花柄のダンプカー
箪笥の引き出しを開けた時、いつも端っこでくしゃくしゃになっているシャツが気になっていたのです。黒地に大きな花柄で、昔はけっこう愛用していたのですが、着ないようになってからずいぶん年月が経って、でも捨てることができないまそこに置きっぱなしになってある。それは「Le Garage」というフランスのブランドのシャツで、ぼくが「シェ ワダ」に勤めていた頃に和田さんから頂いたものです。
当時「シェ ワダ」があったミナミのアメリカ村は、とてもおしゃれな街でした。あの頃の最先端だった「agnis b」や「BEAMS」、とびきり高価格な「ARMANI」があるかと思えば、雑居ビルにはたくさんの古着屋さんや雑貨屋さんが入っていて、ファッション好きで個性的な、様々な年齢の人たちが集まっていた。中にはオリジナルの商品やセレクト品を並べる個人経営の服屋さんもあって、先のシャツはその代表格であった「ステュディオ ダルチザン」に並べられていたものです。
ダルチザンのオーナーでデザイナーでもあった田垣さん夫妻が「シェ ワダ」の常連さんであった関係で、和田さんとぼくはよくそこで服を買っていました。ある日、ぼくが「リベルト」というフランス製のジーンズを買っているのを見た田垣さんの奥さんが、「あなた、それよりうちのオリジナルにしなさい」と勧めてくださったのですが、フランス修業中に親しんだリベルトが好きだったぼくは、「いや、こっちにします」と押し切ってしまった。次に「シェ ワダ」でお目にかかった時に、「この人はうちのオリジナルを買わなかった」となじられて、同じ店で買ったからええやんと少々理不尽な思いにかられたことも、今では懐かしい思い出です。
例のシャツは最初ぼくが買おうと思ったのですが、サイズがXLだったので諦めたところ、横にいた和田さんが「それならオレが買うわ」と購入したものです。和田さんは大きい人だったので、そのシャツはピッタリだった。それがどういうわけか、何回か着た後「やるわ」と譲ってくれたので、ぼくは嬉しくて、それに合う皮のGジャンをちょっと無理して買いました。「シェ ワダ」の前にあったボーリング場の地下の「DEPT」という古着屋さんのオリジナル商品でした。
そのシャツをなぜもう一度着たくなったのか、よくわかりません。そういえば、と探したGジャンがあったからかもしれません。Gジャンはホコリとカビで白くなっていたけれど、丁寧に拭うとまだ着れそうだったのが嬉しかったからなのか、それとも、亡くなった和田さんが懐かしくなったからなのか。
クリーニングから戻ってきたオーヴァーサイズの花柄シャツの裾をジーンズに押し込んで、皮のGジャンを羽織った時、風が通り過ぎていったような気がしました。
あの頃、和田さんの横にいて、ぼくも疾走していました。人気があったプロレスラー、スタン・ハンセンになぞらえて、フランス料理界の「ブレーキの効かないダンプカー」と言われていた和田信平。次々と斬新な料理を披露して時代の寵児だった。彼と過ごした日々はぼくにとっても黄金期でした。二人の合言葉は「向かうところ敵無し」だった。傲岸不遜でありながら、輝いていた。
遠い昔の出来事です。
そのシャツを着ているぼくを見て、娘が「そのシャツかわいい。似合ってるよ」と言ってくれました。「ありがとう、でも35年前のシャツやで」と返すと、「物持ちがいいんだね」と笑顔がかえってきました。「そうやねん」。
それから、ぼくは心の中でこう続けました。
「物持ちだけではなくて、心持ちもええんやで」。
和田さん、見てくれていますか?
心身ともにくたびれて、今はもうあの時のように早くは無理だけれど、
オレは今でも「あの頃の未来」を一人で走っているよ。
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by chefmessage
| 2023-05-17 15:55
世界料理学会と河瀬さんのこと
初めて函館の世界料理学会に招かれたのは2019年の10月でした。第8回目の開催で、ル・マンジュ・トゥーの谷昇シェフが対談の相手にと声をかけてくれたのです。料理学会のことは知ってはいたのですが、自分が呼んでいただけるとは思ってもいなかったので、嬉しくて、二つ返事で引き受けました。
函館には20歳の時に来たことがあるのですが、遠い昔の微かな記憶を辿りながら歩き回る街の風景は変わらず美しく懐かしかった。世界料理学会は楽しかったし、そこで出会った人たちとは、その後も深くお付き合いをするようになりました。自分の世界がその時を境に一気に広がったような気がします。
函館の世界料理学会は、レストランバスクの深谷宏治シェフが若い頃に修行をしたスペインのサンセバスチャンでの経験が土台となって始められました。
現在のサンセバスチャンは美食の街として有名ですが、そうなったのには秘訣があって、それは料理人がオープンに意見を交換することだったようです。例えば新しい料理を考案したら、それを披露する。食材に対して今までにないアプローチがうまくいったなら報告する。そのように、自分の仕事の成果を人に話し、それを聞いた人がまた新しい提案をする。活発な論議を繰り返して、街全体の食に対するレベルやスキルを高めていく。
料理人の世界というのは閉鎖的で、日本でも一子相伝なんてことが言われたりしますが、単純に考えると、たくさんの人が集まって意見を出し合い収斂させていく方が効率はいいはずです。手柄は独り占めせず分かち合う、それがサンセバスチャンという街が有名になる秘訣だったようで、それなら、函館でもできるのではないかと深谷シェフは考えた。食材が豊かであるという共通点もある。そこで、深谷シェフは同志を募り、力を合わせて世界料理inHAKODATEを開催するに至ったわけです。そのあらましは、深谷シェフの著作「料理人にできること」(柴田書店)に書かれています。
さて、ここにもう一人、料理人が登場します。ぼくの親友である河瀬毅さんです。三重の伊勢神宮には内宮と外宮があるのですが、その外宮のすぐそばで「ボンヴィヴァン」というフランス料理のレストランを経営しています。
河瀬さんは最初、ぼくの店にお客様として来られました。今でも覚えているのですが、忙しい日曜日の夜のことでした。マネージャーが厨房に一枚の名刺を持ってきて、このようなお客様が来られています、というのでそれを見たら、「ボンヴィヴァン」という店名。あ、そう、後でご挨拶に伺います、と答えたのですが、どうもその店名に見覚えがある。モヤモヤした気分で仕事をしていたら、ハッと思い出しました。
ずいぶん前ですが、ぼくはアンティークの腕時計にハマっていた時期があり、その時に定期購読していた時計の雑誌にその店の広告がよく出ていたのです。なぜ覚えているかというと、1階が時計屋で2階がフランス料理のレストランだったから。どうも同じ店らしいけど、どうやれば一緒にできるのかわからなかった。一度行ってみたいと思っていたのだけれど、場所が三重県伊勢市。実は小学校の修学旅行で行ったっきりの場所で、それに楽しかった記憶がありません。なんだか退屈で古臭い街、という印象でした。結局、行かずじまいだったのですが、俄然興味が湧いてきました。あの時の謎が解き明かされる。全ての料理を出し終えたら、ぼくはすぐにその席に行ってお話を聞きました。
時計屋さんの方は完全予約で、レストランの空き時間に対応していたとか。でも趣味の色が強すぎて、結局商売にならなかったと河瀬さんは苦笑い。それをきっかけに、ぼくと河瀬さんの交流は始まりました。
ある日のこと、電話で話していたらサンセバスチャンが話題になりました。ここにも我が街をサンセバスチャン化したい男がいたのです。伊勢志摩に賢島、風光明媚な上に海や山の豊富な食材があります。だからぼくは言いました。「深谷さんの本を読んでみたら、参考になるから」。
数日後、河瀬さんから着電あり。函館の深谷さんに会いにいくから紹介してほしい、とのこと。ぼくは喜んで承諾しました。
また数日後に電話があって、函館に行く計画を話したら仲間たちも同行することになって、と言います。仲間たちというのは、三重の料理人の集まりで河瀬さんがまとめ役になっている「エバーグリーン」という会のメンバーです。結局、十数人の団体でレストランバスクに行って、深谷さんの話を聞いてきたという報告を後日受けました。熱心な人達だなぁ、という印象、それにその結束の強さに驚かされました。
さて、肝心の函館での料理学会ですが、第10回目が昨年2022年の9月12日と13日に開催されて、ぼくも登壇させていただきました。今回は日本一周バイクの旅を中断して駆けつけたうちのマダムと一緒だったので前回に増して楽しい日々だったのですが、河瀬さんをはじめ三重の「エバーグリーン」の皆さんが来ておられてびっくり。三重で世界料理学会が開かれることになったので、視察にこられたとか。同じ料理人仲間です。函館のメンバーや登壇者の方たちともすぐに親しくなった様子で、とても良い雰囲気でした。
そしてその2ヶ月後の11月15日、第一回目の世界料理学会in VISONです。
ことの始まりは函館の深谷さんが三重のVISONに来られた時のこと。VISONというのは三重県多気町にある今話題の巨大な商業施設なのですが、ここにはホテルもあって、そこのメインダイニングのシェフが深谷さんのお弟子さんなのだそうです。そういうご縁もあって、VISONの立花哲也社長が深谷さんをお呼びになった。それなら河瀬さんにも来てもらって飲もうよ、という話になって、3人は会った。そこで話が盛り上がって、三重でも料理学会をやろうということになったのだそうです。
河瀬さんとエバーグリーンの皆さんが動き出した。一糸乱れぬ、というわけではなかったようだけれども、メンバーの熱意と献身的な努力で、さまざまな障害を乗り越えて実現に至ったのですが、函館視察には得るところがたくさんあったようです。
ぼくは河瀬さんの対談相手に指名していただいたのですが、今度はぼくがマンジュ・トゥーの谷さんを誘いました。快諾してくれて、ぼくたちはトリの鼎談をすることになりました。
実際に現場に立ち会って感じたことは、三重の料理学会は初回ということもあって、皆さんとても熱心だったこと。エバーグリーンのメンバーはもちろん、それぞれのお店のマダムをはじめ従業員の皆さんが笑顔いっぱいでテキパキと用をこなされていて、それがとても印象的でした。それこそ万事におもてなしの気持ちが溢れていました。
函館の場合は、男性中心で諸事が回っています。でもそれは、男性優位だからではありません。普段は女性陣にお世話になっているから、いざことある時には自分たちが矢面に立つべきだという、いわば騎士道精神に則ったルールで動いているのです。だから、料理も片付けも全部男性がやります、女性は何もせず、ただ楽しんでくださいという気持ちの表れなのです。それはそれで筋が通っていると思います。でも、その様子を見た三重の皆さんは、むしろ総動員で臨もうと考えたようです。だから、男だけにさせるつもりはありません、むしろ私たちがおもてなしの主役になります、という意気込みが感じられてとても清々しかった。それだけでも十分、三重の料理学会は成功したと思います。とにかく、対応してくださる女性陣の笑顔がとても素敵で、それは前夜祭から始まっていました。各店持ち寄りのお料理やデザートが所狭しと盛り付けられて、それを気持ちよくサーヴするマダム達。
でも、集められたぼくたちが緊張気味でした。なにしろ同業者とはいえ初対面のお相手、しかも各界の有名どころばかり。フランス料理の人たちならまだ馴染みもあるのですが、和食やお鮨屋さんの親方とは何をどう話していいのかわからない。それは先方も同じだったのかもしれませんが。
それなのに、登壇する方達の話を聞いているうちに感情がどんどん寄り添っていく。同じように苦しみ、同じように嘆き、同じように喜び、同じように楽しんでいる。そして全ての行程が終了し、別れるときには肩を組んで写真撮影をし、がっちりと握手をして再会を誓う。乗り越えてきた人たちでないとわからないこともある。そして、それこそが長い人生のご褒美なんだと思う。
谷さんがぼくを函館に呼んでくれました。そこで出会った人たちがぼくの親友と懇意になり、舞台は三重に移り、そこでまたぼくは多くの人たちと素晴らしい出会いをした。結局は人の繋がりなんだと思います。だから失望してはいけない、きっと誰かが見てくれているから。そして、救いの道は必ず用意されているから。
三重での料理学会が終わった数日後、知り合いになった小倉「天寿し」の天野功さんから荷物が届きました。開けてみると、名物のサバと鰯のみそ炊きの大きな包みが一つずつ。手紙も何もなし、でも天野さんらしくて嬉しかった。マダムがお礼のスイーツを箱に詰めながら、「お寿司だったらもっとよかったのに」と言うと従業員全員が「無理でしょ」と笑って返した。だったらいつか食べに行こうよ、とマダムがいうので、ぼくはそうしようと答えました。
本当に行けるかどうかわからない、でも、いつか会いに行きたい人がいて、きっと笑顔で出迎えてくれると想像することは人生を豊かにしてくれると思う。そして、そういう人たちと出会うために、今日もぼくたちは前を向いて歩いているんだと思う。
そうそう、河瀬さん、また遊びに行くからね。その時に、いただいた河瀬さんの著書「人生を愉しむレストラン」にサインをお願いします!
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by chefmessage
| 2023-01-26 14:00
『勝てないけれど負けない』
振り返ると、子供の頃から人の言うことを聞かない人間だったなと思います。まず親の言いつけを守らない。だから四人兄弟の中で最も手のかかる子供でした。母からこんな話を聞いたことがあります。あまりにぼくが言うことを聞かないから罰として押し入れに閉じ込めた。他の兄弟ならすぐに「早く出して」と泣くのにぼくは何も言わない。あまりに静かだから怪訝に思って覗くと、ぼくは寝ていた。「ほんまにこの子だけは」。母はいつもそう言っていました。ぼくが大人になっても。
多分、母にとっては最後までぼくは理解できない子供だったのだと思います。それでも我が子だから見放すことはできない。彼女の心労を察すると、今でも申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになります。
そんな調子だったから、学校でも従順な生徒ではありませんでした。勉強はしない、授業はサボる、かといって何か事件を起こすような不良でもない。不可解な生徒だったと思います。だから、好かれることはなかったけれども、かといって嫌われもしない。ただ、今になって、もっといろんなことを外から学ぶべきだったと思っています。ぼくは何も知らない、そのことを痛感しているから。
だったらお前は何をしていたんだと言われそうですが、本だけは読んでいました。わかるわからないは別として、さまざまなジャンルの本を。そして答えを見つけようとしていました。ぼくはいつも問い続けていた。
「自分とは何か」「自分の居場所はどこにあるのか」。
自分のことなんだから、自分で見つけなければならないと思っていた。
他人と同じ方法では見つからないと思っていたのです。だから、いつも違った方向から見ようとしていました。みんなはこうするけれども、これではいけないのか?常識と非常識の違いとは何か?いつも対比して考えていました。その違いがわかれば、より良い方向が見えるような気がして。
変な例えなのですが、例えば蛇の前進について。蛇には足がないのになぜ前に進むことができるのか?それは伸び縮みにあるとぼくは考えました。それが正解であるかどうかはわからないけれども、真っ直ぐなままでも縮んだままでも動くことができないわけで、だから前進とは常に伸縮運動を繰り返すことだとぼくは思ったのです。かつて桂枝雀さんが、笑いとは緊張と緩和だと言っていたけれども、これがそうなんだと思います。そして、笑いがそうであるなら、幸福というものは善と悪の対比から生まれるのではないか、と考えた時、ニーチェの「善悪の彼岸」を読んで、ぼくは一人、わかったような気分になりました。やはり、ぼくは「この子だけはようわからん」息子なのかもしれません。
大学の神学部を卒業しながら料理人になったのも、学者と職人の違いから自分をみつけたかったからかもしれません。そして修業後に独立してやった仕事も同じでした。ぼくは自分にしかできない料理をやろうとしました。伝統的なもの、例えば家庭料理やビストロ料理の面影を残しながらも新しい感覚の一皿。精力的に動いたと思います。そしてそれは、世間に受け入れられた時期もあり、すっかり見捨てられた時期もあり。そんな「流行り廃り」の変遷も自分らしいのかなと今では思いますが、気がつくと、ぼくはもう45年も自分がフランス料理だと思っているものを作り続けています。ただそれは、いつも同じ基調ではありません。伝統的なものに忠実であろうとしたり、完全に乖離したようなものであったり、まるでメトロノームのように行ったり来たりを繰り返してきました。でもその振幅で、少なくともぼくは前に進んできたと思うのです。それは自分探しの、あるいは居場所を探しての旅であったのかもしれません。
いつものことですが、話は急に転換します。
今年のお正月はマダムの実家で過ごしました。ぼくは両親とも亡くなっているので、昨年から岐阜に帰ることになったのです。
全員で初詣に行き、その後家族で恒例のアウトレットでのお買い物。それから晩御飯も食べて、全員が居間でくつろいでいます。
マダムは本を読んでいる。娘はほかほかカーペットに寝そべってスマホを見ている。義父は隣の部屋でウトウトしている。息子と義母とぼくはぼんやりとテレビを眺めている。
テレビではアザラシの母が、成長した子を流氷に置き去りにして海に飛び込んでいる。でも、やっぱり気掛かりなのか、波間に顔を出して、鳴く子アザラシを見つめている、そのシーンでぼくは泣きそうになっている。
ものすごく平凡な光景なのです。
この数ヶ月は激務で、毎日起床するとその日の仕事の段取りを考えて、少し憂鬱になりながら出勤し、ヘトヘトになって帰ってくる日々でした。休む間もなく動き続けた。だから、何も考えずテレビを眺めている自分が不思議だった。そして、そのような光景にホッとしている自分が意外でした。平凡な光景に満足している自分。以前なら、そのような場にいることはむしろ耐えられなかったのに。
これってひょっとして幸せなのか?おれはやっと自分の居場所を見つけたのか?でもその疑問はすぐにかき消えました。これでいいんだと、ぼくは思った。そして、自分のやってきた仕事も間違ってはいなかったんだと悟りました。
元旦の朝日新聞に哲学者の山折哲雄さんがこんな文章を寄稿していました。
「『勝てないけれど負けない』生き方を示したのもまた葉隠だったと、私には思えるのです」。
葉隠のことはよく知らないけれど、この文章には共鳴しました。
自分の仕事も同じだなと思ったのです。
現在のフランス料理界は大きく分けると、「伝統派」と「フュージョン派」にわかれているようです。でも、ぼくの仕事はどちらでもありません。中途半端だから、世間の耳目を集めることもありません。それは傍流の小さな小さな点にすぎない。でもぼくは、ぼくにしかできない仕事をやり続けます。やっと自分を発見したみたいです。そして自分の居場所も。
『勝てないけれど負けない』、また一年が始まります。
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by chefmessage
| 2023-01-04 20:13