人気ブログランキング |

ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


by chefmessage
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

悔いのない日々を。

ぼくの店で10年間マネージャーを勤めてくれた原くんが、4日前の12月30日に退職しました。彼は実に真面目で信頼できる仲間でした。長い間、家族同然に過ごして来たので、辞めると言われて動揺して、なんとか翻意を促そうとしたのですが、彼が言ったこんな言葉を聞いて、ぼくはむしろ彼を笑顔で送り出そうと思ったのです。「ぼくがあと10歳若ければ、シェフと最後までご一緒したかったのですが」。

ぼくは65歳です。正直なところ、あと何年この仕事を続ける事ができるかわからない。そんなぼくに付き合っていたら、今45歳の彼は再就職の難しい年齢になってしまいます。だから、10年という区切りの良い時に退職し、将来を見据えて生きる道を再考したい、その思いの切実さに触れてぼくは何も言えなくなってしまいました。彼の人生は彼のもので、ぼくに付き合う必要なんてないのです。それに、今は東京に住んでいる老いた両親のそばにいてやりたいという希望もあったようです。だからぼくは、彼がぼくの店を去るその日まで、これまでと変わる事のない気持ちで接することにしました。

その彼が最後に、店の床のワックス掛けをしたいというので、ある日の営業終了後に手伝うことにしました。まずテーブルの半分をホールの隅に移します。それから残ったテーブルをひっくり返して、天板同士をくっつけて重ねます。椅子も同じようにして、できるだけ広いスペースを作ってワックスをかける。それを場所を変えてもう一度やって終了するのですが、やってみて驚いたことに、ぼくはテーブルをひっくり返して重ねる事ができない。重くて持ち上げる事ができないのです。そんなはずはないと何度か挑戦したのですが、原くんにはできてもぼくには無理なのです。自分の肉体の衰えをはっきり感じた瞬間でした。そして思いました。「あと10歳若ければ」。

ぼくはいつも、挑戦する気持ちを忘れないで生きてきたつもりです。いつかこういう風にしたいと思う事がなくなることはありませんでした。それは今でも同じです。でも、ぼくは気付きました。ぼくにはもう、いつかというのはない。今ここにある事がすでに奇跡なのかもしれません。それなら、今やるべきではないのか。
同世代の友人たちの多くは終活に向かっています。断捨離に努め、事業を縮小し、あるいは後継者に譲り。ぼくもそういう方向に向かうべきだとは思うのです。でも、「このままでは終われない」と訴える声が消えない。「もう一歩だけでも進みたい」と心が言っている。
やっといろんな事がわかってきたのです。やっと自分の本当にやりたい事が見えてきたのです。だから、これが最後のチャンスだと思っていろんなことに着手しようと考えています。年齢を考えると無謀かもしれないのですが、ぼくは残された日々を大切にしたい。

年末になると、いつもしていることがあります。お世話になった方達に、お節と称して重箱に詰めたオードブルを送っています。一つは必ず、大学時代の恩師、野本真也先生に。
大学を出て、無謀にも全く畑違いの料理人になると決めた時、背中を押してくださったただ一人の先生です。先生のお宅でお話をうかがったあと外に出ると、満開の桜並木から風に煽られた花びらが散っていました。その下で不安な気持ちを抱えて、それでも行こうとする自分の姿をぼくは忘れた事がありません。それから40年以上が経ちました。

一度、先生のご子息が婚約者と一緒に食事にこられたことがあります。「父がいつも話しているシェフの料理が食べたかったので」。食後にぼくは、常々思っていたことを尋ねました。「毎年ぼくが送っているお節は、かえってご迷惑ではないでしょうか?」。息子さんが答えてくれました。「そんなことは全くありません、むしろお正月にうちの両親が一番楽しみにしているのはシェフのお節なんですよ。」。
野本先生は同志社の神学部教授を勤められたあと、学校法人 同志社の理事長を長年なさっておられたので、お正月にはたくさんの方々がご挨拶に来られて大変だろうと思っていたから、ぼくはいつも気にしていたのです。でも、息子さんのお話を聞いて安心したぼくは、それからもずっと野本先生にお節を送り続けています。それを続ける事ができるのは、ぼくのこころの支えでもあると思っているから。

お節が届いた頃に、いつも先生からメールが送られてきます。今年はこんなことが書かれていました。
「この味は、これからも決して忘れることがないでしょう。痛みのために食欲不振がずっと続いていましたが、この味を思い出しながら、残された与えられた人生をなんとか生きていきたいと思います」。
先生の奥様も先生も、ともに闘病生活を送っておられます。だから、その言葉はとても重く胸に迫ります。でも、ぼくのささやかな行いが先生と奥様にとって慰めになっているとするなら、ぼくにとってもそれは慰めになっている。
メールはこんな言葉で結ばれていました。
「神様の豊かな祝福がありますように心から祈っています」。

「あと10歳若ければ」、ぼくは違った抱負をのべたかもしれません。ミシュランの星を取る、とか、アジアのベストレストランにランクインする、とか。でも、今のぼくはそういうことのために残された大切な時間を費やそうとは思っていません。流行というものに身を委ねて、自分の人生を消費されたくない。
できることはもう多くはないけれど、自分が納得できるものだけを世に送り出し、必要とする人に届けたいと思う。そして神様の前に立った時、やれるだけのことはやりましたと言える自分でありたいと思う。

いつかやろうと思っていたことを、今年は順番に実行します。そして、態勢を整えて最後まで走ります。
これがみなさんに向けた年始のご挨拶です。新しく人生を始めようとする原くんにも。
悔いのない日々を!
「Good luck!」
# by chefmessage | 2020-01-03 20:59

函館にて。

函館という街を初めて訪れたのは、ぼくが20歳の時でした。入学したばかりの大学に馴染めず、親に無断で退学届を出したぼくは身の置き所がなくて、とにかく旅に出ようと思いました。どうして生きていけば良いのかわからなくて、とても苦しかった。

その頃はまだJRではなくて国鉄でしたが、周遊券というものがあって、今で言うと「青春18きっぷ」みたいなものだと思うのですが、1週間くらいは列車に乗り放題だった。それを買って、ぼくは北へ向かいました。 その切符では特急には乗れなかったから、大阪を出て、24時間くらいかかって青森に着きました。若いとはいえ、さすがに疲れたぼくはそこで一泊して、次の日に北海道に向かい函館に降り立ちました。函館山からの夜景を見た記憶があるから、ぼくはそこでまた一泊したのでしょう。それ以降の旅程は詳しく覚えていません。稚内まで行ったことは確かだけれど。そして、周遊券の期限が切れるまで家には帰らなかった、というより帰ることができませんでした。でも他にいくところがないから帰宅し、父に正直に話しました。案の定、父は激怒して「出て行け」と言ったので、ぼくは家を出て知り合いのところに居候を決め込み、今で言うフリーターになったのですが、もう一度、今度は本当に行きたい大学に行こうと決意し、昼間はアルバイト、夜に独学ですが受験勉強をして翌年に同志社に進学しました。父は学費だけは出してやると言ってくれました。それから4年後、料理人になると宣言して、また父を失望させてしまったのですが、その時に彼が重い溜息とともに言った言葉を、ぼくは今でも覚えています。「お前はほんまに元の取れん子供や」。商売人だった父らしい一言でした。

その函館を再び訪れる事になったきっかけは、ル・マンジュ・トゥーの谷昇シェフからの電話です。「ミチノさん、函館に来てくんない?」。10月28日と29日に函館で「世界料理学会」という催事があって、そこに登壇する谷さんの対談相手になって欲しいという依頼でした。 谷さんと会ったのは多分3回くらいです。彼の店に食事に行ったのが2回、辻調理師学校の講習会で1回。でも、初対面のときから気が合うと思っていました。それは彼も同じだったようです。 「オレさぁ、知り合いはいっぱいいるんだよ。でも、しゃべって楽しいひとがいないんだ。ミチノさんとならずっと喋っていられる気がするんだよね」。 函館の「世界料理学会」のことは以前から知ってはいました。気にもなっていたのですが、人のたくさん集まる場所へ出向くことが苦手だから、自分とは無縁だと思っていました。でも、谷さんにそんなふうに誘われては断れません。「いいよ」と二つ返事で承諾しました。 そうして、ぼくの生涯二度目の函館訪問が決まりました。

当日、伊丹空港の搭乗口に出向くと、「オテル・ド・ヨシノ」の手島シェフと「エル・ポニエンテ」の小西さんがいます。みんな行く先は同じで、手島くんは初めてですが、小西さんは第1回目から参加しているとのこと。ちなみに今回は8回目ということでした。函館空港に到着して3人でタクシーに乗りホテルまで。ぼくだけ別のホテルだったので、そこから路面電車に乗って一人でチェックインを済ませました。その日の予定は歓迎パーティーだけだったので、ぼくは散歩にでもでかけようとホテルでもらった観光マップを広げました。歓迎パーティーのあるレストラン「ラ・コンチャ」は路面電車の「十字街」という駅が近いようです。見ていると、路面電車の線路をはさんだ反対側に「ハリストス正教会」という文字があります。なんとなく気になる。だからパーティーの前に散策に出かける事にしました。

木の床の路面電車って懐かしいな、少しこの街が好きになりつつあります。降りて、スマホの地図を頼りに歩き始めます。石畳の広い坂道があって、そこを登って行くと函館山のロープウェイ乗り場のようです。右側に先の丸いビザンチン様式の塔が見えたので、その方向に足を向けると、東本願寺の大きな講堂があります。大きな別院です。その前を通り過ぎようとすると、すごくモダンな別の教会が上手にありました。クローバーみたいな形。これはきっと空から見下ろすと十字架にみえるんだろうな。聖公会でした。ちょっと先に、もう一つ別の教会があります。カトリックです。ここも立派な美しい教会でした。ゴシック様式です。そして、ハリストス正教会。ここはロシア正教です。こんな狭い区画に別々の宗派の教会が三つと仏教寺院が一つある、これは驚きでした。
日が沈もうとしています。街に陰翳が出来ている。静かです。でも、所々に灯りがあって、人の住む温もりも確かにある。ヒンヤリと澄んだ空気を纏って、それぞれの建物が佇んでいる。時間が止まっているような感覚。「オレは確かにここに来たことがある」。懐かしくて、気持ちがゆるゆるとほどけていくようでした。素敵な街だな。

それから、旭川から来てくれた「メランジェ」の河原正典くんと合流して「ラ・コンチャ」、その後、谷さんと「ル・マンジュ・トゥー」のスタッフとともにお鮨屋さんで楽しく食事をして、ホテルに戻りました。なかなか眠くならなかったので、最上階の部屋のベランダに出て、函館駅の向こうに広がる海を見ていました。翌日から始まる料理学会のトップバッターになるのかと思うと、とても不思議な気持ちでした。あれからずっと、ぼくは旅をつづけているんだ。

トップバッターだというのに、ぼくと谷さんは電話で一度打ち合わせをしただけです。出たとこ任せの対談。ただ、ぼくは谷さんに、最後の5分間だけ時間をくださいとは言ってありました。単独で、聴いている人たちに伝えたいことがあったからです。 ぼくも谷さんもおしゃべりだし、気の合うもの同士だから、対談はスイスイと進んでいきます。やがて、最前列にいるスタッフが紙に書いたサインを頭上に上げました。「あと5分です」。でも話が終わらない。次に「まとめてください」のサイン、でも話題が途切れない。仕方がないから「すみません」と谷さんにお断りしてぼくは椅子から立ち上がりました。「ちょっとだけ個人的な話をさせてください」。

「実は函館に来たのは人生で2回目で、最初は20歳のときでした。その時、ぼくはどうして生きていけばいいのかわからなくて、とても苦しかったんです。だから、とにかく旅に出たくてこの函館にやってきました。その45年後に、今度はぼくはフランス料理のシェフとなってここで皆さんにお話をしています。45年の間にはいろんなことがありました。でも、あっという間だったような気がします。だから、もし今ハタチのぼくに出会えるなら、こう言ってやりたいと思います。自分を信じて、あきらめず、前を向いて生きていけばなんとかなる。そんなに苦しむことはないよ、と」。
「みなさんにもぼくは言いたい。67歳の谷昇と、もうすぐ66歳になる道野正が、最後までやり続けると言っていたその言葉を忘れないでください。そして、苦しい時には思い出して、もう一度ファイティングポーズを取ってください。そうすれば、ぼくたちも皆さんと共に生きていける。生きるとはそういうことだと思います。ぼくをこの地に再び立たせてくれた皆さんに、そしてそのきっかけを与えてくれた畏友、谷シェフに心から感謝します、ありがとうございました」。話の途中なのに遮って、自分の話をしたのにもかかわらず、谷さんは最後まで聞いてくれました。そして立ち上がって握手をしてくれた。ぼくたちはハグまでしてしまいました。素晴らしい知己を得て、ぼくはとても嬉しいと思った。
それから2日後、大阪にもどるまで函館で過ごした時間は夢のようでした。同業の仲間たち、若い人たちともレジェンドシェフたちとも、まるで家族のように親しくなれた。それはまるで異次元の世界のようでした。 みんなが微笑んでいる、みんなが真剣に相手の話に耳を傾け、同じように熱く語る。別れ際に、それまで雲の上の人だと思っていた音羽和紀シェフから「ミチノさん、是非一度、うちの店に来てよ」と言われて感激したし、吉野建シェフからは「オレも頑張るから、ミチノさんも頑張ってよ」と言われて思わずここでもハグしてしまったなんて、とてもじゃないが他所ではできないことが函館では自然にできてしまう、そのことにも驚いた。そして、そのような磁場を長年にわたって作り上げる発端となったのが、函館「レストラン・バスク」の深谷宏治シェフの個人的な夢だったということに、ぼくは畏怖を覚えました。でも、まだその夢は成就していない。物語はまだまだ続くようです。できればその物語をぼくはずっと見ていたい。人はどこまで行けるのか、ぼくも我が身で示してみたいと思う。

大阪に戻ってから、谷さんの店のマダム楠本さんよりメールが入りました。「谷もすごく楽しかったみたいで、帰ってからずっとミチノシェフの話ばっかりしています」。ぼくは谷さんに手紙を書きました。「苦しい時は、谷さんも頑張っているからオレも頑張ろうと思うようにするからね」。

手の中にある周遊券の期限はまだ切れてはいません。

# by chefmessage | 2019-11-29 21:00
9月4日から10月6日まで1ヶ月間、独立30周年ということで、普段よりも一層ハードルを高くして考えた料理ばかりでコースを作って提供することにしました。題して「360ヶ月の進化と明日」。
毎年、周年のフェアは9月に開催していて、その目的はぼく自身のモチベーションを上げ、それをスタートラインにして次の一年のレベルをキープするようにするためなのですが、今年のメニュー構成は、はっきり言って無謀とも思えるような料理の連続で、普段は沈着冷静なスーシェフが、「本当にこんなことやるんですか」と驚いた内容でした。とにかく、料理一品ずつのパーツが多い。
この頃思うのですが、よくできている料理とは味だけではなく、構成の巧みさやバランス、また見た目の美しさなどが重要になります。でも、もっと大切なことは、パーツ一つ一つの完成度の高さなのではないだろうか。きちんと出来上がった物が緻密に組み合わされて総合的に完璧なものになる。「神は細部に宿る」ということです。
スイスにパテック フィリップという超高級時計がありますが、聞くところによると、出来上がった主要部品を更に手仕事で磨き上げて組み込むらしい。そうすると駆動していてもチリが出ないので故障も少ないし耐用年数も高くなる、もちろん動きもスムーズだから時間も正確になるということです。料理も同じです。丁寧に作り上げたパーツの積み重ねが最終的な料理の良し悪しを決めるのではないかと思います。そして完成度の高いパーツを作るのはアーティストの仕事ではありません。それは職人仕事です。確かな理論と技術を身につけて初めてなしうる仕事だとぼくは思っています。だから今回のフェアでは、いかに丁寧にパーツを作り上げて完成させるかがテーマでした。一切、手抜きをしないこと。そのうえ、数がやたらと多いからスーシェフが驚いたのです。「こんなのシェフと二人でやる仕事量じゃないですよ」。それでもやろうとしたのは、一言で言うなら「意地」を見せたかったからです。

今、巷間でもてはやされている料理の多くは、見た目は良いけれどもパーツの作り込みは雑な気がします。だから、食べてみると見た目ほどのインパクトはない。その結果、何を食べたかわからないし印象にも残らない。それは決定的に職人仕事に対する認識不足だと思えて仕方がないのです。あるいは努力不足ではないか。基礎を踏まえてこそのイノヴェーションだとぼくは思います。ただ奇抜なだけ、そして、コピーして終わり、またそれを斬新だとか言って評価する媒体があるから、真面目に努力する人たちに陽が当たらない。ぼくはそのことに苛立ちを覚えているし、危機感も感じています。日本の料理人の基礎体力は落ち込んでいるのではないか。だからぼくは「意地」を形にして見せようと思ったのです。それは「負け犬の遠吠え」ではない堂々たる主張になると思ったから。そしてそれがぼくの不器用で拙い生き方なんだと思ったから。

でも、いくらやっても仕込みが終わらない。1日のノルマを終えたと思ったら、また翌日のノルマが待っている。予約帳は近年稀に見る盛況で、嬉しい悲鳴をあげている体は同時にギシギシ軋んでいる。でも、スタッフもマダムも頑張ってくれているから弱音なんてはけない。休みの日も一人で仕込みをして、もう疲れているかどうかもわからなくなっているそんなある日のディナー 。二人の若者が来店しました。

もう場違いなほど若い。飲み物はウーロン茶と水。服装もいたって質素。料理を持っていくと、一人が一眼レフのカメラで熱心に写真を撮っています。もう一人が皿の位置を変えたりしてお手伝いをしている。「早く料理を食べろ」と言いたくなるのを我慢する昭和のシェフ。それから、まるで慈しむように料理を食べ始める。デザートからお茶菓子に至るまでそんな調子でした。そういえばこの子達、一度来たことがあるな、と思い出しました。でも詳しいことは覚えていない。だから食事が終わった頃を見計らって話をしに行きました。

名古屋の調理師学校の生徒たちでした。一人がぼくの本を読んで、ぼくの料理が食べたくなって、同級生を誘って来たのが1回目。本にサインをしてあげた時、すごく嬉しそうだった。今日は「30周年記念ディナー」がどうしても食べたくて、授業が終わってそのままやって来たと言います。熱心に写真撮ってたな、と言うと、「綺麗に撮りたくて今日のためにカメラを買ったんです」という答え。そんなこと言われたら怒れないな。

「これから帰るのか?」と問うと、「もう遅いから一泊して翌朝帰ります。」。もう一人の若者が、「天王寺駅に行ってから」と言うので「なんで?」と聞くと、「道野シェフの本の最後の一冊がそこの本屋さんにあると出版社の方が言ってたから」。ここに在庫があるから持っていけ、とサインして手渡したその時、彼がカバンの中から何かを取り出しました。「これ、どうぞ」。「名古屋フランス」というお菓子。お土産に買ってきました、と差し出しました。

彼らにとっては今回の食事はたいそうな出費だったと思います。バイトして貯めたのかなぁ。交通費に宿泊費、その前にカメラも買って、それにお土産まで。それだけの価値があっただろうか、と自問するのですが答えはでない。でも、帰り際の笑顔は本物だったと思う。ぼくのどこが彼らにそこまで気に入られたのかはわかりません。でも、ぼくは「意地」はってよかったと思いました。何かが伝わって、彼らの勇気になったなら、ぼくのこれまでの歩みも無駄ではなかったと思えて、ぼくはとても嬉しかった。疲れは吹っ飛びはしなかったけれど、報われているという実感があって、ぼくは最後まで走れると確信しました。

今回のフェアは、本当にたくさんのお客様に来ていただいて、とても充実した時間を過ごすことができました。感謝なんて言葉では言い表せないくらい勇気をいただきました。これからも、ともに歩む人生でありたいとありたいと願っています。ありがとうございました。

# by chefmessage | 2019-10-14 14:37

360ヶ月の進化と明日

360ヶ月の進化と明日

ここ数ヶ月、体力・気力ともに最悪の状態で、本当に辛い毎日でした。原因は色々とあるのでしょうが、とにかく、朝起きて仕事に行く気力すら湧いてこないなんてこれまでになかったことなので、不安でたまりませんでした。心を覗き込んでみると、大きな哀しみが横たわっているみたいで。どうも、軽い鬱状態に入り込んでしまったみたいです。

これまでの人生が無駄に思えてなりませんでした。もっと他の生き方ができなかったのだろうか、やっぱり職業の選択を間違ったのではないだろうかと、今さら考えても仕方のないことをずっと考えています。
もっとマダムを幸せにできたのではないか、子供たちにしてあげられることがもっと沢山あったのではないか。

なんだか毎日、ギリギリのところでしのいでいる印象でした。でも、こんなことも考えていました。「もうだめだ」と「だめかもしれない」というのは似ているようで別物だな、と。

こういうことがありました。まだ料理人になって間もない頃、スーシェフだった先輩が総上がりしようと言い出しました。総上がり、というのは、従業員が示し合わせて一斉に辞めることです。ぼくの仕事先はちゃんと探してやるから心配するな、と言うのですが、ぼくはその考えに馴染めなかった。せっかく雇ってもらえたのに何故辞めなければならないのだろう。それに、そういう不義理はやってはいけないのではないだろうか。
だからもう一人の、すぐ上の先輩に逆提案しました。二人で残らないか、そうすればスーシェフの仕事を分け合うことができて早く仕事を覚えることができるじゃないか。彼は、その提案を受け入れました。

その後ぼくたち二人は、一人が調理場、もう一人がサービスに配属になりました。ただし、一ヶ月ごとに入れ替わること。そして、先輩が調理場に立っていたときにひとつの事件が起こりました。
その日は日曜日で、とにかく猛烈に忙しい日でした。調理場のガス台の前にはオーダー表がずらりとぶら下がっています。その忙しいピークの最中に、先輩が大きな声でこう叫びました。「もうだめだ、できない」。だめだと思った瞬間に頭の中が真っ白になってしまったのでしょう。そして棒立ちになってしまった。シェフがあわててぼくに言いました。「今すぐ着替えて、調理場と代われ!」。交代したぼくは無我夢中でオーダーを消化していきました。だめかもしれないけれど、何とかなる、そう自分に何度も言い聞かせながら。
数ヶ月後に先輩はその店を辞めました。きっと自信がなくなったのでしょう。そして、ぼくは結局、フランスに行くまでその後もその店で働きました。

そんな経験があったから、ぼくは何があっても必ず道は残されていると思ってやってきました。何度も危機があったけれども、「もうだめだ」と決めつけずに、なんとか乗り越えてここまできたのです。でも今回は、なかなかそう思えない。それはどうしてだろう。
ぼくは気がついたのです。心のどこかで、ぼくは老いを受け入れてしまっていたのでしょう。いくら頑張っても、もう時間がない、と。すでにすべては遅すぎる、と。
それでも毎日、我が身を励ましながら仕事をしていたのですが、お客様が帰り際におっしゃる言葉が気になり始めました。多くの方が、こうおっしゃるのです。「シェフのお料理は、本当においしい」と。本当?
長年こういう仕事をやっているとお世辞かどうかはわかります。でも、みなさん真顔でそう言ってくださる。

「美味しければ必ず客が来るという時代ではない」。そんな言葉が大手を振ってまかり通っています。大切なのはマーケティングだ、それもわかります。それでも、ぼくは美味しさを第一義に考えてきました。時代遅れかもしれないけれど、自分の仕事は美味しいものを作ることだと考えてここまで来ました。
ミシュランで星を取るための、あるいはベストレストランのランキングに食い込むための仕事をぼくはしたくない。
まずフランス料理という構造があり、あくまでそれに基づいてオリジナルを作り上げる、それがイノベーションです。むしろジャンルを感じさせないことで斬新さを打ち出したり、あえてストーリー性のない記号化されたような料理をぼくは作りたいとは思っていません。だから、「本当に美味しい」という言葉はなによりの応援だと思えました。

そんなことを考えていた時、「ル・マンジュ・トゥー」の谷シェフから、10月に函館に来れないかという電話がありました。今年で8回目を迎える「世界料理学会」へのお誘いでした。面白そうだし行きましょう、と返事したら、先日、正式に招待状が届きました。講演を依頼したいという内容でした。
そういう催事があることは以前から知っていましたが、自分にはまったく関係がないと思っていたのです。でも、まだ自分が必要とされていることが嬉しかった。引き受けることにしました。

そういえば、ぼくの本を見て食事に来られた女性に、「何年でも待つから続編を書いてください」と言われたこともありました。

まだ世界は開かれているから、オレは怯んでなんかいられないな。気づいて、ぼくは少しづつ浮上し始めました。いろんな人の熱い思いが、ぼくに浮力を与えてくれています。

独立して30年目を迎えました。9月に記念のディナーを一ヶ月間やります。メニューを考えようとスマートフォンのメモを見たら、400種類近くの料理のアイデアが入っていました。ぼくにはまだやりたいことがこんなに沢山あるんだ。ぼくにとって、突破力は料理以外にはないのだと強く思いました。
だから30周年記念ディナーのタイトルは「360ヶ月の進化と明日」です。360ヶ月まであと少し、でも、その先までずっと歩いていこうと思います。

「絶え間なく壊すこと以外に、そして常に作り直すこと以外に、損なわれないようにする方法はない」
福岡伸一「動的平衡」あとがきより。


# by chefmessage | 2019-08-09 20:21

 うちの店に10年間勤務してくれたマネージャーが退職したいと言ったとき、ぼくは思わず天を仰ぎました。そんな日がいつかは来るのだろうと思ってはいたけれども、いざその時が来ると、やはり動揺を隠せません。家族同然、というか、家族よりも長い時間を毎日過ごした仲間なので、いなくなるのは寂しいし、なにより業務に多大な支障が生じます。


それでなくてもいっぱい問題を抱えて苦しんでいるときだったので、彼の退職の申し出は止めの一撃、という感じで、ぼくはもうどうしていいのかわからなくなりました。でも、ぼくがこれから何年店を続けることができるのかわからない時期に差し掛かっているから、将来の再就職を考えると、彼の退職は早い方がよいのです。「ぼくがもう少し若ければ、最後までシェフと働くことができるんですが」、そう言われると納得するしかありません。それに、高齢の両親のことを考えると、一人息子である彼が親元に帰ることは悪いことではないとも思います。だから、ぼくにできることがあれば遠慮なく言ってほしいとだけ伝えました。


 なんだかとても疲れてしまって、もう店を閉めようかなと柄にもなく弱気になっていた時、20回目の結婚記念日のお祝いに、という予約が入りました。

 このご夫婦は20年前、当時豊中にあったぼくの店で結婚披露宴を挙げてくれました。それ以前から来てくださっていたのですが、いよいよ結婚することが決まったとき、ご主人がぼくにこう言いました。「大切な友人だけを招いて披露宴をします。丁度、道野さんのお店に入れる人数にしました。だから、親兄弟は出席しません」。それだけでも驚いたのですが、続いて出た言葉にぼくは二度びっくりしました。「その代わり、一生忘れないような、いつまでも思い出して話せるようなそんな食事会にしてください」。そして、「そうしてもらえるなら、お金のことは一切言いません。すべておまかせします」。まるで挑むように言い切った言葉を、ぼくは今でも覚えています。

 そんなパーティーにすることができたのでしょうか。それから毎年欠かさず結婚記念日には来てくださいました。その20回目の予約です。

 なけなしの気力をかき集め、奮い立たせて料理をしました。最後にマダムの力作、クロカンブッシュをテーブルにお持ちしたとき、寡黙なご主人が「すごい」と感嘆の声を上げました。そして奥様に「30周年もここでやってもらおうな」と声をかけられた。奥様が頷くのを見て、思わずぼくは言いました。「それは無理やわ。10年後、オレは75歳やで」。

 お二人が帰り支度を始めたので、玄関までお見送りしました。そのとき、ご主人がぼくに話しかけました。「道野さん、結婚10周年のとき、ぼくが20周年もお願いしますと言ったらなんて答えたか覚えてますか?」「そのときはもう65歳やから無理やわ、と言ったんですよ。でも、今日の料理は素晴らしかった。だから、30周年もお願いします」、そう言って奥様の背にそっと腕を添えて、二人並んで歩いていかれました。ぼくは、励まされたと思った。それに気づいたとき、ふっと光が射したような気がしました。浮力を感じて体がすこし軽くなった。それがうれしくて、角を曲がって帰ろうとする二人に手を振りました。彼も振り返って手を振った。奥様はそっとお辞儀を返してくれた。

 あと10年か。それは無理かもしれないけれど、やるだけはやってみようとぼくは思いました。


 それから二日後のことです。


 突然、東京のYさんが食事にきました。実は、彼とは会ったことも話したこともありません。ただ、Facebookでは以前から友達でした。フランス料理店のオーナーシェフです。ある時、彼がアップしていた料理があまりに見事だったので、どうやって作っているのかを聞いたところ、実に丁寧に教えてくれたのですが、その着想と技術に驚きました。そして、彼の料理が表紙になっている料理本も購入して、ひそかにファンのひとりになっていたのですが、その彼が、ご自分の店で使っていた食器を譲りたいという投稿をしていて、ちょうど気分転換に皿でも買おうかと思っていたぼくの目に留まったのです。早速、連絡をして譲っていただくことになりました。するといきなり翌日に、一人ですが明日のディナーで、とメールで予約が入って、皿まで持参すると書いてあります。お願いした皿は20枚で重いから送ってくれたらいいのに、と思ったのですが、尋ねてみると、8年営業したお店を閉めて時間があるからという返事。それなら、ということで、譲っていただくお皿に盛る料理を考えてディナーに追加することにしました。

 当日、一品一品を吟味して食べている様子が伝わってきます。自ずと、ぼくの方にも力が入ります。久しぶりに料理を作ることを楽しんでいる自分がいる。

 食後、いろんな話をしました。一旦、店を閉める決意をした彼の苦労話に耳を傾けます。一つ一つがわが身に響きます。なんでこんなつらい仕事を選んだんだろう。そして、なぜそんな苦しい思いをしながらもやめることができないんだろう。中でも、一番身につまされたのは、

 妊娠した彼の奥さんが、さすがにつらくてサービスの仕事ができなくなって、彼女のいない営業を始めなければならなくなったその朝、彼が心細くて泣いた、という話。


 うちのマダムが言った言葉を思い出しました。「強い人には必ず、その人を支える人がいるんだよ」。

 だから、そんな大切な人に気づいて、でもその人がいなくなったとしたら、ぼくも同じように、心細くて泣いてしまうだろうと思ったのです。

 

 そんな彼も、次のステージを見つけたようです。そして、その前にうちに来てほんとうに良かった、と言います。憧れの人に会って、その人の料理に感動して、ぼくは前に進む勇気をもらった、と。

 そういうふうに言われると、弱音なんか吐けないな、とぼくは思いました。励ますつもりが実は励まされている、そんなことが重なって、ぼくの方こそ勇気をもらいました。そして思ったのです。たとえ倒れるときが来ても、人の目に自分のファイティングポーズが残像として残る、そんな生き方を貫きたい。

 去る人に、頑張れよ、そう声をかけたい。その声がその人にいつもしっかり届くような毎日を、ぼくも送りたいと思います。

 


# by chefmessage | 2019-06-13 19:44