敗戦の弁、あるいは本物とは何か、ということについて。
2011年 11月 01日
で、先に結果を書きます。ぼくの料理は佳作(次点)でした。予選落ちで本選には出場出来ず。本人としては結構真面目に取り組んだつもりだったので、最初は呆然、その後、苦笑い。そうか、オレの料理はレシピと写真で判断すると佳作なんや。現場で実際に作って、審査員の皆さんに食べてもらって、そのときに勝負が決まると思っていたから、その前に落とされるなんて実は想像していませんでした。がっかりやなあ。
で、こんな話を思い出しました。
昔、ハリウッドかどこかでチャップリンのそっくりさん大会があったそうです。例の、山高帽、よれよれスーツ、ちょび髭にドタ靴姿の人たちが世界中から集まった。そして入賞者が決まっていざ表彰ということになったとき、実は本物のチャップリンが参加していたことがわかりました。その人は、なんと3位だった。
料理は食べてもらって、はじめて意味があります。その結果、人をがっかりもさせるし、感動もさせることができます。でも、お店をやっているなら、まずお客様に来ていただかなければ話にならない。だから、食べログで高得点の店になりたいという気持ちはよくわかるし、ミシュランの星を獲得したいと熱望することは他人事とは思えません。残念ながら実際問題として、それが集客数の目安になっているのだから。
でも、前回も書きましたが、それが目的となることには賛成できません。すくなくともぼく自身には、そんな余裕はありません。今日のお客様をどれだけ幸せにできるか、どれだけ元気づけることができるか、それで精一杯だから。善をもって力の限りつくす、今はそれしかないから。 でも、そのような毎日を送っていると、自分の仕事が、これまでよりよくなっているという手ごたえがあります。確実に落ちていく体力に反比例するかのように、まるで残った時間を愛おしむかのように、ぼくの料理はおいしくなっている。失敗して時間を無駄にしたくないから、丁寧で精緻な仕事をこころがけていることもあるのでしょう。このまま最後まで走ろうぜ、と魂がささやきます。応、と肉体が言います。たとえ人には3位にしか見えなくとも、本物の自分を見つけて、自分の存在を肯定しよう。
だから、今回佳作に選んでくださった方々には、残念賞を差し上げます。タダでミチノのおいしい料理を食べれたのに残念でした、って、これはやっぱり負け惜しみですかね。