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ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


by chefmessage
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和田さんの包丁

もともとぼくは物持ちがあまりいいほうではなくて、飽きるとすぐに人にあげたり、オークションで売ったり、あるいはいつのまにか無くなっていたりするのですが、商売道具の包丁はさすがにどれも捨てられなくて、気がつくと結構な数になっています。ほとんどが洋包丁なのですが、2本だけ和包丁があって、そのうちの一本はステンレスの出刃包丁です。もっぱら魚をおろすときに使っているのですが、それもぼくのところに来てもう22年になります。シェ・ワダを辞めるときに、オーナー・シェフの和田信平さんがわざわざ誂えてプレゼントしてくれたものです。ぼくにとっては大切な、思い入れのある一本です。

 33歳でフランスから帰ってきて、すぐに勤めたのが、当時アメリカ村にあったシェ・ワダでした。最初に会ったときの和田さんの笑顔がとても素敵で、どこかシェフで行ける店を探してあげようという和田さんの申し出に、いやここで働かせてください、と即答したことを覚えています。うちでいいのか、と再度聞かれたので、明日からでもかまいません、とぼくは答えました。そして、次の日からぼくはシェ・ワダに通うようになりました。
 ポジションとしてはスー・シェフだったのですが、その仕事は、シェフの考えた料理を具体化し、毎日お客様に提供できる形にすることです。まず試作があるのですが、そのときに、シェフの望む食材や調理器具を用意しておかなければなりません。そのためにはシェフの料理をあらかじめ先取りしておかなければならないのですが、最初、ぼくにはそれができませんでした。
 フランスから帰ってきたばかりでそれなりに自信があったのですが、いきなり鼻っ柱をへし折られました。和田さんが作ろうとする料理が想像できないのです。でも出来上がってみると、それはすばらしく独創的で、彼の個性が反映されていました。こんな料理があったのか。
 定石がない、というか、それを超えて好き放題やっているとしか思えないのに。これが才能というものなのか。でも、次第にぼくにも理解できるようになりはじめました。基本さえ抑えておけば、あとは自由にやってかまわないのだ、と。
 かたくなな心がほぐれていくようでした。曇っていた空が一気に晴れ渡ったような気分。それからは、仕事が、料理を作ることが楽しくなりました。びゅんびゅんと駆け抜けていくような毎日でした。時を同じくして、シェ・ワダの全盛期がやってきました。連日満席。新しい料理がどれもこれも受ける。本当に敵なしだったと思います。ぼくは和田さんに随って、日本のフランス料理界の先頭を走っていました。

 あれから22年がたちました。シェ・ワダはもうなくなってしまいました。でも、ぼくが今でも料理を作り続けていられるのは、あのときの和田さんとの出会いがあったからだと思っています。そう言えば、マダムと出会ったのもあの店でした。そして、今のぼくの店のスタッフは、全員がシェ・ワダ出身だというのも不思議な縁だなあと思います。
 でも、ぼくはあの頃のことを懐かしんではいないし、ましてや、あの頃にもどりたいなんて思ってもいません。ぼくはぼくの道を歩むのに精一杯なのですから
 ただ、ぼくの胸のうちには誇りがあります。それは、喜びに満ちて、和田信平という稀有な才能とともに全身全霊で時代を駆け抜けた誇りです。それがある限り、ぼくはまだやれる。過去の栄光などではなくて、今のぼくの血の中に流れる命です。
 和田さんから貰った包丁を見るたびに思います。今日一日、ぼくはぼくにできる最高の仕事をしよう。たとえ明日が来なかったとしても、今日の自分に恥じないように。
和田さんの包丁_d0163718_19565180.jpg

# by chefmessage | 2012-02-29 20:03

山を登る、ということ

お正月の二日にクー・ド・ポールの田中夫妻と、「エル・ブリの秘密」という映画を観てきました。一応同業者なので、入り込めて結構面白かったのですが、内容は期待していたほど奇抜ではありませんでした。むしろ、料理は人が考え、人がつくるものなんだという当たり前の事実がわかって、安心したくらいでした。ただ、臨場感のある映画だったので自分も働いているような気分になって、ぼくも田中さんも、見終わっての感想は「なんか疲れたなあ」。だから、せっかくの貴重な休みなのに、なんだか損したような気分で、顔を見合わせて苦笑い。それを解消するかのように、その後行ったワインバーでは二人ともハイテンションで、おおいに盛り上がりました。
 エル・ブリのレストラン営業は年6ヶ月で、残りの半年はバルセロナにあるラボでの新メニュー開発に費やされるようなのですが、映画の大半は、そのラボでの活動を克明に追いかける映像です。多分、いくつかのテーマが決められているのでしょう。それは主に食材であるようなのですが、たとえばキノコなら様々な種類を集めて、それを色んな形に切って、煮たり焼いたり、蒸したり真空調理したり、オイルやエキスを加えたり、出来る限りの色んな技術で変化させます。そして写真に撮り、データをパソコンに落とし、並べ替えて整理し、リストを作る。その作業をテーマごとにやっていきます。映画では主に3人のクリエイティヴシェフと呼ばれる人たちがそれを行っているのですが、やっている最中にふと沸いてくる発想もお互いに話し合ってどんどん取り込んでいきます。というか、むしろそれが重要な感じです。で、御大フェラン・アドリア登場。報告を受けて、試食し纏め上げていきます。クリエイティヴシェフが作り、アドリアが試食し、ダメだしし、また作り試食し、まとめて整理していく。少しづつ形が出来始め、デザインや皿が決められ、順番が決められ、その数が35品くらいになるころ、営業日が迫ってくる。全世界から集まったスタジエ(研修生)の配置が決められ、訓練が始まり、でもまだ決めれない料理もあって、オープン当日になってもアドリアは試食している。メモを取って、セクションシェフたちに指示している。雰囲気が張り詰めてキリキリ音をたてているようです。最後まで気を緩めず、少しでも高い場所へ登ろうとしている、そんな気迫が横溢しています。
 でも、ぼく自身にとって一番印象的だったのは、スタジエ全員の前でアドリアが語ったこんな言葉です。「みんな、エル・ブリに行ったら変な器械や薬品がいっぱいあると思っていただろう?でも、ここにはそんなものはない。あるのはこれだけだ。」。そうして彼は自分の頭を人差し指でコンコンとたたきます。そうか、ぼくは納得しました。
 ある専門誌の記者が、あの映画は秘密を解き明かしていないから一つ星だ、というようなことを書いていましたが、ぼくはそう思いません。逆説的で深読みし過ぎかもしれませんが、結局エル・ブリの秘密とは秘密がないということではないか。あるのは、新しい何かを作り出そうとする個人の意思であり、啓発ではないのか。それを具体化するための器械や添加物の開発であり、人材の育成ではないのか。
 だから、トップランナーと追従者の違いはすでに明白であると思います。彼らの料理のコピーにはなんの意味もない。
 1月7日の朝日新聞誌上で、コム・デ・ギャルソンの川久保玲さんがこんなふうに語っていました。
 「どの分野でも、商品の値段や製作費用をいとわず、新しいものを作り出そうとしている人はたくさんいます。そうした姿勢は、どんな状況であっても人が前に進むために必要なものだからです。」。
 では、なぜ人は前に進まなければならないのか。時間が前にしか進まないからではないでしょうか。この世に変化しなものはありません。じっとしていても人は年老いていく、それは自明の理、なのだから。ぼくたちは立ち止まることなんか出来ない。そうであるならば、よりよく変化したい。ないものを作り、ありすぎるものを減らしていく。新しい、とはそういうことなのかもしれません。
 でも、エル・ブリは閉店することになりました。もうやれることはやりつくした、フェラン・アドリアがそう語ったという噂です。でも、やりつくしたのは彼個人であって、そこが頂点というわけではない。彼は並外れて非凡だったけど、超人ではない。だから店を閉める決意をしたのでしょう。
 あるレストランに行ったとき、メニューの裏にシェフからのメッセージというのがあって、サーヴィスの人間が、料理がくるまでの間にそれをお読みください、と言います。で、読んでみたところ、こういうような一文がありました。「頂点に立ったら、下から土を持ってきてそこに積み、その上に立つ、そのことの繰り返しです。」と。ぼくの感想はこうでした。「キミの山は砂場の山か?」
 頂点はそんな低いところにはないでしょう。そこは地球上で一番、神様に近い場所なのだから。だれも立ったことのない場所なのだから。
 みんなそこを目指して生きているのです。たどり着けないだろう、でも、登り続けるしかない。だから、ぼくも思います。自分の力で行けるところまで行ってやる。
 「老人と海」の言葉を思い出します。ヘミングウェイ自身は猟銃で自殺してしまったけれど、彼の生み出した物語上での言葉は不滅でしょう。漁師の老人はこう言いました。
         [人間は、負けるようには作られていない。]
# by chefmessage | 2012-01-19 12:09

ジャンポールのガレット

JR甲子園口の駅前商店街を南下し、国道2号線に出るひとつ手前を右に曲がると、ジャンポールのレストランがあります。なんだか古びて雰囲気のあるレンガ作りの一軒家で、なかではお腹の出たジャンポールが、チーズたっぷりのそば粉のガレットを焼いています。ちょっとおとぎ話の世界みたいで、思わず微笑んでしまいます。
 ジャンポールはもともとシャルキュティエールで有名でした。シャルキュティエールというのは豚肉を加工したお惣菜、パテとかソーセージとかを扱うお店のことです。ぼくも料理用のベーコンはいつもジャンポールのものを使っていました。塩がしっかり効いていて、燻製も強い。ポタージュなんかに加えると、味がぐっと深くなります。
 そのジャンポールが先日、日本人の奥様と食事に来てくれました。「すごく手間がかかっているね。」、「発想が面白い。」、「ほんとにどれもおいしい、ありがとう、ありがとう。」。楽しみながら食べてくれます。だから、作っているこちらまで楽しくなってきます。
 食後に色んな話をしました。14歳からシャルキュティエールをやってきたけど、60歳になったから、レストランがしたくなったんだ、とジャンポールは言います。奥様が、シャルキュティエールのほうが経済的には楽なんだけど、彼がもういやだって言うもんだから、と苦笑されます。工場で製品を作っても、お客さんの顔が見えない、それがジャンポールには不満だったらしい。だから、工場を大手のお惣菜業者に譲渡して、自分はレストランをやったんだ、と言います。
 職人というものはそういうものかもしれないな、とぼくは思います。ビジネスならば、拡大が至上命令です。そのためには自分が手を下していては間に合わない。人を雇い、工場と販路を拡げ、より多くの儲けを出そうとする。でも、職人はあくまで自分自身が手をかけることに拘ります。自分が作ったもので人を喜ばせようとする。
 前に書いたジュエンヌの大川センパイ、そしてジャンポール、共通するのは、その職人魂でしょう。お客さんの喜ぶ顔が見たいから。言い換えれば、自分が全責任を負って、人とよい関わりをもとうとすること。そのために全力を尽くすこと。
 仕事、辛いね、と62歳になったジャンポールはいいました。でも、もうやめたいとは決していいません。すべてはタイミングなんだと彼は言います。同じレシピで作っても、ぼくのガレットは一番おいしい。それはおいしいタイミングをぼくが知っているから。そこには、14歳からずっと同じ仕事をやってきた人間の、ゆるぎない自身があります。だから、しんどくても彼はやめようとしないのではないか。
 自分には自信を持ってできる仕事があるから、まだまだ人の役にたてるから、彼はやめようとしないのではないか。
 それは義務などではない彼の優しさ、人間性だと思います。そして、そういう生き方をすることが彼の一番やりたいことであるとするなら。
 自分もそうでありたい。

 「またガレット、食べにきてね。」。帰り間際に、握手しながらぼくにそう言った彼の笑顔はとってもチャーミングでした。実はぼくもこの頃は、仕事がつらいと感じることがあるので、そんなときにはジャンポールの焼いたガレット、食べにいこうと思います。
 
 
# by chefmessage | 2011-12-14 13:46