再び、アコルドゥにて
2011年 08月 13日
小心物の亀の子はぼくの運転がこわいみたいで、冷や汗かきながらぼくを説得します。「シェフ、わかってますか、シェフの運転にトゥールビヨンとブリーズの将来がかかってるんですよ。」。それでも委細かまわず車は突き進みます。時々、「うわ!」とかいう声を聞きながら、無事到着。駐車場に車を入れたとき、予約30分前。「1時間で行ける言うたのに急かすから、早く着いてしもたやないか。」「でも、渋滞して遅れたら迷惑かけるじゃないですか。」「まあええわ、行こうか。」「でも、早すぎても迷惑じゃないですか。」。とにかく、こうるさい男です。
お店に入ると、川島さんが笑顔でお出迎え。北川君を見て、「懐かしい人を連れてきてくれましたね。」と言います。北川君と少し話して、それではどうぞ、と席に案内してくれます。そうして、素敵な晩餐が始まりました。
全部で11品の皿。あいかわらず、すばらしい料理の数々です。その度ごとに、ああだこうだ、同行の人が半畳を入れます。結局、最後まで料理の話ばっかり。周りを見回すと、他の席はカップルばっかり。思わず、我が人生の潤いのなさにため息をつくわたし。
これはどうやって作るのか、これにはあれを使っているのではないか。同業者ならば、自ずと気になるところでしょう。でも、ちょっとわずらわしい。むしろ、自然に受け入れて、そこから伝わる波動にこころを震わせるべきでしょう。
まるで絵画のように料理が構築されています。こころに浮かんだ風景、印象が,素材とテクニックで巧妙に表現されています。今話題のNOMAもかくや、と思わせるモダンさの中に、日本人ならではの感性が息づいています。いや、まいったな。
食事の後、シェフとまたもや料理談義。こちらもモード・スパニッシュが嫌いではないので話が弾みます。楽しいひとときを過ごさせていただき、その日はお開きに。
帰り道、亀の子が助手席で、来てよかった、としきりに感心しています。
そうして、北川君と別れ、帰宅したのですが、何故か満たされないものが残っている。まだ何か食べたい感じなのです。物理的には満腹で、苦しいくらいなのに。
で、結局、冷蔵庫にある残り物とご飯を食べて、夜中に苦しくて目が覚めて。
翌朝、マダムに「食事に行ったのに、その後また何か食べたの?」とあきれられます。いったい何をしているのか自分でもわからない。
これは一体どういうことなのか。思うに、満腹感と意識が同一化していないのではないか、と。
正直、自分が何を食べて満腹になったのかわからないのです。だから、なじみのあるもので、その欠落を埋めようとしたのではないでしょうか。
食欲というのは本能だから、かなり原始的、というか根源的な意識なのだと思います。だから、それを充足させるものは単純なものでなければならないのかもしれません。肉食べて満腹になった、とか、とびきりおいしい魚を食べた、とか、野菜をたらふく食べた、とか。心象風景ではお腹いっぱいにはならない。
これは決してアコルドゥの料理を批判しているのではありません。ただ、自分の作るもの、料理人として目指す場所が違うということなのです。
このごろ、やっと自分の方向が見えてきたような気がします。それは、今までの仕事を現代風に再構築することです。そうすることで、より深い満足感を導きだしたい。そのために、最新のテクニックを学ぶ。
苦手な分野にまで割く時間はありません。むしろ、得意分野を前面に押し出すべきでしょう。後ろを振り返ると、膨大な自分史があります。だから、ネタにこまることはありません。それらをブラッシュアップして時代に切り込むべきでしょう。
毎日、自己記録を更新すること。毎日、これまでで最高の仕事をすること。
山に登る以上は、より高い山に登りたい。走る以上は、より速く走りたい。年を経たならば年を経たなりに、より輝く料理を生み出したい。
単純な理屈です。ぼくはどこにもない、でも、どこよりもおいしい料理を作りたい。
こころに嵐を抱え続けることは、とても苦しい。でも、それが過ぎ去ったあとには真っ青な空が広がっていることでしょう。ぼくはそれが見たいと思います。
今回も、アコルドゥから多くを教えてもらいました。彼のお店こそ、星を取るべきだと思います。ミシュラン審査員諸氏、活目せよ!