ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


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 30年以上前のことですが、フランスのベルナール・ロワゾー氏が考案し、世界中で反響を巻き起こした料理のひとつに、「カエルのモモ肉のソテー、パセリのピューレ」というものがあります。これは、皿の真ん中にジャガイモとニンニクのピューレを混ぜたものが置いてあって、そのまわりに、軽くボイルしてミキサーにかけたパセリのソース、そしてその上に、こんがり焼き色の付いたカエルのモモ肉が数本のっているという、いたってシンプルな料理です。
 この料理がロワゾー氏のレストラン「ラ・コートドール」で提供されていたとき、ぼくは丁度、そこで働いていました。そして、山のようなパセリをボイルしてミキサーにかけ、それから漉すという作業を毎日くりかえしていたぼくは、実は不満でした。ぼくは、「こんな簡単な料理をするためにフランスに来たわけではない」と思っていたのです。
 ジャガイモとニンニクのピューレは、少量の牛乳でのばして塩味をつけるだけ。パセリのソースは水と塩。カエルはテフロンのフライパンで焼き上げるだけ。何故、これが世界中に注目される料理なのか、当時のぼくにはまるでわかりませんでした。
 ある日、ぼくがボイルしたパセリをミキサーにかけていたとき、ムッシュ・ロワゾーが珍しく話しかけてきました。「おい日本人、お前は理解しているか?それがキュイジーヌ・ナチュールというもんだぞ。」。まだフランス語がよくわからないぼくに、ムッシュは身振りをまじえて話してくれます。「パリでみんな重い料理を腹いっぱい食べる。それからリヨンに行って同じようなものをまた食べる。これは辛いだろ。だから、両方の真ん中にあるここでは、軽いやさしい料理を出すんだ。すると、みんなが喜ぶ。オレは、人の喜ぶものを作っている。それで、有名になった。わかるか?それがキュイジーヌ・ナチュール(自然な料理)だ。」。
 なるほど、とは思ったけれど、それでもやっぱりよくわからなかった。ぼくは、フランスならではの重厚な料理にあこがれていたから。そのことが理解できるようになったのは、帰国して、自分の店を持ってからでした。

 ぼくが料理人になった当時は、いわゆるヌーヴェル・キュイジーヌ真っ盛りの頃で、とにかく料理を軽くすることに料理人は血道をあげていました。バター、小麦粉、クリームは極力避ける。でも、その流れは、やがて緩和されることになります。軽くしすぎて、もはやフランス料理の体をなさないものが増えてきたからです。「もう一度、戻そう」そう言い出したのはポール・ボキューズだったと思うのですが、かと言って、元に戻るわけではありません。現代人の栄養過多には対応しながら、でも、フランス料理の真髄を忘れない、いわゆるキュイジーヌ・モデルヌ(現代的フランス料理)が主流になったのです。そのような、軽い、重い、を行ったり来たりしながら、フランス料理は変遷してきて今に至っています。ただ、日本においては、やっぱりフランス料理といえば、カロリー過多、脂肪過剰というイメージが拭い去られていないように思うのです。

 ぼくは自分の店を持って27年になります。そのように長い間やっていると、必然的に常連様はお年をめしていかれます。そして、ある時期がくると来られなくなる方が多い。曰く、「あっさりしたものがいいから」。そのような言葉を聞く度に、ぼくは悔くなりました。それなら、ということで、10年ほど前に、料理体系をがらりと変える暴挙に出たことがあります。何分、やりだすと止まらない性格です。内装も大幅に変え、あろうことか店名まで変えてしまった。そうして、野菜メインのフランス料理店として世に打ってでました。肉、魚、ほんの少し。とにかく野菜のオンパレード。その行動力の根底にムッシュ・ロワゾーの影響があったことは否めない事実です。なにしろ30年前に、「ラ・コートドール」には、フェット・ド・レギューム(野菜のお祭り)というコースがあったのだから。ぼくは「キュイジーヌ・ナチュール」を実践しようと思ったのです。そして、もう一つの理由は、自分が3人の子供の父親である、ということでした。自分は、体によくない料理は作りたくない。子供にも食べてもらえる料理を作るんだ、と意気込んだのです。また、年老いた両親にも、ぼくの料理を食べてもらいたかった。
 最初の1年は、マスコミ殺到、先客万来。2年目、あれ?3年目、閑古鳥が啼く毎日。フランス料理を食べに来たのに出てくるの野菜ばっかり、野菜にこんな高いお金払えるか、フォアグラやキャヴィアはどこにいった、などなど。「時期尚早」というのが、マスコミのみなさんの最終評価だったようです。自分でも、極端過ぎたな、と猛反省したときは既に遅し。精神的にも経済的にも破綻寸前となりました。一家離散か?と思われたのですが、助力を申し出てくださった方々のおかげで現在の大阪市内の店舗に移転することができ、なんとか難を逃れ、今日に至っています。
 もう健康を売り物にする仕事はやめよう、そうこころに誓って、ぼくは移転を契機に店名を戻し、料理も従来の路線に回帰させました。ところが、ここにきて「糖質制限食」とか「ロカボ」とかいうものが世を賑わしている。知り合いも、そういう食事にしてから随分体調もよくなったと言う。なんにでも興味を持ってしまうミーハー体質のぼくは、ひやかしのつもりで本を買って読んでみました。すると意外なことに、フランス料理は健康食のカテゴリーに入ることがわかったのです。
 でも、一度痛い目にあっているから、ぼくは簡単には信じることができない。複数の著者の本を読み比べ、セミナーがあると聞けば行き、ネットで反論を掲げているものがあれば読み漁りました。その結果、わかったこと。
 要は、砂糖を使わず、糖質の多い食材(米や小麦などの穀類、ジャガイモなどの根菜、甘みの強い果実)を避ければ良いだけ、たんぱく質や脂質はむしろ摂ったほうがよい(カロリー制限なし)、お酒は適量の蒸留酒とワインなら可、とくれば、なにも難しくはない。
 フランス料理は和食や中国料理のように、料理に直接、加糖しません。だからデザートが発達したのですが、この点に関しては、うちのパティシエールのマダムと、人工甘味料を用いることで砂糖を使わないデザートを鋭意開発中。ちなみに、人工甘味料も、種類さえ選べば全く問題ないらしい。それでも気になる方には、チーズという選択肢も用意します。
 お米、麺類、小麦粉を使った生地などはあくまで副次的にしか用いていないので、省いても、他に出来ることはたくさんあります。
 あとはパンですが、これも、神戸の「サマーシュ」の西川功晃氏に教えを乞い、大豆パンを作ることにしました。豆類でも、大豆は糖質がほとんどないし、試作したところ、まずまずのものができました。
 使えないものがあると、料理の範囲が狭まるという懸念がありそうですが、もとより、すべての食材を網羅しなければできない料理なんてないのです。むしろ、新しい展開が臨める方がぼくには楽しい。だから、ちょっとやってみようかな、と。
 それに、「血糖値が高いから」「糖尿病だから」あるいは「ダイエットしたいから」そう言って離れていったお客様に対して、「やっぱりオレの料理は体にわるいんやな」と思わなくてすむ、というのはとても嬉しいことです。
 もちろん、「糖質制限食こそ人類の健康食である」なんてことは言う気はありません。ぼくはお医者さんでも何でもない、ただの料理人なのですから。そして、それなりに自分の職に誇りを持っているので、これまでの料理を否定するつもりも全くありません。
だから、従来通りのメニューは存続します。マダムのデザートももちろん。ただ、「糖質制限」を考慮したコースも作ろうと思っているのです。それにしても、極端な、例えば一切糖質を抜くとかいうことはしないし、できません。美味しくないものは作らない、それが大前提です。だから、必要最小限の糖質は含まれるし、また、それがないとかえって不健康だと思います。あくまでも、緩やかな制限ですが、何もしないよりはうんとましなのではないでしょうか。
 従来通りのコースと「糖質制限対応」のコース。選ぶのは、あくまでお客様です。選択肢がない、というのは一種の脅迫なので、ぼくはそれはしたくありません。それになにより、ぼくはもう悪夢は見たくありません。
 繰り返しになりますが、ぼくの「糖質制限対応コース」は、病院食をイメージさせるようなものではありません。なにより「おいしくて、体にやさしい」すなわち、新しいキュイジーヌ・ナチュールでありたいと思っています。
 
 ぼくの尊敬するベルナール・ロワゾー氏は、2003年に自殺しました。あるレストランガイドに酷評され、ミシュラン三ツ星の評価も下がるかもしれないとノイローゼになった、というのが原因ではないかと言われています。そのムッシュ・ロワゾーが生きていたなら、今どんな料理を作っていただろうかと想像することがあります。
 「水の料理人」と呼ばれて時代の寵児であった彼も、10年後には「ブルゴーニュの伝統的な料理人」というジャンルに入っていました。攻め上手は守り下手、といわれますが、彼はそうだったのではないか。人はいつか大人になるのかもしれないけれど、まるで子供のように嬉々として自分の料理観を語ってくれたムッシュ・ロワゾーのことをぼくは忘れません。だから、
 懲りたはずなのに、もう一度ぼくは冒険しようと思っています。そして、今よりももっと人を喜ばせたいと願っています。

 4月からの「糖質制限対応コース」、ご期待ください。

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by chefmessage | 2016-03-16 21:10

桜の花咲く頃に。

どうして自分がコックになったのか、実は、今でもよくわかりません。だから、もう40年近くこの仕事をやり続けているのに、料理を作っている自分を不思議な気持ちで眺めているもう一人の自分がいることに気がつくことがあります。そして、どうしてフランス料理なんだろうと、首をかしげていることにも。

 初めてフランス料理なるものに接したのは、大学4年生の時でした。そのとき付き合っていたガールフレンドがアルバイトをしていたレストランに、その彼女と一緒に行きました。エスカルゴと牛フィレのペッパーステーキを食べたことを憶えています。

 食後に、シェフと話しました。なにげなく、ぼくが「こういう仕事もいいなと思っています」と言うと、シェフがすかさず「やめとき」と仰った。「大学までいった賢い君が、たとえば黒だと思っても、私が白だといったら従わないといけないのがこの世界や。我慢できるはずがないから、やめとき。」。

 その言葉を聞いたとき、ぼくは唐突に決めたのです。ぼくは料理人になる、フランス料理のシェフになる、と。そのときの心の動きを何度も反芻しては分析しようと試みたのですが、すべては後付けの理屈のように思えて、未だに納得できる答えは見つけられてはいません。天啓、といえば格好いいのでしょうが、実際は、単なる思い付きでしかなかったような気がします。

 かといって、なんの伝手もありません。ぼくは食べることに興味があったわけではないし、それまで料理なんて作ったことがない。リンゴの皮すら剥けなかったし、イワシと鯵の区別もつかなかった。だから、最初に行ったレストランのシェフにお願いするしかありませんでした。「ぼくを雇っていただけませんか?」。

 最初は、定員いっぱいで無理だと言われました。でも、これは後からシェフに聞いた話ですが、ぼくのガールフレンドが必死に頼み込んでくれたらしい。「しゃあないから雇たったんや。」とシェフがよく言ってたのを覚えています。

 (これは先に明らかにしておきますが、その彼女は、今のぼくの家内ではありません、残念ながら。世の中は、それほどロマンチックではないようです。)

 それから、ぼくは時間があるときはそのレストランでアルバイトをするようになり、卒業と同時に、正式に調理師見習いとなりました。その店の名は「ボルドー」、そして、全くなにもできなかったぼくを雇ってくれたのは、先日、黄綬褒章を受勲した大溝隆夫シェフです。

 その大溝シェフの受勲パーティーが2月29日にあったので出席してきました。場所は、京都のホテルグランヴィアだったのですが、行って驚きました。出席者400人、その殆どが、日本中から集まった業界の著名人や重鎮。恐れ入りました。大溝シェフは、いわば街場の、一軒のレストランのオーナーシェフに過ぎません。それなのに、この圧倒的な人脈は何なのか。40年という時の重みをひしひしと感じました。それを如実にあらわしていたのが、当日のグランヴィアの料理でした。一切手抜き無しのガチガチのフランス料理を400人分出してきた。メインの料理にいたっては、各テーブルを著名なシェフが一人ずつ担当して料理を盛り、サーヴするという演出。その数、40人!参りました。多くの人たちが労を惜しまず、大溝シェフのために尽力しているのが伝わってきて、ぼくは感動しました。それと同時に、ぼくは自省せざるを得なかった。大溝シェフが、かくも広範な人脈を築くに至るまでの間、ぼくは一体なにをしてきたのか。

 自分では懸命に生きてきたつもりです。でも、どれだけぼくは進歩したというのか。世にもてはやされて有頂天になった時期もあったけれど、その後凋落し、そこから抜け出そうと必死で努力してなんとかここまで来たけれど、その間、ぼくはどれだけ成長したというのか。

 桜の花咲く頃に、不安を抱え、途方にくれながらもとりあえずスタートして以来、ぼくはどれだけの距離を走破することができたのだろうか。

 何もあの頃とは変わっていないような気がします。でも、着実に時間は過ぎてきました。件のガールフレンドは大学卒業後、郷里に戻って英語の教師になったそうです。そして、いまでも大溝シェフとは連絡を取り合っているようで、「彼女、定年やって言うてたわ。」とシェフから聞きました。もうそんな年になったのかと大いに驚きましたが、考えたら当たり前です。来月、ぼく自身が62歳になるのですから。

 大盛況のパーティーの中にいて、ぼくは暗澹たる気持ちになりました。自分に残された時間は、もう多くはない。でも、お開きになる前の大溝シェフのスピーチを聞いて、ぼくは思い直しました。シェフは声高らかに宣言していました。「力の続く限り頑張ります。」。そうか、それなら、その弟子たる自分もやらねばならない。今まさにスタートラインに立ったつもりで、もう一度走りだそう。

 「ボルドー」の近くにある、常照寺の桜もやがて咲き始めるでしょう。長年忘れていたその光景を、ぼくは今思いだしています。そして、いつまでも忘れないで、唐突に始まった料理人人生を、悔いの残らないよう全うしようと思います。


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by chefmessage | 2016-03-03 12:13