ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


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道程

 オーナーシェフになって、もう26年が経ちました。自分の店を立ち上げた日の事が、まるで昨日のことのように思えるし、遥か昔のことのようにも思えます。ただ、振り返ってみると、人生というのはけっこう慌しく過ぎていくものだなと思います。そして、晩年を迎えた今、後悔ばかりが先にたって、なんだか歯軋りすることが多いような。でも、長い間ひとつのことをやり続けて、解ったことも少なからずあるようで、そのことを今回は書いてみたいと思います。

 そもそも独立した当初からぼくの料理は、いわゆる業界人や料理通の方々から、「これ、普通のお客さんにはわからないよ」、あるいは、「もっとわかりやすい料理じゃないとお客さん来ないよ」といわれ続けてきました。でも、ぼく自身は最初からそのつもりでやっていたからそれでいいのだ、と思っていたし、世間の耳目も集めていたから有頂天で、数年はその路線で突っ走っていたのですが、やがてひとつのことに気がつくようになりました。それは、お客様の食後の反応の顕著な違いでした。
 手放しで大絶賛する人がいるかと思うと、戸惑いを隠せない表情で帰られる人もいる。なかには、不愉快な表情を隠そうともしない人もいる。

 ぼくの店は、客観的には高価格な飲食店です。だから、やっぱりより多くのお客様に満足していただくべきではないだろうか。そのために必要なものは何か。
 やっぱり基本が大事でしょう、とぼくは思いました。でも、ぼくは調理師学校にも行っていないし、何軒もの店で修行をしてきたわけでもありません。だから古典を学ばないといけないと思いました。そして、それを取り入れた料理を作るべきだ、と。
 ただ、それまでの料理があまりに奇抜だったから、うまく噛み合いません。そこで方便として、メニューを二本立てにしました。基本を大切にした料理と独創的な料理。お客様がその両方からオードブル・魚・肉を自分で選んでコースを組めるように。

 でも、そのやり方にも限界がありました。何を基準に自分の料理を分ければいいのかわからなくなってきた。今思えば、その頃からぼくの迷走は始まっていたのでしょう。
 料理に迷いが出始めた時期に合わせて、来客数が減り始めました。そうなると、迷いはさらに深くなります。ぼくは料理専門誌を見るのが恐くなった。そこに掲載されている料理がすべて自分のものより優れているように思えて。それでも、店を閉めることはできません。だから、話題の店に頻繁に食事にでかけるようになりました。そして感じたものを自分の料理に取り込もうとしました。でも、所詮は付け焼刃です。追い詰められて、野菜中心のフランス料理店という新ジャンルに挑んだのですが、これは経営的に大失敗。打ちひしがれて、死んだほうがましなのではないか、とまで思いつめたのですが、家族のことを考えるとそんな軽はずみなことはできません。うつ病一歩手前、だったような気がします。でも、悪いことって続くものなんでしょうか。同じ時期に、身内の事情で、豊中の店舗と自宅から出て行かざるを得ないという状況に陥ってしまった。

 終止符打たれたな、と思いました。でも、お客様の一人で、苦境から脱出する手助けをしてくださる方がいて、その方のおかげで現在の福島の店舗に移ることができました。そこでめでたしめでたし、ということになれば良かったのですが、今度は逆に、何があっても失敗できないという心境になったのです。ぼくはその方策としてモード・スパニッシュに注目しました。そこに自分の新しい展開があるのではないか、と。ぼくはのめりこんでいきました。でも、それも迷いに過ぎなかったと今は思います。

 結局、新しいものは外からはやってこないのです。変わるのは自分自身であり、自分自身の意思がそうさせるのです。外的要因に頼ること自体が弱体化していることではないかと思います。大切にすべきものは、すでに自分のなかにあるのです。ただ、すべてを主観で固めてしまってはいけない。いつもこころのどこかに隙間をあけておくこと。その自由な空間にアンテナを一本高く立てて、風の音、花のにおい、人のぬくもり、みたいな小さなものから、時代の変化のような大きなものまでを感じ取り、取り込み、自分自身を刷新し続けること。それが正しい変化のあり方、あるいは生き方なのではないか。

 今年の京都市立芸大の入学式式辞で、鷲田清一学長がこう言っておられます。「自分がこれまで育んできた個性らしきものに閉じこもるな、ということです。それは大切なものだけれど、それは小さすぎるということです。」。これは、ぼくの主張と対立するようですが、実はそうではないと思います。新入生と大人との違いがまずあります。経験の幅に差がある。
 ぼくは、自分を見失った大人でした。それは海図を持たない、いわゆる難破船で、これから航海にでようとする新造船ではありません。出発する船に海図は必需品です。でも、ぼくは海図をどこにしまったか失念してしまっていたのです。だから航海しながら、ひたすらそれを探していた。目的が違っているのです。でも、ぼくはそれを見つけました。胸のポケットにずっと入っていたのに。
 個性についても同じです。個性らしきものと個性は違います。ぼくは個性を薄めようと努力してきた。その結果、それが小さくなってしまった。ぼくはぼくでしかないのです。そして、そのことに諦めに似た感情を抱きながら、でも、もっと遠くへ行くために今はそれを肯定しようとしている。そして、アンテナがキャッチした情報をすばやく取り込んで、それを強化しようとしている。
 海図を再び左手に持ち、個性の力を右手に伝えて舵を握り、ぼくは目的地に向かっています。燃料は残り少なくなっているけれども、それはもはや問題ではない。

 それと、もう一つ判ったこと。
 米米クラブの石井竜也さんの言葉を引用します。朝日新聞の記事から。
「お客さんが求めているものを探すなんて、おこがましい。みんな求めているものは違う。うそをついてもしょうがない」。これを読んだとき、ぼくのなかで揺れていた何かが、すとんと落ち着きました。
 料理人のこころのなかには、いつも二人の自分がいるのです。作る側の自分と、食べて側の自分。言い換えれば、職人と客、二人の自分。その二人が常に意見交換しながら、料理や店が完成していくのです。だから、ひとりよがりなんて、本当はありえない。すなわち、結局は自分が良いと思う料理しか作れないし、お店もやっていけないのです。不特定多数のお客様なんて、そもそもいない。だから、考えて考えて、自分が出した結論に最終的に従えばいいのです。

 もう、怖れる必要はない。どんな素晴らしい料理にであっても萎縮する必要はない。自分の仕事は自分にしかできないのだから。

 たったそれだけのことなのに、理解するまで随分遠回りしてしまいました。でも、今なら自信を持って言えます。ぼくの料理は間違いなくおいしい。そして、もっとよくなっていく。
 青空は青い、当たり前のことがやっとわかった気分です。

 「春を想い出すも
  忘れるも
  遠き 遠き道の途中でのこと」 井上陽水 結詞

 
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# by chefmessage | 2015-04-15 20:35

蟻の誘惑

 これまでと重複する内容になるとは思うのですが、まず自分のことを書きます。

 ぼくが大阪の豊中市というところで自分のレストランを構えたのは、26年前です。とにかく無我夢中で走り始めました。だれもやったことのないフランス料理をやりたい、そんな衝動がぼくを突き動かしていた。温かいものを冷たく、冷たいものを温かく、デザートみたいな料理、料理みたいなデザート、魚料理の手法で肉料理、あるいはその逆。アイデアが息苦しいほど湧いてきて、厨房のカレンダーはいつもぼくのメモで埋まっていました。「実験料理」。評論家の山本益博氏が、当時のぼくの料理をそう表現されてましたが、本当にそんな感じの毎日だった。そして、それが受けたのです。ぼくはいきなり時代の寵児になりました。取材がどんどん押し寄せてくる。期待に応えようと、ぼくはあの手この手で攻める。そんな状態が5年くらい続きました。でも、一人の能力には限界があります。段々アイデアがつき始めます。やがて、ぼくは立ち止まらざるを得なくなった。それ以上進めなくなったのです。でも、声が聞こえるのです。「さあ、次ぎは何をやってくれますか?」。
 やろうとすれば出来なくはない、でも、これ以上進むと、それは誰も理解できないものになってしまう。果たして、それが料理と言えるのか?人を驚かせることはできる。面白がってもらうこともできる、でも、それが自分の望んでいたことなのか?
 もう一度、料理の原点に戻ろうとぼくは思いました。やっぱりぼくは、おいしい料理を作りたい。人が素直に笑顔になって、喜んでくれる料理が作りたい。でも、うまく戻れないのです。何かがずれてしまっている。時を同じくして、世間のぼくに対する論調が変化し始めました。曰く、「ミチノの才能は尽きた」、あるいは、「ミチノの時代は終わった」。気がつくと、10年の歳月が流れていました。
 それから10年。ぼくが生き延びてこれたのは、家族がいてくれたからです。家族のためにも、このままでは終われない、その執念がぼくを支えてきたのだと思います。そして、大阪市内に店を移して6年。ぼくはやっと自分を取り戻しつつあります。

 前置きが随分長くなりましたが、やっと本題です。今話題のNOMAについて。
 ぼくはNOMAに行っていません。なのに、どうのこうの言うのはおかしいと自分でも思います。でも、行きたいという気にならない。問題はそこなのです。だから、これから書くことはあくまでぼく個人の感想にすぎません。それを前提にして書き進めたいと思います。
 NOMAの料理本は、出版される前にイギリスのPHAIDONに予約注文し、購入しました。手にして、ぼくは深く感動しました。北欧の過酷な冷たさ、ぬくもりの大切さ、そのようなものが料理を通じて伝わってきたから。風土が生み出す料理はこんなにも美しいのか、と思ったのです。翻って、NOMAが現在東京で展開している料理・・・
 先に登場した山本益博氏が、NOMAのシェフについて、こういう風に書いておられました。「地球を外から眺める宇宙飛行士の料理人」。ぼくは深く首肯せざるを得ませんでした。
 宇宙食を口にして、ラベルを読んで、そういえばそんな味だ、そんな感覚。

 食品加工、ということに関しては、日本の技術は素晴らしいと思います。例えば、マイクロソフト元CTOが書いた「MODERNIST CUISINE」という料理本には、日本企業の食品添加物がけっこう頻繁に登場します。ぼく達の想像をはるかに超える技術が、現在進行形で進められているのです。でも、その土台にあるのは、あくまで人間本来のもつ感覚であろうと思うのです。すなわち、美味しいという記憶。味だけではなく、形や香り、あるいは食感や温度。でも、宇宙船のなかで料理するのは難しいだろうから、宇宙食を開発する。それはあくまで科学技術であるとぼくは考えます。さまざまな困難を克服し、人間の生存を可能とする技術。それはレストランで口にするものとは根本的に異なっているのではないでしょうか。
 ぼくがかつて懊悩し、ここから進んではいけないと考えた一線を越えた料理、それが東京のNOMAの料理であるようにぼくには思えてなりません。もちろん、ぼくに才能がなかったから、そこより先に進めなかったということはあるのでしょうが、では現在のNOMAの料理にどんな未来があるというのか、ぼくには想像もつきません。そして、世界のベストレストラン1位という栄光が何時まで続くのかも。
 果たして勝者は誰なのか、敗者はだれなのか。次に続くのはどこのだれなのか。そこに見られるのは資本主義の原理だけ、であるならば、レストランの料理はすべて宇宙食化していくような気がします。

 岐路に立って判断を迫られる、それは一つの道を究めようとするならば、必ずぶち当たる壁だと思います。例えばコペンハーゲンに留まるか、東京に進出するか。
 ぼく自身はそこで立ち止まりました。そして長い間、その場所で苦しみました。でも気付いたのです。道は分かれてなんかいない。最初から一つしかない。それは、自分の仕事が人を元気にする、人を喜ばせる、ただそれだけで良い、ということ。そのためだけに、自分の全てを投げ打つ、ということ。

 ぼくは蟻の誘惑には惑わされません。それが、東京のNOMAに行きたくない理由です。

 最後に、今とても気に入っているアメリカの詩人、エマーソンの言葉を引用して終わろうと思います。「Success」(成功とはなにか)の最後の文章です。

   そして、たった一人でもいいから、あなたが生きていてくれてよかったと
   思ってくれる人がいるということを知ること
   それが出来たら、人生は成功だったといえる。
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# by chefmessage | 2015-02-25 17:46

マダムのこと

 ある日のこと。マダム(ぼくの奥さんです)が予約の電話を受けていたときに、こう言っているのを耳にしたのです。「ご結婚記念日のご会食ですか。よろしいですねえ。」。ぼくはその時突然、自分達の結婚記念日がいつなのか知らないということに気づきました。そして、少しうろたえました。人の結婚記念日のお祝いを何十回、何百回としてきた自分達が、それを一度もしたことがないというのはいかんのではないか。しかし、かといって、それがいつだったかなんて今更ながら聞けません。ちょっとおそろしい。
 そこで一計を案じて、うちのスーシェフ(副料理長)にお願いすることにしました。「なあ、それとなく結婚記念日がいつやったかマダムに聞いてくれへんか。」。
 うちのスーシェフは在職6年目にして、いまや片腕と呼んでも差し支えない有能な女性なのですが、ときに冷淡な物言いをするのが玉に瑕です。「そういうことは自分で聞いてください。」と、にこりともせず一言でバッサリ。
 そのとき何を着ていたか思い出そうとしました。そうすれば少なくとも季節くらいはわかるだろうし。で、多分秋だったな、と見当をつけて、そこから適当な月を選んで。そして、さりげなさを装ってマダムに聞きました。「オレ達の結婚記念日って10月やったよな。」。
 マダムは案の定、ちょっと視線を斜め下あたりに向けて、今更何よ、という感じで「そうだよ。」と言います。よしマグレが当たった、ここで一気に攻めないかん、ということで、これも当てずっぽうで「20日やったな」と言うと、「違います」。「あ、19日か」。「違います」。「そうや18日や」。そこでマダム、無言。やっとわかったわ。ほっと胸をなでおろしたその日は10月19日、時すでに遅しかなと思いましたが、すかさず予定を聞いてレストランに予約を入れました。結婚記念日だから、と申し添えて。

 当日はクッキングスクールの講師の仕事があったのですが、12時過ぎには終ります。ぼくは終了後、ちょっとおしゃれしてそのレストランへ向かいました。
 「ラ・シーム」の料理は相変わらず絶好調、そしてデザートになりました。お皿に、おめでとうのメッセージが書かれています。シェフの高田くんも厨房から出てきて、テーブルの横でニコニコしながら拍手してくれます。ぼくも照れ笑いしながら、マダムの方に向かって手を叩いています。なんだかオレ、すごくいい人みたい。でも、まったくそうではないことを不意に悟った出来事が数日前にあったのです。それは、ひとりで帰宅していたときのこと。

 ぼくは、毎朝仕入れに行く必要上いつも自動車通勤なのですが、その車には4枚のCDしかつんでいません。ポール・マッカートニーが1枚、寺井尚子が1枚、陽水が2枚。それらを気分でローテーションして聞いていますが、その時は陽水でした。曲は「嘘つきダイアモンド」。この曲は何年くらいにリリースされたんだろうと、ぼくは考えはじめました。1995年くらいだったか、そのころ何があったんだろう、あ、地震や、そうや地震、たいへんやったなあ、でも、うちの奥さんはそのときインドに行ってたんや、あれ?その翌年から一緒に暮らし始めたから、おいちょっと待てよ、もう19年になるのか?そんなに長い間一緒にいるのか、しまった!
 なにがしまったのかよくわからないけれど、ぼくはその時、そう思ったのです。突然、若かった頃の彼女の顔が思い浮かびました。そして、結婚式のときの和装姿、初めての子供を妊娠したときのうれしそうな顔、それから次々と子供が産まれ、一人を背負い、二人を自転車の前後ろに乗せて走っている姿、そして現在の顔。
 それに比べて、オレは今まで何をしてきたのだろう。
 実はマダムのお誕生日すらうろ覚えで、3人の子供の生年月日もよく覚えていません。自分では苦労してきたつもりだけど、本当は仕事にかこつけて自分のことばかりしてきたような気がします。でも、マダムはどうでしょう。朝早くから起きて子供達のお弁当を作り、朝ごはんを食べさせて学校へ行かせます。洗濯して掃除して、それから一人で店へ行ってデザートの仕込みをして、営業時間にはサーヴィスの仕事をして、また仕込みをして午後4時くらいに帰宅します。途中で買い物して、晩御飯作って、子供達の面倒をみて。夜の営業が忙しいときには、居残りです。定休日は、デザートの本を見て、わからないことはネットで検索し、新しいデザートを考え、デパートでデザート関連の催事があるときにはそれにも出かけて。そういえば、認定試験合格した、れっきとしたソムリエールでもあるなあ、そんなこと考えていると、不意に哀しみみたいなものが押し寄せてきて、ぼくは車のハンドルをきつく握り締めたのでした。

 罪滅ぼしというにはあまりにささやかすぎる、自分は決していい人なんかじゃないな、ぼくはラ・シームでそう思っていたのです。それにしても、19年目で初めての結婚記念日のお祝いというのはあまりに遅すぎやしませんか、旦那。でも、ちょっとだけいいこともしたような。少しだけほっとしたような。

 よく、「もし生まれ変わったら、今と同じ配偶者とまた一緒になりたいか」という質問を耳にすることがあります。それを思い出しては一人で考えることがあります。ぼくにとっては、彼女と結婚できたことは人生最大の幸運だと思っているから是非に、とは思うけれども、彼女はどうだろうか。
 冷静に考えると、彼女はもっと幸せになってしかるべきだろうと思えてなりません。なにより、ぼくは甲斐性がなさすぎます。だから、次がもしあるならば、ぼくとは出会わないほうがよいのではないだろうか。でも、そんなことは考えても仕方がない。ぼく達にとっては、すくなくとも今が大切なのだから。

 1月のマダムのお誕生日も食事に行きました。実はそれも第一回目。でも、これからは少なくとも年に二回、結婚記念日と彼女のお誕生日にはお祝いをしようと思っています。I-phoneに、子供達の生年月日とともにメモしておいたから。

 ぼくは多分、逝く時に何も残してあげれないでしょう。それが今更ながら悔やまれてならないのですが、だからぼくはせめて彼女に、そして子供達に誇りに思ってもらえるよう、最後まで真っ当な人生を歩んでやろうと思います。
 
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# by chefmessage | 2015-02-01 14:39
 12月の6日と7日に、元プログレ ヨコヤマの横山淳シェフと二回目のコラボディナーを行いました。このコラボは、今年の3月にあったぼくの還暦パーティーで、横山シェフが料理を提供してくれたことに端を発しています。
 彼が、週に3回の腎臓の透析をしなければならない病気を患い、断腸の思いで自店を閉めたことをぼくは知っていたので、無理しなくていいからと引き止めたにも関わらず、彼は数品の料理を用意して持参してくれました。それだけでもぼくはありがたく思っていたのに、そのときの彼の料理が素晴らしくて、なんだか生命力に溢れているような気がして、ぼくは瞠目したのでした。
 彼はあきらめてはいない。その料理に対する熱意は、重い病気を凌駕しようとしている。
 
 長い間、ひとつの仕事を続けるというのはとても難しいことです。ましてやぼく達の仕事は流行的な側面がかなりあるから、いつまでも良い状態は続きません。次々と新しい才能が生まれ、もてはやされ、それに従って以前のものはどんどん忘れ去られていきます。それに抗って、前衛の位置をまもるのは至難の業という他はありません。ぼく自身、何度も何度も、自分の時代と役割は終わったのではないか、と苦しみました。今でも、その呪縛から解き放たれてはいない。毎日、苦しみながら歩んでいる、といっても過言ではないのです。だから、もしぼくが横山シェフのように重い病に見舞われたなら、ぼくは多分、あきらめてしまったと思います。でも、彼は打ち勝とうとしている。
 だから、ぼくはそのパーティーの席上で、彼に「一緒にフェアやろう」と持ちかけたのです。安易な同情ではなくて、ぼくは彼に同調したかった。
 一度目のフェアは大好評でした。是非次回を、という声がたくさん寄せられたので、今回、二度目が実現したのです。
 
ぼく達の共通の傾向として、とにかく人のやらないことをやりたがる、というところがあります。これはかなりきわどい分野で、ともすれば奇を衒っただけのものになってしまい、食べ手に無用な混乱、ときには不快感まで与えてしまいます。食材の連結や、味とか香りとか食感のバランスをとるのが非常に難しい。へたをすると、「こんなことしない方がおいしいのに」という批判を受けてしまいます。だから、ぼく達は細部に至るまで計算しつくさねばなりません。何度も自問自答を繰り返して練り上げていきます。
 そのことに関して言及するなら、横山シェフはいまやぼくの手強いライバルとなっています。完成度は、むしろ今のほうが高くなっている印象です。純粋に自分の料理に向き合っている。だから、彼とのフェアはお互いの笑顔とは裏腹に、真剣勝負です。そこに同情の入り込む余地はありません。全力で相手を叩きのめす気魄が必要です。
 前回もそうだったのですが、今回もぼくは必殺技を用意しました。それは「仔牛腎臓のローストとタラの白子のパンケーキ」。

 これは北海道の河原正典シェフが、地元のイタリアンの鈴木シェフと、自店の「メランジェ」で開催したコラボで出した料理が元になっています。この料理はぼくにとっては衝撃的な一品でした。家畜と魚類の内臓を一皿に盛る、というのは前代未聞ではないか、と思ったのです。そして、自分ならどうするかと考えたとき、すごく難しいと感じました。
 二つの料理をただ単に一つの皿に盛る、というのならさほど難しくはありません。でも、それぞれが連結して、皿の上にある全てを一緒に食べたときに全く別の次元に食べ手を誘う、というぼくの理想論に照らし合わせると、その実現には途方もない工程が必要になると思えました。
 そもそも、この二つを結びつける必然性もないし、蓋然性も乏しいのです。組み合わせそのものがすでに常軌を逸している。平たく言えば、「そんなことしなくていい」部類の料理なのです。でも、だからこそやってみたい。
 まったく結びつかない素材同士の接着剤には何をつかえばいいのか、緩衝材を何にするか、バランスはとれているか、縦横の強度に問題はないか、そして、円は閉じているか。それはまるで設計図です。頭のなかで建物を完成させていく感じです。そして、フェア開催の2時間前になって、ようやく完成。
 とはいうものの、素材そのものに抵抗のある方には、この料理はまったく無用の長物です。だから事前にコース内容を公開し、当日もメニューを印刷してお渡しし、食材の変更にはお応えするつもりだったのですが、残念ながら、二日間で3名の方の料理がほぼ手付かずで戻ってきました。そのことに関しては申し訳なく思っているのですが、結果的には好評でした。挑んでよかった、今ぼくはそう思っています。

 どなたかの著作の孫引きですが、「一色しかないなら、それは色ではない」という言葉が記憶に残っています。人の性癖を色にたとえるなら、ぼくや横山シェフは、料理界ではすこし色合いの違うタイプなのでしょう。でも、そういう異なった色がなければ、この世に色はなくなってしまう。それは寂しいことだし、なにより自然の摂理に反しています。この世界は、色があってはじめて世界として成り立つのだから。
 だからぼく達は、自分達の個性をより一層、鮮明にすべきなのでしょう。それがぼく達の役割かもしれないから。

 ぼく自身、オーナーシェフになって26年がたちました。そんなに長い間やってこれたのは、ぼくがあきらめずに自分の役割を果たそうとしてきたからではないかと思ったりもします。この線より後ろにさがったら、自分は終わってしまう、そう思って踏ん張ってきました。でも、例えば水鳥がじっとしているように見えて実は水面下で水かきのついた脚を絶えず動かしているように、ぼくはずっと足掻いてきたのです。ぼくは止まらない、ずっと足掻きつづけて踏みとどまりたい。だから、ぼくは若い料理人達の料理に触れ、敬意をはらってその話に耳を傾け、専門書も読みネットでも検索し、ときには今回のようにコラボをするのです。そして、そのときにこころのどこかに小波が立ったら、ぼくはその原因を調べ、検証し、自分の持つ引き出しを次々開けて思考し、再構築します。いつか、足掻いた足の後ろに土が溜まり、それを踏み台にして自分自身がさらに一歩前に出る、そんな日を夢見て。

 フェア当日は、横山シェフのお店のかつての常連さんたちが集って、サーヴィスを務めてくれた横山千晴さんとの話が盛り上がり、みんなとても楽しそうでした。またやってね、その声がある限り、ぼくは彼等とのコラボを続けようと思います。そして、その度ごとに挑めるとするなら、ぼくは横山夫妻と当日来て下さったすべてのお客様にこころからの感謝の言葉を伝えなければなりません。ぼくはあなたたちから勇気をわけてもらいました、と。
 来年も、ぼくは足掻き続けようと思います。そして、最後まで踏みとどまるつもりです。これが、今年最後のぼくのメッセージです。どうかみなさん、来年もよろしくお願いいたします。
 
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# by chefmessage | 2014-12-09 21:41
 12月の6日と7日に、元プログレ ヨコヤマの横山淳シェフと二回目のコラボディナーを行いました。このコラボは、今年の3月にあったぼくの還暦パーティーで、横山シェフが料理を提供してくれたことに端を発しています。
 彼が、週に3回の腎臓の透析をしなければならない病気を患い、断腸の思いで自店を閉めたことをぼくは知っていたので、無理しなくていいからと引き止めたにも関わらず、彼は数品の料理を用意して持参してくれました。それだけでもぼくはありがたく思っていたのに、そのときの彼の料理が素晴らしくて、なんだか生命力に溢れているような気がして、ぼくは瞠目したのでした。
 彼はあきらめてはいない。その料理に対する熱意は、重い病気を凌駕しようとしている。
 
 長い間、ひとつの仕事を続けるというのはとても難しいことです。ましてやぼく達の仕事は流行的な側面がかなりあるから、いつまでも良い状態は続きません。次々と新しい才能が生まれ、もてはやされ、それに従って以前のものはどんどん忘れ去られていきます。それに抗って、前衛の位置をまもるのは至難の業という他はありません。ぼく自身、何度も何度も、自分の時代と役割は終わったのではないか、と苦しみました。今でも、その呪縛から解き放たれてはいない。毎日、苦しみながら歩んでいる、といっても過言ではないのです。だから、もしぼくが横山シェフのように重い病に見舞われたなら、ぼくは多分、あきらめてしまったと思います。でも、彼は打ち勝とうとしている。
 だから、ぼくはそのパーティーの席上で、彼に「一緒にフェアやろう」と持ちかけたのです。安易な同情ではなくて、ぼくは彼に同調したかった。
 一度目のフェアは大好評でした。是非次回を、という声がたくさん寄せられたので、今回、二度目が実現したのです。
 
ぼく達の共通の傾向として、とにかく人のやらないことをやりたがる、というところがあります。これはかなりきわどい分野で、ともすれば奇を衒っただけのものになってしまい、食べ手に無用な混乱、ときには不快感まで与えてしまいます。食材の連結や、味とか香りとか食感のバランスをとるのが非常に難しい。へたをすると、「こんなことしない方がおいしいのに」という批判を受けてしまいます。だから、ぼく達は細部に至るまで計算しつくさねばなりません。何度も自問自答を繰り返して練り上げていきます。
 そのことに関して言及するなら、横山シェフはいまやぼくの手強いライバルとなっています。完成度は、むしろ今のほうが高くなっている印象です。純粋に自分の料理に向き合っている。だから、彼とのフェアはお互いの笑顔とは裏腹に、真剣勝負です。そこに同情の入り込む余地はありません。全力で相手を叩きのめす気魄が必要です。
 前回もそうだったのですが、今回もぼくは必殺技を用意しました。それは「仔牛腎臓のローストとタラの白子のパンケーキ」。

 これは北海道の河原正典シェフが、地元のイタリアンの鈴木シェフと、自店の「メランジェ」で開催したコラボで出した料理が元になっています。この料理はぼくにとっては衝撃的な一品でした。家畜と魚類の内臓を一皿に盛る、というのは前代未聞ではないか、と思ったのです。そして、自分ならどうするかと考えたとき、すごく難しいと感じました。
 二つの料理をただ単に一つの皿に盛る、というのならさほど難しくはありません。でも、それぞれが連結して、皿の上にある全てを一緒に食べたときに全く別の次元に食べ手を誘う、というぼくの理想論に照らし合わせると、その実現には途方もない工程が必要になると思えました。
 そもそも、この二つを結びつける必然性もないし、蓋然性も乏しいのです。組み合わせそのものがすでに常軌を逸している。平たく言えば、「そんなことしなくていい」部類の料理なのです。でも、だからこそやってみたい。
 まったく結びつかない素材同士の接着剤には何をつかえばいいのか、緩衝材を何にするか、バランスはとれているか、縦横の強度に問題はないか、そして、円は閉じているか。それはまるで設計図です。頭のなかで建物を完成させていく感じです。そして、フェア開催の2時間前になって、ようやく完成。
 とはいうものの、素材そのものに抵抗のある方には、この料理はまったく無用の長物です。だから事前にコース内容を公開し、当日もメニューを印刷してお渡しし、食材の変更にはお応えするつもりだったのですが、残念ながら、二日間で3名の方の料理がほぼ手付かずで戻ってきました。そのことに関しては申し訳なく思っているのですが、結果的には好評でした。挑んでよかった、今ぼくはそう思っています。

 どなたかの著作の孫引きですが、「一色しかないなら、それは色ではない」という言葉が記憶に残っています。人の性癖を色にたとえるなら、ぼくや横山シェフは、料理界ではすこし色合いの違うタイプなのでしょう。でも、そういう異なった色がなければ、この世に色はなくなってしまう。それは寂しいことだし、なにより自然の摂理に反しています。この世界は、色があってはじめて世界として成り立つのだから。
 だからぼく達は、自分達の個性をより一層、鮮明にすべきなのでしょう。それがぼく達の役割かもしれないから。

 ぼく自身、オーナーシェフになって26年がたちました。そんなに長い間やってこれたのは、ぼくがあきらめずに自分の役割を果たそうとしてきたからではないかと思ったりもします。この線より後ろにさがったら、自分は終わってしまう、そう思って踏ん張ってきました。でも、例えば水鳥がじっとしているように見えて実は水面下で水かきのついた脚を絶えず動かしているように、ぼくはずっと足掻いてきたのです。ぼくは止まらない、ずっと足掻きつづけて踏みとどまりたい。だから、ぼくは若い料理人達の料理に触れ、敬意をはらってその話に耳を傾け、専門書も読みネットでも検索し、ときには今回のようにコラボをするのです。そして、そのときにこころのどこかに小波が立ったら、ぼくはその原因を調べ、検証し、自分の持つ引き出しを次々開けて思考し、再構築します。いつか、足掻いた足の後ろに土が溜まり、それを踏み台にして自分自身がさらに一歩前に出る、そんな日を夢見て。

 フェア当日は、横山シェフのお店のかつての常連さんたちが集って、サーヴィスを務めてくれた横山千晴さんとの話が盛り上がり、みんなとても楽しそうでした。またやってね、その声がある限り、ぼくは彼等とのコラボを続けようと思います。そして、その度ごとに挑めるとするなら、ぼくは横山夫妻と当日来て下さったすべてのお客様にこころからの感謝の言葉を伝えなければなりません。ぼくはあなたたちから勇気をわけてもらいました、と。
 来年も、ぼくは足掻き続けようと思います。そして、最後まで踏みとどまるつもりです。これが、今年最後のぼくのメッセージです。どうかみなさん、来年もよろしくお願いいたします。
 
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# by chefmessage | 2014-12-09 21:40