ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


by chefmessage
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

早川くんのこと

 振り返って見ると、人生の曲がり角に立っていて、お互いが意図しないにも関わらず、その後の方向を決定することになった人物が誰にでも何人かいる、とぼくは思うのです。ぼくにとって、早川くんは、まさにそういう人でした。

 ぼくが30歳になったかならないか、それぐらいの時代のある夏の日、当時湘南のレストランで働いていた早川くんが、ぼくの仕事場であった京都の「ボルドー」にやってきました。一応顔見知りだったので挨拶をして、ところで何の用事?と尋ねたところ、フランスへ行くので大溝シェフにご報告に来ました、と言います。彼が働いていたお店は大溝シェフの紹介だったらしくて、そこを辞めるので、お詫びということもあったのでしょう。そういう義理固いところは、今も変わらない彼の美徳の一つなのですが、そのときぼくはチャンスがきた、と思ったのです。彼が渡仏するにいたった経路を聞いて、可能ならぼくも同じようにフランスへ行こう、と。

 後日、彼に連絡して詳細を聞きました。東京に、とりあえず一軒目の働き口を斡旋してくれて、渡航の手続きや片道の航空券の購入も手配してくれる会社があるということ。費用を聞くとその額は、その当時のぼくでもなんとかなる範囲だったので、ぼくはすぐに上京し、その会社を訪問することにしました。幸運なことに、東京に用があるからぼくも一緒に行ってあげましょう、と早川くんが言ってくれたので、お願いしてぼく達はともに上京することになったのです。
 その会社、というより個人事務所といった感じの一室で、ぼくは責任者から説明を聞きました。で、いつ行きますか?と尋ねられたので、できるだけ早い時期に、と答えると、じゃ、早川さんと一緒に行かれたらどうですか?とその方が言います。いや、それは早すぎる、と言うと、夏が終わると多くのレストランがバカンスに入るので、就労先が見つからない、と仰る。わかりました、では早川くんと行きます、とぼくは答えて、一月後の渡仏が決まったのです。
 まったく無謀としか言いようのない行動で、それは今でもぼくの最大の欠点でもあるのですが、とにかく慌しく準備に取り掛かりました。
 まず、ボルドーを辞めなければなりません。ただ、ぼくはいずれこの日がくることを見越していたので、ぼくが抜けても調理場はまわるように態勢は整えてありました。だから、シェフもすんなり了承してくれる、と思っていたのですが。
 給料を上げてやる、仕事は後輩の指導だけでいい、だから辞めるな、とシェフが言います。でもぼくが、どうしてもフランスへ行きたいからと訴えると、解った、と言ってくれました。そして、店をやめるその日、大溝シェフが退職金として結構な金額を手渡してくれたことを、ぼくは今でも忘れてはいません。
 父もそうでした。30歳をすぎても無謀な行動を取り続ける出来の悪い息子を常々苦々しく思っていたはずなのですが、やはり渡航する前夜に大金を手渡してくれて、死ぬ気で頑張ってこい、と励ましてくれたのも、今では遠い思い出です。

 そうして早川くんとぼくはフランスへ向かいました。二人とも不安でいっぱいだった。たいして言葉も喋れない、1軒目のレストランは無給が条件、その後はあてもなく、航空券は片道だけでビザは観光ビザだけ。
 パリに着いて、ぼくたちは別れて、それぞれの就労先に向けて出発しました。でも、寂しくなったら、お互いに電話もしたし、ときには一緒に食事にも行きました。ポール・ボキューズやタイユヴァンなどなど。彼には随分、助けてもらいました。そして、ぼくはあの手この手で合計3軒のレストランで働き、もういいか、ということで帰国して。
 あれから、もう30年近くが過ぎました。

 早川くんは帰国後、「パリの食堂」というビストロを開いて日本中にビストロブームを巻き起こし、10年間で3店舗を経営する大成功を収めました。そして、何故かレストラン業から突然撤退、レストランのプロデュース業に転進し、今では、デパ地下スイーツの展開で、やはり大成功。畏敬の念を抱かざるを得ません。
 その彼が、先月の、うちの25周年ディナーに来てくれました。久しぶりにゆっくりと話すことができて、その席上で、ぼくは彼にこう伝えました。「あの夏の日、君がボルドーに来なかったら、今のオレはない。そういう意味では、キミにはこころから感謝している。」と。すると、彼も言います。「道野さんが、ぼくの店にマスコミの取材いっぱいひっぱってきてくれたから、ぼくは成功しました。」。でも、それはきっかけに過ぎないとぼくは思っています。その後の大成功は彼の努力の賜物以外の何ものでもないから。
 しばらくして、彼が思い出したかのように、こう言い出しました。「道野さんは、もう一つぼくに良いことをしてくれたんですよ。」。その内容は、
 彼がレストラン業から撤退するきっかけは、ぼくの料理だったというのです。

 早川くんが1年だけの営業で閉店させた最後の店は、これまでのカジュアル路線から脱却するとても優雅なレストランでした。でも、採算があわなかったらしい。それで悩んでいたとき、ぼくの店に食事に来たそうです。そして、これまで自分は料理が好きだと思ってやってきたけれど、この人に比べるとそれほどではない、ということに気づいてしまった、のだそうです。だから、すっぱりやめる決心がついたんです、と彼は笑って言いました。
 それを聞いて、ぼくはちょっと困ってしまいました。それって、いいことなのか悪いことなのか判断がつかなくて。でも、あれがよかったんです、だからぼくの今があるんです、道野さんのおかげです、という言葉を聞いて、そうか、世の中にはそういう関わり方もあるのかと思って、面映いながらも、妙に清清しい気分になりました。
 ぼくもどうやら、曲がり角の道先案内人であったようです。

 そうして、ぼく達はみんな、いろんな人たちとの出会いに導かれて、今、ここにいるのでしょう。それならば、よりよき方向へ人を導ける人間でありたいと、ぼくは思うのです。そのためには、自分自身がまっすぐであらねばならない。ちょっと道徳の教科書っぽくなってしまいますが、そういうことなのではないでしょうか。

 あ、思い出した。フランスで、早川くんに貸してあげたセーター、返してもらってないな。もうとっくに失くしてるだろうな。でも、先日のディナーのときに随分立派なお花をいただいたので、もう帳消しにします。
 ハヤカワ、これからもよろしくな。
 
[PR]
# by chefmessage | 2014-10-19 17:40

25年目の述懐


 以前、何かの雑誌の対談記事で、フランスのレストラン「レスペランス」のマルク・ムノー氏がこんなことを言ってました。「ひとつの道を究めることができたら、いろんなことがわかるようになる。方法論は、どの分野でも似通っているものだから。」。
ぼくは自分がひとつの道を究めたとは思っていないけれども、彼の言わんとすることは解るような気がします。自分の中にぶれない軸があれば、色んな事象を客観的にとらえることができると思うからです。ぼくは今の仕事に就いて以来ずっと、様々な出来事を、料理人という目で見て、分析し、捉えてきました。
 だからと言って、ぼくは自分の子供に、ぼくと同じように料理人になってほしいとは全く思っていません。こんな辛い仕事をさせたいとは思わない。何より、その労力に値する経済的恩恵を受けることができない、というのは、生きていくうえで、とても厳しいことだから。彼等は彼等で、自分の道を見つければいいのです。
 でも、ぼく自身は、この仕事に就いて「救われた」と考えています。

 ひたすら我の強かったぼくは、子供の頃から問題児でした。容易に人の説諭を受け入れない頑なさも持ち合わせていたから、いろんなところで衝突を繰り返していました。ちょっと難しい家庭環境も作用していたのでしょう。ぼくはいつもそんな自分を持て余していました。「自分とは何なのか?」あるいは「何のためにこの世に生を受けたのか」がわからなくて、いつも自問自答を繰り返して、一時期はほとんど学校にもいかず、手当たり次第に本を読むだけの生活をしていたこともありました。このままでは答えは見つかりそうにない、そう観念したぼくが大学卒業と同時に「料理人」の世界に飛び込んだのは、当時のぼくにとって、料理がまったく縁のない世界だったからです。ぼくは自分にとって不可能としか思えない世界に敢て身を置くことで、自分自身を「固定」しようとした。そして、何度も放棄しようとする心をなだめすかしながら、明日へとかすかな希望を繋ぎながら、ぼくは自分の軸を作っていきました。
 やがて、ぼくは「料理人」になった。
 すくなくとも、モノを作る、ということに関してはプロの目を持つことが出来るようになったと思っています。すなわち、良いものと悪いものの違い、まがい物と本物の違いを少しは見極められるようになりました。それは料理の世界のみならず、他の分野においても多少は有効であるようで、そのことでぼくは随分と精神的に楽になりました。だから、
 ぼくは料理に出会って救われた、と思っているのです。
 でも、気がついたら独立してから25年がたち、ぼくは60歳になってしまいました。残念なことに、ぼくの料理人生命は残りわずかになってしまいました。でも、残りわずかになったからこそ、大事にしたいとも思っているのです。

 以前、このブログにも書いたことですが、今年の3月に、たくさんの料理人に還暦のお祝いをしてもらいました。ほんとにたくさんのシェフたちが持ち出し覚悟で料理を提供してくれました。そして、終盤、ぼくが挨拶をし終わったとき、全員が集まってぼくを胴上げしてくれました。それは、まったく予定になくいきなり自発的に始まったのですが、全員が純粋にこころからぼくを持ち上げてくれているのを感じて、ぼくはこころに誓ったのです。こんなに多くの料理人が自分の将来をぼくに見てくれているのなら、ぼくはもう後には引けない。必ずもう一花咲かせてみせる、と。

 先週のことですが、ある雑誌の取材で、現代スペイン料理「アコルドゥ」のシェフ、川島宙君と対談する機会がありました。お互いの料理を2品ずつ食べて、その感想を述べ合ったりして、本当に有意義で楽しい時間を過ごしたのですが、最後に川島君がぼくにこう尋ねました。「シェフ、どこまで行くんですか。」。ぼくは答えました。「行けるところまで。」。
 でも、ぼくはどこかに辿りつけるとは思っていません。ぼくはこころざし半ばで力尽きるでしょう。それはそれでいいのです。料理に到達点なんてないのだから。

 昔読んだ夢枕獏の小説で、こんな伝説が挿話として紹介されていました。年に一度、晴れた日に、エベレストの山間を鶴の群れが渡っていくことがある、それを目にする幸運に恵まれた者はほとんどいない。
 それを読んだとき、その光景がありありと目に浮かびました。真っ白な静謐の世界を、白と黒と赤を纏った生き物が移動している。羽ばたきに風は鳴っているか、たがいに啼き交わす声は響いているか、あるいは、荘厳な山の気配がそれらすべてを吸い込んで、沈黙と光のみが世界を支配しているか。
 見れるものなら見てみたい。でもそれは、山頂に身を置いては見ることは叶わないのです。山頂にあるのは、ただ茫々と空。だったら、ぼくは途上で息をこらしてそれを見てみたい。

 25年は、アッと言う間だったような気がします。でも、ぼくにはまだ行く道があります。ぼくは料理人になってよかったと思います。そして、最後まで料理人であることを願っています。
[PR]
# by chefmessage | 2014-09-15 15:57

北帰行

7月とはいえ、日本の北の端では午前3時過ぎに空が白み始めるのです。

 午前12時30分に旭川を出発した怪魚ハンターS君の車は、まっしぐらに北へ向かいました。7時間半の長旅のあと、ジンギスカン食べてやっと一息ついたばかりのぼくは、後ろの席でウトウトしています。前の席では、旭川のジャイアンこと、ビストロメランジェの河原くんとS君が、釣り場の検討をしています。どうやら目的地は、稚内に近い、幻の魚イトウの聖地、あのS川らしい。その名を聞いて、居眠り半分のぼくはニンマリします。でも、しばらく雨が降っていないから川の水量がどうのこうの、潮の廻りがよくないから云々。窓の外は天気予報に反して霧雨。どうもコンディションは良くないみたいです。でも、それは仕方のないことです。普段は大阪にいるぼくが、北海道で釣りに費やせるのは1年のうちでたった1日だけ。それも、変更の効かないその日限り。大雨でないだけ僥倖とするべきでしょう。
 そして最初の釣り場に着いたのが3時半。もう夜は明けています。着替えて、道具を用意してポイントに向かいます。そこでS君のいきなりの嘆きの声。「網が入ってます。これでは釣りにならない。」。
 そのポイントは河口でした。イトウはサケ科なので汽水に順応できます。海でも近海なら生きていけるのです。さきほど車中で二人が話していた潮廻りが、これに関係しています。潮廻りが良ければ、降海して餌をいっぱい食べて成長した魚が、また川に戻ってくるのです。そのサイズは陸封型よりも大きい。1メーターを超えるものも多い。今回はそれを狙おうという目論見だったのですが、河口にサケ捕獲の網が入っていたのです。
 これは北海道にはよくあることなのですが、サケが繁殖のために遡上する季節になると、河口をふさぐような形で網を入れます。あえて川上に行かせないで、河口で捕獲するのです。なぜなら、遡上しても産卵に適した場所がなかったりするから。
 治水のためにという名目で、堰堤(堤防)を作るとサケはそこから上流には行けません。また、本来は曲がりくねった流れをまっすぐにしてコンクリートの護岸にしてしまうとプランクトンが発生しないので稚魚が育たない、だからサケは産卵しません。すなわち。
 人間の都合で、多分に政治的な駆け引きで、北海道の多くの川はサケが自然産卵できない場所になってしまっているのです。だから河口でサケを捕獲し、水産試験場で人工受精させて、産まれた稚魚を海に戻しているのです。そうしないと、北海道にサケは帰ってこなくなる。イトウが幻になったのも、同じ理由です。イトウの場合は保護するシステムがないから、姿を消すしかなかったのでしょう。

 その網が予想よりも1ヶ月早く設置されてしまっていて、絶好の釣り場所の範囲が狭められているからS君は嘆いたのです。その距離わずか15メートル。それでも、とにかく攻めようや、ということでぼく達は分散してキャスティングを始めることになりました。S君が、一番いいポイントをぼくに譲ってくれます。聞けば、過去にその場所で彼はメーター超えをあげているとのこと。胸が高鳴ります。そして第一投。
 不思議なもので、釣りは、第一投でいきなりヒットすることが多い。巨大な針の付いたルアーが着水します。底につくまでしばらく待ってリールを巻き、ゆっくりと引き始める。残念ながら一発目は不発。2度目、3度目、4度目、そして5度目にさお先が2回大きく振れました。すかさずあわせると、グイっときた後、プツンと音をたてて糸が切れました。

 釣りの仕掛けは、リールに巻いて伸ばした道糸、その先に短いテグス(リード)をつけてルアーをセットします。道糸は縒り糸、テグスは強化ナイロンなのですが、今回は道糸にかなり強いものを使っていたためリードをつけず、直結でルアーをセットしていたのです。それをイトウの歯で切られてしまった。イトウは肉食なので、尖ってはいないけれど頑丈な歯を持っています。ルアーを咥えたときの角度によっては糸が擦り切れたりする。巨大な針を折ることもあるのです。
 油断していました。強力なリードをつけていたら、あるいは。

 その後、日が暮れるまで、何度か場所をかえてぼく達はロッドを振り続けました。さすがに昼食後は仮眠をとったけれど、それ以外は黙々と。
 藪をかき分けて川辺に下ります。あるいは流れの中に腰近くまで入って目指すポイントにルアーを投げ込みます。ウグイスが鳴きます。カワセミが飛んできます。時々、雁の編隊が上空を横切ります。位置をかえて、また投げ。
 河原くんやS君の、ロッドの風切り音がビュッと響きます。またウグイスが鳴き。それ以外は、ひたすら、川と空と緑と。
 結局、釣果は、S君が80センチ超を一尾かけて面目を保ちましたが、ぼくと河原くんはノーヒット。帰路、S君が「すみません、ぼくの修行不足です。」としきりに詫びを入れます。でも、そんなことは全くない。ぼくはイトウに関して、彼以上の釣り人はいないと思っています。その知識の豊富さ、知るポイントの多さ、そしてその技量。一度、手を休めて彼の釣り姿を眺めていたのですが、しなりを利用して、遠くのポイントに狙い通りにルアーを投げ入れるロッドのさばき方は、芸術的とも言える素晴らしさでした。ぼくはむしろ、彼が苦労して開拓したポイントをぼくに惜しまず教えてくれることにこころから感謝しています。
 そして、至福のときは終わりを告げました。

 いつか1メーターを超えるイトウと出会いたい。その願いは来年に持ち越されました。でも、それでいいのです。1年でたった一日でいいのです。自然の中に入り込んで、幻の魚を追い求める。ただ黙々とルアーを投げる。
 その一日があるから、ぼくは日々の戦いをしのいでいける。苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、寂しいとき、こころに浮かぶ風景があるかどうか。
 ぼくは多分、そこで小さな自分を感じているのでしょう。それと同時に、おおきなものに包まれていることも。
 生きることが戦いであるならば、それは自分との戦いに他ならず、でも、その自分の本来の姿を知ることができれば、ぼく達は心置きなく力尽きるまで挑むことができる。そういうことではないか。

 釣りの翌日は、河原くんのお店で、ぼくのフェアをさせてもらいました。そして多くのお客様に、また来て欲しいと言われました。ぼくにまだ来年があるならば、是非、また来たい。その日まで、ぼくは不撓不屈であろうと思います。
d0163718_20272310.jpg

 
[PR]
# by chefmessage | 2014-07-16 20:28
今年の3月にあったぼくの還暦パーティーに、たくさんの料理人が料理を提供してくれた話は以前に書きましたが、ぼくの親友である横山淳くんもその一人でした。
 実は、彼が「自分も料理を出したい」と言った時、ぼくは断ろうと思ったのです。というのも、彼は腎臓が悪くて、週に3日透析をしないといけないことを知っていたから。そのため通常の仕事を続けることができず、やむなく自分のお店を閉めざるを得なかったということも。
 横山くんの気持ちはとてもありがたいけれど、無理をさせることはできません。だから、顔をだしてくれるだけで充分だからと、ぼくは伝えたのです。でも、彼はさせてくれ、と言います。それなら、お言葉に甘えさせていただきます、ということになりました。
 そして当日、彼は真剣な表情で、でも楽しそうに料理を作ってくれました。それは実に細やかな、愛情あふれる料理で、ぼくはこころから感謝したのですが、そのとき横山くんは、ぼくにこう言いました。「ミチノさん、料理を作る場を与えてくださってありがとうございました。」。ぼくはその言葉で、彼の気持ちを理解しました。
 横山くんは料理を作るのが本当に好きなんだ。重い病気も彼のその思いを消すことができず、むしろ病気になったことで、彼は今まで以上に料理に対して真摯になっている。それなら、
 「横山くん、一緒に料理作ろか。」。
 そして、ぼくの店で横山淳、道野正コラボフェアの開催が決定したのです。

 料理の分担を決め、日時も決定しました。サーヴィスに、ソムリエールでもある横山マダム、千晴さんも参加してくれることになりました。案内を始めたら、わずか数日で開催予定の二日とも予約で満席に。もう後には引けません。

 横山くんが泣き言いいます。「すごいプレッシャーで、ぼく、眠れません。」。千晴さんは「わたし、できるでしょうか?」と心配しています。その度に、ぼくは答えます。「だいじょうぶだ~。」。
 ぼくも決してこころ穏やかだったわけではありません。でも、ぼくが動揺すると折角のフェアがこわばったものになってしまう、だからぼくは勤めて明るく振舞っていたのです。でも、ぼくにも余裕があったわけではありません。というのも、ぼくは今回のフェアで、今まで頑なに避けてきた料理を再現しようと決意していたから。
 イカを巻いたラパン(ウサギ)のファルス、カカオのソース!

 15年前にこの料理を作ったとき、もうこれ以上は進めない、進んではいけないとぼくは自分に言い聞かせました。ここより先の領域に踏み込むと、ぼくの料理は誰にも判断がつかないものになってしまう。なによりぼく自身が壊れてしまう。
 それでなくても、開業以来10年の疾走で、ぼくの力は尽きかけていました。自分なりに考えられることは、すべてやりつくした、そんな思いが強かったし、精神的にも限界だった。だから、ぼくはこの料理を境に、もっと一般的に受け入れられるであろう方向に舵を切ったのです。そして、それ以後の15年間、ぼくは迷走しました。
 謂わばこの料理は、自己保身のための結界だったのです。孫悟空の行き着いた巨大な柱、釈迦が拡げた掌の果て。でも、ぼくは今回、敢てその領域に近づこうと考えました。それくらい真剣じゃないと、病気になっても尚、料理への情熱を失わない横山くんに対して失礼だし、彼の励みにもならない。まず自分が勇気を奮い起こして、このフェアを成功させるために全力を尽くそう。そしてぼくは、綿密に設計図を書き、試作を繰り返し、決意を形にしました。あとは、どう評価を受けるか、だけ。

 アミューズは5種類。横山くんの世界が広がります。
 一つ目のオードブルは、カツオと三元豚のシンフォニー。カツオのマリネから始まって、進むにつれ、煮込みやローストにした豚肉がカツオに添って味わいを深めていきます。横山くんの独創が功を奏して、お客様の感動を呼びます。
 二つ目のオードブル。直前まで泳いでいた琵琶湖の稚鮎を揚げて、川に見立てたキューリとキューリの泡に乗せ、鮎が遡上する姿を再現。これと次の鮎のリエット、ティラミス仕立ては道野。続いて魚料理は横山くん。
 魚に見立てたレンコンのステーキに、鱈のすり身のブランダードをかけるというトリッキーな技。見事です。
 そして、道野の件の料理。
 デザートは、うちのマダムが生産地まで足を運んで選んだ愛東メロンのテリーヌ。

 千晴マダムは、ずっとうちの店で働いているように見える落ち着きぶりで、ひさびさに彼女と会うお客様方もすっかり満足でくつろいでおられます。ため息と感嘆と笑顔と。幸福感が店に充満しています。
 大受けやな、横山くん、大成功や。
 そして、お客様のリクエストの多さに、年2回の開催をお約束して、二日間の饗宴は終わりました。
 横山くんは、本当にうれしそうだった。かなり疲れただろうけど、それを上回る成果があったはずだと思います。
 そしてぼくは、
 お釈迦様の掌を超えたと思います。ぼくは自由になれた気がします。その手助けを横山くんがしてくれました。

 できることとできないことと。でも、できないことのいくつかは、いつか出来るようになるのでしょう。大切なことはあきらめないこと。
 ぼくは、横山くん、千晴さん、このフェアに来て下さったすべてのお客様に感謝したいと思います。
 ありがとうございました。半年後に、また会いましょう。その時、ぼくと横山くんがどれだけ進歩しているのか。
 横山くん、オレ達の戦いはまだこれからやで。
 
d0163718_1646199.jpg
 
[PR]
# by chefmessage | 2014-05-20 16:46

映画のような話

 これはフェイス・ブックにも投稿した話なので、それを目にされた方には内容が重複することになるのですが、どうしても詳細が書きたくなったので、よろしければ今一度お読みになってください。

 それは40年くらい前のこと。ぼくには親友がいました。彼は成績もよく、明朗快活で学級委員タイプ、ぼくはといえば、落ちこぼれの不良学生、本来ならば水と油ほど違う高校生だったのですか、何故か気があいました。
 彼は何代か続いたカツラ屋の一人息子で、当時心斎橋のど真ん中にあった彼のお家、というかビルに、ぼくはよく泊まりに行きました。
 一階の作業場では、彼のお母さんが職人さんたちとカツラを作っています。カツラといってもいわゆるウイッグではなく、時代劇の女優さんがかぶっているいるような本格的な日本髪のものです。入り口の扉を開けて、彼が大声で「ただいま」と言うと、彼のお母さんが「お帰り!」「ごはん食べといで」と、元気に言い返します。カバンを放り込んで、ぼくたちは意気揚々、街に繰り出します。そして、お好み焼き、ハンバーグ、それからカツサンド、最後にコーヒーと、食べ物屋さんのハシゴをします。とにかく、二人ともよく食べた。いずれも心斎橋の名店なので、どこの料理もおいしかった。ただ不思議なことに、どの店でも彼はお金を払わないのです。「ごちそうさん。」と言うだけ。そして、「次、行こか。」。
 「お金、払わんでエエのか?」と聞くと、「ツケといたらエエねん。」と言います。ぼくは呆気にとられました。そして、老舗の持つ底力に畏怖しました。
 彼の部屋に戻って、夜遅くまで馬鹿話をして騒ぎました。本当に彼との付き合いは楽しかった。それは、ぼく達が別々の大学に進むまで続きました。
 それから数年たって風の噂に、彼が大学を中退したと聞きました。しばらくして、気になったぼくは心斎橋の彼の実家を訪ねたのですが、そこは何故か中華料理店になっていて、どう見ても、彼の家族が住んでいる様子はありませんでした。そして、彼の行方は、誰に聞いてもわからなくなった。
 いったい彼はどこに行ってしまったのか。どこで、どうして暮らしているのか。ぼくはずっと気になっていました。これほど探しても見つからないということは、もう彼は亡くなっているのではないか、とさえ思っていたのです。

 ある日、フェイス・ブックに友達リクエストがひとつ入っていて、それは彼とはまったく別の、でも同姓の人でした。その時、ひょっとしたら、とひらめいたのです。あるいは彼もフェイス・ブックをやってるんじゃないか。ダメもとのつもりで検索しました。すると・・・
 まぎれもなく彼が、美しい金髪の女性と並んで写真に写っています。ぼくは思わず叫びました。「おい、見つけたぞ!。」。

 スタンフォード大学卒業、エマーソン・カレッジ教授!専攻は生物統計学。
 うそやろ。大学教授ということはPh.D(博士号)もとっているのでしょう。スタンフォードもエマーソンも、ともにアメリカの超名門校です。驚きました。死んだとさえ思っていたのに。
 すかさずメッセージを送りました。翌朝、返ってきた返事に、涙が出たとありました。うれしくて眠れなかったとも。
 そして、ぼくは悟ったのです。彼は行方不明になったのではなくて、日本にいる友人達と連絡をとる余裕もなかったのだと。すさまじいほどの勉強量だったのでしょう。そうして彼は、熾烈な戦いに勝ち続けてきたのでしょう。日本を振り返るどころか、より深くアメリカという国に溶け込むために、彼はあらゆるものをかなぐりすてて突き進んできたのだと、ぼくは思うのです。
 すごい奴やなあ。

 その彼から、今日、新しいメッセージが届きました。辞書を片手に読みました。
「道野くん、ぼくは今、気がついたよ。きみと過ごしたときに、君が語ってくれたことが、ぼくの人生における心の核になっている、と。ぼくはすべてをいまだに理解しているわけではないが、きみは今でもぼくの師匠だよ。」。おおよそですが、そのような内容でした。
 なんということなのでしょう。確かに、当時のぼくは風変わりな高校生で、わかりもしない哲学書をいつも読みかじっていました。そして、自分とは何か、ということをいつも考えていました。例えば、人間は水の入ったコップなのではないか、とか。
 体は入れ物であり、そこに様々な価値判断の基準という水が注ぎこまれているとするなら、それらはどこから来たのか。それは、自分で選んだものか、それとも他者が強制的に詰め込んだものか。ならば、すべての価値判断を放棄すれば、本来の自分を発見できるのか、などなど、まあ、そのようなたわいもないことです。
 多分、そのころのぼくは、そんな愚にもつかない論議に夢中だったのでしょう。そしてぼくは、結局、料理人になりました。自分とは何か、ではなく、何になるべきか、という答えを求めて。ぼくも未だに全てを理解したわけではありません。だから、彼に師匠などと言われると、本当に困ってしまいます。

 でも、ぼくは彼と再会できて、ひとつだけわかったことがあります。ぼくは、最後まで料理そのもので勝負するべきなんだ、ということ。
 レストランの成功は、場所であるとか、雰囲気であるとか、あるいはサーヴィスにあるとか。それ以上に、不可視な、運というものに左右されるというのが、多くの人たちの結論です。でも、運なんて、それこそ雲をつかむような話です。だから、
 彼が、どんなときもひたすら自分を信じて、一歩一歩登りつめてきたように、ぼくも自分の力量と才能を信じて、料理というたった一つの武器で、正面から最後の戦いを挑むべきなのでしょう。

 Prof,Satake You are great,my best friend.
勇気をありがとう。きみの懐かしい大阪で、会える日を楽しみにしているよ。


 
 
[PR]
# by chefmessage | 2014-04-18 18:37