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ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


by chefmessage
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     memento NOTO(能登を忘れるな)
 そこには競技場みたいなプールがあったから、公共のスポーツ施設だったのだろうと思うのです。だから、グランドの跡地などに棟割長屋のような仮設住宅をたくさん作ることができたのでしょう。周りは一見すると、のどかな田園風景に見えます。敷地内にはところどころに四阿(あずまや)があって、お年寄りがタバコを吸いながら談笑しています。男性が二人、女性が一人。お天気も良いから、その光景はとても平和に見えます。でも聞くとはなしに耳を傾けると、話がまるで噛み合っていない。それぞれが勝手に話している。そしてそれは、それぞれの思い出話です。その人たちが今見ている風景は目の前にはなくて、心の中にしかない。昨日があって、今日もあるけれども明日がない。

 人はいつか、死ぬ場所を選ばなくてはならない時が来ます。意思疎通ができる間にそれを周囲に伝えた方が良いと思うけれども、その希望が叶えられるかどうかはわからないし、本人の気持ちとは別に周囲がそれを用意しなければならない場合もあるでしょう。それでも、人には自らが死ぬ場所を選ぶ権利があるとぼくは考えています。
 今、ぼくの目の前にいる人たちは、ここから離れたくないのだろうと思います。たとえもう解体されたにせよ、まだあるにせよ、帰る場所はそこしかないのでしょう。でももう住むことができないのなら、せめてその近くで余生を送りたいという気持ちは理解できなくもありません。ただぼくが悲しく思うのは、失意のうちにこの世を去らなければならないかもしれないということです。

 阪神大震災のことを思い出しました。
 御影の倒壊したマンションの中庭に設置されたテントで夕飯の炊き出しをした帰り道、大阪に向かう国道2号線の両側は真っ暗でした。明かりがないから街の惨状は見えなくて、でも何か禍々しいものがずっと潜んでいるような気配が続きました。それが武庫川を渡った途端眩しいくらい明るくなった。そして、世界はまるで何もなかったかのようにそこにあった。その違和感にぼくは打ちのめされたような気分になったのを覚えています。
 それでもまだ復興には勢いがあったと思います。やがて街は再び光を取り戻しました。

 仮設住宅の世話役の方に案内してもらって、炊き出しの中心人物であるレストラン「エクティル」の川本紀男シェフとボランティアの人たちが、お年寄りのお宅を個別に訪問し食べ物を手渡してまわりました。その途中で、川本シェフが世話役の方に尋ねました。「県知事はここに来ましたか?」。「来てません。というか、議員さんも誰も来てないんじゃないですか」。それなのに、仮設住宅には選挙の投票場所だけはしっかりありました。「投票しろと言っても、誰が誰だかわかんないですよ」。
 荒れた田畑の向こうに高い山が見えます。それのところどころに地肌が見えている場所があります。亀裂のように下まで続いているところもある。集中豪雨で崩れた後です。震災から10か月、やっと立ち直る気配が見え始めた能登が大規模な土砂崩れや川の氾濫に見舞われた。それに対する精神的なダメージの大きさは、あるいは元旦の大地震を凌駕するものであったとのではないかと想像します。でも、それに対する対応はどうなのか。それを確かめたくて、川本さんは先の質問を仮設住宅の方に投げかけたのだと思います。

 実際に、世の中の反応、というか関心は薄れていっているのではないでしょうか。元旦の震災直後、われわれの業界でもチャリティディナーなどの催しがあちこちで行われました。でも、継続してはいません。一度やって、それで義務を果たした、そんな空気が漂っているような気がします。義援金の集まり方も弱まっているのではないでしょうか。でも、本当は今こそ底力を見せるべきではないかと思います。
 一度炊き出しに参加しただけで偉そうに、と言われるかもしれません。本当にその通りです。そしてぼくにできることなんてちっぽけすぎて、なんの足しにもならないとも感じます。それでも、能登を忘れるなと訴えたい。外部の人間が軽はずみな口を叩くな、と言われるかもしれません。でも、能登の人口に比べると、それ以外の地方の人口の合計は比較にならないほど多いのだから、一人ずつが受け止めた価値のほんの一部でも差し出せば、それは大きな力になると思うのです。

 明日のことを語れないまま去ろうとする老人たち、あるいはぼくたちもそうなるかもしれない、そうなったかもしれない、そんな共鳴がかすかにでもまだぼくたちにあるのなら、まだ世界には希望が残っていると思います。老人だけではなく全ての能登の人たちが再び明日を語れるようになるために、
「能登を忘れるな」
そう思い続けたい。
 死ぬ場所を選ぶ、ということは生きる場所を選ぶということです。そしてこの世界が生きるに値するということを僕たちは実証しなければいけないと思います。今の能登は世界です。そしてそれは修復される日を待ち望んでいます。
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# by chefmessage | 2024-10-29 17:24

溶ける函館

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溶ける函館
 いくつになってもタクシーでの移動が苦手です。どうも居心地が悪い。まず何を話せばいいのかわからない。それなら何も喋らなければいいのですが、それも気づまりで、早く目的地に到着しないかとソワソワしてしまいます。だから他の交通手段がある場合は時間が許す限りそれを利用します。でも一番好きなのは歩いて行くことです。多少無理をしてでも歩く方を選びます。ただ距離感が掴めなくて、歩き疲れたり道に迷ったりして、途中でタクシーを捕まえることもよくあるのですが。

 第11回世界料理学会in HAKODATEに招かれて出かけた函館ではできる限り路面電車を利用しました。前夜祭に出かける時に乗った路面電車は名探偵コナンバージョンで、古い型式の電車の外にも内にも所狭しとコナンの絵が描いてあって楽しい。一緒に出かけた吉森先生もなんだか嬉しそうでした。

 今回、ぼくの対談相手として登壇していただくことになった大阪大学栄誉教授の吉森保先生は、天神祭の奉拝船でご一緒して以来仲良くさせていただいているのですが、そのきっかけが面白い。
 そもそも天神祭の奉拝船というのは、一年に一度だけ降りて来られる天神様をお迎えする船のことなのですが、その中の一艘である「天満天神研究会」通称「天天研」号に毎年お弁当を届けることがうちの店の夏の風物詩になっています。何故なら、お弁当をみなさんに配って説明するという名目でぼくとマダムが乗船を許可されているからです。
 この船の乗船メンバーは、責任者である天神祭研究の大家、高島幸次先生が毎年選ばれるのですが、錚々たる顔ぶれです。作家、学者、思想家に芸術家と、普段お目にかかれない方達ばかり、そういう人たちとワイワイ喋りながら奉納花火を見物するのは本当に楽しい。そして最後に全員で「大阪締め」をしてお別れするのですが、ある年のこと、マダムがびっくりした表情でぼくにこう言いました。「後ろの席の方が、今日のお弁当はノーベル賞の晩餐会の料理よりずっと美味かったとおっしゃってる」。ほんまかいな?とぼくは我が耳を疑ったのですが、それが吉森先生との出会いでした。2016年にノーベル生理学・医学賞を受賞された大隅良典先生の片腕として共同受賞者の候補になりながら、先人に敬意を表してその栄誉を譲られたことから、大隈先生に請われて共に授賞式に臨まれた吉森先生なので、その言葉に偽りはなかった、ということでそれからはずいぶん懇意にしていただいています。

 その吉森先生が食事に来られた時にダメもとで、一緒に函館に行きませんか、とお誘いしてみました。世界料理学会というのがあるんですが、ぼくと登壇し対談していただけないでしょうか?というのも、以前に「不老長寿の食事術」というタイトルの本を送っていただいて読んでいたので、まんざら的外れにはならないだろうと思ったからです。

 吉森先生は生命科学者で、専門は細胞の研究です。そして大隈先生が酵母で発見した細胞のオートファジー(自食作用)に関する遺伝子をもとに、その仕組みが動物にも共通する裏付けを実証された方です。ではオートファジーとは何か?先の本から引用します。
「細胞の中の物質を回収して、分解してリサイクルする現象あるいはシステムです。」
 すなわち、このシステムが正常であると人は健康を維持できるわけで、そのためにどういう食生活を送り、何をどう食べればよいかを知れば「不老長寿」になるということだから、料理学会のテーマとしてはよいのではないかとぼくは思いました。それに、これまでの登壇者はほとんどが料理人あるいは食に関係する人たちで、話の内容はほぼアウトプットです。何をどう加工するか、食材をどう調達するか、あるいは飲食店経営の問題や人材確保の方法など。これまで誰も、そのようにして出来上がった食べ物がどのように人の体に受け入れられているのかを語ったことがない。すなわち、インプットが話題になったことがないのです。栄養価の話などはあったかも知れない、でももっと根本的なこと、食べないと人が生命を維持できないのは何故なのか、人の体はどのようになっているのか、生きるとはどういうことなのか、そして死ぬとはどういうことなのか、そういうことを当たり前のことだと切って捨てず、もう少し科学的に理解する機会があってもいいのではないだろうか。それを知れば、自分たちの仕事をもっと幅広く捉えることができるのではないだろうか。

 吉森先生の奥様の一言が現実化第一歩となりました。「私、函館に行ってみたい」。スケジュール的にも大丈夫と聞いて、ぼくは世界料理学会in
HAKODATEの実行委員代表、レストラン・バスクの深谷宏治シェフに「不老長寿の食事術」を送った上で要請しました。「ぼくと吉森先生を登壇させてください」。

 ぼくとうちのマダム、そして吉森ご夫妻の函館巡業は大成功でした。前評判も高かったのですが、吉森先生の壇上での解説がとてもわかりやすくて、たくさんの方が興味津々で聞いてくださった。集まった全国のシェフたちにとっては意表をつくテーマだったようで、講演の後は旧知の友人のように接してくれて、最初はアウェイ感を感じておられたお二人もずいぶんリラックスしたご様子でした。

 最終日の夜は「港の庵」での打ち上げです。例の路面電車で向かうことにしました。でも、最寄りの停留所に着くには一本後の電車にしなくてはなりません。「十字街」というところまでは同じなのですが、先の電車は左折、ぼくたちのは直進するからです。マダムが十字街まで先の電車で行って、そこから2駅歩きましょう、と言います。吉森先生、どうします?と聞いたら、ぼくも歩きます、との答え。吉森先生、結構せっかちなんです。
 「十字街」で降車し「港の庵」のあるベイエリアに向かって4人で歩き始めました。路面電車の上下線路を中央にして左右一車線の道路。石畳の幅広い両側の歩道。左の角に古めかしい洋館が煌々とした灯りの中に浮かび上がっています。街灯がまばらだから、闇がところどころ蹲っていて、昔の繁栄を偲ばせる蔵があったり煉瓦造りの倉庫があったり。柔らかな光があり、また闇があって瀟洒な居宅の玄関灯がふっと現れたり。人通りもまばらで、静かで。「昔住んでいたドイツの街みたいだ」と吉森先生が呟きます。左手上に函館山の灯り、その麓の教会群もちらちら見えます。澄んだ大気、歴史の微かな息遣いの聞こえるこの街は本当に美しい。そしていつかはこの街に住んでみたいとぼくはしみじみ思っている。

 「港の庵」は古めかしい洋館で、海のそばにひっそりと佇んでいるはずなのに、すでに賑わっています。シェフたちが勝手に厨房に入って行って、運び込まれる食材を思い思いに調理してテーブルに並べます。それをワイン片手にワイワイ言いながらみんなで食べる。重鎮も若手もジャーナリストも生産者もみんな和気藹々。岐阜の和食の重鎮とフレンチの神様と奇跡のリンゴシェフの3人が肩組んで歌を歌っている。吉森先生は質問攻めに合いながらももりもり料理を食べ、グイグイワインを飲んでいる。多分、ここにいる人たちは楽しかった今夜のことを一生忘れないだろうと思う。

 次の日はマダムと仲良しの女性がやっているヴィーガンレストランでランチを食べて、さて空港に向かおうとしていたら渡島振興局の松田さんがやってきました。忙しい合間をぬってぼくたちを空港まで車で送ってくれると言います。途中でお土産まで買ってくれて。
 そういえば、本当にたくさんの函館の人たちがぼくたちをもてなすために動いてくれました。数え上げてもキリがないくらい。どうすればお返しできるのだろうと松田さんに聞いたことがあります。彼は言いました。
「お返しはもう一回来てくれることだよ。また来て欲しいから俺たちはもてなすんだ。それが俺たちのやり方なんだよ」。

 ぼくの心にはいつの間にか函館が溶け込んでいます。まるで帰る場所ででもあるかのように。でも、ぼくは函館には移住することはないでしょう。その場所があるから、いつでも戻って来ていいよと言ってくれる仲間たちがいるから、ぼくは大阪にいていくつになっても戦えるのだと思います。

 ところで後日譚。
 函館の料理学会に東京から参加しておられた方に聞いた話です。最終日、吉森先生はぼくたちと一緒ではありませんでした。その日の夜に金沢で講演が予定されていたから、先生は単独で東京行きに搭乗、トランジットを経て小松空港に行かれたのですが、函館空港でソフトクリームを美味しそうに食べておられた姿をその方に目撃された。「先生、そんなの食べちゃダメなんじゃないですか」とその方は思わず言いそうになったと笑いながらおっしゃったので、ぼくはこう応えました。「いやそうではありません。先生は率先して人類の敵と戦っておられたのです」。

# by chefmessage | 2024-10-20 16:38
       さぬきはめざめているか?
 何年か前から、さぬきのめざめヴィオレッタというアスパラを使わせていただいています。さぬきのめざめは香川県の特産品で、通常のものの倍くらい背が高いグリーンアスパラなのですが、ヴィオレッタはその紫ヴァージョンです。さらにそれを遮光して育成したピンク色のものもあります。
 ただ、届いた当初はちょっと戸惑いました。紫やピンクのアスパラは以前に一度ブームになったのですが、色素の元であるアントシアニンは加熱すると濃い緑色になってあまり綺麗じゃなくなるので、結局あまり使われなくなって作る人も少なくなり、市場にも出回らなくなったのです。
 なんとか美しさを保ったままで加工できないかと考えていた時に、思わぬ助っ人が現れました。函館でビーガンのレストラン「やさいばーみるや」を営んでいる後藤るみ子さんです。彼女は先のブームの時にピンクのアスパラを広める活動に一役買っていたのだと言います。早速連絡して聞いてみました。答えは「茹でるときにヴィネガーを入れること」。焼く場合は「断面を加熱すること」。

 その方法でサッと茹でて、作っておいたマリネ液に入れ一晩寝かせたピンクのさぬきのめざめは、ため息の出るような美しさでした。紫の方は根元から5センチくらいはピーラーで皮を剥きますが、元々そのままでも食べれるものなので、縦に切って断面のみ軽くグリエして温かいサラダにします。これにミキュイにしたサクラマスを添える料理がぼくのレストランの春の定番です。

 このアスパラは香川県観音寺市にあるURAfarmさんから取り寄せています。彫刻家だったご主人と写真家だった奥さんが二人で始めた農場です。と書くと、なぜ農業に転身したんですか?と聞きたくなるのが人情ですが、ぼくも同じように、人から散々、どうして神学部卒業してるのにコックさんになったんですかと問われ続けてきたので、ずっと尋ねることができませんでした。ぼくの場合、その質問に答えるのはとても難しい。なぜなら、今でも正解がわからない。浦さんたちも同じかもしれないと思うから聞き出せなかったのです。

 今でも時々、料理を作っている自分が不思議に思えることがあります。もう一人の自分がいて、冷静に観察している感覚。なんでぼくは料理を作っているんだろう。もっと何か他のことができたんじゃないだろうか。
 後悔しているわけではありません。ただ、どうしてこの道を選んだのだろうと自分に問うている。あの時の逃げ場所が料理の世界だったんだろうか。かといって、楽な世界ではありませんでした。本当はそこからも逃げ出したかった。でも、なんとか踏ん張って気がつけばもう46年も料理を作り続けている。
 後には下がりたくなかったのだと思います。そして、やる以上はとことんやろうとぼくは心のどこかで思い続けてきました。

 浦さんの場合、農業をやろうと言い出したのは奥さんだったようです。彼女は農業の写真を撮ってそれを作品にしていたから、その選択はそれほど突飛ではなかったようです。ではご主人の方はどうだったのでしょうか。ただ直接会ってお話しした時に、彫刻で生活する難しさは語っておられました。
 その真意はともかく、二人で師匠に就いて修行を始めたけれど、この師匠がとにかく厳しい人だったようで、本当に辛かったらしい。それでも耐えて独立したところは、かけた年月に違いはあっても、ぼくと似たようなところがあったんだろうなと想像します。彼らは逃げなかった。

 苺栽培がやりたくて、二人は2年間レタスやネギを作ってお金を貯めたんだけれども、就農相談に行ったらアスパラを勧められて、それじゃ、ということでアスパラ農家になったあたりも、ぼくがフランス料理を選んだ時のようないい加減さが感じられて、ぼくはこのお二人に親近感を感じた、と言ったら怒られるでしょうか。
 それから13年。ぼくとマダムが訪れたURAfarmは立派でした。奥さんの聡子さんの運転する暴走(笑)軽トラックで訪れた圃場ではご主人の達生さんが青ネギを作っています。連日の猛暑でネギの葉先が少し茶色くなっている。それを引っこ抜いて、外葉を取って、こうして出荷するんですと達生さんが差し出したそれは生命力に溢れているようで美しかった。土の状態を色々と試行錯誤して、どんどんおいしくするようにしているんです、そう言って笑う彼の顔は陽に焼けているけれどもちょっと芸術家っぽかった。青ネギは1日で900キロも出荷しているそうです。
 その後、ぼくたちは点在するアスパラのハウスを見て回りました。全部で10棟くらいはあったでしょうか。これは聡子さんが管理しているようです。農場開場当初がアスパラ栽培であったことを考えると、一歩引いているように見える聡子さんが実はしっかり者であることが想像できます。だからうちのマダムと気が合うのかと、軽トラの荷台で揺られながらぼくは苦笑していました。

 最後にヴィオレッタを栽培しているハウスに連れて行ってもらいました。それは三つある畝の一つの、半分くらいのスペースでした。これだけ?と問うと、ヴィオレッタを出荷しているのは道野さんのところだけなんです、という答え。「そのうち注文分だけ袋を被せて、遮光してピンクにしているんです」。ぼくは恥ずかしくなりました。そして聡子さんに言いました。「ごめん、これからはもっと大切に扱うから」。被せてあった袋を取ったそのアスパラは、ぼくの目には作物というよりも作品に見えました。

 今回の訪問に際し、車を運転して同行してくれた友人のことも紹介したいと思います。丸亀市で「シェ長尾」というフランス料理店を夫婦で営む長尾武洋くん。今回の旅のもう一つの目的は、彼のところで食事をすることでした。
 ことでん(高松琴平電気鉄道)の、「栗熊」という小さな無人駅から歩いて10分。どんなところか想像できますか?とにかく鄙にも稀な、という形容がぴったりですが、立派な一軒家を改装したお店は隅々まで手入れされていて気持ちがいい。URAfarm訪問の前夜にいただいた料理は、ぼくには親近感のあるまっすぐな仕立てで、彼の人間性が表れていて、ぼく達はとても良い時間を過ごすことができました。
 彼はうちのスーシェフの後輩で、一緒に「シェワダ」で働いていたのですが、あまり良い辞め方ができなかったそうです。それがずっと心に引っかかっていたのでしょうか、その後も料理の世界からは逃げ出さずに身を置きながら、いつか独立して和田さんに来てもらおうと努力した。その願いは、和田信平氏が亡くなったので実現しなかったけれども、とにかく故郷に戻って、その名も「シェ長尾」として頑張っています。

 浦さんのところからの帰り道、長尾くんに、目についたカフェに寄ってくれるようにお願いしました。そこはマンゴーの直売所も兼ねているので、パフェもある。なにしろ暑かったので、アイスクリームが食べたくなったのです。それを食べながら、ぼくは元美術家たちの作るアスパラや青ネギのことを考えていました。彼らもぼくと同じように、時々自分の仕事の不思議さを感じることがあるのだろうか。そういえば以前webで検索したときに、聡子さんがこんな発言をしていたことを思い出しました。「美術をしていた時と農業をしている今、自分の中で差はあまりない」。そうであるなら、彼らが農業をしていることに疑問が入り込む余地はないかもしれません。

 自然界においては、種子は風や雨や動物などに運ばれて地に落ち、芽吹きます。ただ、全てが順調に育つことはない。その土地に合ったものだけが成長してやがて実を結ぶ。
 浦さんたちは観音寺に根を張って、枝を大きく伸ばしている。長尾くんは丸亀に戻って自分が信じた料理を作り続けている。それならぼくも、これからはこう考えようと思います。「料理人になったのは天職だったからだ」。

 そして、この文章のタイトルの答えにやっと辿り着きました。    
      「さぬきはすでにめざめている」。
       鼓動が聞こえるようです。


# by chefmessage | 2024-07-28 14:56