亀の子
2011年 06月 28日
その北川くんはかつて、フランス料理を真剣にやりたいという触れ込みでぼくの豊中時代のお店で働き始めました。なかなか熱心な働きぶりで、将来はシェフ任命もありか、というところまできて、いきなり、これからはイタリア料理だと思います、と宣言して辞職し、イタリアへ行ってしまいました。まったく迷惑な従業員で、だからぼく自身としてはあまりよい印象は持っていなかったのですが、その彼が福島で店をやると連絡してきたので、あ、そう、とぼくは適当に答えました。正直、面倒くさかったのであります。
でもまあ、近所のことだし一度顔でも出すか、と訪れて食事してびっくり。フランスもかくや、と思わせる骨太なビストロ料理でした。濃い味、盛大なボリューム、そして廉価。なかなかおいしい!いつのまにこんなに料理が上手になったのか。
なにより熱心さが伝わってきます。フランス料理、とりわけビストロ料理が大好き、という気持ちが伝わってきます。まことに熱い料理です。ぼくのところで修行した痕跡はかけらも見当りません。
ぼくは、ビストロ料理は好きだけれども、自分が作ろうとは思っていません。それはシャルキュトリー(お惣菜屋)に任せて、ぼくはもっと独創的な、自分にしか出来ない仕事を追い求めてきました。例えば、ブーダンノワール(豚の血のソーセージ)を使ってまったく新しい料理は作りたいけれども、ブーダンそのものを作りたいとは思わない。煮込み料理もしかり。枠組みがしっかりしていて、そこからはみだすことがむしろマイナスになるような料理にはあまり興味がありません。
だから余計に、彼の料理は新鮮でした。今時、こんなに一所懸命ビストロ料理を作る人間がいるのか。そこでぼくは彼の料理をこう名づけました。ビストロ原理主義。いやな意味ではありません。むしろ愛すべき頑固さゆえの命名です。
おそらく、いろんなお店を渡り歩いて、自分の向かう方向を探し続けてきたのでしょう。そして、プラスになると思えるものを少しずつ溜め込んできたのでしょう。その歩みは亀のように鈍重だけれども、結果、ゆるぎないものになっていったのでしょう。ぼくは自分にない力に、いつのまにか敬意をいだくようになりました。以来、彼とは親しくお付き合いさせていただいています。
何事につけても、努力し続けてきた人間をぼくは尊敬します。そして思います。自分も負けてはいられない、と。
おかげで、ぼくも力をもらって、このごろは感じます。今日の自分の料理が、これまでの最高であると。そして、それを更新していこうと。
狭苦しい厨房で、ときどき登場する愛すべきおかんの機関銃の如き喋りに応戦しながら、大汗かいて仕事している北川くんの姿が目に浮かびます。そのすがたにぼくはこう語りかけます。頑張れよ、亀の子。いつかうかれているウサギたちを追い抜けよ。
みなさんもどうか、骨太ビストロ料理を味わいにいってください。きっと元気がもらえることと思います。