、決して偶然に生まれるものではありません。根っこがあって、幹や枝があり、葉があってはじめて実が成るのと同じことです。


ぼくがフランス料理が好きなわけ、それは、新しいことを認めてくれる懐の深さ故です。そして、新しい実をつけるための枝や葉が豊かであること、幹が太く、根っこがしっかり大地に張り巡らされていること。


応用する料理の数が圧倒的に多いので、それを元に自在に組み立てることができます。まずは、それが出発点といってもいいでしょう。また、時代や環境を随時取り込みながら進化し続けているので、調理法も選択肢が多い。

それらを駆使して、構造的に完成させたものがフランス料理であるなら、まさにぼくはフランス料理をやり続けていると思います。


長い間、本当に長い間、考え悩んできたことに対する答えがやっと見えてきたような気がします。日本で、日本人が作り、日本人が食べるフランス料理、それに意味は必要ありません。おいしいものを作り、それを食べることで人間が種の保存に努め進化してきたのなら、ぼくの仕事も無駄ではない。頂上に向かう道はたくさんある、その一つをぼくは登っているのでしょう。フランス料理という装備を身にまとって。そのことを、今、ぼくは実感しています。


ただ、頂上にはおそらくたどり着けない。多分、たどり着けた人などいないのではないか。だから、ぼくが行ったそこより先は、あとから続く人が進めばいい。ぼくは、そう考えています。


遅きに失した感は否めませんが、残された時間を大切にしたい。そして、誰も思いつかなかったミチノの料理を作り続けようと、今は強く思っています。

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# by chefmessage | 2016-10-28 14:05

10月17日 小豆島巡り

1017日 小豆島巡り

その1

「オリーブハマチ」

8時に高松港で集合。県がチャーターしてくれた海上タクシーで小豆島に向けて出発。この高速船、普段は遊漁船らしくて、船尾に釣り竿があったので船長に聞くと鯛釣り専門とか。釣り師の魂が目覚めて、このまま釣りがしたいとゴネたのですが、却下。残念!で、海上のオリーブハマチ養殖生簀に到着。ちょうどオリーブの葉を混ぜたエサを与えているところでした。しばし見学。ところが、、、
生簀の周りに魚がいっぱいおるやないか。網から流れ出るエサを食べにきているのでしょう。
デカいボラの群、その下に黒鯛の魚影が。ここにも釣竿があったので、コソッとボラを一尾釣りました。すぐにリリース。時間があれば、入れ食い間違いなし。下の方には、網から逃げてブリに成長した個体がいるにちがいない。そんなことばかり考えていたので、説明聞いてませんでした。すみません。

小豆島までの海上は、いたって穏やか。島がたくさんある内海なので、ボートは矢のように進みます。なのに、井上夫妻は怖いと大騒ぎ。こちらは日本海の荒波に揺られながら何度も釣りに出かけているので、こんなもん揺れのうちに入るかい、と意味不明の落ち着きぶり。そうこうしているうちに、船は土庄港に到着。

車で東洋オリーブさんへ。
工場で詳細な説明を受けました。なるほど、良いものができるはず。木の手入れ、収穫から圧搾、瓶詰めまでほんとうに手がかかっています。でも、値段が高過ぎて営業には使えない。残念です。
庭のオリーブの樹にたわわに実っている実が美味しそうだったので、一つ食べたらあまりの渋さと苦さにビックリした。よくこれを食べ物にしようとしたな、と思いました。我々の祖先は偉大であります!

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その2

「木桶の醤油」

お次は醤油屋さん。全部木桶仕込みのヤマロク醤油。

ここは良かったです。醸造所の中に入ると、桶は当然ながら、柱も梁も天井もカビだらけ、というか菌がツララみたいにビッシリ。もろみの匂いが充満していて頭がクラクラする。薄暗い空間に無数の生命の気配が立ち込めている。
桶は100年、建物は江戸時代とか。
いまや、醤油業界での木桶率は1%らしい。酒、味醂のほとんどがステンレスタンク、酢にいたっては木桶全滅とか。

醤油の味見をすると、カドがなくて実にまろやか。和食が世界遺産とか、笑わせるなよ。木桶作る会社は一社だけ、そこも2020年に廃業宣言してるから、木桶醸造は風前の灯火やぞ。世界に向かう前に足元固めて大見得切らんかい、と思っていたら、ヤマロク5代目若社長が言いました。だから木桶造りの修行に出て、自分で作れるようになりました。会社も作ります。
ぼくはフランス料理のシェフですが、この社長は天晴れだと思う。和食やってる皆さん、あなたの店の醤油はホンモノですか?

ぼくは、自分の料理に醤油だけは絶対に使わないという信念で今まできましたが、新しい料理に使います。どれに使っているかは言わないので、皆さん味見に来てください。使っているのは写真のものです。

ちなみにトモシロ イノウエくんは5本セット買って味見するらしい。彼も使いたくなってるみたいです。こういう発見できるから、旅は楽しいな。

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その3

「いよいよ本命、オリーブ牛!」

この農場の石井正樹さんという方は、とても穏やかないい方でした。

事の起こりは値段の差。
もともと讃岐牛を飼っていたのだけれど、出荷すると、同じ和牛なのに神戸牛との値段の差が激しすぎる。悔しい、なんとかしたい、と色んな方々に相談すると、とにかく特色がないと難しいとの答え。では特色とは何か?悩んでいたら、あることに気がついた。和牛の肉質判定の項目にオレイン酸含有率というのが設けられている。オレイン酸、オリーブか?

そこで、物は試しと東洋オリーブへ行って搾りかすを貰ってきた。牛に食べさせようとしたら、これがまるで食べない。どうしたもんかと悩むうちに、オリーブの収穫が終わった。ひとまず日持ちさせるために、もらったオリーブ搾りかすを堤防で天日干しにした。程よい乾き具合になったので、ダメモトで食べさせてみると、なんと、モリモリ食べている!

この牛、肉質鑑定士が驚いた。脂の質が目に見えて違う。食べてみて、またビックリ。石井さん、お呼び出し。怒られると恐る恐る行ってみると、逆に褒められた。「何して、こうなったんや?」。
その時の石井さんの反応が素晴らしい。普通なら隠すじゃないですか。でも、この方は全てオープンにした。「みんな、同業者も県もようなったらええと思ってな。」。かくして、讃岐牛はオリーブ牛というブランド牛になったのであります。

ここの牛、とても人なつっこいです。同行した肉屋の副社長が「飼ってる方の人柄によるんです」とおっしゃる。なるほどなぁ。
そして、オリーブ牛の排泄物は堆肥となり、オリーブや野菜の有機栽培に使われ、できたものをまた家畜が食べる。オリーブを中心に、環境資源のサイクルができあがって、その功績で石井さんに県から功労賞が贈られ。やはり、こういう健全な行政と生産者の結びつきがある県には未来があるような気がします。

そして、肝心なこと。オリーブ牛は美味しいのか?ぼくもイノウエくんも、美味しいと思います。なにより、脂肪が軽くて、食べたらオリーブの香りがします。ほんまか?騙されたと思って、食べてみてください。インディアン、嘘つかない(ぼくはインディアンではないけど)

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その4

「一粒のオリーブ」

視察の途中でオリーブ公園に行きました。なだらかで小高い丘に何千本ものオリーブの樹。どの木にもたくさん実がなっている。
公園の真ん中あたりに、今は使われていない風車がありました。そこから少し下ったあたりに、オリーブ発祥の樹、というのがある。これが、一番最初に植えられたものらしい。古木らしく、根が太く捻れています。

この樹がここに植えられなかったら、名産のオリーブもオリーブオイルもなく、ましてやオリーブハマチやオリーブ牛もなかったのか、そう思って不思議な気持ちになりました。一粒の麦、もし死なずば、そういうことなのか。ふと上を仰ぎみれば白い風車があり、真っ青な空があって、見つめていると、急に涙があふれ出そうになった。母の葬儀の翌日に高松に来たから、ぼくの涙はまだかわいていない。でも、せっかく呼ばれて来たのだから、悲しい話しはやめておこうと我慢していたのですが。

多分、母も一粒のオリーブだったのでしょう。そこからぼくが産まれ、ぼくの子供たちが生まれた。ずっと以前から、そしてずっとこの先へと、流れがあってつながっている。

結局、ぼくたちはなにもわかっていない。けれど、喜びや悲しみとともに一粒のオリーブは育ち、実を結び、消えていくのだろう。それならそれで、一所懸命やるしかないなと思うのです。きっと、無駄ではないよ。一本目のオリーブの樹が、それを物語っているようで。

小豆島はミラクルアイランドでした。次は家族旅行で来たいです。

最後に。
ぼくたち夫婦を高松に呼んでくれた井上知城、慶子夫妻、小豆島視察にあたっては、労を惜しまず案内してくださった株式会社カワイの河合弘太郎さん、香川県農政水産部の澤野一浩さんにこころから感謝いたします。
そして、亡くなった母が痴呆症を患う以前に、「あんたはほんまにデタラメやけど、あの嫁さん選んだことだけは上出来や」と評した妻、祐子に。
ありがとうございました。

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# by chefmessage | 2016-10-20 12:46

「希望」について。

 この8月は、たくさんの料理人と出会う機会がありました。

 まず、西宮の甲子園口にあるレストランのオーナーシェフ、ジャン・ポール。彼は20代でシャリュキュトリー(パテやソーセージなどの加工業)を教えるために日本へ来て、以来30年シャリュキュトリーとして、それからの6年間はレストラトゥールとして日本で活躍しました。先頃、フランスのお母さんが亡くなり、雑用などが残っていることと自分自身の療養のためにフランスへ帰ることになった。その前に会っておこうと、彼の店に食事にいきました。定評のあるシャリュキュトリーはもちろん、そば粉を使ったガレットは相変わらずおいしかった。もう食べられなくなるのかと思うと残念で、そのことを彼に伝えたら、彼はこう言いました。「ぼくは36年、ずっと日本にいた。友達はフランスよりも日本に多い。だから、また帰ってくると思う」。戻ってくる、ではなく、帰ってくる。別れを告げる彼の表情は暗くありませんでした。そこには、自分の仕事に対する自信があり、それを喜んで受け入れてくれる日本のたくさんの友達への信頼があるようにぼくには感じられた。「また会おうね」。そうお互いに言い交して、握手して彼の店を後にしました。
 
 数日後、3日間の夏休みをもらって、ぼくは香川県に行きました。朝早くの高速バスに乗ってJR高松駅へ。そこから徒歩で高松港へ。待ち合わせていた井上知城くんは先に来ていました。彼は東京の恵比寿でフランス料理店を10年間経営していて、かなりの売れっ子だったのですが、子供の誕生とともに奥様の郷里の高松に本拠を移して、もう10年になります。高松市内の小高い山の上にある、トモシロ イノウエという自らの名を冠した立派なレストランを経営しているのですが、この日は、高松港からフェリーで20分で着く女木島というところに一緒に行く約束をしていたのです。 この女木島は、瀬戸内の島々で行われる美術関連の催しの一翼を担うところなのですが、ここのカフェで、ソウダルアくん(宗田留亜)という若い料理人がシェフをしていて、彼の料理を一緒に食べようと井上くんを誘っていたのでした。 そのカフェは古民家を改造したお店で、エアコンがないので戸をすべて開け放し、数台の扇風機が活躍している。丈の低いテーブルとイスが並んでいて、ワンプレートのランチのみ。ルアくんの創作郷土料理がきれいに盛り付けられてあります。鱧の冷製スープもついている。井上くんと二人であれやこれや、料理の話しながら、あっという間に平らげました。 このソウダルアという人は、言わば放浪の料理人という感じで、普段は東京でケータリングの仕事をしているようですが、依頼があるといろんなイベント会場でシェフを務めるという変わり種です。その生き方が面白くて実際の現場にやってきたのですが、料理も、無国籍というかジャンルを超えた感があって、独特の世界を構築している。こういう料理人もいるんだな、とぼくは妙に感心してしまいました。
 その後、高松に戻って井上くんの家族と合流し、レストランを見せてもらいました。実は、10月にコラボのフェアしてくれませんか、という井上くんからの依頼があったので、その下見もかねての訪問でした。 あこがれの一軒家のレストランは素敵でした。厨房も広々として立派だった。でも、地方でフランス料理をやろうとすれば、限界もたくさんあることをぼくは経験上知っています。ましてや、彼は東京の第一線で活躍していたシェフです。言葉にできない苦労もあるのだろうな、と思うのですが、彼はそれに対して悠然と立ち向かって慢心していない。本物の料理人がここにもいるんだと、ぼくはすこしうれしかった。

 次の日は、その井上くんが大阪にやってきました。柴田書店、「専門料理」50周年記念セミナーが辻調のエコールで開催されるからです。ぼくも申し込んでいたので、前から3列目に並んで着席しました。講師はオテル・ド・ヨシノの手島純也シェフとマンジュ トゥーの谷昇シェフ。この二人、年齢も違うしタイプもまったく違いますが、とにかくフランス料理が好きで好きでたまらない、という感じがあふれています。講習後、ぼくたちはお二人にご挨拶。手島くんは若かりし頃、井上くんのお店に通い詰めたそうで、その手島くんが講師を務め、それを受講することになった井上くんは感無量、かたや手島くんは恐縮しつつも嬉しそうで、とてもなごやかに話している。ぼくと谷さんは同年代ということもあり、冗談言って大笑い。当日、試食の用意などでヘルプに来ていた若い料理人たちは、谷シェフとタメ口たたいているこのオッサンはだれなんだ、という顔でぼくを見ている。そして、ぼくたちはふたりに別れを告げ、再会を約束し、辻調をあとにしました。その井上くんとも、10月にまた会いましょうということで別れ、ぼくは帰路につきました。そうして、ぼくの短い夏休みは終わりました。

 月末には、東京の杉本敬三が来店。彼は、高校生のとき、長期の休みになる度にぼくの店に見習いに来ていたのですが、以来付き合いは20年に及びます。その日も、食事のあとにいろんな話をしました。二回り以上年齢差があるのですが、今や目線は同じです。お互いの苦労話、そして料理論。いつも彼とは白熱した論議になります。そして、お互い力の限り頑張ろうということになります。ここにも、真っ当な料理人がいる。

 8月に会った料理人達、ジャン・ポール、井上知城、ソウダルア、手島純也、谷昇、そして杉本敬三。みんな、自分の仕事が大好きで、一生懸命で、そしてプライドを持って生きている。けれども、残念なことに、だれもいわゆるリッチな暮らしぶりではない。そこには、かならず苦労の影が、光と表裏一体となって存在しています。 ぼく自身もそうです。経済的にはまったく恵まれていない。もっと、家族や従業員にいい暮らしをさせてやりたいと思う。お客さんの来ない夜などは、生きている価値すらないのではないかと自分に問うことがある。なぜこのような生き方しかできないのかと、こころから情けなくなったりする。けれども、かすかに、おぼろげながら、こうも考えています。世界中で、自分にしかできない仕事をオレはやっている。そして、それはもっとよくなるはずだ。
 人の心をうちふるわせる料理、一生その人の思い出となる一皿、そして、同じ時代を生きる人たちに勇気を与えて送りだせる仕事。レストランは料理だけではないと思います。ビジネスには多くの要素が必要でしょう。それでも、そんなことすべてを吹き飛ばすことのできる料理を作りだすことが自分にはできるはずだ、それがぼくのたった一つの希望であり、8月に出会ったすべての料理人の心を支えているものではないかと思うのです。

 独立して27年目に入りました。年齢を考えると、自分のスタイルを大幅に変える余裕はもうぼくにはありません。むしろ、自分のスタイルをより強固にして打ち出すべきだと考えています。 だから9月のぼくの料理は、これまでになくシンプルだと思います。ひとりでも多くの方にお越しいただきたい。そして、ともに希望を分かち合えればと思っています。

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# by chefmessage | 2016-09-03 20:48