ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


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眠りに就く前に

 うちの店で3代目のスーシェフを務めてくれた河原正典君が、北海道の旭川で独立・開業して20年以上が経ちました。その間、彼のお店には何度も足を運び、一緒にフェアをやったりしたので、ぼくにも旭川の友人や知人がたくさんできたのですが、なかなか長期の休みが取れない都合上、ぼくの旭川への旅はいつも気ぜわしくて、ゆっくりと人に会っている時間もなく、行きたい場所やお店にも行くことができません。だいたい、着いたその日にコラボのディナーをやり、仮眠を取る間もなく釣りにでかける。そして、夜明けから暗くなるまでロッドをふり続けて、旭川に戻ったら打ち上げ、翌朝は早々にホテルを出て帰阪、というのが毎回のパターンです。仕事一日、釣り一日。先月も旭川へいったのですが、ほとんど不眠不休の三日間でした。それでも、釣りはやめられない。そんなに釣れるンですか?と問われると、実はまったく釣れないときのほうが多いですと、苦笑して答えます。狙っているのが、幻と言われている「イトウ」なもんで。

 イトウは、アイヌの人たちに河の神様と呼ばれていた鮭科の魚で、日本固有の淡水魚としては最大級です。過去には210センチという記録がありますが、そんなサイズは夢物語で、かの開高健が釣ったのは74センチでした。河川の環境破壊により、いまや激減している魚種です。そうそう簡単には釣れてくれません。ところが、ここに名ガイドがいてくれると可能性はうんと高くなります。

 釣りには必ずポイントがあります。そして、その場所ならではの釣り方がある。これを知らないと、よほどの僥倖にめぐり合わない限り、結果は出せません。ましてや、相手は「幻」です。ただし、そんなことをやすやすと教えてくれる釣師はいません。それは、秘中の秘、なのですから。でも、その名ガイドと知り合うことができたことから、ぼくの北海道でのイトウ釣りは飛躍的に現実味をおびるようになりました。その男を、仮にS君と呼ぶことにします。

 そのS君の職業は料理人で、彼は河原君を随分尊敬しています。いまや「クラブサルセル」というシェフの会を興し、その重鎮となっている河原君です。彼を慕う同業者は多い。そして、河原君も大の釣り好きとなれば、ひと肌脱ごうという気にもなるのでしょう。ぼくは幸運なことに、それに便乗することができるようになったのです。

 S君は、日本一のイトウ釣師である。これは、ぼくと河原君の共通の認識です。またの名を「怪魚ハンター」。北海道のある川で、150センチ超のチョウザメを釣り上げて新聞に載ったこともある。先日は、112センチという巨大イトウを釣り上げていました。腰に熊除けの鈴をつけ、ヴェストのポケットには熊撃退スプレー、ポケットには熊を寄せつけない爆竹まで忍ばせているという豪の者です。

 さて、6月19日のこと。前日が結構忙しくて、帰宅して眠ったのが午前2時半、4時半には起きて仕度を整え、千里中央からリムジンバスで関西空港へ、飛行機で新千歳、それからJRで旭川へ。早速、河原君のお店「メランジェ」へ行き、その日の夜のフェアの準備、一旦ホテルに入って小休止のあと店へ戻って、午後6時からコラボディナースタート。「ポプーレ」のヤブキ君がヘルプに来てくれています。そして、顔見知りのお客様に料理をお出しし、歓談して午後11時には好評のうちに終了。「サロンドール」の金美華さんの差し入れのケーキを食べて、ホテルに戻って待機。今回は「トーヨーホテル」の武田シェフが広い部屋を用意してくださったので、気持ちもおおらかになって、できればゆっくり休みたいな、と思っていたら眠ってしまいそうになり、ハッと時計を見ると、日付は変わり、お迎えの来る午前1時です。あわててフロントに下りていくと、ホテルのまん前に怪魚ハンターのランドクルーザーが停まっている。それに乗り込んで、念願の釣行が始まりました。

 S君と河原君、そしてぼくの3人です。前席の二人が、どのポイントに入るか相談しています。ぼくは寝不足でぼんやりしながら窓の外を眺めている。週間天気予報では晴れだったのに、当日の予想は雨!とにかく行きましょう、でも、心配で仕方がない。雨、降るなよ、と祈りながらちょっとウトウト、そうするうちに午前3時には夜が白み始めます。北海道の夜明けは早い。やがて、ランクルは川の土手を走り始め、いきなり河川敷に降り、生い茂る草をなぎ倒しながら進んでいきます。おい、どこまで行くねん、とヒヤヒヤしていたら、なんと行き止まりに車一台分止めれるスペースがありました。さすがやなあ。早速、車から降りて準備をはじめます。腰まであるウエイダーをはき、道具を点検、それぞれがロッドや荷物を持って出陣。おっとその前に、虫除けスプレーを手とか首筋に吹き付けます。これをしないと蚊やアブがいっぱいよってきます。

 車を降りてからポイントまでが遠い。藪こぎ、というやつです。生い茂る草木の中を歩いていく。でも、その先にイトウのいるポイントがあると思うと足早になる。そして、今日一つ目の場所に到着。うれしいことに、一番いい場所を譲ってくれました。河原君がその右手、S君は左。しばらくすると左からバシャッという水音、ついでS君の声。「すみません。釣れちゃいました。」。おい、いきなりかい!

 慎重に寄せて取り込んだイトウ103センチ。でかい。怪魚ハンターの実力、いきなり炸裂です。記念撮影して放流。ぼくと河原君に気合が入ります。引き続いて、右手、河原君のロッドがビュッと音をたてます。これは空振り。しばらくして、またビュッ。また空振り。その次はバキッ、アタリがあって合わせた時に、なんと岩に竿尻をぶつけてロッドを折ってしまった。呆然のカワハラ。そろそろオレの番かな。というのも、先ほどから小さなアタリが何度もあるのだけれど、どうしても決定打にならないのです。待って待って、でもグイッと持っていってくれない。ドキドキする、まだかまだか、もういいかもういいか、その時、ぼくは何も考えていません。対岸の緑、ゆったり流れる川の反射光、風、ウグイスやカッコウの鳴き声、かすかな手ごたえ、ロッドとラインとその先、水中にいるであろうイトウの呼吸と動き、それを全身の神経を集めて感じ取ろうとしている。境界線が薄れ、世界と一体になろうとしている。ああ、自由だ、とぼくは感じる、その一瞬、竿先がキュッキュッと左に二度もっていかれて、ぼくの手は半ば無意識にそれに反応し、ロッドを逆方向に強く引っ張っている、その時、水面がバシャッと大きく渦を巻いて、河の神様がはねる!

 S君が走ってきて、ぼくのロッドのリールにあるドラグ(ラインの張り具合を調整するネジ)を締めます。それでもラインは止まらない。ジージー音をたてて出ていきます。またドラグを締める。まだ、止まらない。もう一度、締める。そうして慎重に慎重に岸へ寄せてくる。これもでかい。やっとの思いで取り込んでみると、105センチ!自己最高記録達成。写真に撮ったあと、同じようにリリース。すると、S君から声がかかります。「シェフ、背景の写ってる写真はSNSでアップしないでくださいね。」。背景でポイントを特定されるのを避けるためです。さすがに日本一の座を守る男、抜かりはありません。「了解」。というようなやりとりをしていると、今度は河原君の出番です。折れていない、予備のロッドの竿先がしなっています。「今度は逃がせへんで。」。でも、なにか様子がおかしい。本人も腑に落ちない顔をしている。結局、それは鯉科のウグイでした。それも本州には生息しないエゾウグイ。黒くて、太くて、でかい。50センチは超えています。でも、これはいわゆる外道。あまり自慢になりません。くやしがるカワハラ。そして、次のポイントに移動することになりました。さらに、昼食と休憩をはさんで2度ほど場所を移動し、全員ノーヒットが続いて、最後に、以前河原君が大物をあげたポイントに。

 釣りはじめた頃に、S君に電話が入りました。どうやら職場にトラブルが発生した模様。急遽、旭川に戻らなければならなくなったとのことです。本来ならば、そのときから夕方にかけて、もう一度食いがたつ時間帯になるのですが、やむ終えず残り30分で納竿することに。と、その時、河原君のロッドが音をたててしなりました。ぼくとS君が凝視するなか、彼は慎重なやり取りの末に98センチをゲット。よほど嬉しかったのでしょう。濡れるのを気にせず、川に入ってイトウを抱き上げます。そして、終了。雨男の河原に、晴れ男のミチノがせり勝ったのか、心配していた天気は時折小雨がぱらついた程度で、最後まで保ってくれました。

 帰りの車中はおおいに話が盛り上がりました。3人ででかけ、だいたいがS君だけが釣ることが多かったのに、今回は全員が大物を一尾づつ。こんなことは我々にとっては前代未聞の出来事。旭川に戻って、80年続いているという名物居酒屋「天金」での打ち上げでは、料理の美味しさもあって全員上機嫌でした。

 翌日、朝が早いからと見送りを丁重にお断りして、ひとりでJRに乗り込み新千歳空港に向かったぼくは、本当は帰りたくありませんでした。もうしばらくいたかった。でも、その日の夕方には大阪に戻らなくてはなりません。また、いつもの毎日が待っている。

 さすがに62歳になると、昼も夜も火の前に立って仕事するのは疲れます。ときに身体が動かなくなる。しなければならないと思っていても、気力がわかないということも随分多くなりました。それでも忙しければ、まだ気分もまぎれるのですが、ヒマなときは本当に辛い。なんだか世の中に忘れ去られているような気分になることがあります。若いときには、それでも明日があると思えたけれど、今は体力、気力ともに目一杯という感じだし、明日があるとは思えない。今このときがすべてだと思う。瞬間瞬間を命がけで生きていると思う。でも、だからこそ自分の仕事が充実しているという気もするのだけれど、この張り詰めた状態をいつまで続けていけるのかと考えると、眠れない夜もある、そんなとき。

 ぼくは闇の中で意識の触手を伸ばして風の動きをさぐろうとします。緑の木々、鳥のさえずり、ゆったりとした川の流れ、そしてロッドを通したイトウとのやりとり。おおきなものと静かに一体となって、広がりながら、また収斂していく自分。大丈夫、オレはまだやれる、そんな声が聞こえてくるようで。安心して眠りに就けるように。

 開高健が「オーパ」でよく書いていました。さんざん愚痴や悪口を飛ばしたあとに締めくくった言葉。若いときには、「何、平和なこと書いてんねん」と思いましたが、今ならよくわかる気がします。

「神、空にしろしめす

 なべて世はこともなし」

河原君、S君、また一緒に釣りに行こうな、ありがとう。

 

 

 

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# by chefmessage | 2016-07-08 19:45

八千メートルの一歩

終わりじゃないぞと走っている。

何が終わりじゃないのか、何を終わらせたくないのか、わからないまま走っている。

夢枕 獏 「神々の山嶺」


 ぼくの関西学院高等部時代の同級生に、杉本隆英という男がいます。彼は現在、シャトー・イガイタカハという名のカリフォルニアワインを製造、販売しています。元々は、自分の娘の結婚式の引き出物に、家紋のラベルのワインを用意したいと考えたのが発端らしいのですが、それが今や、年産25,000本を超えるワイナリーに成長しました。彼の家の紋が「違い鷹羽」で、それをローマ字表記にしたときの最初のCとhをシャトーにひっかけ、そのあとをそのまま読ませてイガイタカハになった、と言うのが、その名の由来なのだそうです。


もとより自社畑を持っているわけではなく、優良なぶどうを高名なワインメーカーと協力してセレクト、あるいはブレンドして瓶詰めを行い販売しているので、いわゆるドメーヌではなくネゴシアンということになるのですが、その味わいや質のよさ、加えて、杉本夫妻の営業努力によって、爆発的に販売数を伸ばしています。


 その杉本君のワインと、ぼくの料理をペアリングさせて提供する会が先日、ぼくの店で行われました。お客様は、食のライターの団田芳子さんとそのお仲間たち19名。いずれも味にうるさいお歴々です。

 その会の日程が決まったとき、ぼくは一つのことを実行することにしました。それは、現在の自分の限界を超えるレヴェルの料理を作りあげること。当日は杉本夫婦も同席します。彼のワインを引き立てるためにも、ぼくは、参加者が一生忘れないような料理を提供したい。

 でも、これはかなり無謀な計画でした。


 「神々の山嶺」という夢枕獏が書いた小説があります。この作品が映画化されたので、観る前にもう一度目を通しました。これは、簡単にいうと、誰もやったことのない方法でエヴェレストに登頂しようとする男の物語です。そのなかに、こんなことが書かれています。「八000メートルを越えると、一歩足を踏み出しては、一分近くも喘ぎ、次にまた一歩踏み出す、その無限の繰り返しになる。」。

読んだとき、これは今のぼくの状況に近いな、と思いました。


 ぼくはシェフになって27年目に入りました。その間、実に多くの料理を考案して提供してきました。自分のスタイルといったものが自然と出来上がるには充分な時間をぼくは過ごしてきたのです。それは、決して平坦ではなかったし、喜びよりも苦しみのほうが多かったような気がします。そうして、ぼくは62歳になった。

 フェイスブックで繋がっているかつての同級生達のプロフィール写真は、孫をだいているものが多い。そして、なんだか余裕の表情に見えます。ぼくのひがみも入っているのでしょうが、これは当然かもしれません。なぜなら、すでに彼等の多くは定年の歳を経ているのですから。それをみるにつけ、ぼくは思います。「オレ、自分の歳、忘れてるな。」。

 体力は衰えて当然なのに、ぼくは自分が怠けていると思っている。だから気力を奮い立たせて動こうとするのだけれど、思うにまかせない。これではいかん、といつも思っているのだけれど。


 ぼくのやっていることは、極端な言い方をすれば、若手との戦いであると思います。毎年、海外に修行にでていた、あるいは有力店に勤めていた若い料理人が独立したりシェフを任せられたりして注目を集めます。この業界、長いことやってるというだけで「古い」と決め付けられたりもする。フランス出自のランク本などにその傾向は顕著です。そして、非常に悔しいことに、人はその評価に導かれて食事の場所を選び、その評価にしたがって納得しようとする。

 だから、気を抜いてると、「あの人は今」状態になってしまう。「昔は有名だった人」になってしまうのです。ましてや、ネットで情報が溢れる現代、飲食店はどんどん消費されて消えていきます。

 ぼくは、生涯現役でありたいと思っています。そのためには、常に情報を収集し、分析して手を打っていかなければならないのだけれど。


 自分の築き上げてきたスタイルは捨てられないのです。それを捨てなかったからこそ、ぼくはこの業界で生き延びてこられたわけだし。だから、この年齢になって、まだ己の限界を超える仕事を達成するということは、八000メートルの場所で、まだ上に登ろうとするくらい困難です。でも、このままでは終われない。まだ自分は終わってはいないということを証明しなければならない。たとえ這ってでも、力の続く限り前に進まなければならない。命とは、多分そういうものだから。


 無謀な計画を達成するためにいくつも料理の原案を描き、細部にいたるまで考えぬいて設計図を仕上げる。次にそれぞれのパーツを用意する。それから、実際に組み立てて修正していく。料理を提供する寸前までそれは続きます。そして本番。

 狙ったとおりの結果は出せたと思います。すこぶる好評のうちに会は終了となりました。杉本君も随分喜んでくれました。散会後、彼がこんな投稿をFBにしていました。

「王道のフレンチの技量を持ちながら、より新しいことに挑戦するそのひたむきで前向きな道野ワールドを堪能してきました。こんな素敵な同級生を持っている喜びと、負けられへんなぁという感情が入り混じった素敵な一夜でした。」。


 翌日は定休日だったのですが、まったくなにもできないほど、ぼくは疲れてしまいました。でも達成感はあったはず、なのですが、たしかにやりつくしたはず、なのですが、なんだか面白くない。何故だろうと考えて、ぼくは気付きました。ぼくは一歩進んで、もう次の一歩のことを考えている。

 自分が一生懸命やっている姿と、その結果生み出されたものが人に勇気を与えることができるなら、ぼくは頂上が見えなくても登ろうと思う。ゴールなんか見えなくても、最後まで走り続けようと思います。

  

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# by chefmessage | 2016-05-24 19:34
 30年以上前のことですが、フランスのベルナール・ロワゾー氏が考案し、世界中で反響を巻き起こした料理のひとつに、「カエルのモモ肉のソテー、パセリのピューレ」というものがあります。これは、皿の真ん中にジャガイモとニンニクのピューレを混ぜたものが置いてあって、そのまわりに、軽くボイルしてミキサーにかけたパセリのソース、そしてその上に、こんがり焼き色の付いたカエルのモモ肉が数本のっているという、いたってシンプルな料理です。
 この料理がロワゾー氏のレストラン「ラ・コートドール」で提供されていたとき、ぼくは丁度、そこで働いていました。そして、山のようなパセリをボイルしてミキサーにかけ、それから漉すという作業を毎日くりかえしていたぼくは、実は不満でした。ぼくは、「こんな簡単な料理をするためにフランスに来たわけではない」と思っていたのです。
 ジャガイモとニンニクのピューレは、少量の牛乳でのばして塩味をつけるだけ。パセリのソースは水と塩。カエルはテフロンのフライパンで焼き上げるだけ。何故、これが世界中に注目される料理なのか、当時のぼくにはまるでわかりませんでした。
 ある日、ぼくがボイルしたパセリをミキサーにかけていたとき、ムッシュ・ロワゾーが珍しく話しかけてきました。「おい日本人、お前は理解しているか?それがキュイジーヌ・ナチュールというもんだぞ。」。まだフランス語がよくわからないぼくに、ムッシュは身振りをまじえて話してくれます。「パリでみんな重い料理を腹いっぱい食べる。それからリヨンに行って同じようなものをまた食べる。これは辛いだろ。だから、両方の真ん中にあるここでは、軽いやさしい料理を出すんだ。すると、みんなが喜ぶ。オレは、人の喜ぶものを作っている。それで、有名になった。わかるか?それがキュイジーヌ・ナチュール(自然な料理)だ。」。
 なるほど、とは思ったけれど、それでもやっぱりよくわからなかった。ぼくは、フランスならではの重厚な料理にあこがれていたから。そのことが理解できるようになったのは、帰国して、自分の店を持ってからでした。

 ぼくが料理人になった当時は、いわゆるヌーヴェル・キュイジーヌ真っ盛りの頃で、とにかく料理を軽くすることに料理人は血道をあげていました。バター、小麦粉、クリームは極力避ける。でも、その流れは、やがて緩和されることになります。軽くしすぎて、もはやフランス料理の体をなさないものが増えてきたからです。「もう一度、戻そう」そう言い出したのはポール・ボキューズだったと思うのですが、かと言って、元に戻るわけではありません。現代人の栄養過多には対応しながら、でも、フランス料理の真髄を忘れない、いわゆるキュイジーヌ・モデルヌ(現代的フランス料理)が主流になったのです。そのような、軽い、重い、を行ったり来たりしながら、フランス料理は変遷してきて今に至っています。ただ、日本においては、やっぱりフランス料理といえば、カロリー過多、脂肪過剰というイメージが拭い去られていないように思うのです。

 ぼくは自分の店を持って27年になります。そのように長い間やっていると、必然的に常連様はお年をめしていかれます。そして、ある時期がくると来られなくなる方が多い。曰く、「あっさりしたものがいいから」。そのような言葉を聞く度に、ぼくは悔くなりました。それなら、ということで、10年ほど前に、料理体系をがらりと変える暴挙に出たことがあります。何分、やりだすと止まらない性格です。内装も大幅に変え、あろうことか店名まで変えてしまった。そうして、野菜メインのフランス料理店として世に打ってでました。肉、魚、ほんの少し。とにかく野菜のオンパレード。その行動力の根底にムッシュ・ロワゾーの影響があったことは否めない事実です。なにしろ30年前に、「ラ・コートドール」には、フェット・ド・レギューム(野菜のお祭り)というコースがあったのだから。ぼくは「キュイジーヌ・ナチュール」を実践しようと思ったのです。そして、もう一つの理由は、自分が3人の子供の父親である、ということでした。自分は、体によくない料理は作りたくない。子供にも食べてもらえる料理を作るんだ、と意気込んだのです。また、年老いた両親にも、ぼくの料理を食べてもらいたかった。
 最初の1年は、マスコミ殺到、先客万来。2年目、あれ?3年目、閑古鳥が啼く毎日。フランス料理を食べに来たのに出てくるの野菜ばっかり、野菜にこんな高いお金払えるか、フォアグラやキャヴィアはどこにいった、などなど。「時期尚早」というのが、マスコミのみなさんの最終評価だったようです。自分でも、極端過ぎたな、と猛反省したときは既に遅し。精神的にも経済的にも破綻寸前となりました。一家離散か?と思われたのですが、助力を申し出てくださった方々のおかげで現在の大阪市内の店舗に移転することができ、なんとか難を逃れ、今日に至っています。
 もう健康を売り物にする仕事はやめよう、そうこころに誓って、ぼくは移転を契機に店名を戻し、料理も従来の路線に回帰させました。ところが、ここにきて「糖質制限食」とか「ロカボ」とかいうものが世を賑わしている。知り合いも、そういう食事にしてから随分体調もよくなったと言う。なんにでも興味を持ってしまうミーハー体質のぼくは、ひやかしのつもりで本を買って読んでみました。すると意外なことに、フランス料理は健康食のカテゴリーに入ることがわかったのです。
 でも、一度痛い目にあっているから、ぼくは簡単には信じることができない。複数の著者の本を読み比べ、セミナーがあると聞けば行き、ネットで反論を掲げているものがあれば読み漁りました。その結果、わかったこと。
 要は、砂糖を使わず、糖質の多い食材(米や小麦などの穀類、ジャガイモなどの根菜、甘みの強い果実)を避ければ良いだけ、たんぱく質や脂質はむしろ摂ったほうがよい(カロリー制限なし)、お酒は適量の蒸留酒とワインなら可、とくれば、なにも難しくはない。
 フランス料理は和食や中国料理のように、料理に直接、加糖しません。だからデザートが発達したのですが、この点に関しては、うちのパティシエールのマダムと、人工甘味料を用いることで砂糖を使わないデザートを鋭意開発中。ちなみに、人工甘味料も、種類さえ選べば全く問題ないらしい。それでも気になる方には、チーズという選択肢も用意します。
 お米、麺類、小麦粉を使った生地などはあくまで副次的にしか用いていないので、省いても、他に出来ることはたくさんあります。
 あとはパンですが、これも、神戸の「サマーシュ」の西川功晃氏に教えを乞い、大豆パンを作ることにしました。豆類でも、大豆は糖質がほとんどないし、試作したところ、まずまずのものができました。
 使えないものがあると、料理の範囲が狭まるという懸念がありそうですが、もとより、すべての食材を網羅しなければできない料理なんてないのです。むしろ、新しい展開が臨める方がぼくには楽しい。だから、ちょっとやってみようかな、と。
 それに、「血糖値が高いから」「糖尿病だから」あるいは「ダイエットしたいから」そう言って離れていったお客様に対して、「やっぱりオレの料理は体にわるいんやな」と思わなくてすむ、というのはとても嬉しいことです。
 もちろん、「糖質制限食こそ人類の健康食である」なんてことは言う気はありません。ぼくはお医者さんでも何でもない、ただの料理人なのですから。そして、それなりに自分の職に誇りを持っているので、これまでの料理を否定するつもりも全くありません。
だから、従来通りのメニューは存続します。マダムのデザートももちろん。ただ、「糖質制限」を考慮したコースも作ろうと思っているのです。それにしても、極端な、例えば一切糖質を抜くとかいうことはしないし、できません。美味しくないものは作らない、それが大前提です。だから、必要最小限の糖質は含まれるし、また、それがないとかえって不健康だと思います。あくまでも、緩やかな制限ですが、何もしないよりはうんとましなのではないでしょうか。
 従来通りのコースと「糖質制限対応」のコース。選ぶのは、あくまでお客様です。選択肢がない、というのは一種の脅迫なので、ぼくはそれはしたくありません。それになにより、ぼくはもう悪夢は見たくありません。
 繰り返しになりますが、ぼくの「糖質制限対応コース」は、病院食をイメージさせるようなものではありません。なにより「おいしくて、体にやさしい」すなわち、新しいキュイジーヌ・ナチュールでありたいと思っています。
 
 ぼくの尊敬するベルナール・ロワゾー氏は、2003年に自殺しました。あるレストランガイドに酷評され、ミシュラン三ツ星の評価も下がるかもしれないとノイローゼになった、というのが原因ではないかと言われています。そのムッシュ・ロワゾーが生きていたなら、今どんな料理を作っていただろうかと想像することがあります。
 「水の料理人」と呼ばれて時代の寵児であった彼も、10年後には「ブルゴーニュの伝統的な料理人」というジャンルに入っていました。攻め上手は守り下手、といわれますが、彼はそうだったのではないか。人はいつか大人になるのかもしれないけれど、まるで子供のように嬉々として自分の料理観を語ってくれたムッシュ・ロワゾーのことをぼくは忘れません。だから、
 懲りたはずなのに、もう一度ぼくは冒険しようと思っています。そして、今よりももっと人を喜ばせたいと願っています。

 4月からの「糖質制限対応コース」、ご期待ください。

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# by chefmessage | 2016-03-16 21:10

桜の花咲く頃に。

どうして自分がコックになったのか、実は、今でもよくわかりません。だから、もう40年近くこの仕事をやり続けているのに、料理を作っている自分を不思議な気持ちで眺めているもう一人の自分がいることに気がつくことがあります。そして、どうしてフランス料理なんだろうと、首をかしげていることにも。

 初めてフランス料理なるものに接したのは、大学4年生の時でした。そのとき付き合っていたガールフレンドがアルバイトをしていたレストランに、その彼女と一緒に行きました。エスカルゴと牛フィレのペッパーステーキを食べたことを憶えています。

 食後に、シェフと話しました。なにげなく、ぼくが「こういう仕事もいいなと思っています」と言うと、シェフがすかさず「やめとき」と仰った。「大学までいった賢い君が、たとえば黒だと思っても、私が白だといったら従わないといけないのがこの世界や。我慢できるはずがないから、やめとき。」。

 その言葉を聞いたとき、ぼくは唐突に決めたのです。ぼくは料理人になる、フランス料理のシェフになる、と。そのときの心の動きを何度も反芻しては分析しようと試みたのですが、すべては後付けの理屈のように思えて、未だに納得できる答えは見つけられてはいません。天啓、といえば格好いいのでしょうが、実際は、単なる思い付きでしかなかったような気がします。

 かといって、なんの伝手もありません。ぼくは食べることに興味があったわけではないし、それまで料理なんて作ったことがない。リンゴの皮すら剥けなかったし、イワシと鯵の区別もつかなかった。だから、最初に行ったレストランのシェフにお願いするしかありませんでした。「ぼくを雇っていただけませんか?」。

 最初は、定員いっぱいで無理だと言われました。でも、これは後からシェフに聞いた話ですが、ぼくのガールフレンドが必死に頼み込んでくれたらしい。「しゃあないから雇たったんや。」とシェフがよく言ってたのを覚えています。

 (これは先に明らかにしておきますが、その彼女は、今のぼくの家内ではありません、残念ながら。世の中は、それほどロマンチックではないようです。)

 それから、ぼくは時間があるときはそのレストランでアルバイトをするようになり、卒業と同時に、正式に調理師見習いとなりました。その店の名は「ボルドー」、そして、全くなにもできなかったぼくを雇ってくれたのは、先日、黄綬褒章を受勲した大溝隆夫シェフです。

 その大溝シェフの受勲パーティーが2月29日にあったので出席してきました。場所は、京都のホテルグランヴィアだったのですが、行って驚きました。出席者400人、その殆どが、日本中から集まった業界の著名人や重鎮。恐れ入りました。大溝シェフは、いわば街場の、一軒のレストランのオーナーシェフに過ぎません。それなのに、この圧倒的な人脈は何なのか。40年という時の重みをひしひしと感じました。それを如実にあらわしていたのが、当日のグランヴィアの料理でした。一切手抜き無しのガチガチのフランス料理を400人分出してきた。メインの料理にいたっては、各テーブルを著名なシェフが一人ずつ担当して料理を盛り、サーヴするという演出。その数、40人!参りました。多くの人たちが労を惜しまず、大溝シェフのために尽力しているのが伝わってきて、ぼくは感動しました。それと同時に、ぼくは自省せざるを得なかった。大溝シェフが、かくも広範な人脈を築くに至るまでの間、ぼくは一体なにをしてきたのか。

 自分では懸命に生きてきたつもりです。でも、どれだけぼくは進歩したというのか。世にもてはやされて有頂天になった時期もあったけれど、その後凋落し、そこから抜け出そうと必死で努力してなんとかここまで来たけれど、その間、ぼくはどれだけ成長したというのか。

 桜の花咲く頃に、不安を抱え、途方にくれながらもとりあえずスタートして以来、ぼくはどれだけの距離を走破することができたのだろうか。

 何もあの頃とは変わっていないような気がします。でも、着実に時間は過ぎてきました。件のガールフレンドは大学卒業後、郷里に戻って英語の教師になったそうです。そして、いまでも大溝シェフとは連絡を取り合っているようで、「彼女、定年やって言うてたわ。」とシェフから聞きました。もうそんな年になったのかと大いに驚きましたが、考えたら当たり前です。来月、ぼく自身が62歳になるのですから。

 大盛況のパーティーの中にいて、ぼくは暗澹たる気持ちになりました。自分に残された時間は、もう多くはない。でも、お開きになる前の大溝シェフのスピーチを聞いて、ぼくは思い直しました。シェフは声高らかに宣言していました。「力の続く限り頑張ります。」。そうか、それなら、その弟子たる自分もやらねばならない。今まさにスタートラインに立ったつもりで、もう一度走りだそう。

 「ボルドー」の近くにある、常照寺の桜もやがて咲き始めるでしょう。長年忘れていたその光景を、ぼくは今思いだしています。そして、いつまでも忘れないで、唐突に始まった料理人人生を、悔いの残らないよう全うしようと思います。


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# by chefmessage | 2016-03-03 12:13

新年の抱負 2016

 毎年1月1日は、家族とともにぼくの両親に会いに行きます。今年は長女がアルバイトでいないので、長男と次女、そしてぼくたち夫婦の4人での訪問になりました。

 父はもうすぐ90歳、そして母は83歳になります。ふたりでマンション暮らしをしています。母は、もうずいぶん前から認知症で、その世話を父がする、いわゆる老老介護の世帯です。

 玄関を入ると、父が出迎えてくれます。そして、まず写真部屋にぼくたちを誘います。そこには孫たちの写真がいっぱい張り付けてある。そして、子供たちに自分たちの近況を話し、子供たちからも聞く、これが毎年の恒例行事です。

 話が途切れたときに、父がぼくに目配せをして、一枚の文書を差し出しました。それは、かかりつけの医師による母の病状の説明で、肺がん末期により余命6か月から1年、と書かれてある。そして、在宅ケアとして、痛みの緩和、という項目に線が引かれてありました。

 母は他人と会うことをいやがります。そして、不機嫌になります。それは、相手のことが認識できないから不安になるのと、そんな自分にイライラするからなのでしょうが、今年は椅子に座ったままで随分おとなしかった。それが、薬のせいだと父はぼくに伝えたかったのでしょう。

 コタツのある居間に移って、みんなで持参したお節を食べました。母は、椅子に座ったまま動きません。父はあいかわらずおしゃべりです。孫相手に、本当に楽しそうです。そんな様子を、母は時々見つめている。

 食事のあとは、うちの家族で初詣。足がすこし不自由な父が、戻ってくるのか、と尋ねます。うん、また帰ってくるから。それなら、セブンイレブンでコーヒーを買ってきてくれ、と言います。お母さんと半分ずつ飲むから。

 シャッターの閉まった商店街を通り抜けて近所の神社に到着。それぞれが願掛けをし、古いお守りを新しいものと変え、おみくじを引いて見せ合います。毎年の出来事。でも、来年、母はいないかもしれないと思うと、突然、涙がこぼれそうになる。

 両親のマンションに戻る途中にあるコンビニで全員のコーヒーを買って部屋に戻ると、母が居間に移動してコタツに足を入れている。父が買い置きのお菓子を出してきて、みんなでそれを食べながら談笑。次女が父に、子供のなかで一番親の言いつけを守らなかったのは誰?と聞きます。ぼくは男ばかり4人兄弟のうちの次男です。父が、子供の前では言いにくいけど、と言いながら、ぼくの方を見ます。あ、やっぱり、とうちの次女。子供があんまり言うこと聞かんときは押し入れに放り込んで、謝るまで出してやらんようにしてたんやけど、あんたのお父さんだけは絶対謝らんかった。しばらくして、あんまり静かやからそっと覗いたら、なんとただしくんは寝とった!

 そんな話の合間に母が、コタツのうえのお菓子を指して、それ何?とぼくの息子に尋ねます。お菓子だよ、食べる?うん。包装紙を外して手渡すと、おいしそうに食べます。

 そういえば、こないだケアセンターの人が、お父さん大変だろうから1週間お母さん預かりましょうか、と言うてくれたので任せることにしたんや、と父が話します。でもな、気になって預けた次の日に見にいったら、お母さん車いすに乗せられて、おおきなおむつでぐるぐる巻きにされて、ポツンと置き去りにされて、前の台に缶詰開けたもん置いてあって、それが不憫でな、その晩ぼくは寝れなんだ。だから朝一番で、家内に会いたい人が来るからとウソついてな、ホンマの事言うて気を悪くされても困るし適当なこと言うて帰らしてもろたんや。

 お父さん本当にたいへんですね、わたしも忙しいから時間がなかなか取れないけど、どうしようもないときには言ってくださいね、とぼくの奥さんが言うと、いやいや、4人の子供生んで育ててくれた恩があるから、ぼくはできる限り自分で面倒みてやろうと思うてんのや、と父がいいます。

 いまや好々爺となりはてたぼくの父ですが、この人は本当に厳しい父であり夫だった。初めて作り上げたプラモデルを、こんなもの作るヒマがあったら勉強しろと、ハンマーで粉々にされたことがあった。そうっと買ってきた漫画を破り捨てられたこともあった。母に対して手を挙げたこともありました。だから、ぼくはこの父をこころから憎んだこともありました。ぼくたち兄弟も母も、この父のために幸せになれないと思った。

 でも今、母は幸せだと思う。

 

 夜は、母に父が添い寝をするのだそうです。そして、目が覚めたら母の寝息を確かめ、それを聞いて、安心してまた眠るのだと。

 ぼくは、自分がこの年齢になってやっと、父の本質を理解することができたように思います。本当は、誰よりも家族を愛する人だったんだ。そして、ぼくは父を今、こころから尊敬しています。伝わる方法があるなら伝えたい。ぼくは、あなたの息子として生まれたことを誇りに思っていると。

 帰り際に、ぼくの家族全員が父と握手をするのも恒例の行事です。母は、いつものように知らん顔をしている。そうして別れを告げてエレベーターに向かっていると、ちょっと待った、と父が声をかけてきます。振り返ると、母がいる。なんやお母さんが急に立ち上がって見送るって言うんや。

 母が手を振っている。そして、またね、と言う。また、があるかどうかわからないのに。

 帰宅して一人になったとき、涙があふれてとまらなかった。そして、ぼくにできることは何なのかと考えました。ぼくは両親に、なにも恩返しができなかったひたすら親不孝な息子だった。でも、もしできることがあるとするなら、それはただ一つ。ぼくの子供たちが、ぼくの子供であることを誇りに思ってくれるような父親になること。ぼくは両親から伝えられたことを彼らに伝えるのが役目だから。そしてその役目を喜んで果たしたいと思う。

 これがぼくの今年の抱負です。言葉にするなら、それは「勇気」です。

 

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# by chefmessage | 2016-01-04 19:09