河瀬さんのこと
この頃思うのですが、過去のことを語る際の年数が40年前とか50年前とか、もっと古くなると60年くらい前とか、なんというか時代がかってきているなぁと、我ながら笑えてしまいます。
だから30年前となると比較的近代(笑)の話なのですが、その頃のぼくのブームはヴィンテージの腕時計でした。仕事の合間にその関係の雑誌を眺めるのが楽しみで、広告に載っている時計が欲しくて無理して買った苦い経験が多数あります。そんな広告の中で、いつも気になるお店がありました。掲載されている時計もそうなのですが、むしろその店自体がぼくにとっては謎だったからです。一階が時計店で二階がフランス料理店、どうやら経営者は同じ人物らしい。どうすればそのような営業形態が成り立つのかわからない。ずっと不思議だったのですが、結局行けずじまいで、いつしか時代は移り変わり。
それから20年後、ディナーの忙しい時間帯にソムリエが一枚の名刺を厨房のぼくのところに持ってきました。「こんなお客様がいらっしゃっています」。聞くと、その名刺のお客様が「あなたシェ・ワダにいた人でしょ」とおっしゃったらしい。驚いて訳を尋ねると、「その時計に見覚えがあるから」。その時、彼は愛用のジラール・ペルゴの古時計を着用していました。「見せてくれないか」と言われたので外してご覧にいれると、自己紹介がわりにとおっしゃって、その名刺をくださったらしい。
そこに書かれた店名は「ボン・ヴィヴァン」、場所は三重県伊勢市。ん?脳に送られた電気信号がグローランプみたいにチカチカしています。オレはこのお店を知っている。どこだ?脳内照明がパッと明るくなった。思い出しました。そのお店こそずっと気になっていた謎の時計店兼フランス料理店でした。
「目処がついたらお話しをしたいから待っててもらってください!」。
その時にはもう時計店は閉めていて、レストランも伊勢神宮の外宮前に移転していたのですが、それが河瀬毅氏との親交の始まりでした。以来10年、僕たちは今や無二の親友です。彼との時計談義は、微に入り細に入り、といった感じで、何時間喋っても飽きない。ほぼ同年代ということもあり、お互いの苦労話も虚飾なく語れます。たまに意見の食い違いがあっても、結局は「そやな」という言葉で受け入れてしまう。
彼との関係から生まれたイベントもあります。
ある日、郷土愛の強い彼がぼくに言ったことがあります。「伊勢志摩をスペインのサンセバスチャンみたいな食の都にしたいと思っている」。その時、ぼくは彼に一冊の本を推薦しました。それは柴田書店から出ている「料理人にできること」。著者の深谷宏治氏は函館のスペイン料理店のオーナーシェフですが、世界料理学会in HAKODATEの主催者として高名な方で、ぼくは講演者としてそこに呼ばれたご縁で知り合うことができました。世界料理学会in HAKODATEは、サンセバスチャンに長年にわたる縁のある深谷シェフが発起人となり、本家に倣って2009年に始めた催事で、今や東京、岩手、佐賀、広島とその枝を広げています。
「料理人にできること」を読んだ河瀬さんから数日後、深谷さんにお会いしたいから連絡して欲しいと言われて、ぼくは仲を取り持ちました。最初は河瀬さんご夫妻だけ行くつもりだったのに、同行したいという人たちが集まって、函館行きは団体旅行になりました。その団体名は「エバーグリーン」という三重の飲食店オーナーの集まりで、河瀬さんが世話役をやっています。それが発端となって、三重でも世界料理学会が大型商業施設であるVISONで開催されることになり、今年の11月で3回目を迎えます。ぼくも呼んでいただいて、大阪大学医学部栄誉教授の吉森保先生と細胞のオートファジーについて対談をする予定です。
ここで急に井上陽水の話になります。彼がライブで、曲の合間にこんな話をしていました。「雨雨降れ降れ母さんが 蛇目でお迎え嬉しいな、それを口ずさむとその光景が目に浮かんで、なぜかウッとなるんですよね」。年取ると涙もろくなる、些細なことで目に涙が浮かんでしまう、そんなことを言ってるんだと思うのですが、わかる気がする自分がちょっと嫌だったりします。
でも、歩いていて空の青さに気づき、この青空がいつか見れなくなるのかと思って寂しくなる。なんでもなかったことが、とても大切なことに思える。だから、もう一度大事にしようと思う。これが老いることの醍醐味かもしれないなと苦笑したりするのですが、友情もまた同じく。
以前は自動車で行っていたけれども、この頃は疲れるので電車で行くようになった伊勢ですが、それはそれでのんびりとして楽しい、そうして河瀬さんに会いに行く小旅行がずっと続いてほしい。
あの青い空と同じように、変わらぬ友情がありますように。そして、自分にとってのこの世の終わりが来るまで、お互いの脳内信号が輝き続けて励まされるように。それが、いささか涙もろくなっている、今のぼくの願いです。
#
by chefmessage
| 2025-06-04 13:08
memento NOTO(能登を忘れるな)
そこには競技場みたいなプールがあったから、公共のスポーツ施設だったのだろうと思うのです。だから、グランドの跡地などに棟割長屋のような仮設住宅をたくさん作ることができたのでしょう。周りは一見すると、のどかな田園風景に見えます。敷地内にはところどころに四阿(あずまや)があって、お年寄りがタバコを吸いながら談笑しています。男性が二人、女性が一人。お天気も良いから、その光景はとても平和に見えます。でも聞くとはなしに耳を傾けると、話がまるで噛み合っていない。それぞれが勝手に話している。そしてそれは、それぞれの思い出話です。その人たちが今見ている風景は目の前にはなくて、心の中にしかない。昨日があって、今日もあるけれども明日がない。
人はいつか、死ぬ場所を選ばなくてはならない時が来ます。意思疎通ができる間にそれを周囲に伝えた方が良いと思うけれども、その希望が叶えられるかどうかはわからないし、本人の気持ちとは別に周囲がそれを用意しなければならない場合もあるでしょう。それでも、人には自らが死ぬ場所を選ぶ権利があるとぼくは考えています。
今、ぼくの目の前にいる人たちは、ここから離れたくないのだろうと思います。たとえもう解体されたにせよ、まだあるにせよ、帰る場所はそこしかないのでしょう。でももう住むことができないのなら、せめてその近くで余生を送りたいという気持ちは理解できなくもありません。ただぼくが悲しく思うのは、失意のうちにこの世を去らなければならないかもしれないということです。
阪神大震災のことを思い出しました。
御影の倒壊したマンションの中庭に設置されたテントで夕飯の炊き出しをした帰り道、大阪に向かう国道2号線の両側は真っ暗でした。明かりがないから街の惨状は見えなくて、でも何か禍々しいものがずっと潜んでいるような気配が続きました。それが武庫川を渡った途端眩しいくらい明るくなった。そして、世界はまるで何もなかったかのようにそこにあった。その違和感にぼくは打ちのめされたような気分になったのを覚えています。
それでもまだ復興には勢いがあったと思います。やがて街は再び光を取り戻しました。
仮設住宅の世話役の方に案内してもらって、炊き出しの中心人物であるレストラン「エクティル」の川本紀男シェフとボランティアの人たちが、お年寄りのお宅を個別に訪問し食べ物を手渡してまわりました。その途中で、川本シェフが世話役の方に尋ねました。「県知事はここに来ましたか?」。「来てません。というか、議員さんも誰も来てないんじゃないですか」。それなのに、仮設住宅には選挙の投票場所だけはしっかりありました。「投票しろと言っても、誰が誰だかわかんないですよ」。
荒れた田畑の向こうに高い山が見えます。それのところどころに地肌が見えている場所があります。亀裂のように下まで続いているところもある。集中豪雨で崩れた後です。震災から10か月、やっと立ち直る気配が見え始めた能登が大規模な土砂崩れや川の氾濫に見舞われた。それに対する精神的なダメージの大きさは、あるいは元旦の大地震を凌駕するものであったとのではないかと想像します。でも、それに対する対応はどうなのか。それを確かめたくて、川本さんは先の質問を仮設住宅の方に投げかけたのだと思います。
実際に、世の中の反応、というか関心は薄れていっているのではないでしょうか。元旦の震災直後、われわれの業界でもチャリティディナーなどの催しがあちこちで行われました。でも、継続してはいません。一度やって、それで義務を果たした、そんな空気が漂っているような気がします。義援金の集まり方も弱まっているのではないでしょうか。でも、本当は今こそ底力を見せるべきではないかと思います。
一度炊き出しに参加しただけで偉そうに、と言われるかもしれません。本当にその通りです。そしてぼくにできることなんてちっぽけすぎて、なんの足しにもならないとも感じます。それでも、能登を忘れるなと訴えたい。外部の人間が軽はずみな口を叩くな、と言われるかもしれません。でも、能登の人口に比べると、それ以外の地方の人口の合計は比較にならないほど多いのだから、一人ずつが受け止めた価値のほんの一部でも差し出せば、それは大きな力になると思うのです。
明日のことを語れないまま去ろうとする老人たち、あるいはぼくたちもそうなるかもしれない、そうなったかもしれない、そんな共鳴がかすかにでもまだぼくたちにあるのなら、まだ世界には希望が残っていると思います。老人だけではなく全ての能登の人たちが再び明日を語れるようになるために、
「能登を忘れるな」
そう思い続けたい。
死ぬ場所を選ぶ、ということは生きる場所を選ぶということです。そしてこの世界が生きるに値するということを僕たちは実証しなければいけないと思います。今の能登は世界です。そしてそれは修復される日を待ち望んでいます。

#
by chefmessage
| 2024-10-29 17:24
溶ける函館
いくつになってもタクシーでの移動が苦手です。どうも居心地が悪い。まず何を話せばいいのかわからない。それなら何も喋らなければいいのですが、それも気づまりで、早く目的地に到着しないかとソワソワしてしまいます。だから他の交通手段がある場合は時間が許す限りそれを利用します。でも一番好きなのは歩いて行くことです。多少無理をしてでも歩く方を選びます。ただ距離感が掴めなくて、歩き疲れたり道に迷ったりして、途中でタクシーを捕まえることもよくあるのですが。
第11回世界料理学会in HAKODATEに招かれて出かけた函館ではできる限り路面電車を利用しました。前夜祭に出かける時に乗った路面電車は名探偵コナンバージョンで、古い型式の電車の外にも内にも所狭しとコナンの絵が描いてあって楽しい。一緒に出かけた吉森先生もなんだか嬉しそうでした。
今回、ぼくの対談相手として登壇していただくことになった大阪大学栄誉教授の吉森保先生は、天神祭の奉拝船でご一緒して以来仲良くさせていただいているのですが、そのきっかけが面白い。
そもそも天神祭の奉拝船というのは、一年に一度だけ降りて来られる天神様をお迎えする船のことなのですが、その中の一艘である「天満天神研究会」通称「天天研」号に毎年お弁当を届けることがうちの店の夏の風物詩になっています。何故なら、お弁当をみなさんに配って説明するという名目でぼくとマダムが乗船を許可されているからです。
この船の乗船メンバーは、責任者である天神祭研究の大家、高島幸次先生が毎年選ばれるのですが、錚々たる顔ぶれです。作家、学者、思想家に芸術家と、普段お目にかかれない方達ばかり、そういう人たちとワイワイ喋りながら奉納花火を見物するのは本当に楽しい。そして最後に全員で「大阪締め」をしてお別れするのですが、ある年のこと、マダムがびっくりした表情でぼくにこう言いました。「後ろの席の方が、今日のお弁当はノーベル賞の晩餐会の料理よりずっと美味かったとおっしゃってる」。ほんまかいな?とぼくは我が耳を疑ったのですが、それが吉森先生との出会いでした。2016年にノーベル生理学・医学賞を受賞された大隅良典先生の片腕として共同受賞者の候補になりながら、先人に敬意を表してその栄誉を譲られたことから、大隈先生に請われて共に授賞式に臨まれた吉森先生なので、その言葉に偽りはなかった、ということでそれからはずいぶん懇意にしていただいています。
その吉森先生が食事に来られた時にダメもとで、一緒に函館に行きませんか、とお誘いしてみました。世界料理学会というのがあるんですが、ぼくと登壇し対談していただけないでしょうか?というのも、以前に「不老長寿の食事術」というタイトルの本を送っていただいて読んでいたので、まんざら的外れにはならないだろうと思ったからです。
吉森先生は生命科学者で、専門は細胞の研究です。そして大隈先生が酵母で発見した細胞のオートファジー(自食作用)に関する遺伝子をもとに、その仕組みが動物にも共通する裏付けを実証された方です。ではオートファジーとは何か?先の本から引用します。
「細胞の中の物質を回収して、分解してリサイクルする現象あるいはシステムです。」
すなわち、このシステムが正常であると人は健康を維持できるわけで、そのためにどういう食生活を送り、何をどう食べればよいかを知れば「不老長寿」になるということだから、料理学会のテーマとしてはよいのではないかとぼくは思いました。それに、これまでの登壇者はほとんどが料理人あるいは食に関係する人たちで、話の内容はほぼアウトプットです。何をどう加工するか、食材をどう調達するか、あるいは飲食店経営の問題や人材確保の方法など。これまで誰も、そのようにして出来上がった食べ物がどのように人の体に受け入れられているのかを語ったことがない。すなわち、インプットが話題になったことがないのです。栄養価の話などはあったかも知れない、でももっと根本的なこと、食べないと人が生命を維持できないのは何故なのか、人の体はどのようになっているのか、生きるとはどういうことなのか、そして死ぬとはどういうことなのか、そういうことを当たり前のことだと切って捨てず、もう少し科学的に理解する機会があってもいいのではないだろうか。それを知れば、自分たちの仕事をもっと幅広く捉えることができるのではないだろうか。
吉森先生の奥様の一言が現実化第一歩となりました。「私、函館に行ってみたい」。スケジュール的にも大丈夫と聞いて、ぼくは世界料理学会in
HAKODATEの実行委員代表、レストラン・バスクの深谷宏治シェフに「不老長寿の食事術」を送った上で要請しました。「ぼくと吉森先生を登壇させてください」。
ぼくとうちのマダム、そして吉森ご夫妻の函館巡業は大成功でした。前評判も高かったのですが、吉森先生の壇上での解説がとてもわかりやすくて、たくさんの方が興味津々で聞いてくださった。集まった全国のシェフたちにとっては意表をつくテーマだったようで、講演の後は旧知の友人のように接してくれて、最初はアウェイ感を感じておられたお二人もずいぶんリラックスしたご様子でした。
最終日の夜は「港の庵」での打ち上げです。例の路面電車で向かうことにしました。でも、最寄りの停留所に着くには一本後の電車にしなくてはなりません。「十字街」というところまでは同じなのですが、先の電車は左折、ぼくたちのは直進するからです。マダムが十字街まで先の電車で行って、そこから2駅歩きましょう、と言います。吉森先生、どうします?と聞いたら、ぼくも歩きます、との答え。吉森先生、結構せっかちなんです。
「十字街」で降車し「港の庵」のあるベイエリアに向かって4人で歩き始めました。路面電車の上下線路を中央にして左右一車線の道路。石畳の幅広い両側の歩道。左の角に古めかしい洋館が煌々とした灯りの中に浮かび上がっています。街灯がまばらだから、闇がところどころ蹲っていて、昔の繁栄を偲ばせる蔵があったり煉瓦造りの倉庫があったり。柔らかな光があり、また闇があって瀟洒な居宅の玄関灯がふっと現れたり。人通りもまばらで、静かで。「昔住んでいたドイツの街みたいだ」と吉森先生が呟きます。左手上に函館山の灯り、その麓の教会群もちらちら見えます。澄んだ大気、歴史の微かな息遣いの聞こえるこの街は本当に美しい。そしていつかはこの街に住んでみたいとぼくはしみじみ思っている。
「港の庵」は古めかしい洋館で、海のそばにひっそりと佇んでいるはずなのに、すでに賑わっています。シェフたちが勝手に厨房に入って行って、運び込まれる食材を思い思いに調理してテーブルに並べます。それをワイン片手にワイワイ言いながらみんなで食べる。重鎮も若手もジャーナリストも生産者もみんな和気藹々。岐阜の和食の重鎮とフレンチの神様と奇跡のリンゴシェフの3人が肩組んで歌を歌っている。吉森先生は質問攻めに合いながらももりもり料理を食べ、グイグイワインを飲んでいる。多分、ここにいる人たちは楽しかった今夜のことを一生忘れないだろうと思う。
次の日はマダムと仲良しの女性がやっているヴィーガンレストランでランチを食べて、さて空港に向かおうとしていたら渡島振興局の松田さんがやってきました。忙しい合間をぬってぼくたちを空港まで車で送ってくれると言います。途中でお土産まで買ってくれて。
そういえば、本当にたくさんの函館の人たちがぼくたちをもてなすために動いてくれました。数え上げてもキリがないくらい。どうすればお返しできるのだろうと松田さんに聞いたことがあります。彼は言いました。
「お返しはもう一回来てくれることだよ。また来て欲しいから俺たちはもてなすんだ。それが俺たちのやり方なんだよ」。
ぼくの心にはいつの間にか函館が溶け込んでいます。まるで帰る場所ででもあるかのように。でも、ぼくは函館には移住することはないでしょう。その場所があるから、いつでも戻って来ていいよと言ってくれる仲間たちがいるから、ぼくは大阪にいていくつになっても戦えるのだと思います。
ところで後日譚。
函館の料理学会に東京から参加しておられた方に聞いた話です。最終日、吉森先生はぼくたちと一緒ではありませんでした。その日の夜に金沢で講演が予定されていたから、先生は単独で東京行きに搭乗、トランジットを経て小松空港に行かれたのですが、函館空港でソフトクリームを美味しそうに食べておられた姿をその方に目撃された。「先生、そんなの食べちゃダメなんじゃないですか」とその方は思わず言いそうになったと笑いながらおっしゃったので、ぼくはこう応えました。「いやそうではありません。先生は率先して人類の敵と戦っておられたのです」。
#
by chefmessage
| 2024-10-20 16:38