ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


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熱帯魚の飼い方

 よくある質問に、「子供の頃は何になりたかったですか」というのがありますが、ぼくの場合は、「水族館の館長」です。そう答えると、だいたい不思議そうな顔をされるのですが、ぼくは水族館で魚を見ることが大好きな子供でした。だから、小学生から中学生の頃は、金魚や熱帯魚を飼っていました。でも、どれも長生きしてくれない。すぐに死んでしまう。それでも、飽きもせず色んな種類を飼いつづけていたのですが、やがて水槽は空になり、その水槽もなくなりました。それがどういうわけか、また飼いたくなってきた。でも、以前のように次々死んでしまうのもいやだから、予習をしようと考えて、ネットで熱帯魚の飼い方、まず初心者向けのサイトから読み始めたのです。すると、熱帯魚飼育の世界も、実は随分科学的になっていることに気がつきました。いや、本当は前からそうだったのかもしれないけれど、ネットのない時代には、それを理解するには本を購読するか、あるいはベテラン、例えば古くからの熱帯魚屋のオヤジとかと懇意になって、教えを乞うしかなかった。小学生や中学生には縁遠い世界だったのです。でも、いまや携帯電話があれば実に多くの情報が手に入る。そして、ぼくは確信を持つに至ったのです。今なら、熱帯魚を長生きさせることができる。
 でもぼくの場合、手間ヒマ惜しんで、というのは時間的に無理です。だから大きい水槽はやめました。魚種も、マニアックなものは難しい。熱帯魚の王様、といわれているのはディスカスという魚で、これを飼ってみたかったのですが、到底歯がたちません。例えば、こうです。
「ディスカスの産地であるネグロ川は、導電率が8us/cm、ph5.0、GH1以下、KH1以下、という軟水で、繁殖を狙うならこのようなデータを元に環境を整えるようにする。」。
 できるはずがないやん、と思いません?

 熱帯魚飼育の第一歩は、水をととのえることです。まず、水道水の塩素(カルキ)を抜く。これは薬品で簡単にできます。次に、温度を調整する(25~26度くらい)。それから、水中のバクテリアを増やす。魚の排泄物や餌の食べ残し、枯れた水草の葉などが水槽のなかでアンモニアを発生し、これが毒素となるのですが、それを亜硝酸へ、さらに硝酸に変えて毒素を弱める力がバクテリアにはあります。逆にいうと、バクテリアなどの微生物すら住めない水では魚は生きていけないのです。このバクテリアは基本、ろ過で増やせます。急ぐ場合はバクテリア剤を入れます。そして、次のステップ。飼いたい魚の住んでいた場所に近い水にする。軟水か硬水か。PHはどのくらいか。これは、ネットで簡単に調べてデータを手に入れることができるし、対処法もむずかしくありません。
 どうですか、結構、科学だと思いません?でも、魚種によってはかなり気をつかわないといけないものもあり、先のディスカスなどはその筆頭なのですが、それゆえに、マニアの世界はとことん深くなっていくのです。
 ぼくが子供のころのディスカスといえば、茶色にうっすらと黒の縦じま、上下にブルーの波型が入っているものがほとんどで、改良型のブルーというかターコイズというのがめずらしかったくらいでしたが、現在のディスカスには数え切れないくらいの改良バージョンがあります。白、赤、青、黄色にキャリコ、そのどれもが写真でみると素晴らしく美しい。血統も、本家あり分家あり、出身もアジア、ドイツと多岐におよびます。その改良にどれほどの時間が費やされ、どれだけの心血が注がれたのか想像するのも恐ろしい世界なのですが、でも、もっともマニアックとされているのは、じつはワイルドと呼ばれている原種なのです。現地ですくってきたそのもの。
 そこまで考えてきたとき、ぼくはふと思いました。これって、料理の世界とそっくりやん。
 まず、料理は科学である、ということが明らかになりました。そこから、多くのことが理論的に解明され、それに基づいて、さまざまな技法が再構築、あるいは発見されました。それがネットで世界中に発信されるようになり、それぞれの国の固有の文化と結合し、いまや百花繚乱となっている。でも、情報過多による混乱も多くみられるようになってきた。料理人が、自己不信に陥り、将来の展望を見出しにくくなっている。そのようなときに原種が再び注目を集めるようになる、ということになれば話は大団円になるのですが、料理の世界はやはり熱帯魚のような趣味の世界と同一にはなりません。なにしろ歴史が桁違いに長い、それに、文化として生活にしっかりと根をおろしている。また、流行の規模が全世界的です。それだけに混沌もまた桁外れに大きいとは思うのですが、ただ、ひとつの指針として、原種はなくなってはならないと思うのです。原種、といっても、そのままではありません。その面影を未だ残しているもの、という程度ですが、でも、それはなくなってはならないと思うのです。
 原種があるから、その改良型は評価の対象となりうるのではないか。
 厨房の火の前に立って、ひたすら完璧をめざそうとする姿勢。自分が描き、形として生み出す第一歩を踏み出し、いくつかの工程を人の手を経ても、最終的に自分が完結させるスタイル、それはすでに時代遅れであり、できあがるものはあまりに簡潔すぎるかもしれない。努力に比べて、その成果はあまりに小さなものかもしれないけれど、そして、自己満足とそしられることもあるかもしれないけれど、自分に恥じない毎日を生きること。
 みんな、自分好みのディスカスを選べばよいのです。それが個性であり、優劣なんてないように思います。ぼくは、原種を選びたい、というか、それが性に合っているということなのでしょう。

 仕事が終わって帰宅すると、まず熱帯魚の水槽を覗き込む毎日です。水槽は2個あって、一つには魚が入っていません。やっと水ができあがりつつあるところ。来週の月曜日に注文した魚が届きます。ペルヴィカクロミス・タエニアータス・ナイジェリアレッド。何故か、熱帯魚の名前は覚えることができます。料理名はしょっちゅう忘れるのに。やっぱり、水族館の館長になったほうがよかったのかな、と、その一瞬だけ思います。
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# by chefmessage | 2015-12-01 20:51

怒りについて

 
穏やかな夜に身を任せるな。
老いても怒りを燃やせ、終わりゆく日に。
怒れ、怒れ、消えゆく光に。
   ディラン・トマス

 半年ほど前から体調がすぐれず、これはなんだかおかしいと思っていたのです。とにかく体が重い。何をするのも億劫で面倒くさい。仕事どころか、朝起きて、顔を洗うことすら気合を入れないとできない。疲れきっている、という感じ。
 それに、気分もよくない。悪いほうにばかり気がいきます。とにかく気が滅入る、楽しい気分になれない。まったくおしゃれに気を使えないし、物欲もなくなっている。なにより、美しい女性がそばにいてもときめかない!これは病気やな、と判断して、主治医のS先生のところに行きました。
 S先生は内科医で、本来は専門外だけど、それは多分、更年期障害だろうとおっしゃる。男にもあるんですか?と尋ねると、加齢による著しい体力の低下にストレスが重なると、鬱と同じ症状になることがある、多分それでしょう、という診断。では、どうすればよいのか。とにかく、安定剤と抗鬱剤を飲んでみてください、それで様子を見ましょう、ということになりました。
 たしかに薬を飲むと、なにやら足取りが軽くなった感じです。なんとか日常生活には差し支えなくなった。そして1週間で、処方された薬はなくなりました。そのとき、不安が芽生えました。薬を飲まないと、また元に戻るのではないか。でも、それに頼るのは危険ではないか。

 もとより、意志の強い人間ではありません。本来は怠惰で誘惑に弱い人間です。そこで、一計を案じました。なにか無理やりにでも面白いことをしよう。周囲が驚いて、それで自分も楽しくなるようなこと。とにかく雰囲気を変えて、気分が高揚すること。薬に頼らず、自力で浮上しようと試みました。では、なにをすればいいのか?手っ取り早く出来ることは何か?
 そや、髪の色を変えよう。そういえば、近くの美容院でネイルを専門にしてる女の子がいきなり金髪にして周囲を驚かせてたから、それをしよう。
 その美容院のオーナーに相談に行きました。色んな話を聞いて、その道のプロというのはどの世界でもよく勉強しているな、と感心したのですが、その翌日に予約を入れたときの、そのオーナーの反応からして、すでに面白かった。「ミチノさん、本当にするんですか?」。
 ブリーチを連続2回、4時間以上かけてぼくの金髪は完成しました。仕上げを施しているときに、そのオーナーが言いました。「ぼくがブリーチした人の中で、一番の高齢はミチノさんです。」。そして、「ミチノさん、マジで怖いですよ。」。
 でも、その金髪の威力で、ぼくはすこし浮上しました。それでも、本調子ではない。もとより、元に戻るはずはないのですが。なにしろ、本来ならば定年退職の年齢なのですから。
 
 そんな時、一本の映画に出会いました。そして、大いに感動しました。それは、最新のバットマン三部作の監督だった、クリストファー・ノーランの「インターステラー」。
 まさに滅ぼうとする地球に替わって、人類が移住できる惑星を探索する宇宙飛行士の物語ですが、その計画の中心人物の教授がいつも呟く詩が、冒頭のディラン・トマスの「穏やかな夜に身を任せるな」です。不確定要素の多い計画、でもそれに賭けなければ確実に人類は滅びる、だから、あきらめるな、という意味をこめて「怒れ」と言う。
 実際、ディラン・トマスは、病床にあって今まさに逝こうとしている父親に向けてこの詩を書いたそうなのですが、その文言は最初、ぼくの耳には違和感を持って伝わりました。滅びるときに、何故怒らねばならないのか。むしろ、穏やかに、粛々と受け入れるべきではないのか。
 年老いたものは後進に道を譲り、静かに退場していくべきだ。だから、感情の起伏を抑え、物分かりよくあらねばならない、ぼくはそういうものだと思っていました。一度は表舞台に立ったのだから、もういいだろう、と。
 でも、あきらめるな、と、この詩は、この映画は訴えてきました。最後の最後まで全力を尽くせ、と。

 この「怒り」は、他者に対する直接的な暴力、あるいは何らかの攻撃を指しているのではありません。もっと純粋で基本的な感情そのもの、端的に表すならば、不条理への無意識な抵抗、ということになるのでしょうか。その不条理とは、滅びる、ということ。

 ぼく達の業界では、オーナーシェフが店を10年維持できたら奇跡、30年続けることができたら、それは伝説、になるそうです。それなら、ぼくはあと4年で伝説の男になります。でも、実体は、そんなかっこいいものではありません。あとからあとから押し寄せてくる波に抗して、立っているのが精一杯の有様です。押し返すにも加齢がそれを妨げるから、そして、それはますます苛烈になっていくから、更年期障害も起こって当然でしょう。やがて、ぼくは力尽きて滅び、忘れ去られていく。長い間かけて築き上げてきた技術や理論、そして実践の歴史は、いとも簡単に消え去っていくでしょう。そのことを、ぼくは悄然と受け入れなければならないのか。
 あるいは、
 愛する家族一人ひとりをいつまでも見守っていたいのに、彼や彼女たちが大人になり、それぞれの人生を歩む、それにいつまでも寄り添っていたいのに、ひとりで逝かなければならない、そのことをこころ静かに受け入れなければならないのか、穏やかな夜に身を委ねる準備をしなければならないのか。
 否!と、ぼくのこころは叫びます。ぼくは、最後の最後まで抵抗するべきではないのか。そこに考えが至ったとき、当初に感じた「怒り」に対する感情的な違和感はなくなり、むしろ肯定的に捉えていることに気付きました。
 そのようなことを「インターステラー」とディラン・トマスの詩から感じ取ったぼくは、どうやら、更年期障害の呪縛から解放されつつあるようです。でも、ぼくはまだ燃え尽きようとは思っていません。それはまだ早すぎる。なぜなら、ぼくにはまだやれることがあると思うから。主治医のS先生も、こう言ってました。「遣り残したことがあると思っているうちは、人はなかなか死にません。」。
 これから、ぼくは完成へと向かいます。たどり着かなくても、最後までぼくは「怒り」を抱いて、全力で走りたいと思います。

盲目の目が流星のように燃えたち 明るくありえたことを
見えなくなりつつある目で見る いまわの際の善良な人たちよ
死に絶え行く光に向かって
憤怒せよ 憤怒せよ
       Dylan Thomas 「Do Not Go Gentle Into That Good Night」 
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# by chefmessage | 2015-09-23 20:19
 ちょっとでも時間があれば、本を読みたい、ぼくはそういう人間で、とくにフィクションというか小説が好みです。これは多分、高校生のころからずっと続く習慣なのですが、それでは、これまでで一番感銘を受けた、あるいは好きな作家は誰かというと、それは開高健にとどめをさします。彼の「日本三文オペラ」と「夏の闇」は、もし余命宣告を受けたら必ず再読したいと思っている作品です。
その開高健が、YouTubeの動画でこんなことを語っています。「筆舌につくし難いとか、声を呑んだとか、言葉を忘れたとか、こういうことを書いている人がいるんだけれども、これは敗北だな。物書きならば、何がなんでもこねあげて、表現しなければならないと思う。」。この言葉を耳にしたとき、ぼくは作家開高の凄みを感じました。矜持というような生易しいものではない。それはまさしく覚悟なんだ、と。その覚悟から立ち昇ってきたのが、あの瑞々しい文章の連なりなのだと思うと、ぼくはこの作家に畏敬の念すら覚えます。
ぼくの仕事は文学のように、社会に影響を与えるなんてことはないし、ときに人の人生観にまで深く関わるといったようなだいそれたものでは全くない、それどころか、一瞬に消えてなくなる実にたよりないものでしかないけれども、それでも、覚悟といったものは必要なのではないかと、時々考えます。
 とはいっても、すべての文学が影響力を持つのではなく、とくにすぐれたものだけがその力を伝播させうるように、料理のなかでも傑出したものだけが、人の心に記憶として残り続けることができるのではないか。そのためには、「なにがなんでもこねあげて表現しなければならない」という覚悟、言い換えるならば、それを成し得なければ自分の人生に意味がないとまで思いつめる覚悟がなければならないのではないか、と思うのです。
たかが料理ごときで、そんなに思いつめることはないとは思うのですが、これは多分に持って産まれた性分でもあるのでしょう。人に楽しんでもらうのが仕事なんだから、自分も楽しんでやらないとだめですよ、という意見も否定はしません。それに、食べ手に難しいことを要求しようとも思っていません。でも、なにかが違う、なにか力強いものが感じられる、そういうものにはやはり覚悟があるのではないでしょうか。
 ただ、これは料理に関してのことなのですが、その覚悟は何を目指してのものなのかは、作る人間によって異なると考えられます。
 例えば、今まで誰もやったことのないもの、なしえなかったことを目指すとするならば、それは何なのか。皿の上の料理の美しさなのか、素材の使い方、あるいは変化のさせ方なのか、組み合わせか、あるいは味そのものか。
残念なことに、上記のすべてを包括させることは不可能です。いくつかをまとめることはできるでしょう。例えば、美しさと素材の使い方、変化、組み合わせ、これらに関しては、もちろん優れた技能と卓越した理論、そしてそれなりの才能は必要だけれども、できないことはない。でも、そこに味の追求まで入れようとすると、これはできません。なぜなら、要素が多すぎてまとまらないからです。味というものはそれ自体が多重構造になっているから、パーツが多くなれば計算しきれなくなるのです。すなわち、「何を食べたかわからない」状態になってしまいます。だから、味を追求しようとするならば必然、パーツや余分な飾りを削っていくことになります。簡単に言うと、装飾の多いもので美味しいものはつくれないとぼく自身は判断しています。

 フランス料理に関して述べるならば、現在の状況は二分化しています。これまでにないような素材の使い方や技法で自分の感性を表現する、あるいは、見た目の奇抜さや美しさで相手に訴えかけるという云わば現代派、もう一方は味に焦点をしぼって素材を吟味し、方向を明らかにして相手の気持ちを着地させる古典派。古典と表すとなにやら古臭い感じが否めませんが、保守とか主流とかもちょっと違うし、それ以外に言葉が見当らないので、現代と比較しやすいこともあって、そういうことにしておきます。もちろん、その両方の美点を兼ね備えた中道派もいますが、話をすすめていくうえで難しくなるので、今は脇に置くとして。
 さて、いわゆる世間の耳目を集めるのは、いまのところ、圧倒的に現代派です。ミシュランガイドでも食べログでも、あるいはそのほかのマスメディアでも、そしてそれらを目にしたグルメな方々の間でも必ず話題になる。そうなると世の常で、みんながそちらに向かいます。お店もお客様も。でも、それでいいのだろうかと、ぼくは時々、疑問に感じます。
 大阪でこの現代派の代表と目されるお店のシェフが、こんなことを言ってたと聞いたことがあります。「今日はお客様全員が日本人じゃなかった、こんな店をぼくはやりたかったんだ。」。
 この言葉には少々解説が必要かもしれません。何故、彼はそのような状況を喜んだのか。
 世界中のレストランをランキングする組織があります。「世界のベストレストラン50」とかいうフレーズがありますが、まさしくそれです。いわゆる、世界で一番予約が取りにくいレストランとかは、これで決まります。そして、そのランキングを決める審査員は日本人だけではありません。すなわち、客の外人比率が高くなると審査員の含まれる可能性も大になるのです。それと同時に、世界を相手にすると、来客層が圧倒的に広がるということもあります。地域密着型というモデルケースはここにはありません。常連客を獲得するとか、リピーターを増やすとかいう考え方も従来と比べると希薄になります。市場を世界に求める、という壮大な目標があるばかりです。それに近づくために必要なものは自身の、あるいは自店のブランド化でしょう。そのためには、とにかく目だたなければならない、マスコミに取り上げられ続けなければならない。そして、最後の目標は?
 たとえば、ルイ・ヴィトンのバッグの原価を考えてそれを買う人がいないように、料金設定が高くてもお客様が次々に来てくださる店にすること。そうすれば余剰金が産まれ、店に、人に、食器にふんだんに投資することができる。そして、よりグレードの高いポジションを目指すことができる。
 それは決して間違いではないとぼくは思います。でも、間違いではないものが必ずしも正しいわけではない、とも思います。なぜなら、それは流行だからです。そして流行は絶えず変化するものだから。「世界のベストレストラン50」がいつまでも同じなら、それには何の価値もありません。そして、料理は品物と違って残らないものだから、変化のスピードは速い。めまぐるしく変化しているのです。
 ぼく自身、なんども書いているように、その変化の中に身を置いていたことがあります。そして、凋落していきました。それがどれだけ辛いことであるのか、ぼくは身をもって教えられました。絶頂の5年、なんとか持ちこたえた5年。そのあとに続く長い長い失意の日々。そして、そこから這い上がろうとする努力、気力を保ち続けることの難しさ。
 28歳で芥川賞を受賞した開高健のことを思い出します。その後の十数年は社会的には絶頂期だったでしょう。けれども、やがて書けなくなる。そして、彼は世界中を釣りして回るようになります。それは豪放にみえるけれども、どこか痛々しい。追い詰められたものが救いを求めているように、ぼくには見受けられました。あるいは、張り詰めたものから目をそらすかのような。
 見つめれば見つめるほど、形がみえなくなるもの、世界はそのようなものかもしれません。でも、それを言葉にして表現しなければならないとすれば、その苦しみはまさしく筆舌に尽くし難いものでしょう。でも、それは許されないとするなら。

 開高健は58歳で病没しました。ぼくは、彼より3歳年上になりました。自店をオープンさせたとき、彼に来てもらいたくて、サントリーの方に中継ぎを頼もうかと迷ったくらいなのですが、本当は、期待すると同時に怖れていました。でも、オープンして1年経つかたたないうちに亡くなってしまいました。正直、ぼくはほっとしました。でも、釣りの話は聞きたかったな。
 彼が病いに倒れなかったら、未完になってしまった「闇の三部作」最終編、「花終る闇」は名作となりえたのか?ぼくが読んだかぎりにおいては、不朽の名作になったであろう感触をつかむことはできなかったのですが、ただ、ぼくは開高健という人物と著作から、本当に多くのことを学んだと思っています。なかでも一番大きいものは、前述の通り、「覚悟」でしょうか。
 話を料理のことに戻すならば、ぼくは現代派も古典派も否定しません。ただ、流行から外れた今は、再びどちらの世界にも戻ろうとは思っていないし、その気力、体力はともに残っていません。では、ぼくはこの先、どこへ向かうのか。
 できればぼくの仕事は、流行を突き抜けたものでありたいと思っています。「新しい天体」となりうるもの。だれもが辿りつけなかった「味」の妙味を示すこと。もちろん時代の空気は取り込む努力は続けようと思っています。でも、自分でしかなしえない仕事、この世に生まれたことを恥じない仕事、辿りつけなくてもそれが「勇気」として、押し付けがましくなく人に伝わる仕事であること。それがぼくの「覚悟」です。
 開高健の遺志を継ぐ、なんてだいそれたことだと思うけれど、ぼくは最後まで「何がなんでもこねあげて、表現しなければならない」、そんな人生を歩みたい。ただ時には、眠らない河に立ち尽くして、未だ遭遇が叶わないメーター級のイトウを釣り上げる夢も見たいと思ってはいます。眠れない夜には耳をすませて河の音を探し、山の空気を求めます。
 息は吸うだけでは死んでしまう。吐くこともまた生きる術だから。そうしてぼくは光と闇のあいだを手探りしながら、明日へと希望を繋ぎ続けています。多分、それが生きるということだと思うから。
    明日、世界が滅びるとしても
    今日、わたしはリンゴの木を植える。
           マルティン・ルター(不詳)
 
 
 
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# by chefmessage | 2015-08-14 17:38
 北海道シリーズ第二弾は、恒例の釣り日誌です。

 前述のメランジェ20周年パーティーのあと、二次会にも誘われて、そこで午前1時半までにぎやかに過ごし、いったんホテルに戻って用意して、玄関に降りて迎えの車を待ちました。5月も終わろうというのに、夜中の旭川、吐く息が白いです。フリースのジャケットを荷物に入れてくるべきだった、と後悔していると、やってきました怪魚ハンターS君の車。今回、河原君は続く三次会出席のために参加できず、彼と二人の釣行。
 このS君、ぼくの知る限りでは北海道で1番の釣師、それもイトウ専門。これまでの釣果も半端ではありません。その結果、例えは悪いのですが、指名手配の犯人みたいに追いかけられています。彼の車がどこに止まっているかでポイントを探ろうとする釣師がたくさんいるという話。
 そもそも釣師にとって釣りのポイントは秘中の秘、ましてや相手は幻の魚イトウです。知りたいという気持ちはわからないでもありません。本来なら、一年に一度、それも一日しか釣りにこれないぼくがそれを知る手立てはないのですが、このS君がぼくと同業者で、なおかつ河原君に私淑しているということで、その手の内を明かしてくれるという僥倖に恵まれたのです。

 今日は残念ながら大潮の潮どまりで、イトウ釣りには最悪です、と開口一番のご託宣。この時期、大物は餌が豊富な河口付近にいるらしいのですが、大潮のときは海水が川に上ってくるので、それを嫌がって魚は散るらしい。ましてや、潮どまりになると魚の活性が低下するので、餌を追っかけないのだとか。いきなり、がっくり。そのうえ、ともうひとつダメ押し。いつもの川は濁って釣りになりません。なんでやねん、何日も雨、降ってないやん、と言うと、今は田植えの時期で、水田の水が大量に流れこむため川が濁るらしい。いちいちごもっとも。やっぱり優れた技には科学的根拠とデータがあるんだ、と納得はするけれども、なにやら腹立たしい。
 「でも、必ずどこかに魚はいますから。」という君は、やはり名人、その心意気や貴し。

 ということで、車はどんどん北へ向かって走ります。S君、しょっちゅう車を止めてはスマホを操作してうんうん言っている。色んなところの潮廻りの時間帯や、潮位、水位を調べ、自分の頭にインプットされているデータと示し合わせて、最適なポイントを探している模様。そして、よし、とばかりにまた車は走り出し。
 午前3時に暗かった空が白みはじめ、3時半には夜が明けます。同じ日本とは思えない。やがて、去年も行った第一ポイントに到着。あまりの寒さにダウンジャケットを拝借して、本日の釣り開始。でも、ねばっても、魚はいない。
 イトウ釣りの道具はすべてが大きく太いので、ほかの魚がまちがって釣れることはありません。だから、魚がいないと判断すると、早速、次のポイントへ向かいます。でも、次のポイントにはタッチの差で他の釣師が入ってしまい、断念。車に乗って、次のポイントに向かいます。そこでも、やっぱりダメ。思い切って考えを切り替えましょう、ということで、潮に影響されにくい上流へ向かう途中、だめもとでやってみますか、とS君が車を止めます。ちょっと歩きますけどいいですか。おお、普段運動不足やから望むところや、と道具かついで彼のあとを歩きます。
 打ち捨てられたサイロ?の向こうに、多分牧草地だった平野が広がっています。そして、タンポポの黄色い花が延々と、見渡すかぎり咲き乱れています。その中を歩く釣師ふたり。空は青く、雲は流れ、涼しい風が吹き抜けていきます。歩いているだけで気分がいいのですが、やがて疲れて、足取りも重くなり始めたころ、川岸の葦の切れ目に到着。そこだけがぽっかり開いているので、ポイントだとわかります。で、早速釣り再開。でも、やっぱり釣れない。キャスティングして、置き竿をして座りこみます。久しぶりに徹夜ややし、ああ、しんど。釣れへんけど、まあいいか、とウトウトしかけたら、右手に置きっ放しの竿先が右に二回、大きく引っ張られています。おっ、と思って立ち上がって竿をつかもうとしたら、ぼくよりも竿のそばにいたS君がすばやく手にして渡してくれました。それをつかんで大きくあおったとき、ガン、と逆に引っ張られ、バシャッと大きな水音がして、心臓がドキンと脈打ちます。待ち焦がれたアタリです!
 リールからラインがジージー音をたてて出ていきます。両手でこらえているぼくに代わってS君がドラグ(リールの糸の出を調節するネジ)を締めてくれます。ここであせってはいけない。イトウは口が大きいので、ラインに緩みがでると針がはずれることがあります。竿先を立てて、こらえて、巻いて。イトウが水面に顔を出して、頭を左右にふります。それどころか、巨体にもかかわらず、水面をジャンプします。さすがにサケ科だけあってなかなかのファイト、それでもこらえて巻いて、徐々に岸に寄せて。
 大きいので、抜き上げることはできません。S君がタモを入れて引っ張りあげてくれました。サイズは1メーターに
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もう少しの95センチ。記念撮影をして、川にもって下りて、タモから魚を出します。さすがにくたびれたのか、腹が上になっている。だから右手で尾の付け根を持って、左手でまっすぐになるよう魚体を支えて、時々エラに向けて水を送ってやる。待つことしばし、左手を離しても大丈夫になったら、尾をつかんでいる右手で、そっと川に押し戻す。ゆらゆらと体をゆすりながら、アイヌの人たちが川の神様と呼ぶ魚は棲家に帰っていきました。

 結局その後、二回ポイントを移りましたが、釣れたのは1匹だけ。でも、ふたりで、よかったよかった、安心した、と語り合い、ほどよい疲れのうちに納竿。河原君と打ち上げ予定の、旭川の「こばちゃん寿司」に向かって車を走らせたのでした。

 帰りの車中で、S君が夢を語ります。いつか130センチ、釣りたいです。そんなデカいのいてるん?いや、どこかにきっと140くらいのがいるはずなんです。そんなだと、40キロくらいあります。それは無理としても、せめて・・・。
 オレは、年に二回は来たいな。それで、目指すところはメーター越えやな。いや、いつか、そう、子供達が全員社会人になって、オレが自由になったら、そのときにはこころおきなく釣り三昧、でも、そのときは本当に来るのかな?
 それまで体力は持つのか、気力は保てるのか。それどころか、この命は永らえているのか、だから、
 今日一日の出来事をこころにとめて、一面のタンポポ、青い空、白い雲、吹き渡る風、そして川の神様の力強さを忘れないで、毎日を生きよう。誰にも恥じることのない歩みを続けよう。

 翌朝、ぼくはホテルを出て帰阪の途につきました。そして、夜にはもう自分の店で仕事をしていました。今回の北海道の旅は、得るものの多い2日間でした。河原君、怪魚ハンターS君、そして旭川のみなさん、ありがとうございました。次は9月に行きたいと思っています。そして、そのときには、ぼくの料理を食べていただきます。それが、これまでで最高のぼくの料理であるよう、頑張りたいと思います。また会いましょう、お元気で。
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# by chefmessage | 2015-06-04 18:50

不肖の師匠

 先日、北海道の旭川で、かつてぼくの豊中の店で一緒に働いたことのある河原正典君のパーティーがありました。河原君は、旭川で20年前に「ル ビストロ メランジェ」を開店させて、2度移転し現在にいたるのですが、その通算20年という節目を祝おうと地元の仲間達が料理やワインを持ち寄り、大勢のお客様も集まって盛大に開催されたのです。
 彼はぼくの還暦パーティーのときにわざわざ来てくれたから、今度はぼくが行かないといけないとマダムや従業員達を説得し、ぼくは営業日にもかかわらず関西空港に向かい、初めてピーチの飛行機に搭乗しました。乗って驚いたのですが、ピーチの飛行機、とにかく座席が狭い。そのうえ隣の男性、やたら恰幅がいい。それだけならまだしも、前席の青年が飛行中、しっかりシートをリクライニングさせるものだから、ぼくは身動きとれません。自分も前席同様にシートを倒せば少しはその状態が緩和されるのだろうけれど、後席の人のことを考えるとやっぱりできないな、そうするとその後ろその後ろ、ドミノ倒し状態になるのではないか、そう想像してぼくは我慢しました。だから、新千歳から旭川に向かうJRの特急に腰を落ち着けたとき、ぼくはまるでファーストクラスに搭乗したようにリラックスできたのでした。
 札幌を過ぎると、車窓を流れる景色はひたすら田園風景です。それをぼんやり眺めることがぼくはけっこう好きです。おだやかに時が過ぎ、やがて長いトンネルを抜けて、列車は旭川到着。自宅を出てから約8時間、やっぱり遠いなと一息ついて見渡すと、大雪山やそのまわりの山々にはまだしっかり雪が残っていて、旭川の気温は14度。大阪は29度やったのに。
 パーティーの始まる時間まで余裕があったので、ぼくは一度行きたかったお店に行くことにしました。駅から歩いてすぐみたいだし。
 「サロン ドール」というお菓子のお店で、イートインもできるみたい。FB友達の金美華さんがオーナー・パティシェールです。お店に着いて、早速、美華さんにご挨拶して、しっかり焼き色のついたタルトをいただきました。美華さん、クラシックなお菓子がお得意のようで、とてもおいしい。そうして小休止していると、「これからケーキを届けに行くから、シェフも一緒に車で行きませんか」と美華さんから声がかかって、ぼくは会場のホテルまで同乗させていただくことになりました。
 会場に入ると、何人か見知った顔が。これまで河原君とは数回、彼の店でコラボをしたことがあるので、そのとき手伝ってもらった連中、来てくださったお客様。河原君によく連れていってもらった「こばちゃん寿司」のこばちゃんのやさしそうな笑顔もぼくを迎えてくれて、うれしくなってしまいます。そうして、パーティーが始まりました。
 マイクを手に司会者がいきなりぼくの紹介を始めます。「河原シェフの師匠、大阪の道野シャフにご挨拶をいただきます」。これは想定内だったので、ぼくは河原君との出会いから話始めました。
 それにしても、出席者全員の目線がまっすぐなことに少したじろぎます。あの河原シェフの師匠、という熱いまなざし。こういうの、実はぼくはけっこう苦手です。

 これはぼくが常々言っていることなのですが、ぼく自身は、弟子などいないと思っているし、だから、師匠と呼ばれたいとも思っていません。これまで沢山の若い人たちと働いてきたけれど、ぼくは彼等を指導したこともないし、ましてや育てようと努力したこともありません。知人の、三重県伊勢市にあるレストラン「ボン ヴィヴァン」のオーナーシェフ河瀬毅さんは、従業員の育成に実に熱心な方で、チーズやワインの勉強会を営業終了後なさったりして、素晴らしい人格者だとぼくは敬服しきりなのですが、その河瀬さんと比べると、ぼくは残念ながら人格者というより性格破綻者に近いのではないかと思えたりします。
 ぼくは自分のことしか考えていない人間です。だから、ぼくは自分の仕事が楽になるために人を雇っています。そして、楽になった分、ぼくは次のステップに挑みます。雇った人が出来るようになればなるほどぼくは前に進めるから、ぼくは次第に要求をレベルアップさせて、高次元の仕事をその人に要求します。ぼくはずっとそうしてきただけなのです。
 だから、彼等または彼女たちが何かを学んだとするなら、それはその人たちが努力した結果であって、その人たちの業績に過ぎないとぼくは思っています。その業績を基に今現在活躍する人たちを、それではぼくはどう位置付けているか。一言で表すなら、それは「仲間」でしょう。ともに第一線で戦う「仲間」。そしてそういう「仲間」は、決して多くはありません。ともに働いた人たちのなかのほんの一握りです。だからぼくは、感謝の気持ちも込めて、その人たちをこう呼びたい。君達はぼくの「親友」であると。

 ぼく自身、30年近く前に旭川で働いたことがあります。レストランのシェフを指導するシェフとして一年間、滞在しました。でも、それ以上いたくなかった。ここにいると、ぼくは埋もれてしまうと思ったから。
 当時、ぼくが働いていたレストランの近くに、多分JAだったと思うのですが、大きな野菜の集配所がありました。ある日、そこにコーンの山が出来ていました。頂上まで何メートルもあるほど大きな山でした。ぼくは、そこの人に、これは何のためにこうしているのかと尋ねました。すると、その方はこう答えました。「燃やすんだ。」。そして、「欲しければ、いくらでももっていっていいよ。」。
 沢山出来すぎたから、価格調整のために処分するのだと言います。だから、ぼくは店からコンテナを持ってきて、それにいっぱいいただいて、それでコーンポタージュを作りました。ほどよく水分がぬけて甘みの凝縮したコーンで作ったポタージュは、ぼくがそれまで作ったどれよりもおいしかった。
 その数日後、ぼくは雇われている店のオーナーと、旭川で一番といわれているホテルでランチを食べました。そのとき出たコーンポタージュは缶詰をベースにしていた。そして、だれもが当然のようにそれを食べている。ああ、ここにぼくの居場所はないとぼくはそのとき思ったのです。
 その旭川に河原君が行くと言ったとき、当然ながらぼくは止めました。でも、行くと言い張ります。ま、すぐ帰ってくるやろ、とそのときぼくは思ったのです。でも、それから20数年、彼は旭川に留まりました。そして今、多くの料理人が彼のために馳せ参じて、彼のために盛大なパーティーを催している。沢山のお客様が彼に祝杯をあげている。
 もとより、開放的な土地柄ではありません。ぼく自身、それを身をもって体験しました。気候から風土から、大阪とはまるで違う、だから彼の努力を思うと頭が下がります。きっと、何度も帰りたいと思ったことでしょう。でも、彼はまだ旭川にいる。
 パーティーの途中で、ある女性に声をかけられました。まるで訴えかけるかのようにこう仰る。「道野シェフ、河原シェフを大阪に連れてかえらないでくださいね。河原シェフは旭川に必要な人なんです。」。ぼくは冗談めかして、こう答えました。「あんな大きいもの、手荷物で持ってかえれないから大丈夫です」。でも、ちょっと感動したな。

 ぼく達の仕事にはお手本はありません。どんなものを作っても構わない。ただ、それがまっとうなものでないと判断されたなら、その時点でそれは終わりです。次の手を飽くことなく出し続けることができるのか、それでもまだ走り続けたいのか。なんのために走るのか、いつも考えながら、それでもぼく達は走っている。だから、
 もう師匠も弟子もないのです。あいつが走っているから、おれも走る、そして、走る以上は背中は見せたくない。地元の人たちに、かくも愛されている河原君に多少の嫉妬も感じながら、ぼくは今回の北海道行きで多くを学び取りました。ミチノの一番弟子を自認する彼から多くを教えられたぼくは、だから不肖の師匠です。そして、なんだかとてもいい気分です。

 
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# by chefmessage | 2015-05-31 15:06