田代さんへの手紙
2005年 12月 18日
厨房から出てこられた田代さんは、貫禄のあるおじさんで、僕の名刺を見るなり、「豊中って愛知県だよね。」と仰ったのでした。「すみません。それは豊田市の間違いではないでしょうか。豊中は一応、大阪府なんですが。」と僕。二人で大笑い。それがきっかけになって、今に至るおつきあいをさせていただくことになりました。
その田代さんから先日、葉書が一通届きました。僕が一旦店を閉めることを知ってのお便りでした。そこにはこう記されていました。
「私は料理が好きです。楽しいこともいっぱいあります。今日を精一杯生きるそんな思いで料理、一皿を作っていきたいです。」続いて「次の出発までいっぱい充電してください。楽しみにしています。」とありました。
筆書きの墨痕淋漓とした文字の間から、田代さんの思いがにじみでてくるようで、僕は初めて田代さんの料理に触れたときの感動を思いだしました。そして返事をしたためました。
「拝復。いつもあたたかいお手紙ありがとうございます。
僕には9歳を筆頭に子供が3人いて、先日、一番下の娘が5歳になりました。その笑顔を見て、この娘が二十歳になるまであと15年は現役でいたいな、と思ったのですが、そうなるとそのとき僕は66歳です。大丈夫かなあ、と考えて、そういえば今年僕の店は15年目を過ぎたんだ、ということに思いあたりました。とすると、今が折り返し地点なんだ、と、ふいに自覚したのです。ならば、このままであと15年走っていけるのか?正直、無理だな、と思いました。続けることはできるだろうけれど、なんだか惰性で、尻すぼみになって終わってしまうのではないか。
それでなくとも、常連さんは減少の傾向にあります。若い世代はイタリアンとかスパニッシュとか、肩肘はらないお店に流れてる感じです。新たな客層を取り込もうとするならば、名声や格などに拘っているべきではない。フレンチの世界も若いシェフたちの台頭著しく、我々の世代は気を許すと、時代から取り残されてしまうと思います。いや、もう時代遅れになっているかもしれません。でも、僕はそれが嫌です。
変わらないものなどない、僕はいつもそう思っています。もちろん、変えるべきでないものはあります。でも、それらもまた悠久の時の流れから見れば、変化していくことでしょう。ならば、より良く変化、というか進化していきたいと僕はいつも願ってきました。でも、肉体は確実に衰えていってます。おそらくそのスピードは加速していくことでしょう。ならば、それを凌駕して尚、進化するためにはどうすればよいか。
一旦、古い衣を脱ぎ捨てよう、そう思いました。折り返し地点だと思うからつらいけど、新しく始めるんだ、と考えれば楽しいんじゃないか、と。
幸いなことに、僕は15年前の僕ほど未熟ではありません。だから、たとえ見た目はオヤジでも、若造たちと互角にわたりあえるはずです。
実は、構想はできつつあります。店名も変え、いままでのイメージを背負ったままではやれなかったことにも挑戦するつもりです。そして、そんなことをあれこれ考えながら解ったことは、僕もまた田代さん同様、料理が好きなんだ、ということです。
先日朝日新聞に、金時鐘(キム ジジョン)という在日韓国人の老詩人がこんなこと書いてました。
「料理人にはいい料理を作りたいという一念がある。それが詩なんです。」
田代さん、僕たちは詩人だったんですね。そういえば昔、フランスで仕事していた時、厨房のガス台をみんながピアノと呼んでいて、子供のときピアノが弾けるようになりたかった僕は、すごくうれしかった。田代さん、僕たち幸せじゃないですか?
だから一生、料理人でいたいと思います。多分、僕の子供たちが僕と同じ年代になったころ僕はもういないだろうけど、その時彼らが思いだす僕はコックコートを着ていて、そして後ろ姿だったらいいな、と思います。
心配かけて申し訳ありません。でも、やめません。ずっと続けますから、いつまでも友達でいてください。では、また。」
来年の2月、田代さんに会いに行こうと思います。