ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


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桜と口笛と

めずらしくマダムが旅行することになり、一週間の留守の間、我が家はふたりの娘とぼくの3人家族になりました。娘たちは共に春休みなので、家事や食事は二人で分担してくれることになったのですが、高校2年生の下の娘は部活があって忙しく、やったとしても洗濯物を干すくらいで、どうしてもお姉ちゃんの負担が多くなります。それでも、買い物に行って、上手に食事は作ってくれるし、片づけもしてくれるしで、ぼくはちょっと彼女のことを見直しました。

 というのも、お姉ちゃんの方は本当に勉強が嫌いで、部活もせず、高校1年のころからバイトばかり。いつもスマホを触っているか部屋に閉じこもっているかで、よくわからない娘、というのがぼくの印象だったからです。それに、バイトしているからお小遣いもお年玉もいらないというので、ぼくにとっては、良くも悪くも手のかからない子でした。

 ところが、ある日帰宅すると、台所に洗い物がたまったままになっていました。「今日はどうしたの?」と尋ねたら、「疲れたから。」と言います。そこで、ぼくは言わなくてもいいことを言ってしまったのです。「それなら、オレの方が疲れていると思うけど、やってあげるわ」。

 そして、大人げないことに、とことんきれいにしてしまいました。

 お風呂から出てきた娘がその様子を見て、ぎゅっと目を閉じました。あれ、どうしたのかな、と思っていたら、ボロボロ泣き始めた。しまった、と思ったぼくはあわてて「いつもやってくれてるからたまには手伝おうと思ったんや」と言い訳したのですが、泣き止まない。「今日は朝から夜までずっとバイトやったから、明日の朝起きて片づけようと思ったのに。」。「ごめん、いつもご飯も用意してくれて、よくやってくれてると思ってるから。」と、父も必死の弁明をするのですが聞き届けてもらえない。「もうご飯作らへん」そして「もういやや」そう言って一層はげしく泣きます。それから、自分の部屋に入り、バタンと扉をしめてしまった。

 ぼくはそのとき、悟ったのです。実は、手のかからない子供というのは、子供がそうしているんだ、と。親がめいっぱい努力しているとき、子供も同じくめいっぱい努力しているのだ、と。

 高校1年生のときからバイトを始めたのは、自分だけでも親に負担をかけないようにしようという彼女の決意だったのでしょう。

 実際問題として、小さなレストラン一軒分の収入だけで子供を3人そだてるというのは、とても厳しい。そのことを彼女は子供ながら理解していたのでしょう。ぼくはそのことにまったく気付かず、彼女のことをよくわからない、でも、手のかからない子供だと思っていた。

 彼女のことをまったく理解していなかったことに今更ながら気づいて、ぼくはとても恥ずかしくなってしまいました。そして、父親として不甲斐ないことがこころから悲しくなった。こんな家庭の娘でいることが「もういやや」と言われたような気がして、とてもつらくて、抑えても抑えても涙が止まらなくなってしまった。

 もっと他に生きる道があったのではないか。少なくとも子供たちに、お金の心配をさせることのない職業に就けたのではないか。

 ただ、そこに彼女が自分の目的を見つけて、前向きに生きる道筋ができたという側面もあるのかもしれないのですが、それはそれ、ぼく自身の問題とはまた別です。

 明日も仕事だから眠ろうとするのですが、なかなか眠れません。真夜中に、娘にメールをしました。それでやっと明け方にうっすらと眠ることができました。

 翌日は、メールの返事が来ていないかと気にしていたのですが、帰宅するまでありませんでした。帰ったのが遅かったので、娘たちはすでに眠っていましたが、食事は用意してあって、その横に手紙が置いてありました。昨日は泣いてしまってごめんなさい、と書いてあった。そして、この春から彼女が通う専門学校のことが書かれてありました。

 早々と大学には行かないと宣言していたのですが、その専門学校への進学は、彼女が自分で決めてきました。3年制。とりあえず入学金はなんとかなったのですが、さて授業料はどう捻出するか?あれこれ算段は調えてはいたのですが、なにも言ってこなかった、その答えが、その手紙には書いてありました。

 「明日、1年分の授業料を払ってきます。3年間、バイトでためたお金です。あとの2年分は奨学金を申請しました。パパに負担はかけないから心配しなくていいです。それより、私がちゃんと資格がとれるようになるまで応援してくださいね。」。

 明日が彼女の入学式です。桜が満開でしょう。でも、その桜は同じように見えるけれども、去年の桜ではありません。毎年、新しい花が咲き、散り、1年が過ぎると、また新しい花が咲く。まっすぐに生きて、毎年、新しい花を咲かせてほしいと思います。そして、人を思いやるそのこころを失わず生きていってほしい。

 多分、本人は気付いていないだろうけれども、彼女が機嫌のいいときはわかりやすい。よく口笛を吹いているのです。それが随分と上手で楽しそうで、聞いている方も思わず微笑んでしまいます。

 今年の桜には口笛が似合います。ぼくにとっても、一生忘れられない思い出になりそうです。


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by chefmessage | 2017-04-07 20:29

白いウサギ

 どの分野においても、いくつかの偶然が重なってできあがったものが、いつまでも記憶に残る作品になったりすることがあるようです。今回のぼくの料理、白いリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルもそのようにして完成し、ぼくにとっては忘れられない一品になりました。

 始まりは、関西イタリアンの雄、そして長年の友人でもある八島淳次君とのコラボの話でした。

 八島君とは、以前にもコラボのディナーをやったことがあるのですが、その時は、お互いが主張しすぎてうまく嚙み合わず、お客様にも決して満足していただける内容ではありませんでした。だから、いつかもう一度やろうと話し合ってはいたのですが、そうこうするうちに八島君の淀屋橋のお店が閉店となってしまい、立ち消えになりそうになる前に、今回はぼくの方から持ち掛けて、新年早々、開催する運びになったのです。

 どうせやるなら、だれもやったことのないテーマで、と考え、オールジビエのコースをぼくが提案しました。魚介類、一切なし。鳥類で八島、四足獣は道野が担当。デザートは八島君とうちのマダムが一品ずつ、ペアリングのワイン監修は八島君。とりあえず日時を決めてしまおうということで、19日成人の日に決定。

 全体的な量の問題を話し合い、食材と料理法が重ならないようにするために何度も打ち合わせをしました。歴史に残るような一日にしたいというのが、ぼくたちの望みでした。そして、フェア告知の第一弾ということでSNSにアップしたところ、ほぼ一日で満席になってしまいました。それでも問い合わせが続くので、急遽、前日の8日も開催することに。八島君と二人、これは年明けからえらいプレッシャーやな、と顔を見合わせました。

 そんなときに、旧知のハンターから電話がありました。野ウサギの入手ルートができたんですが、使いますか?実は、ぼくは過去25年間、野ウサギは触っていません。最後に使った個体の状態が良くなくて、二度とやりたくないと思っていたからです。だから、検討します、ということで一旦、電話を切りました。

 そういう時に、偶然、パリにおられる料理人のAさんという方がSNSでアップしている、リエーブル・ア・ラ・ロワイヤルの写真を目にしました。それが実に美しい料理で、ぼくは感動しました。でも、従来のやり方ではこういう風にならないと推察したぼくは、一面識もない、なぜSNSで友達になったのか記憶にもないその方に、厚かましくもメールをしました。これは、こういう風に作ってらっしゃるのではないでしょうか。

 すると、そのAさんは、実に丁寧に答えてくださった。おおよそは、ぼくの想像した通りだったのですが、そのときぼくの頭の中で、キラっと光るものがありました。ひょっとすると、今までだれもやらなかったリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルができるかもしれない!

 ぼくはAさんに感謝のメールを差し上げた後、いそいで例のハンターに電話しました。年始に、野ウサギ4羽、確保できますか。多分、大丈夫でしょう、という答え。それが12月の半ばのこと。それから年始の営業が始まり、野ウサギが店に届く1月4日まで、ぼくはこの料理のことをずっと考え続けました。設計図を、楽譜を、頭の中で書いては消し、書いては消し。同時に、理論的に間違ってはいないか推考を重ね。

 そして仕込み。4羽の野ウサギの皮を剥ぐところから始めて、本体の仕上げからソースのベース作りまで、ほぼひとりでやりました。熱に浮かされるとは、こういう状態のことを言うんだろうな、と思いながら。新しいものを生み出せるかもしれないという興奮が、疲れを忘れさせていたように思います。4日間、ぼくはひたすら仕事をし続けました。

 そもそもリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルとは、野ウサギの骨をすべて取り除いて一枚開きにし、あらかじめ外してあった前足や後ろ足、首回りの肉と内臓をミンチにしたものを、フォアグラ、トリュフと一緒に包み込み、赤ワインで煮込む料理です。ソースは、赤ワインでウサギのくず肉や骨を煮出してフォン(だし汁)をとり、それを煮詰め、フォアグラバター、ウサギの血、チョコレートなどでつなぎ、そして最後にアルマニャックをたらして仕上げるというのが定番。それを、筒切りにした本体にたっぷりと注ぎます。だから、この料理の仕上がりは、赤というより黒です。

 でも、ぼくは白いリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルを作りたいと思った!

 野ウサギを赤ワインで煮込むのは、それが一番妥当な料理法だからです。そうしないと臭みが取れないから。しかし、現在のように流通がスムーズになると、状態がよいままで食材を手に入れることができます。それをわざわざ煮込む必要はないのではないか。だから今回の料理は、煮込まないで、真空パックに入れて低温で火を通しています。そのことで、野ウサギの肉を煮込んだ時のパサついた感じはなくなります。肉本来のおいしさを表現できるのです。このテクニックが、Aさんの料理の美しさの秘訣でした。そして、フォンをとるときに、ぼくはくず肉や骨を焼きませんでした。煮こぼしたあと一度きれいに洗って、コンソメの2番を使って煮出し、それを漉して煮詰め、クリームを入れて、さらに煮詰めています。フォアグラバターでつなぎ、レモンを絞り込んで軽くし、最後にアルマニャックを数滴。

 クラシックではソースにウサギの血を入れますが、これも匂い消し、すなわち、より強い香りで臭みを制することが目的だとぼくは推察しました。それと、ソースに濃度をつけて、肉にたっぷり注いで食べさせよう、と。チョコレートは、さらに血の匂い消しと苦みの補給。苦みがまざることで、味に複雑さがでるから。また、チョコレートのポリフェノールが血の味を中和する役目もあるのかもしれません。そもそも、赤ワインにはポリフェノールが入っているし。アルマニャックは、最後の芳香。

 考えると、実によくできた素晴らしい料理です。ぼくは、この料理の考案者に畏敬の念を感じているし、この料理を上手に作ることができる料理人をこころから尊敬します。しかし、文化というものは時代に応じた変化があってしかるべきではないかと、ぼくは思います。選択肢が多い方が文化としては豊かだと思うし。

 でも、実際のコラボディナーの時には、一つの本体にクラシックなソースも添えて、2種類のソースで食べていただきました。本当は真っ白にしたかったのですが、初めてリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルを召し上がったお客様に、これが本来の姿だと誤解されると困るし、どこかのレストランでお話しされて、それを聞いた料理人が、「道野さん、間違っている」と言い出すと嫌なので、あえて、そのような形でお出ししました。どちらがおいしいと感じるか、お客様の感想も聞きたかったし。

 ある方が食後に、白いソースだと、リエーブル・ア・ラ・ロワイヤルの独特な匂いが薄まるという意見を言われましたが、それは無理難題だと申し上げたい。なぜなら、あの独特な香りは、元となる野ウサギの熟成香、あえていうなら、腐敗臭があるから出てくるものだからです。状態の良いものを適切に調理して、あの香りを立たせることはできません。

 レシピというものには、必ず背景があります。重要なことは、それを読み取ることです。必然性のない要素は含まれていない。そのうえで、ひとつひとつが組み合わさって全体がまとめられ、完成していくものです。だから、表面だけをとらえていては、その料理の神髄に触れることはできないと思います。

 リエーブル・ア・ラ・ロワイヤルとは煮込み料理のことではない。野ウサギをおいしく食べさせる知恵だと思います。それなら、元になる野ウサギの状態によって調理法やソースはかえるべきです。ただ、かえてはいけないところがあるとすれば、それは、野ウサギを開いて詰め物をする、いわゆるバロティーヌの形にすること、そして、フォアグラとトリュフをたっぷり使うことだとぼくは思います。

 ア・ラ・ロワイヤルの語源は貴族風ということになると思いますが、それは、庶民がなかなか口にすることができない食材を使っているからで、だから、フォアグラとトリュフははずせない。

 赤ワインが必然になるのは状態のよくないものを煮込む場合だから、鮮度の良いものが入手できるなら、それを白ワインに代えて、クリームとフォアグラバターで仕上げることには問題がない、血を入れる必要もないと、ぼくは結論付けました。

 相性としても、決してわるくない組み合わせだと思います。

 当日のお客様の中に、長年、業界紙記者を務めた方がおられたのですが、彼女がこの料理を口にした途端、「これ、ほんとにリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルだ!」と叫んだその瞬間、ぼくの胸にあった氷が一瞬にして溶けた、それほど熱い思いが、この料理にはこめられていたのです。

 一つの料理を繰り返しやり続けることで完成度を高めていく、それも尊い行為です。でも、ぼくはそうではない。まだ何かある、まだ知らないことがある、そう思って生きてきました。安定を潔しとしない気風が抜けない。そのことで、ずいぶん波風の多い人生を歩んできたし、毀誉褒貶にも巻き込まれてきました。

 苦しくなかった、と言えばうそになる。それは、今でも同じです。もっと別の生き方ができたのではないか、と思うこともよくある。この白いウサギ料理もそうです。批判する人も結構いるだろうとも思う。

 けれども、これがミチノの料理です。いろんな偶然に恵まれ、いろんな人に助けられて、ぼくはこの料理を完成させました。また一段、ぼくは階段を上ったと思います。

ぼくはすくなくとも、自分自身の選んだ道を歩んでいる。そして、少しだけ誇らしげに、こう言おうと思う。

 見ろ、これがオンリーワンということだ。

 

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by chefmessage | 2017-01-12 17:59

 長い間、自分の作る料理の意味について考え、悩んできました。

フランス料理とはいったい何なのか。あまりに漠然とした疑問なので、答えようがない。もちろん、歴史的考察から導きだされる概念はあるし、食文化として分類すること、あるいは類型化することはできるでしょう。でも、ぼくの疑問に対する答えはそこにはありません。自分の作っている料理は何なのか、という自分自身への問いかけであり、答えなのです。

 日本人が日本で作り、主に日本人が食べるフランス料理とは何なのか。そんなものに意味があるのか。その答えをいつも探しながら、ぼくはもう40年近く、いわゆるフランス料理を作り続けてきました。


 ぼくはフランス料理しか学んでいません。調理師学校には行っていないし、フランス料理のコックになる前は、料理に対して何の興味もありませんでした。おいしいものを食べる、ということに熱心だったわけでもありません。それは今でも、あまり変わってないような気がします。ぼくの場合、外食はほとんどがフレンチかイタリアン、すなわち、自分の仕事に関係のあるところばかりです。もっと和食から学ぶべきだとある方から言われて、せっせと京都に通ったこともありましたが、ほとんど影響を受けることはありませんでした。それよりも、本を読んだり映画を観たりコンサートへ行くほうが楽しいし、得るところは多かったようです。そこから受けた感動をエネルギーに変えて、ぼくは料理を作り続けてきたような気がします。


 すなわち、ぼくはフランス料理以外の食に興味はないし、フランス料理以外は作らない、あるいは作れないと思って生きています。でも、自分の作る料理を本当にフランス料理と言ってしまっていいのか、という疑問はずっと消えずにありました。


 ぼくの母は和食が得意ではありませんでした。彼女が得意とするものは韓国料理だったのですが、ぼくは子供のころ、食べ物の発酵臭がとにかく嫌いだった。だから母は、ぼくたち子供にはいわゆる洋食で対応しようとしました。ぼくに料理に対するセンスがあるとするなら、それは確実に母から受け継いだものだと思うのですが、彼女のつくるカレーライスやハンバーグ、あるいはシチューはとてもおいしかった。そういう食生活で育ったことも影響しているのでしょうか、ぼくにとって和食や中国料理の職人になるという選択肢は考えられませんでした。料理を作る仕事に就くなら、それはイタリアンかフレンチあるいは洋食しかありませんでした。


 フランス料理のコックになったのは偶然というか行き当たりばったりとしかいえないようなきっかけだったのですが、とにかくぼくは、ぼくの考えるフランス料理を作り続けてきたのです。


 さて、最初の疑問に戻ります。ぼくにとってのフランス料理とは何なのか。


先日、ある料理人が食事に来ました。食後、その彼がこんなことを言いました。「ぼくは道野シェフに対して偏見を持っていました。でも、実に真っ当なフランス料理をやっていらっしゃる。」。この言葉はぼくにとっては意外でした、というのも、彼は若手にもかかわらず、古典的なフランス料理をできる限り忠実に現代によみがえらせようとすることで世間の耳目を集めている料理人だからです。彼にとってぼくの料理は、まったく邪道にしか見えないだろうと思っていたから。


ぼくは彼のように勉強熱心な料理人ではありません。料理本なんてほとんど読まないし、料理人の集まりにも行かない。業界団体には一切所属もしていません。新しいメニューを考える時も、ほとんど何も参考にしない。他人がやっている料理には興味がないし、それがはやりで受けると解っていても真似するのは嫌いです。ただぼくは、ぼくにとって新しいものだけを作り出そうとしています。自分にとって心躍るもの、そしてお客様の意表をついて感動へと導くもの。


 だからぼくの料理は、時として人の目には奇異にうつるだろうと思います。それに対して真っ当なフランス料理であるという評価は、ぼくにとっては意外だった。


 また、あるベテランソムリエからは、食後にこんな感想をいただきました。「今日はフランス料理を食べた、という気持ちにひたることができました。」。フランス料理の神髄である、積み重ねていって完成させるという構造をおおいに実感できた、と。


和食は引き算、フランス料理は足し算という定義をよく耳にします。その論法で行くなら、確かにぼくの料理は足し算をしながら組み立てて作るものです。


それは音楽に似ています。重ねるといってもくっつけることではありません。和音を構成する、ハーモニーとなるようにのせていく、というのが正確です。そのハーモニーをどのタイミングでどの楽器に担当させるかを決めなければなりません。強弱をつけることも必要です。そして、それらに流れをつけて一つのものとして完成させる。慎重で繊細な作業です。あるいは、建築にも例えることができるかもしれません。大まかな構造と、それにそった外観を決めたのちに細かな設計をして詰めていく。床があり天井というか屋根がある。食材の組み合わせがこれにあたります。それを支えるためには柱がいる。これが、床と天井を支える副素材です。でも、これだけだったら風が吹くと倒れてしまいます。大切なのは柱と床や天井を固定する接着剤あるいは釘です。これが香りであったり食感であったりします。


今やっている料理に、「燻煙とともに瓶に詰めたサーモンのブランダード、65度のコンソメで加熱した卵黄、ちりめんキャベツと芽キャベツのサラダ。」という料理があります。ブランダードというのは古い料理で、牛乳で柔らかく煮た干し鱈をほぐし、ジャガイモとニンニクのピューレで混ぜ合わせるものなのですが、市場で秋鮭を見つけたときに、これでブランダードを作れないか、と考えました。それに温泉卵を合わせて食べたらおいしいんじゃないかと思ったのですが、それだと風味がぼやけそうなので、コンソメの味をしみこませた卵黄だけを使うことにしました。この二つが最初の和音であり、床と屋根です。それをスモークの煙とともに瓶に詰めよう。これがおおまかな流れであり、外観です。


ちりめんキャベツは瓶の底に敷いて、ブランダードと卵黄を固定するもの、これが担当する楽器であり、柱です。芽キャベツはキャベツつながりでちりめんキャベツを補強するもの、これがさらに別の楽器であり、もう一本の柱です。そして野菜にはドレッシングで必ず味をつける。そして、サーモンを煮たニンニク風味の牛乳に生クリームを足して煮詰めたものをソースとしてかける。最後にふたをするときにスモークの煙を閉じ込めて全体を引き締める。これらが強弱をつけることであり、接着剤や釘になります。あとは外観を整えるだけ。色をぬったり壁紙を張ったり。ぼくは自然な外観が好きだし、無駄な装飾は必要ないと考えているので、花を飾ったり、無意味なソースを添えたりはしません。一つ一つの食材が手間をかけることによって存在感を増し、それぞれが調和しながら全体を形作る、それが理想です。


料理は立体です。今でいうなら3Dでしょうか。楽譜や設計図は平面ですが、実際には立体を図式化したものです。その楽譜や設計図をもとにシンフォニーを奏で、建物を作りあげる、これが技術です。料理人は、作曲家であるとともに演奏家、指揮者であり、設計家であるとともに大工さんや左官屋さんでもあるわけです。そして、なによりも大切なことは歴史に敬意を払うことと、己の仕事に対する理解というか造詣を身につけることです。


新しいものは、決して偶然に生まれるものではありません。根っこがあって、幹や枝があり、葉があってはじめて実が成るのと同じことです。


ぼくがフランス料理が好きなわけ、それは、新しいことを認めてくれる懐の深さ故です。そして、新しい実をつけるための枝や葉が豊かであること、幹が太く、根っこがしっかり大地に張り巡らされていること。


応用する料理の数が圧倒的に多いので、それを元に自在に組み立てることができます。まずは、それが出発点といってもいいでしょう。また、時代や環境を随時取り込みながら進化し続けているので、調理法も選択肢が多い。

それらを駆使して、構造的に完成させたものがフランス料理であるなら、まさにぼくはフランス料理をやり続けていると思います。


長い間、本当に長い間、考え悩んできたことに対する答えがやっと見えてきたような気がします。日本で、日本人が作り、日本人が食べるフランス料理、それに意味は必要ありません。おいしいものを作り、それを食べることで人間が種の保存に努め進化してきたのなら、ぼくの仕事も無駄ではない。頂上に向かう道はたくさんある、その一つをぼくは登っているのでしょう。フランス料理という装備を身にまとって。そのことを、今、ぼくは実感しています。


ただ、頂上にはおそらくたどり着けない。多分、たどり着けた人などいないのではないか。だから、ぼくが行ったそこより先は、あとから続く人が進めばいい。ぼくは、そう考えています。


遅きに失した感は否めませんが、残された時間を大切にしたい。そして、誰も思いつかなかったミチノの料理を作り続けようと、今は強く思っています。

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by chefmessage | 2016-10-28 14:05

10月17日 小豆島巡り

1017日 小豆島巡り

その1

「オリーブハマチ」

8時に高松港で集合。県がチャーターしてくれた海上タクシーで小豆島に向けて出発。この高速船、普段は遊漁船らしくて、船尾に釣り竿があったので船長に聞くと鯛釣り専門とか。釣り師の魂が目覚めて、このまま釣りがしたいとゴネたのですが、却下。残念!で、海上のオリーブハマチ養殖生簀に到着。ちょうどオリーブの葉を混ぜたエサを与えているところでした。しばし見学。ところが、、、
生簀の周りに魚がいっぱいおるやないか。網から流れ出るエサを食べにきているのでしょう。
デカいボラの群、その下に黒鯛の魚影が。ここにも釣竿があったので、コソッとボラを一尾釣りました。すぐにリリース。時間があれば、入れ食い間違いなし。下の方には、網から逃げてブリに成長した個体がいるにちがいない。そんなことばかり考えていたので、説明聞いてませんでした。すみません。

小豆島までの海上は、いたって穏やか。島がたくさんある内海なので、ボートは矢のように進みます。なのに、井上夫妻は怖いと大騒ぎ。こちらは日本海の荒波に揺られながら何度も釣りに出かけているので、こんなもん揺れのうちに入るかい、と意味不明の落ち着きぶり。そうこうしているうちに、船は土庄港に到着。

車で東洋オリーブさんへ。
工場で詳細な説明を受けました。なるほど、良いものができるはず。木の手入れ、収穫から圧搾、瓶詰めまでほんとうに手がかかっています。でも、値段が高過ぎて営業には使えない。残念です。
庭のオリーブの樹にたわわに実っている実が美味しそうだったので、一つ食べたらあまりの渋さと苦さにビックリした。よくこれを食べ物にしようとしたな、と思いました。我々の祖先は偉大であります!

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その2

「木桶の醤油」

お次は醤油屋さん。全部木桶仕込みのヤマロク醤油。

ここは良かったです。醸造所の中に入ると、桶は当然ながら、柱も梁も天井もカビだらけ、というか菌がツララみたいにビッシリ。もろみの匂いが充満していて頭がクラクラする。薄暗い空間に無数の生命の気配が立ち込めている。
桶は100年、建物は江戸時代とか。
いまや、醤油業界での木桶率は1%らしい。酒、味醂のほとんどがステンレスタンク、酢にいたっては木桶全滅とか。

醤油の味見をすると、カドがなくて実にまろやか。和食が世界遺産とか、笑わせるなよ。木桶作る会社は一社だけ、そこも2020年に廃業宣言してるから、木桶醸造は風前の灯火やぞ。世界に向かう前に足元固めて大見得切らんかい、と思っていたら、ヤマロク5代目若社長が言いました。だから木桶造りの修行に出て、自分で作れるようになりました。会社も作ります。
ぼくはフランス料理のシェフですが、この社長は天晴れだと思う。和食やってる皆さん、あなたの店の醤油はホンモノですか?

ぼくは、自分の料理に醤油だけは絶対に使わないという信念で今まできましたが、新しい料理に使います。どれに使っているかは言わないので、皆さん味見に来てください。使っているのは写真のものです。

ちなみにトモシロ イノウエくんは5本セット買って味見するらしい。彼も使いたくなってるみたいです。こういう発見できるから、旅は楽しいな。

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その3

「いよいよ本命、オリーブ牛!」

この農場の石井正樹さんという方は、とても穏やかないい方でした。

事の起こりは値段の差。
もともと讃岐牛を飼っていたのだけれど、出荷すると、同じ和牛なのに神戸牛との値段の差が激しすぎる。悔しい、なんとかしたい、と色んな方々に相談すると、とにかく特色がないと難しいとの答え。では特色とは何か?悩んでいたら、あることに気がついた。和牛の肉質判定の項目にオレイン酸含有率というのが設けられている。オレイン酸、オリーブか?

そこで、物は試しと東洋オリーブへ行って搾りかすを貰ってきた。牛に食べさせようとしたら、これがまるで食べない。どうしたもんかと悩むうちに、オリーブの収穫が終わった。ひとまず日持ちさせるために、もらったオリーブ搾りかすを堤防で天日干しにした。程よい乾き具合になったので、ダメモトで食べさせてみると、なんと、モリモリ食べている!

この牛、肉質鑑定士が驚いた。脂の質が目に見えて違う。食べてみて、またビックリ。石井さん、お呼び出し。怒られると恐る恐る行ってみると、逆に褒められた。「何して、こうなったんや?」。
その時の石井さんの反応が素晴らしい。普通なら隠すじゃないですか。でも、この方は全てオープンにした。「みんな、同業者も県もようなったらええと思ってな。」。かくして、讃岐牛はオリーブ牛というブランド牛になったのであります。

ここの牛、とても人なつっこいです。同行した肉屋の副社長が「飼ってる方の人柄によるんです」とおっしゃる。なるほどなぁ。
そして、オリーブ牛の排泄物は堆肥となり、オリーブや野菜の有機栽培に使われ、できたものをまた家畜が食べる。オリーブを中心に、環境資源のサイクルができあがって、その功績で石井さんに県から功労賞が贈られ。やはり、こういう健全な行政と生産者の結びつきがある県には未来があるような気がします。

そして、肝心なこと。オリーブ牛は美味しいのか?ぼくもイノウエくんも、美味しいと思います。なにより、脂肪が軽くて、食べたらオリーブの香りがします。ほんまか?騙されたと思って、食べてみてください。インディアン、嘘つかない(ぼくはインディアンではないけど)

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その4

「一粒のオリーブ」

視察の途中でオリーブ公園に行きました。なだらかで小高い丘に何千本ものオリーブの樹。どの木にもたくさん実がなっている。
公園の真ん中あたりに、今は使われていない風車がありました。そこから少し下ったあたりに、オリーブ発祥の樹、というのがある。これが、一番最初に植えられたものらしい。古木らしく、根が太く捻れています。

この樹がここに植えられなかったら、名産のオリーブもオリーブオイルもなく、ましてやオリーブハマチやオリーブ牛もなかったのか、そう思って不思議な気持ちになりました。一粒の麦、もし死なずば、そういうことなのか。ふと上を仰ぎみれば白い風車があり、真っ青な空があって、見つめていると、急に涙があふれ出そうになった。母の葬儀の翌日に高松に来たから、ぼくの涙はまだかわいていない。でも、せっかく呼ばれて来たのだから、悲しい話しはやめておこうと我慢していたのですが。

多分、母も一粒のオリーブだったのでしょう。そこからぼくが産まれ、ぼくの子供たちが生まれた。ずっと以前から、そしてずっとこの先へと、流れがあってつながっている。

結局、ぼくたちはなにもわかっていない。けれど、喜びや悲しみとともに一粒のオリーブは育ち、実を結び、消えていくのだろう。それならそれで、一所懸命やるしかないなと思うのです。きっと、無駄ではないよ。一本目のオリーブの樹が、それを物語っているようで。

小豆島はミラクルアイランドでした。次は家族旅行で来たいです。

最後に。
ぼくたち夫婦を高松に呼んでくれた井上知城、慶子夫妻、小豆島視察にあたっては、労を惜しまず案内してくださった株式会社カワイの河合弘太郎さん、香川県農政水産部の澤野一浩さんにこころから感謝いたします。
そして、亡くなった母が痴呆症を患う以前に、「あんたはほんまにデタラメやけど、あの嫁さん選んだことだけは上出来や」と評した妻、祐子に。
ありがとうございました。

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by chefmessage | 2016-10-20 12:46

「希望」について。

 この8月は、たくさんの料理人と出会う機会がありました。

 まず、西宮の甲子園口にあるレストランのオーナーシェフ、ジャン・ポール。彼は20代でシャリュキュトリー(パテやソーセージなどの加工業)を教えるために日本へ来て、以来30年シャリュキュトリーとして、それからの6年間はレストラトゥールとして日本で活躍しました。先頃、フランスのお母さんが亡くなり、雑用などが残っていることと自分自身の療養のためにフランスへ帰ることになった。その前に会っておこうと、彼の店に食事にいきました。定評のあるシャリュキュトリーはもちろん、そば粉を使ったガレットは相変わらずおいしかった。もう食べられなくなるのかと思うと残念で、そのことを彼に伝えたら、彼はこう言いました。「ぼくは36年、ずっと日本にいた。友達はフランスよりも日本に多い。だから、また帰ってくると思う」。戻ってくる、ではなく、帰ってくる。別れを告げる彼の表情は暗くありませんでした。そこには、自分の仕事に対する自信があり、それを喜んで受け入れてくれる日本のたくさんの友達への信頼があるようにぼくには感じられた。「また会おうね」。そうお互いに言い交して、握手して彼の店を後にしました。
 
 数日後、3日間の夏休みをもらって、ぼくは香川県に行きました。朝早くの高速バスに乗ってJR高松駅へ。そこから徒歩で高松港へ。待ち合わせていた井上知城くんは先に来ていました。彼は東京の恵比寿でフランス料理店を10年間経営していて、かなりの売れっ子だったのですが、子供の誕生とともに奥様の郷里の高松に本拠を移して、もう10年になります。高松市内の小高い山の上にある、トモシロ イノウエという自らの名を冠した立派なレストランを経営しているのですが、この日は、高松港からフェリーで20分で着く女木島というところに一緒に行く約束をしていたのです。 この女木島は、瀬戸内の島々で行われる美術関連の催しの一翼を担うところなのですが、ここのカフェで、ソウダルアくん(宗田留亜)という若い料理人がシェフをしていて、彼の料理を一緒に食べようと井上くんを誘っていたのでした。 そのカフェは古民家を改造したお店で、エアコンがないので戸をすべて開け放し、数台の扇風機が活躍している。丈の低いテーブルとイスが並んでいて、ワンプレートのランチのみ。ルアくんの創作郷土料理がきれいに盛り付けられてあります。鱧の冷製スープもついている。井上くんと二人であれやこれや、料理の話しながら、あっという間に平らげました。 このソウダルアという人は、言わば放浪の料理人という感じで、普段は東京でケータリングの仕事をしているようですが、依頼があるといろんなイベント会場でシェフを務めるという変わり種です。その生き方が面白くて実際の現場にやってきたのですが、料理も、無国籍というかジャンルを超えた感があって、独特の世界を構築している。こういう料理人もいるんだな、とぼくは妙に感心してしまいました。
 その後、高松に戻って井上くんの家族と合流し、レストランを見せてもらいました。実は、10月にコラボのフェアしてくれませんか、という井上くんからの依頼があったので、その下見もかねての訪問でした。 あこがれの一軒家のレストランは素敵でした。厨房も広々として立派だった。でも、地方でフランス料理をやろうとすれば、限界もたくさんあることをぼくは経験上知っています。ましてや、彼は東京の第一線で活躍していたシェフです。言葉にできない苦労もあるのだろうな、と思うのですが、彼はそれに対して悠然と立ち向かって慢心していない。本物の料理人がここにもいるんだと、ぼくはすこしうれしかった。

 次の日は、その井上くんが大阪にやってきました。柴田書店、「専門料理」50周年記念セミナーが辻調のエコールで開催されるからです。ぼくも申し込んでいたので、前から3列目に並んで着席しました。講師はオテル・ド・ヨシノの手島純也シェフとマンジュ トゥーの谷昇シェフ。この二人、年齢も違うしタイプもまったく違いますが、とにかくフランス料理が好きで好きでたまらない、という感じがあふれています。講習後、ぼくたちはお二人にご挨拶。手島くんは若かりし頃、井上くんのお店に通い詰めたそうで、その手島くんが講師を務め、それを受講することになった井上くんは感無量、かたや手島くんは恐縮しつつも嬉しそうで、とてもなごやかに話している。ぼくと谷さんは同年代ということもあり、冗談言って大笑い。当日、試食の用意などでヘルプに来ていた若い料理人たちは、谷シェフとタメ口たたいているこのオッサンはだれなんだ、という顔でぼくを見ている。そして、ぼくたちはふたりに別れを告げ、再会を約束し、辻調をあとにしました。その井上くんとも、10月にまた会いましょうということで別れ、ぼくは帰路につきました。そうして、ぼくの短い夏休みは終わりました。

 月末には、東京の杉本敬三が来店。彼は、高校生のとき、長期の休みになる度にぼくの店に見習いに来ていたのですが、以来付き合いは20年に及びます。その日も、食事のあとにいろんな話をしました。二回り以上年齢差があるのですが、今や目線は同じです。お互いの苦労話、そして料理論。いつも彼とは白熱した論議になります。そして、お互い力の限り頑張ろうということになります。ここにも、真っ当な料理人がいる。

 8月に会った料理人達、ジャン・ポール、井上知城、ソウダルア、手島純也、谷昇、そして杉本敬三。みんな、自分の仕事が大好きで、一生懸命で、そしてプライドを持って生きている。けれども、残念なことに、だれもいわゆるリッチな暮らしぶりではない。そこには、かならず苦労の影が、光と表裏一体となって存在しています。 ぼく自身もそうです。経済的にはまったく恵まれていない。もっと、家族や従業員にいい暮らしをさせてやりたいと思う。お客さんの来ない夜などは、生きている価値すらないのではないかと自分に問うことがある。なぜこのような生き方しかできないのかと、こころから情けなくなったりする。けれども、かすかに、おぼろげながら、こうも考えています。世界中で、自分にしかできない仕事をオレはやっている。そして、それはもっとよくなるはずだ。
 人の心をうちふるわせる料理、一生その人の思い出となる一皿、そして、同じ時代を生きる人たちに勇気を与えて送りだせる仕事。レストランは料理だけではないと思います。ビジネスには多くの要素が必要でしょう。それでも、そんなことすべてを吹き飛ばすことのできる料理を作りだすことが自分にはできるはずだ、それがぼくのたった一つの希望であり、8月に出会ったすべての料理人の心を支えているものではないかと思うのです。

 独立して27年目に入りました。年齢を考えると、自分のスタイルを大幅に変える余裕はもうぼくにはありません。むしろ、自分のスタイルをより強固にして打ち出すべきだと考えています。 だから9月のぼくの料理は、これまでになくシンプルだと思います。ひとりでも多くの方にお越しいただきたい。そして、ともに希望を分かち合えればと思っています。

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by chefmessage | 2016-09-03 20:48

眠りに就く前に

 うちの店で3代目のスーシェフを務めてくれた河原正典君が、北海道の旭川で独立・開業して20年以上が経ちました。その間、彼のお店には何度も足を運び、一緒にフェアをやったりしたので、ぼくにも旭川の友人や知人がたくさんできたのですが、なかなか長期の休みが取れない都合上、ぼくの旭川への旅はいつも気ぜわしくて、ゆっくりと人に会っている時間もなく、行きたい場所やお店にも行くことができません。だいたい、着いたその日にコラボのディナーをやり、仮眠を取る間もなく釣りにでかける。そして、夜明けから暗くなるまでロッドをふり続けて、旭川に戻ったら打ち上げ、翌朝は早々にホテルを出て帰阪、というのが毎回のパターンです。仕事一日、釣り一日。先月も旭川へいったのですが、ほとんど不眠不休の三日間でした。それでも、釣りはやめられない。そんなに釣れるンですか?と問われると、実はまったく釣れないときのほうが多いですと、苦笑して答えます。狙っているのが、幻と言われている「イトウ」なもんで。

 イトウは、アイヌの人たちに河の神様と呼ばれていた鮭科の魚で、日本固有の淡水魚としては最大級です。過去には210センチという記録がありますが、そんなサイズは夢物語で、かの開高健が釣ったのは74センチでした。河川の環境破壊により、いまや激減している魚種です。そうそう簡単には釣れてくれません。ところが、ここに名ガイドがいてくれると可能性はうんと高くなります。

 釣りには必ずポイントがあります。そして、その場所ならではの釣り方がある。これを知らないと、よほどの僥倖にめぐり合わない限り、結果は出せません。ましてや、相手は「幻」です。ただし、そんなことをやすやすと教えてくれる釣師はいません。それは、秘中の秘、なのですから。でも、その名ガイドと知り合うことができたことから、ぼくの北海道でのイトウ釣りは飛躍的に現実味をおびるようになりました。その男を、仮にS君と呼ぶことにします。

 そのS君の職業は料理人で、彼は河原君を随分尊敬しています。いまや「クラブサルセル」というシェフの会を興し、その重鎮となっている河原君です。彼を慕う同業者は多い。そして、河原君も大の釣り好きとなれば、ひと肌脱ごうという気にもなるのでしょう。ぼくは幸運なことに、それに便乗することができるようになったのです。

 S君は、日本一のイトウ釣師である。これは、ぼくと河原君の共通の認識です。またの名を「怪魚ハンター」。北海道のある川で、150センチ超のチョウザメを釣り上げて新聞に載ったこともある。先日は、112センチという巨大イトウを釣り上げていました。腰に熊除けの鈴をつけ、ヴェストのポケットには熊撃退スプレー、ポケットには熊を寄せつけない爆竹まで忍ばせているという豪の者です。

 さて、6月19日のこと。前日が結構忙しくて、帰宅して眠ったのが午前2時半、4時半には起きて仕度を整え、千里中央からリムジンバスで関西空港へ、飛行機で新千歳、それからJRで旭川へ。早速、河原君のお店「メランジェ」へ行き、その日の夜のフェアの準備、一旦ホテルに入って小休止のあと店へ戻って、午後6時からコラボディナースタート。「ポプーレ」のヤブキ君がヘルプに来てくれています。そして、顔見知りのお客様に料理をお出しし、歓談して午後11時には好評のうちに終了。「サロンドール」の金美華さんの差し入れのケーキを食べて、ホテルに戻って待機。今回は「トーヨーホテル」の武田シェフが広い部屋を用意してくださったので、気持ちもおおらかになって、できればゆっくり休みたいな、と思っていたら眠ってしまいそうになり、ハッと時計を見ると、日付は変わり、お迎えの来る午前1時です。あわててフロントに下りていくと、ホテルのまん前に怪魚ハンターのランドクルーザーが停まっている。それに乗り込んで、念願の釣行が始まりました。

 S君と河原君、そしてぼくの3人です。前席の二人が、どのポイントに入るか相談しています。ぼくは寝不足でぼんやりしながら窓の外を眺めている。週間天気予報では晴れだったのに、当日の予想は雨!とにかく行きましょう、でも、心配で仕方がない。雨、降るなよ、と祈りながらちょっとウトウト、そうするうちに午前3時には夜が白み始めます。北海道の夜明けは早い。やがて、ランクルは川の土手を走り始め、いきなり河川敷に降り、生い茂る草をなぎ倒しながら進んでいきます。おい、どこまで行くねん、とヒヤヒヤしていたら、なんと行き止まりに車一台分止めれるスペースがありました。さすがやなあ。早速、車から降りて準備をはじめます。腰まであるウエイダーをはき、道具を点検、それぞれがロッドや荷物を持って出陣。おっとその前に、虫除けスプレーを手とか首筋に吹き付けます。これをしないと蚊やアブがいっぱいよってきます。

 車を降りてからポイントまでが遠い。藪こぎ、というやつです。生い茂る草木の中を歩いていく。でも、その先にイトウのいるポイントがあると思うと足早になる。そして、今日一つ目の場所に到着。うれしいことに、一番いい場所を譲ってくれました。河原君がその右手、S君は左。しばらくすると左からバシャッという水音、ついでS君の声。「すみません。釣れちゃいました。」。おい、いきなりかい!

 慎重に寄せて取り込んだイトウ103センチ。でかい。怪魚ハンターの実力、いきなり炸裂です。記念撮影して放流。ぼくと河原君に気合が入ります。引き続いて、右手、河原君のロッドがビュッと音をたてます。これは空振り。しばらくして、またビュッ。また空振り。その次はバキッ、アタリがあって合わせた時に、なんと岩に竿尻をぶつけてロッドを折ってしまった。呆然のカワハラ。そろそろオレの番かな。というのも、先ほどから小さなアタリが何度もあるのだけれど、どうしても決定打にならないのです。待って待って、でもグイッと持っていってくれない。ドキドキする、まだかまだか、もういいかもういいか、その時、ぼくは何も考えていません。対岸の緑、ゆったり流れる川の反射光、風、ウグイスやカッコウの鳴き声、かすかな手ごたえ、ロッドとラインとその先、水中にいるであろうイトウの呼吸と動き、それを全身の神経を集めて感じ取ろうとしている。境界線が薄れ、世界と一体になろうとしている。ああ、自由だ、とぼくは感じる、その一瞬、竿先がキュッキュッと左に二度もっていかれて、ぼくの手は半ば無意識にそれに反応し、ロッドを逆方向に強く引っ張っている、その時、水面がバシャッと大きく渦を巻いて、河の神様がはねる!

 S君が走ってきて、ぼくのロッドのリールにあるドラグ(ラインの張り具合を調整するネジ)を締めます。それでもラインは止まらない。ジージー音をたてて出ていきます。またドラグを締める。まだ、止まらない。もう一度、締める。そうして慎重に慎重に岸へ寄せてくる。これもでかい。やっとの思いで取り込んでみると、105センチ!自己最高記録達成。写真に撮ったあと、同じようにリリース。すると、S君から声がかかります。「シェフ、背景の写ってる写真はSNSでアップしないでくださいね。」。背景でポイントを特定されるのを避けるためです。さすがに日本一の座を守る男、抜かりはありません。「了解」。というようなやりとりをしていると、今度は河原君の出番です。折れていない、予備のロッドの竿先がしなっています。「今度は逃がせへんで。」。でも、なにか様子がおかしい。本人も腑に落ちない顔をしている。結局、それは鯉科のウグイでした。それも本州には生息しないエゾウグイ。黒くて、太くて、でかい。50センチは超えています。でも、これはいわゆる外道。あまり自慢になりません。くやしがるカワハラ。そして、次のポイントに移動することになりました。さらに、昼食と休憩をはさんで2度ほど場所を移動し、全員ノーヒットが続いて、最後に、以前河原君が大物をあげたポイントに。

 釣りはじめた頃に、S君に電話が入りました。どうやら職場にトラブルが発生した模様。急遽、旭川に戻らなければならなくなったとのことです。本来ならば、そのときから夕方にかけて、もう一度食いがたつ時間帯になるのですが、やむ終えず残り30分で納竿することに。と、その時、河原君のロッドが音をたててしなりました。ぼくとS君が凝視するなか、彼は慎重なやり取りの末に98センチをゲット。よほど嬉しかったのでしょう。濡れるのを気にせず、川に入ってイトウを抱き上げます。そして、終了。雨男の河原に、晴れ男のミチノがせり勝ったのか、心配していた天気は時折小雨がぱらついた程度で、最後まで保ってくれました。

 帰りの車中はおおいに話が盛り上がりました。3人ででかけ、だいたいがS君だけが釣ることが多かったのに、今回は全員が大物を一尾づつ。こんなことは我々にとっては前代未聞の出来事。旭川に戻って、80年続いているという名物居酒屋「天金」での打ち上げでは、料理の美味しさもあって全員上機嫌でした。

 翌日、朝が早いからと見送りを丁重にお断りして、ひとりでJRに乗り込み新千歳空港に向かったぼくは、本当は帰りたくありませんでした。もうしばらくいたかった。でも、その日の夕方には大阪に戻らなくてはなりません。また、いつもの毎日が待っている。

 さすがに62歳になると、昼も夜も火の前に立って仕事するのは疲れます。ときに身体が動かなくなる。しなければならないと思っていても、気力がわかないということも随分多くなりました。それでも忙しければ、まだ気分もまぎれるのですが、ヒマなときは本当に辛い。なんだか世の中に忘れ去られているような気分になることがあります。若いときには、それでも明日があると思えたけれど、今は体力、気力ともに目一杯という感じだし、明日があるとは思えない。今このときがすべてだと思う。瞬間瞬間を命がけで生きていると思う。でも、だからこそ自分の仕事が充実しているという気もするのだけれど、この張り詰めた状態をいつまで続けていけるのかと考えると、眠れない夜もある、そんなとき。

 ぼくは闇の中で意識の触手を伸ばして風の動きをさぐろうとします。緑の木々、鳥のさえずり、ゆったりとした川の流れ、そしてロッドを通したイトウとのやりとり。おおきなものと静かに一体となって、広がりながら、また収斂していく自分。大丈夫、オレはまだやれる、そんな声が聞こえてくるようで。安心して眠りに就けるように。

 開高健が「オーパ」でよく書いていました。さんざん愚痴や悪口を飛ばしたあとに締めくくった言葉。若いときには、「何、平和なこと書いてんねん」と思いましたが、今ならよくわかる気がします。

「神、空にしろしめす

 なべて世はこともなし」

河原君、S君、また一緒に釣りに行こうな、ありがとう。

 

 

 

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by chefmessage | 2016-07-08 19:45

八千メートルの一歩

終わりじゃないぞと走っている。

何が終わりじゃないのか、何を終わらせたくないのか、わからないまま走っている。

夢枕 獏 「神々の山嶺」


 ぼくの関西学院高等部時代の同級生に、杉本隆英という男がいます。彼は現在、シャトー・イガイタカハという名のカリフォルニアワインを製造、販売しています。元々は、自分の娘の結婚式の引き出物に、家紋のラベルのワインを用意したいと考えたのが発端らしいのですが、それが今や、年産25,000本を超えるワイナリーに成長しました。彼の家の紋が「違い鷹羽」で、それをローマ字表記にしたときの最初のCとhをシャトーにひっかけ、そのあとをそのまま読ませてイガイタカハになった、と言うのが、その名の由来なのだそうです。


もとより自社畑を持っているわけではなく、優良なぶどうを高名なワインメーカーと協力してセレクト、あるいはブレンドして瓶詰めを行い販売しているので、いわゆるドメーヌではなくネゴシアンということになるのですが、その味わいや質のよさ、加えて、杉本夫妻の営業努力によって、爆発的に販売数を伸ばしています。


 その杉本君のワインと、ぼくの料理をペアリングさせて提供する会が先日、ぼくの店で行われました。お客様は、食のライターの団田芳子さんとそのお仲間たち19名。いずれも味にうるさいお歴々です。

 その会の日程が決まったとき、ぼくは一つのことを実行することにしました。それは、現在の自分の限界を超えるレヴェルの料理を作りあげること。当日は杉本夫婦も同席します。彼のワインを引き立てるためにも、ぼくは、参加者が一生忘れないような料理を提供したい。

 でも、これはかなり無謀な計画でした。


 「神々の山嶺」という夢枕獏が書いた小説があります。この作品が映画化されたので、観る前にもう一度目を通しました。これは、簡単にいうと、誰もやったことのない方法でエヴェレストに登頂しようとする男の物語です。そのなかに、こんなことが書かれています。「八000メートルを越えると、一歩足を踏み出しては、一分近くも喘ぎ、次にまた一歩踏み出す、その無限の繰り返しになる。」。

読んだとき、これは今のぼくの状況に近いな、と思いました。


 ぼくはシェフになって27年目に入りました。その間、実に多くの料理を考案して提供してきました。自分のスタイルといったものが自然と出来上がるには充分な時間をぼくは過ごしてきたのです。それは、決して平坦ではなかったし、喜びよりも苦しみのほうが多かったような気がします。そうして、ぼくは62歳になった。

 フェイスブックで繋がっているかつての同級生達のプロフィール写真は、孫をだいているものが多い。そして、なんだか余裕の表情に見えます。ぼくのひがみも入っているのでしょうが、これは当然かもしれません。なぜなら、すでに彼等の多くは定年の歳を経ているのですから。それをみるにつけ、ぼくは思います。「オレ、自分の歳、忘れてるな。」。

 体力は衰えて当然なのに、ぼくは自分が怠けていると思っている。だから気力を奮い立たせて動こうとするのだけれど、思うにまかせない。これではいかん、といつも思っているのだけれど。


 ぼくのやっていることは、極端な言い方をすれば、若手との戦いであると思います。毎年、海外に修行にでていた、あるいは有力店に勤めていた若い料理人が独立したりシェフを任せられたりして注目を集めます。この業界、長いことやってるというだけで「古い」と決め付けられたりもする。フランス出自のランク本などにその傾向は顕著です。そして、非常に悔しいことに、人はその評価に導かれて食事の場所を選び、その評価にしたがって納得しようとする。

 だから、気を抜いてると、「あの人は今」状態になってしまう。「昔は有名だった人」になってしまうのです。ましてや、ネットで情報が溢れる現代、飲食店はどんどん消費されて消えていきます。

 ぼくは、生涯現役でありたいと思っています。そのためには、常に情報を収集し、分析して手を打っていかなければならないのだけれど。


 自分の築き上げてきたスタイルは捨てられないのです。それを捨てなかったからこそ、ぼくはこの業界で生き延びてこられたわけだし。だから、この年齢になって、まだ己の限界を超える仕事を達成するということは、八000メートルの場所で、まだ上に登ろうとするくらい困難です。でも、このままでは終われない。まだ自分は終わってはいないということを証明しなければならない。たとえ這ってでも、力の続く限り前に進まなければならない。命とは、多分そういうものだから。


 無謀な計画を達成するためにいくつも料理の原案を描き、細部にいたるまで考えぬいて設計図を仕上げる。次にそれぞれのパーツを用意する。それから、実際に組み立てて修正していく。料理を提供する寸前までそれは続きます。そして本番。

 狙ったとおりの結果は出せたと思います。すこぶる好評のうちに会は終了となりました。杉本君も随分喜んでくれました。散会後、彼がこんな投稿をFBにしていました。

「王道のフレンチの技量を持ちながら、より新しいことに挑戦するそのひたむきで前向きな道野ワールドを堪能してきました。こんな素敵な同級生を持っている喜びと、負けられへんなぁという感情が入り混じった素敵な一夜でした。」。


 翌日は定休日だったのですが、まったくなにもできないほど、ぼくは疲れてしまいました。でも達成感はあったはず、なのですが、たしかにやりつくしたはず、なのですが、なんだか面白くない。何故だろうと考えて、ぼくは気付きました。ぼくは一歩進んで、もう次の一歩のことを考えている。

 自分が一生懸命やっている姿と、その結果生み出されたものが人に勇気を与えることができるなら、ぼくは頂上が見えなくても登ろうと思う。ゴールなんか見えなくても、最後まで走り続けようと思います。

  

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by chefmessage | 2016-05-24 19:34
 30年以上前のことですが、フランスのベルナール・ロワゾー氏が考案し、世界中で反響を巻き起こした料理のひとつに、「カエルのモモ肉のソテー、パセリのピューレ」というものがあります。これは、皿の真ん中にジャガイモとニンニクのピューレを混ぜたものが置いてあって、そのまわりに、軽くボイルしてミキサーにかけたパセリのソース、そしてその上に、こんがり焼き色の付いたカエルのモモ肉が数本のっているという、いたってシンプルな料理です。
 この料理がロワゾー氏のレストラン「ラ・コートドール」で提供されていたとき、ぼくは丁度、そこで働いていました。そして、山のようなパセリをボイルしてミキサーにかけ、それから漉すという作業を毎日くりかえしていたぼくは、実は不満でした。ぼくは、「こんな簡単な料理をするためにフランスに来たわけではない」と思っていたのです。
 ジャガイモとニンニクのピューレは、少量の牛乳でのばして塩味をつけるだけ。パセリのソースは水と塩。カエルはテフロンのフライパンで焼き上げるだけ。何故、これが世界中に注目される料理なのか、当時のぼくにはまるでわかりませんでした。
 ある日、ぼくがボイルしたパセリをミキサーにかけていたとき、ムッシュ・ロワゾーが珍しく話しかけてきました。「おい日本人、お前は理解しているか?それがキュイジーヌ・ナチュールというもんだぞ。」。まだフランス語がよくわからないぼくに、ムッシュは身振りをまじえて話してくれます。「パリでみんな重い料理を腹いっぱい食べる。それからリヨンに行って同じようなものをまた食べる。これは辛いだろ。だから、両方の真ん中にあるここでは、軽いやさしい料理を出すんだ。すると、みんなが喜ぶ。オレは、人の喜ぶものを作っている。それで、有名になった。わかるか?それがキュイジーヌ・ナチュール(自然な料理)だ。」。
 なるほど、とは思ったけれど、それでもやっぱりよくわからなかった。ぼくは、フランスならではの重厚な料理にあこがれていたから。そのことが理解できるようになったのは、帰国して、自分の店を持ってからでした。

 ぼくが料理人になった当時は、いわゆるヌーヴェル・キュイジーヌ真っ盛りの頃で、とにかく料理を軽くすることに料理人は血道をあげていました。バター、小麦粉、クリームは極力避ける。でも、その流れは、やがて緩和されることになります。軽くしすぎて、もはやフランス料理の体をなさないものが増えてきたからです。「もう一度、戻そう」そう言い出したのはポール・ボキューズだったと思うのですが、かと言って、元に戻るわけではありません。現代人の栄養過多には対応しながら、でも、フランス料理の真髄を忘れない、いわゆるキュイジーヌ・モデルヌ(現代的フランス料理)が主流になったのです。そのような、軽い、重い、を行ったり来たりしながら、フランス料理は変遷してきて今に至っています。ただ、日本においては、やっぱりフランス料理といえば、カロリー過多、脂肪過剰というイメージが拭い去られていないように思うのです。

 ぼくは自分の店を持って27年になります。そのように長い間やっていると、必然的に常連様はお年をめしていかれます。そして、ある時期がくると来られなくなる方が多い。曰く、「あっさりしたものがいいから」。そのような言葉を聞く度に、ぼくは悔くなりました。それなら、ということで、10年ほど前に、料理体系をがらりと変える暴挙に出たことがあります。何分、やりだすと止まらない性格です。内装も大幅に変え、あろうことか店名まで変えてしまった。そうして、野菜メインのフランス料理店として世に打ってでました。肉、魚、ほんの少し。とにかく野菜のオンパレード。その行動力の根底にムッシュ・ロワゾーの影響があったことは否めない事実です。なにしろ30年前に、「ラ・コートドール」には、フェット・ド・レギューム(野菜のお祭り)というコースがあったのだから。ぼくは「キュイジーヌ・ナチュール」を実践しようと思ったのです。そして、もう一つの理由は、自分が3人の子供の父親である、ということでした。自分は、体によくない料理は作りたくない。子供にも食べてもらえる料理を作るんだ、と意気込んだのです。また、年老いた両親にも、ぼくの料理を食べてもらいたかった。
 最初の1年は、マスコミ殺到、先客万来。2年目、あれ?3年目、閑古鳥が啼く毎日。フランス料理を食べに来たのに出てくるの野菜ばっかり、野菜にこんな高いお金払えるか、フォアグラやキャヴィアはどこにいった、などなど。「時期尚早」というのが、マスコミのみなさんの最終評価だったようです。自分でも、極端過ぎたな、と猛反省したときは既に遅し。精神的にも経済的にも破綻寸前となりました。一家離散か?と思われたのですが、助力を申し出てくださった方々のおかげで現在の大阪市内の店舗に移転することができ、なんとか難を逃れ、今日に至っています。
 もう健康を売り物にする仕事はやめよう、そうこころに誓って、ぼくは移転を契機に店名を戻し、料理も従来の路線に回帰させました。ところが、ここにきて「糖質制限食」とか「ロカボ」とかいうものが世を賑わしている。知り合いも、そういう食事にしてから随分体調もよくなったと言う。なんにでも興味を持ってしまうミーハー体質のぼくは、ひやかしのつもりで本を買って読んでみました。すると意外なことに、フランス料理は健康食のカテゴリーに入ることがわかったのです。
 でも、一度痛い目にあっているから、ぼくは簡単には信じることができない。複数の著者の本を読み比べ、セミナーがあると聞けば行き、ネットで反論を掲げているものがあれば読み漁りました。その結果、わかったこと。
 要は、砂糖を使わず、糖質の多い食材(米や小麦などの穀類、ジャガイモなどの根菜、甘みの強い果実)を避ければ良いだけ、たんぱく質や脂質はむしろ摂ったほうがよい(カロリー制限なし)、お酒は適量の蒸留酒とワインなら可、とくれば、なにも難しくはない。
 フランス料理は和食や中国料理のように、料理に直接、加糖しません。だからデザートが発達したのですが、この点に関しては、うちのパティシエールのマダムと、人工甘味料を用いることで砂糖を使わないデザートを鋭意開発中。ちなみに、人工甘味料も、種類さえ選べば全く問題ないらしい。それでも気になる方には、チーズという選択肢も用意します。
 お米、麺類、小麦粉を使った生地などはあくまで副次的にしか用いていないので、省いても、他に出来ることはたくさんあります。
 あとはパンですが、これも、神戸の「サマーシュ」の西川功晃氏に教えを乞い、大豆パンを作ることにしました。豆類でも、大豆は糖質がほとんどないし、試作したところ、まずまずのものができました。
 使えないものがあると、料理の範囲が狭まるという懸念がありそうですが、もとより、すべての食材を網羅しなければできない料理なんてないのです。むしろ、新しい展開が臨める方がぼくには楽しい。だから、ちょっとやってみようかな、と。
 それに、「血糖値が高いから」「糖尿病だから」あるいは「ダイエットしたいから」そう言って離れていったお客様に対して、「やっぱりオレの料理は体にわるいんやな」と思わなくてすむ、というのはとても嬉しいことです。
 もちろん、「糖質制限食こそ人類の健康食である」なんてことは言う気はありません。ぼくはお医者さんでも何でもない、ただの料理人なのですから。そして、それなりに自分の職に誇りを持っているので、これまでの料理を否定するつもりも全くありません。
だから、従来通りのメニューは存続します。マダムのデザートももちろん。ただ、「糖質制限」を考慮したコースも作ろうと思っているのです。それにしても、極端な、例えば一切糖質を抜くとかいうことはしないし、できません。美味しくないものは作らない、それが大前提です。だから、必要最小限の糖質は含まれるし、また、それがないとかえって不健康だと思います。あくまでも、緩やかな制限ですが、何もしないよりはうんとましなのではないでしょうか。
 従来通りのコースと「糖質制限対応」のコース。選ぶのは、あくまでお客様です。選択肢がない、というのは一種の脅迫なので、ぼくはそれはしたくありません。それになにより、ぼくはもう悪夢は見たくありません。
 繰り返しになりますが、ぼくの「糖質制限対応コース」は、病院食をイメージさせるようなものではありません。なにより「おいしくて、体にやさしい」すなわち、新しいキュイジーヌ・ナチュールでありたいと思っています。
 
 ぼくの尊敬するベルナール・ロワゾー氏は、2003年に自殺しました。あるレストランガイドに酷評され、ミシュラン三ツ星の評価も下がるかもしれないとノイローゼになった、というのが原因ではないかと言われています。そのムッシュ・ロワゾーが生きていたなら、今どんな料理を作っていただろうかと想像することがあります。
 「水の料理人」と呼ばれて時代の寵児であった彼も、10年後には「ブルゴーニュの伝統的な料理人」というジャンルに入っていました。攻め上手は守り下手、といわれますが、彼はそうだったのではないか。人はいつか大人になるのかもしれないけれど、まるで子供のように嬉々として自分の料理観を語ってくれたムッシュ・ロワゾーのことをぼくは忘れません。だから、
 懲りたはずなのに、もう一度ぼくは冒険しようと思っています。そして、今よりももっと人を喜ばせたいと願っています。

 4月からの「糖質制限対応コース」、ご期待ください。

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by chefmessage | 2016-03-16 21:10

桜の花咲く頃に。

どうして自分がコックになったのか、実は、今でもよくわかりません。だから、もう40年近くこの仕事をやり続けているのに、料理を作っている自分を不思議な気持ちで眺めているもう一人の自分がいることに気がつくことがあります。そして、どうしてフランス料理なんだろうと、首をかしげていることにも。

 初めてフランス料理なるものに接したのは、大学4年生の時でした。そのとき付き合っていたガールフレンドがアルバイトをしていたレストランに、その彼女と一緒に行きました。エスカルゴと牛フィレのペッパーステーキを食べたことを憶えています。

 食後に、シェフと話しました。なにげなく、ぼくが「こういう仕事もいいなと思っています」と言うと、シェフがすかさず「やめとき」と仰った。「大学までいった賢い君が、たとえば黒だと思っても、私が白だといったら従わないといけないのがこの世界や。我慢できるはずがないから、やめとき。」。

 その言葉を聞いたとき、ぼくは唐突に決めたのです。ぼくは料理人になる、フランス料理のシェフになる、と。そのときの心の動きを何度も反芻しては分析しようと試みたのですが、すべては後付けの理屈のように思えて、未だに納得できる答えは見つけられてはいません。天啓、といえば格好いいのでしょうが、実際は、単なる思い付きでしかなかったような気がします。

 かといって、なんの伝手もありません。ぼくは食べることに興味があったわけではないし、それまで料理なんて作ったことがない。リンゴの皮すら剥けなかったし、イワシと鯵の区別もつかなかった。だから、最初に行ったレストランのシェフにお願いするしかありませんでした。「ぼくを雇っていただけませんか?」。

 最初は、定員いっぱいで無理だと言われました。でも、これは後からシェフに聞いた話ですが、ぼくのガールフレンドが必死に頼み込んでくれたらしい。「しゃあないから雇たったんや。」とシェフがよく言ってたのを覚えています。

 (これは先に明らかにしておきますが、その彼女は、今のぼくの家内ではありません、残念ながら。世の中は、それほどロマンチックではないようです。)

 それから、ぼくは時間があるときはそのレストランでアルバイトをするようになり、卒業と同時に、正式に調理師見習いとなりました。その店の名は「ボルドー」、そして、全くなにもできなかったぼくを雇ってくれたのは、先日、黄綬褒章を受勲した大溝隆夫シェフです。

 その大溝シェフの受勲パーティーが2月29日にあったので出席してきました。場所は、京都のホテルグランヴィアだったのですが、行って驚きました。出席者400人、その殆どが、日本中から集まった業界の著名人や重鎮。恐れ入りました。大溝シェフは、いわば街場の、一軒のレストランのオーナーシェフに過ぎません。それなのに、この圧倒的な人脈は何なのか。40年という時の重みをひしひしと感じました。それを如実にあらわしていたのが、当日のグランヴィアの料理でした。一切手抜き無しのガチガチのフランス料理を400人分出してきた。メインの料理にいたっては、各テーブルを著名なシェフが一人ずつ担当して料理を盛り、サーヴするという演出。その数、40人!参りました。多くの人たちが労を惜しまず、大溝シェフのために尽力しているのが伝わってきて、ぼくは感動しました。それと同時に、ぼくは自省せざるを得なかった。大溝シェフが、かくも広範な人脈を築くに至るまでの間、ぼくは一体なにをしてきたのか。

 自分では懸命に生きてきたつもりです。でも、どれだけぼくは進歩したというのか。世にもてはやされて有頂天になった時期もあったけれど、その後凋落し、そこから抜け出そうと必死で努力してなんとかここまで来たけれど、その間、ぼくはどれだけ成長したというのか。

 桜の花咲く頃に、不安を抱え、途方にくれながらもとりあえずスタートして以来、ぼくはどれだけの距離を走破することができたのだろうか。

 何もあの頃とは変わっていないような気がします。でも、着実に時間は過ぎてきました。件のガールフレンドは大学卒業後、郷里に戻って英語の教師になったそうです。そして、いまでも大溝シェフとは連絡を取り合っているようで、「彼女、定年やって言うてたわ。」とシェフから聞きました。もうそんな年になったのかと大いに驚きましたが、考えたら当たり前です。来月、ぼく自身が62歳になるのですから。

 大盛況のパーティーの中にいて、ぼくは暗澹たる気持ちになりました。自分に残された時間は、もう多くはない。でも、お開きになる前の大溝シェフのスピーチを聞いて、ぼくは思い直しました。シェフは声高らかに宣言していました。「力の続く限り頑張ります。」。そうか、それなら、その弟子たる自分もやらねばならない。今まさにスタートラインに立ったつもりで、もう一度走りだそう。

 「ボルドー」の近くにある、常照寺の桜もやがて咲き始めるでしょう。長年忘れていたその光景を、ぼくは今思いだしています。そして、いつまでも忘れないで、唐突に始まった料理人人生を、悔いの残らないよう全うしようと思います。


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by chefmessage | 2016-03-03 12:13

新年の抱負 2016

 毎年1月1日は、家族とともにぼくの両親に会いに行きます。今年は長女がアルバイトでいないので、長男と次女、そしてぼくたち夫婦の4人での訪問になりました。

 父はもうすぐ90歳、そして母は83歳になります。ふたりでマンション暮らしをしています。母は、もうずいぶん前から認知症で、その世話を父がする、いわゆる老老介護の世帯です。

 玄関を入ると、父が出迎えてくれます。そして、まず写真部屋にぼくたちを誘います。そこには孫たちの写真がいっぱい張り付けてある。そして、子供たちに自分たちの近況を話し、子供たちからも聞く、これが毎年の恒例行事です。

 話が途切れたときに、父がぼくに目配せをして、一枚の文書を差し出しました。それは、かかりつけの医師による母の病状の説明で、肺がん末期により余命6か月から1年、と書かれてある。そして、在宅ケアとして、痛みの緩和、という項目に線が引かれてありました。

 母は他人と会うことをいやがります。そして、不機嫌になります。それは、相手のことが認識できないから不安になるのと、そんな自分にイライラするからなのでしょうが、今年は椅子に座ったままで随分おとなしかった。それが、薬のせいだと父はぼくに伝えたかったのでしょう。

 コタツのある居間に移って、みんなで持参したお節を食べました。母は、椅子に座ったまま動きません。父はあいかわらずおしゃべりです。孫相手に、本当に楽しそうです。そんな様子を、母は時々見つめている。

 食事のあとは、うちの家族で初詣。足がすこし不自由な父が、戻ってくるのか、と尋ねます。うん、また帰ってくるから。それなら、セブンイレブンでコーヒーを買ってきてくれ、と言います。お母さんと半分ずつ飲むから。

 シャッターの閉まった商店街を通り抜けて近所の神社に到着。それぞれが願掛けをし、古いお守りを新しいものと変え、おみくじを引いて見せ合います。毎年の出来事。でも、来年、母はいないかもしれないと思うと、突然、涙がこぼれそうになる。

 両親のマンションに戻る途中にあるコンビニで全員のコーヒーを買って部屋に戻ると、母が居間に移動してコタツに足を入れている。父が買い置きのお菓子を出してきて、みんなでそれを食べながら談笑。次女が父に、子供のなかで一番親の言いつけを守らなかったのは誰?と聞きます。ぼくは男ばかり4人兄弟のうちの次男です。父が、子供の前では言いにくいけど、と言いながら、ぼくの方を見ます。あ、やっぱり、とうちの次女。子供があんまり言うこと聞かんときは押し入れに放り込んで、謝るまで出してやらんようにしてたんやけど、あんたのお父さんだけは絶対謝らんかった。しばらくして、あんまり静かやからそっと覗いたら、なんとただしくんは寝とった!

 そんな話の合間に母が、コタツのうえのお菓子を指して、それ何?とぼくの息子に尋ねます。お菓子だよ、食べる?うん。包装紙を外して手渡すと、おいしそうに食べます。

 そういえば、こないだケアセンターの人が、お父さん大変だろうから1週間お母さん預かりましょうか、と言うてくれたので任せることにしたんや、と父が話します。でもな、気になって預けた次の日に見にいったら、お母さん車いすに乗せられて、おおきなおむつでぐるぐる巻きにされて、ポツンと置き去りにされて、前の台に缶詰開けたもん置いてあって、それが不憫でな、その晩ぼくは寝れなんだ。だから朝一番で、家内に会いたい人が来るからとウソついてな、ホンマの事言うて気を悪くされても困るし適当なこと言うて帰らしてもろたんや。

 お父さん本当にたいへんですね、わたしも忙しいから時間がなかなか取れないけど、どうしようもないときには言ってくださいね、とぼくの奥さんが言うと、いやいや、4人の子供生んで育ててくれた恩があるから、ぼくはできる限り自分で面倒みてやろうと思うてんのや、と父がいいます。

 いまや好々爺となりはてたぼくの父ですが、この人は本当に厳しい父であり夫だった。初めて作り上げたプラモデルを、こんなもの作るヒマがあったら勉強しろと、ハンマーで粉々にされたことがあった。そうっと買ってきた漫画を破り捨てられたこともあった。母に対して手を挙げたこともありました。だから、ぼくはこの父をこころから憎んだこともありました。ぼくたち兄弟も母も、この父のために幸せになれないと思った。

 でも今、母は幸せだと思う。

 

 夜は、母に父が添い寝をするのだそうです。そして、目が覚めたら母の寝息を確かめ、それを聞いて、安心してまた眠るのだと。

 ぼくは、自分がこの年齢になってやっと、父の本質を理解することができたように思います。本当は、誰よりも家族を愛する人だったんだ。そして、ぼくは父を今、こころから尊敬しています。伝わる方法があるなら伝えたい。ぼくは、あなたの息子として生まれたことを誇りに思っていると。

 帰り際に、ぼくの家族全員が父と握手をするのも恒例の行事です。母は、いつものように知らん顔をしている。そうして別れを告げてエレベーターに向かっていると、ちょっと待った、と父が声をかけてきます。振り返ると、母がいる。なんやお母さんが急に立ち上がって見送るって言うんや。

 母が手を振っている。そして、またね、と言う。また、があるかどうかわからないのに。

 帰宅して一人になったとき、涙があふれてとまらなかった。そして、ぼくにできることは何なのかと考えました。ぼくは両親に、なにも恩返しができなかったひたすら親不孝な息子だった。でも、もしできることがあるとするなら、それはただ一つ。ぼくの子供たちが、ぼくの子供であることを誇りに思ってくれるような父親になること。ぼくは両親から伝えられたことを彼らに伝えるのが役目だから。そしてその役目を喜んで果たしたいと思う。

 これがぼくの今年の抱負です。言葉にするなら、それは「勇気」です。

 

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by chefmessage | 2016-01-04 19:09