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by chefmessage
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和田さんのこと

  和田さんのこと
 シェ・ワダの和田さんの訃報を知らされた時、ぼくは意外と冷静でした。糖尿病が随分ひどいと耳にしていたから、病院で亡くなったと聞いても驚かなかった。ただ、看取る人もなく、ということについては胸が痛かったけれども、それも和田さんらしいのかもしれないと妙に納得する自分がいました。そしてそれで終わると思っていたのですが。
 いろんな思いが日を重ねるごとに湧き起こってくるのです。あんなこともあった、こんなこともあった。良いことも悪いことも。そして、悲しさや寂しさがどんどん大きくなっていって、ぼくはそのことを文章にしたくなった。でも、彼のことを書くのはとても難しい。

 細やかな思いやりを見せたかと思うと、理不尽な怒りをまともにぶつけてくることもある。感動的な言葉を発するときもあれば、相手を口汚く罵ることもある。手放しで称賛したかと思えば、徹底的に酷評することもある。愛情と非情が同居している。複雑で、どれが本当の姿なのかわからない。だから、和田さんのことをひたすら崇拝する人もいれば、二度と会いたくないという人もいる。ぼくが和田さんとの付き合いにずっと距離を置き続けてきたのは、どう接することが正解なのかわからなかったからです。ぼくがシェ・ワダで働いていたのはもう30年以上も前のことですが、ぼくが独立してからは、ほとんど連絡を取り合うこともありませんでした。

 それでも、ぼくは和田さんと縁が切れたとは思っていませんでした。ぼくは和田さんの影響をまともに食らって料理を作り続けてきたし、そもそもマダムと出会ったのもシェ・ワダで、13年間ぼくの片腕として仕事をしてくれているスーシェフも、10年いてくれたマネージャーも元を正せばシェ・ワダにいた人たちです。和田信平に出会わなければ、そしてシェ・ワダで働いていなければ、今のぼくはなかっただろうと思います。それなのに、ぼくはいまだに和田さんのことがよくわからない。ただ、和田さんの訃報を知らされた人たちから頻繁に連絡が来るようになって、いろんな話をするうちに感じたことがあります。それは、和田さんを崇拝する人たちよりも、痛い目に遭わされた人たちの方がより寂しい思いをしているのではないかということです。

 彼らは言うのです。それでも和田さんのことは嫌いになれなかった、と。だからと言って、積極的に連絡を取ろうとは思わなかったけれど、いつも和田さんのことは気になっていた、と。それは何故なんだろう。
 ぼくは、和田さんの心には「童心」があったからだと思います。それがあったから、彼の目には迷いがなかった。美しいものを正確に評価できた。美味しいもの、気持ちの良くなるものが曇りなく見えていた。だから、人は彼のことを天才と称したのではないか。

 こんなことがありました。
 ある日、和田さんがぼくに「たまにはオードブルでも考えてくれよ」と言うのです。その当時、ぼくは和田信平の影武者みたいなものだったと思います。彼のやりたい料理を具体化し、それを日々の営業でお客さまに提供する。そのことがぼくは全然嫌ではなかった。むしろ、本物に少しでも近づきたいと思っていました。それでも、基本は和田信平が考える料理です。それなのに、ぼくにそれまで考えろと言う。
 俄然、ぼくは張り切りました。自分の力を彼に見てもらいたい、そして評価してもらいたい。試作して見せたのは「車海老と野菜のラグー」。フランスでの修業先だった「ラ・コートドール」ベルナール・ロワゾーのスペシャリテを自分なりにアレンジしたものでした。見て、食べて、和田さんが言いました。「明日からこれメニューに入れて」。

 当時、ミナミのアメリカ村にあったシェ・ワダのディナーは、オードブルとメインをお客様が選ぶ「ドゥープラ」のスタイルでした。オードブルが6品、メインが魚、肉料理合わせて6品くらいの構成だったと思います。それなのに、これはたまたまだったと思うのですが、満席のお客さま全員がオードブルに「車海老と野菜のラグー」を選んだのです。伝票を見た和田さんが怒鳴り声を上げました。「なんやこれは。明日からこのオードブルやめてしまえ」。
 この理不尽さが和田信平なのです。でも、その時のぼくは怒りを感じなかった。むしろ苦笑いしてしまった。自分のような下っ端にも嫉妬する「童心」がおかしかった。

 今日、香川県丸亀市で「シェ・ナガオ」を営む長尾武洋くんから電話がありました。彼は和田さんからの謂れなき叱責と、多分暴力に耐えかねてシェ・ワダから出奔した前歴を持つ男です。そのことは決して褒められたことではないのですが、ぼくは現場にいた人間として彼の行動がやむを得ないことであったことも理解しています。その彼がやはり、和田さんと出会わなければ今の自分はなかったと思うと言うのです。ぼくと同じように複雑な思いを和田さんに抱いていただろうけれども、彼はやっぱり寂しいし悲しいですとぼくに言いました。みんな今ならわかるのです。和田さんは「童心を持ち続けた天才だった」と。

 昔のシェ・ワダがあったビルの前に大きな古着屋がありました。ぼくと和田さんは連れ立って、よくその店に行きました。彼が、どう見てもその巨軀には合わないジャケットを羽織ろうとするので、「それ小さすぎるって」と言うのに聞かず無理矢理着ようとします。すると脇の辺りで「ビリっ」と音がしました。そっとそのジャケットを脱いで、元のハンガーにかけて、「行こか」と言ったいたずらっ子みたいな彼の笑い顔をぼくは忘れることができません。

 長尾くんが言いました。ワダ・チルドレンの最年長がぼくで、最年少が自分だろうと。今頃、全国に散らばっているワダ・チルドレンの多くが和田さんのことを懐かしがっていることでしょう。嫌なことは忘れて、みんなあなたのことを思い出して寂しがっているよ。だから心配しなくていいからね。
 代表して言います。あなたがいてくれてよかった。ありがとう和田さん。

# by chefmessage | 2022-12-13 19:57

今なら大丈夫

  今なら大丈夫

 「おいしさをデザインする」という本を読んでいます。調理科学者の川崎寛也先生が、今をときめく13人のシェフと対話しながら「新しい料理」とは何かを模索している著作なのですが、それを読み進めるうちにぼくはなぜか懐かしさを感じました。最前線にいるシェフたちの試行錯誤の過程が、かなりの年齢差とキャリアの隔たりが彼らとの間にあるにもかかわらず、ぼくには理解できるのです。そんなことを考えて料理を作っていたことがあった、それが思い過ごしではなく、実感として感じられました。


 長い間料理に携わっていると、その時々にマイブームがあります。食材に関してであったり技法であったり。あるいは異文化に対する興味であったり逆に日本の文化に対する接近であったり。簡単な例を挙げると、これはぼくの癖でもあるのかもしれませんが、伝統的な料理がやりたくなって続けていると、だんだんそれに飽き足らなくなって、次のシーズンではやたらと前衛的な料理になる。でも、これではいかんと考えて、またクラシックに戻ったり。そのような動きを一年のうちに何度か繰り返すということがあります。

 ぼくは同じ料理をやり続けることで完成度を高めるというタイプの料理人ではありません。いつも変化を求めてきた。伝統ならばより深く、前衛ならばより斬新に、それを半世紀近く反復してやってきたから、およそ一人の人間に考えられることは何パターンも試してきたと思います。もちろん、全てを網羅したなんて思っていません。けれども、少なくともフランス料理という土台を同じくするならば、途中まではさほどの差異があるとは思えない。いくつものマイブームは、他のシェフのブームであったとしても不思議ではないのです。


 もちろん全く同じというわけではありません。時代と共に求められるものは変わるし、何より科学は進歩する。一番顕著なのは火入れの温度でしょう。低温調理というものは、長らくぼくたちの技法にはありませんでした。こうすればどうなるのか、と考えても、それを実行する手段が無かったのだから仕方がありません。その次に違うのは、いろんなことのデータ化です。数値化と言っても良いのかもしれません。

 わかりやすい例が、コンソメスープのクラリフィエです。クラリフィエとは澄ませること。

 1日目はブイヨンを取ります。次の日に、大きな鍋に細かく切った野菜、ローリエなどの香草、ミンチにした牛肉、それにほぐした卵白を入れてかき混ぜます。よくかき混ぜたら、そこに前日にとったブイヨンを注ぎ入れて火にかけ、鍋底に具が沈んで焦げ付かないようにひたすらかき混ぜます。さて、ここからが肝心です。

 コンソメは、加熱によって凝固する卵白が周りの具材やアクを絡めとるようにして浮かび上がることで下が澄んだ状態になります。だから、沸騰する寸前に混ぜるのをやめないと固まった具材がまた散るので濁ってしまします。かき混ぜすぎてはいけないのです。でも、それを怖がって早々にかき混ぜるのをやめると、具材が沈澱して鍋底で焦げるので焦げ臭くなります。だからちょうど良いタイミングでかき混ぜるのをやめなければなりません。

 それがわかるようになるまで、何度失敗して怒られたことでしょう。でも今は簡単にそのタイミングがわかります。卵白は60℃で凝固しはじめて80℃になると完全に固まることがわかっています。それなら、コンソメをかき混ぜながら温度計を突っ込んで、完全に固まる寸前、75℃くらいで止めればいいのです。温度計と簡単な知識があれば誰にでもコンソメのクラリフィエができるのです。これが数値化です。何度で何分、という数値が経験値を上回るのが現代的な調理といえるのかもしれません。


 だから、調理技術はずいぶん変化したといえるかもしれないのですが、根本的に人の考えることに、道筋と言っても良いのかもしれませんが、さほど変わりはないように思います。歴史は繰り返される、ということなのでしょうか。これをこうすればどうなるか?今は科学と機械が進歩した分、試しやすくなったのではないか。だから、料理人の冒険はより深化しているように思えます。少し前には実現不可能だったことが今ではできるようになっている。例えば圧倒的に美しい料理もやろうと思えばできる。ただ、それが美味しいかどうかはもはや誰にも判別できないから、料理として成立するのかはわからないけれど。


 話は変わりますが、かつてのぼくはメモ魔でした。とにかく料理のアイデアがポンポン出てくるので、そこら中にメモをする。新聞の端っこだったり伝票だったり壁のカレンダーだったり。でも、それが頻繁になくなるのです。あるいは、後から読むと何のことやらわからない。だからスマホを持つようになってからは、それをメモ帖代わりにするようになりました。今はもうかつてのようにポンポンとはいきません。ポツポツという感じですが、それでもその料理メモを見ると560ありました。でも、実際に店で提供できたのはその1割ほど。では、残りはなぜやらないのかというと、まず技術的に実現不可能、次に食材が調達できない、最後に「これをやっても理解してもらえないだろう」とぼくが思い込んでいること。

 

 ぼくはがっちり基礎を叩き込まれた、という料理人ではありません。だから過激な方向に突っ走ることができたのですが、これは本当に美味しいだろうかという疑問がいつも自分の中にありました。今は流石にそのようなことはありませんが、逆に、料理はずいぶんおとなしくなったように思います。でもどこか物足りなさを感じているのも事実です。そんな時に読んだのが「おいしさをデザインする」だったから、心のどこかでカチンとスイッチの入る音がした。自分自身の調理技術も向上している。食材は集められるものでやればいい。昔と違って、お客さまの理解度も随分深まっている。だから、11月にフェアをやろうと考えました。誰のものでもない自分がデザインした料理を集めてコース料理にする。幸いなことにパワーアップしたマダムがデザートやる気満々だし。だからテーマは「今なら大丈夫」。まだオレにもできるはずだ。なにしろ日本の元祖フュージョンなんだから。

 今回だけ、ダサいセリフで締めくくらせてください。

   「若いもんには負けへんで」。


 


 


 


# by chefmessage | 2022-10-01 16:38

気ままなる旅

気ままなる旅
  「汽車が山道をゆくとき
   みづいろの窓によりかかりて
   われひとりうれしきことをおもはむ」萩原朔太郎

 若い時の自分を振り返ると、まるで新幹線みたいだったなと思います。とにかく早く、どこまでも遠くへ行きたかった。毎日、ぼくはそんなことばっかり考えて動いていたように思います。とにかく前しか見ていなかったから、周りの景色なんてまるで目に入らなかった。だからぼくは傲慢で、人の気持ちに斟酌しない独りよがりな人間だったと今では思います。
 では、今はどうか。
 加齢による体力と気力の衰えは隠しようがありません。身を削るような激務には到底耐えることができない。では、ぼくは多くを失ってしまったのかというと、そうでもないかなと思います。今のぼくは、例えるなら「鈍行」に乗ってる気分です。速度は早くないし、頻繁に停ります。けれども、窓外の景色をしみじみと眺めることができます。それは不思議な光景です。見慣れていたはずなのに新鮮で、今更ながらの発見もある。そういうことだったのかと、やっと気づくこともたくさんあったりして。

 これまで全く目に入らなかったことがよく見えるので、それを大切にしたいと思うようになって、だからこの頃のぼくが作る料理は、奇抜さや斬新さがなりをひそめて、ずいぶん簡単というか、おとなしくなったような気がします。時には、もっと複雑にしなければと思うこともあるのですが、その必要性を感じなくなったので、インスタ映えするような仕事はしていないし、できません。ただ、今までの仕事に比べると、間違いなく美味しくなっているとは思います。なぜなら、ぼくはぼくの仕事の出発点を忘れていないからです。
 とはいえ元来ぼくの仕事は、それがどれほど奇抜であったとしても、必ず出どころがありました。出典が明らかであるというか、自分がどの料理をアレンジしようとしているかがわかっていたように思います。それはたいていが古典であったり、あるいはビストロ料理であったりと、それまで連綿と受け継がれてきた料理でした。若かったぼくは、それをいかにして今のモードにするかに腐心してきました。ただ、どんなに変化球であったとしても、それは人の心のストライクゾーンに入るような美味しいものでなければならないとは考えていたように思います。

 翻って、現在主流になっている料理、いわゆるフュージョンは、これまでのフランス料理とは似て非なるものだと、ぼくには思えてなりません。食材を用いてアートとかデザインをやることが、彼らの提唱するSDG‘sに則したものだとはぼくには思えない。そもそも、受け継ぐべきものを評価しないその姿勢が、ぼく自身の若い頃を連想させます。すなわち、傲慢で独りよがりだと。そして、それで商業活動をしている人たち、あるいは団体に対しては、それは文化の断絶、あるいは破壊ではないのか、という気持ちがあります。

 過去があり今があるから未来はあるのです。自分の出発点を忘れないことで自分の立ち位置がわかる。それがわかるから行く先がわかるのではないでしょうか。今しかない仕事に未来はない、ぼくは自分の経験からもそう実感しています。

 とはいえ、今のぼくは「鈍行」に過ぎません。でも、確かなことが一つあります。それは、遅くても前へと進んでいるということです。ぼくは自分の出発点を忘れたことはありません。だからぼくの歩みは力尽きて途切れてしまったとしても前を向いたままです。気ままな旅はまだ続きます。

# by chefmessage | 2022-07-26 19:33