ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


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感謝ー追悼文最終章 

          感謝
  深い河を越えたならば わたくしも戻らぬ
  だから今が 大事すぎて 幕が下りるまでは
  恨みつらみ 語りつくして
  こころからの 感謝を
       詞 きたやまおさむ 曲 加藤和彦 演奏 和幸

 なにしろ長文なので、皆さんに読んでいただけるかどうか不安だった先日のシェフメッセージですが、結構反響があって、ほっとしました。共感した、というご意見もありましたが、やや独断にすぎるのではないか、というご意見もあって、それらをお聞きした結果、自分のなかで消化しきれていない部分がまだあるように感じられたので、最終章というかまとめとして、この一文を書くことにしました。あとしばらくお付き合いいただければ幸甚です。

 独断にすぎる、というご意見がくることは自分でもわかっていました。日本の音楽史上に多大な足跡を残した才人と、自分のような一レストランのオーナーを同列に並べて論じるということが神をも恐れぬ行為であるということは重々承知していましたから。自分の今の物差しで量る相手ではない、ということも。
 でも僕は、他者の死というものはサインではないか、と考えています。これは神学というものを学んだことが影響しているのでしょうが、すべての事象を神のなされた業ととらえるならば、そこになんらかの意味を見出そうとすることが生きるものの務めではないかと思うのです。もちろん、結果として出てきた判断は一つではありません。死者と生前に近しかったものは近しかったものなりに、遠かったものは遠かったものなりに、その判断をするのですから。だから、それは千差万別であっていいと思うのです。違うから、人は論議します。その論議の積み重ね、蓄積で歴史は動いてきたのではないでしょうか。だから、その死を悼むもの同士は大いに論議するべきでしょう。ただし、そこには節度があるべきです。根底にその死者に対する尊敬と感謝があること。それが追悼、ではないでしょうか。

 だから、僕は僕なりの追悼をしたつもりです。敢えて自分の物差しで量り、今後の自分の、大げさにいうなら歴史の礎とさせていただきました。神だなんだ、そのような定義はさておいても、要は、これからの自分の生きていく意味をそこからくみ取る、ということだと思います。その結果が正しいのかどうかはわかりません。問いかけても、逝ってしまった人は何一つ語ってくれるわけではないのですから。でも、残されたもの同士、正しい論議を重ねればそれなりに道は見えてくるように思います。
 ただ、やはり悲しくて、悔しくて、辛い仕事です。でも、希望を見出さなければなりません。

 そのようなとき、僕の新しい福島の店に北海道から一つの小包が届きました。開けてみると中に、土だらけの人参・たまねぎ・じゃがいも・南瓜が入っています。送ってくれたのは辻中明子さん。恵庭の日本キリスト教団島松伝道所に、ご主人と二人で赴任している牧師さんです。小さな伝道所だから、信者さん達と農業やって財源にしていると、ほぼ30年ぶりに電話で話したのは、豊中の店を閉める直前でした。
 同封の手紙に、「勝負に出ましたね。(中略)少しですがこだわりの野菜送ります。プレゼントです。」。とありました。
 不覚にも、涙が出そうになりました。なんて素敵な開店祝いでしょうか。そして、応援歌でしょうか。

 華々しく生きて、唐突に逝ってしまったひと
 土にまみれながら、こつこつとわが道を行くひと
 ともに我が師であることにかわりはありません。ならば、こころに感謝を抱きつつ、わたくしも幕がおりるまで、今を大事にしようと思います。

   涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。(旧約聖書 詩篇126・5)
      {しままつ野菜だより、から転載} 
 
ミチノ・ル・トゥールビヨン  オーナーシェフ 道野 正
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by chefmessage | 2009-12-18 12:22