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ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


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360ヶ月の進化と明日

360ヶ月の進化と明日

ここ数ヶ月、体力・気力ともに最悪の状態で、本当に辛い毎日でした。原因は色々とあるのでしょうが、とにかく、朝起きて仕事に行く気力すら湧いてこないなんてこれまでになかったことなので、不安でたまりませんでした。心を覗き込んでみると、大きな哀しみが横たわっているみたいで。どうも、軽い鬱状態に入り込んでしまったみたいです。

これまでの人生が無駄に思えてなりませんでした。もっと他の生き方ができなかったのだろうか、やっぱり職業の選択を間違ったのではないだろうかと、今さら考えても仕方のないことをずっと考えています。
もっとマダムを幸せにできたのではないか、子供たちにしてあげられることがもっと沢山あったのではないか。

なんだか毎日、ギリギリのところでしのいでいる印象でした。でも、こんなことも考えていました。「もうだめだ」と「だめかもしれない」というのは似ているようで別物だな、と。

こういうことがありました。まだ料理人になって間もない頃、スーシェフだった先輩が総上がりしようと言い出しました。総上がり、というのは、従業員が示し合わせて一斉に辞めることです。ぼくの仕事先はちゃんと探してやるから心配するな、と言うのですが、ぼくはその考えに馴染めなかった。せっかく雇ってもらえたのに何故辞めなければならないのだろう。それに、そういう不義理はやってはいけないのではないだろうか。
だからもう一人の、すぐ上の先輩に逆提案しました。二人で残らないか、そうすればスーシェフの仕事を分け合うことができて早く仕事を覚えることができるじゃないか。彼は、その提案を受け入れました。

その後ぼくたち二人は、一人が調理場、もう一人がサービスに配属になりました。ただし、一ヶ月ごとに入れ替わること。そして、先輩が調理場に立っていたときにひとつの事件が起こりました。
その日は日曜日で、とにかく猛烈に忙しい日でした。調理場のガス台の前にはオーダー表がずらりとぶら下がっています。その忙しいピークの最中に、先輩が大きな声でこう叫びました。「もうだめだ、できない」。だめだと思った瞬間に頭の中が真っ白になってしまったのでしょう。そして棒立ちになってしまった。シェフがあわててぼくに言いました。「今すぐ着替えて、調理場と代われ!」。交代したぼくは無我夢中でオーダーを消化していきました。だめかもしれないけれど、何とかなる、そう自分に何度も言い聞かせながら。
数ヶ月後に先輩はその店を辞めました。きっと自信がなくなったのでしょう。そして、ぼくは結局、フランスに行くまでその後もその店で働きました。

そんな経験があったから、ぼくは何があっても必ず道は残されていると思ってやってきました。何度も危機があったけれども、「もうだめだ」と決めつけずに、なんとか乗り越えてここまできたのです。でも今回は、なかなかそう思えない。それはどうしてだろう。
ぼくは気がついたのです。心のどこかで、ぼくは老いを受け入れてしまっていたのでしょう。いくら頑張っても、もう時間がない、と。すでにすべては遅すぎる、と。
それでも毎日、我が身を励ましながら仕事をしていたのですが、お客様が帰り際におっしゃる言葉が気になり始めました。多くの方が、こうおっしゃるのです。「シェフのお料理は、本当においしい」と。本当?
長年こういう仕事をやっているとお世辞かどうかはわかります。でも、みなさん真顔でそう言ってくださる。

「美味しければ必ず客が来るという時代ではない」。そんな言葉が大手を振ってまかり通っています。大切なのはマーケティングだ、それもわかります。それでも、ぼくは美味しさを第一義に考えてきました。時代遅れかもしれないけれど、自分の仕事は美味しいものを作ることだと考えてここまで来ました。
ミシュランで星を取るための、あるいはベストレストランのランキングに食い込むための仕事をぼくはしたくない。
まずフランス料理という構造があり、あくまでそれに基づいてオリジナルを作り上げる、それがイノベーションです。むしろジャンルを感じさせないことで斬新さを打ち出したり、あえてストーリー性のない記号化されたような料理をぼくは作りたいとは思っていません。だから、「本当に美味しい」という言葉はなによりの応援だと思えました。

そんなことを考えていた時、「ル・マンジュ・トゥー」の谷シェフから、10月に函館に来れないかという電話がありました。今年で8回目を迎える「世界料理学会」へのお誘いでした。面白そうだし行きましょう、と返事したら、先日、正式に招待状が届きました。講演を依頼したいという内容でした。
そういう催事があることは以前から知っていましたが、自分にはまったく関係がないと思っていたのです。でも、まだ自分が必要とされていることが嬉しかった。引き受けることにしました。

そういえば、ぼくの本を見て食事に来られた女性に、「何年でも待つから続編を書いてください」と言われたこともありました。

まだ世界は開かれているから、オレは怯んでなんかいられないな。気づいて、ぼくは少しづつ浮上し始めました。いろんな人の熱い思いが、ぼくに浮力を与えてくれています。

独立して30年目を迎えました。9月に記念のディナーを一ヶ月間やります。メニューを考えようとスマートフォンのメモを見たら、400種類近くの料理のアイデアが入っていました。ぼくにはまだやりたいことがこんなに沢山あるんだ。ぼくにとって、突破力は料理以外にはないのだと強く思いました。
だから30周年記念ディナーのタイトルは「360ヶ月の進化と明日」です。360ヶ月まであと少し、でも、その先までずっと歩いていこうと思います。

「絶え間なく壊すこと以外に、そして常に作り直すこと以外に、損なわれないようにする方法はない」
福岡伸一「動的平衡」あとがきより。


# by chefmessage | 2019-08-09 20:21

 うちの店に10年間勤務してくれたマネージャーが退職したいと言ったとき、ぼくは思わず天を仰ぎました。そんな日がいつかは来るのだろうと思ってはいたけれども、いざその時が来ると、やはり動揺を隠せません。家族同然、というか、家族よりも長い時間を毎日過ごした仲間なので、いなくなるのは寂しいし、なにより業務に多大な支障が生じます。


それでなくてもいっぱい問題を抱えて苦しんでいるときだったので、彼の退職の申し出は止めの一撃、という感じで、ぼくはもうどうしていいのかわからなくなりました。でも、ぼくがこれから何年店を続けることができるのかわからない時期に差し掛かっているから、将来の再就職を考えると、彼の退職は早い方がよいのです。「ぼくがもう少し若ければ、最後までシェフと働くことができるんですが」、そう言われると納得するしかありません。それに、高齢の両親のことを考えると、一人息子である彼が親元に帰ることは悪いことではないとも思います。だから、ぼくにできることがあれば遠慮なく言ってほしいとだけ伝えました。


 なんだかとても疲れてしまって、もう店を閉めようかなと柄にもなく弱気になっていた時、20回目の結婚記念日のお祝いに、という予約が入りました。

 このご夫婦は20年前、当時豊中にあったぼくの店で結婚披露宴を挙げてくれました。それ以前から来てくださっていたのですが、いよいよ結婚することが決まったとき、ご主人がぼくにこう言いました。「大切な友人だけを招いて披露宴をします。丁度、道野さんのお店に入れる人数にしました。だから、親兄弟は出席しません」。それだけでも驚いたのですが、続いて出た言葉にぼくは二度びっくりしました。「その代わり、一生忘れないような、いつまでも思い出して話せるようなそんな食事会にしてください」。そして、「そうしてもらえるなら、お金のことは一切言いません。すべておまかせします」。まるで挑むように言い切った言葉を、ぼくは今でも覚えています。

 そんなパーティーにすることができたのでしょうか。それから毎年欠かさず結婚記念日には来てくださいました。その20回目の予約です。

 なけなしの気力をかき集め、奮い立たせて料理をしました。最後にマダムの力作、クロカンブッシュをテーブルにお持ちしたとき、寡黙なご主人が「すごい」と感嘆の声を上げました。そして奥様に「30周年もここでやってもらおうな」と声をかけられた。奥様が頷くのを見て、思わずぼくは言いました。「それは無理やわ。10年後、オレは75歳やで」。

 お二人が帰り支度を始めたので、玄関までお見送りしました。そのとき、ご主人がぼくに話しかけました。「道野さん、結婚10周年のとき、ぼくが20周年もお願いしますと言ったらなんて答えたか覚えてますか?」「そのときはもう65歳やから無理やわ、と言ったんですよ。でも、今日の料理は素晴らしかった。だから、30周年もお願いします」、そう言って奥様の背にそっと腕を添えて、二人並んで歩いていかれました。ぼくは、励まされたと思った。それに気づいたとき、ふっと光が射したような気がしました。浮力を感じて体がすこし軽くなった。それがうれしくて、角を曲がって帰ろうとする二人に手を振りました。彼も振り返って手を振った。奥様はそっとお辞儀を返してくれた。

 あと10年か。それは無理かもしれないけれど、やるだけはやってみようとぼくは思いました。


 それから二日後のことです。


 突然、東京のYさんが食事にきました。実は、彼とは会ったことも話したこともありません。ただ、Facebookでは以前から友達でした。フランス料理店のオーナーシェフです。ある時、彼がアップしていた料理があまりに見事だったので、どうやって作っているのかを聞いたところ、実に丁寧に教えてくれたのですが、その着想と技術に驚きました。そして、彼の料理が表紙になっている料理本も購入して、ひそかにファンのひとりになっていたのですが、その彼が、ご自分の店で使っていた食器を譲りたいという投稿をしていて、ちょうど気分転換に皿でも買おうかと思っていたぼくの目に留まったのです。早速、連絡をして譲っていただくことになりました。するといきなり翌日に、一人ですが明日のディナーで、とメールで予約が入って、皿まで持参すると書いてあります。お願いした皿は20枚で重いから送ってくれたらいいのに、と思ったのですが、尋ねてみると、8年営業したお店を閉めて時間があるからという返事。それなら、ということで、譲っていただくお皿に盛る料理を考えてディナーに追加することにしました。

 当日、一品一品を吟味して食べている様子が伝わってきます。自ずと、ぼくの方にも力が入ります。久しぶりに料理を作ることを楽しんでいる自分がいる。

 食後、いろんな話をしました。一旦、店を閉める決意をした彼の苦労話に耳を傾けます。一つ一つがわが身に響きます。なんでこんなつらい仕事を選んだんだろう。そして、なぜそんな苦しい思いをしながらもやめることができないんだろう。中でも、一番身につまされたのは、

 妊娠した彼の奥さんが、さすがにつらくてサービスの仕事ができなくなって、彼女のいない営業を始めなければならなくなったその朝、彼が心細くて泣いた、という話。


 うちのマダムが言った言葉を思い出しました。「強い人には必ず、その人を支える人がいるんだよ」。

 だから、そんな大切な人に気づいて、でもその人がいなくなったとしたら、ぼくも同じように、心細くて泣いてしまうだろうと思ったのです。

 

 そんな彼も、次のステージを見つけたようです。そして、その前にうちに来てほんとうに良かった、と言います。憧れの人に会って、その人の料理に感動して、ぼくは前に進む勇気をもらった、と。

 そういうふうに言われると、弱音なんか吐けないな、とぼくは思いました。励ますつもりが実は励まされている、そんなことが重なって、ぼくの方こそ勇気をもらいました。そして思ったのです。たとえ倒れるときが来ても、人の目に自分のファイティングポーズが残像として残る、そんな生き方を貫きたい。

 去る人に、頑張れよ、そう声をかけたい。その声がその人にいつもしっかり届くような毎日を、ぼくも送りたいと思います。

 


# by chefmessage | 2019-06-13 19:44

 「こだわり」という言葉を、ぼくたちの業界ではよく使います。自分の店の宣伝文句にしたり、あるいはその逆に、お客さんが店への賛辞に用いたりして、ほぼ常套句になっているような感があります。でもぼく自身は、その「こだわり」という言葉があまり好きではありません。


 ぼくの店は料理に野菜をたくさん使うので、「野菜にこだわったフランス料理店」と媒体に紹介されることがよくあるし、お客さんに「シェフは野菜にこだわっているんですね」と言われることも多いけれども、どうもぼくには、それが誉め言葉には聞こえません。心の中で、べつにこだわっているわけではないんだけど、といつも思ってしまいます。

 もちろん質の悪い食材は使わないし、自分の意に沿わないものを使ったりもしません。当然、選別はしているわけですが、そのような、いわゆる目利きはプロであるなら当然のことです。だから、それを殊更に「こだわり」なんて言うのは、かえって欺瞞というか、意識の低さをさらけ出しているような気がするのです。それに、「こだわり」という言葉の印象としては、「駄々をこねている」あるいは「わがまま」といった、むしろ否定的なものを感じてしまいます。だから、ぼくは自分の料理を表現するときに、「こだわり」という言葉は使わないようにしています。


 ぼくにとっては、むしろ「人」が重要な位置をしめています。

 野菜を例にとると、ぼくは今、4件の生産者さんと取引をしています。愛媛の「ナイス ベジタブルファーム」、石川県能登島の「高農園」、広島県三原市の「高掛農園」、そして千葉県柏市の「ヨシノ ハーブファーム」。

 一番お付き合いが長いのは「ナイス ベジタブル」の矢野さんです。10年以上も前からこの方はおじいさんだったから、今は相当なおじいさんだと思うのですが、ぼくたちの知らなかった葉物野菜を当時から作っておられました。ぼくは今でも、矢野さんは外来品種の第一人者だと思っています。

 「高農園」は、金沢のレストラン「プレミナンス」の川本紀男シェフに紹介していただきました。能登島は海が隆起してできた島なので、畑は赤土です。ミネラル分が多い土壌なのですが、そのような耕作しにくい土地なのに露地物が多い。根菜の美味しさは別格です。実際に現地に行って、高さん夫妻ともお会いしました。農業がやりたくて移住してきた当初は思うようにならなくて、千円で一週間暮らしたこともあったという話を聞いたとき、ぼくはこの人たちの野菜を使いたいと思いました。今は東京を中心に取引先も多いようですが、その取引先に行って食事をして、実際に自分たちの野菜がどのように使われているかを確かめる努力も信頼を集める一因となっているようです。ただ「食いしん坊」なだけだという気もなくはないですが、ぼくの店にも何度か足を運んでくださいました。

 広島の高掛くんは、鹿児島の「カイノヤ」塩澤くんの紹介です。本当は別の農園のマイクロリーフが使いたかったのですが、その農園の「カリスマファーマー」とはご縁がなくて、そこで研鑽を積んだ高掛くんと取引をすることになりました。サンプルを送ってもらったらすごく良いものだったので、独り占めするのがもったいなくて、いろんなひとたちに紹介しました。旭川の「メランジェ」河原くんにも知らせてやったのですが、彼も気に入って使うようになりました。それから彼の料理の盛り付けは劇的に良くなりました。料理も格段にレベルアップしました。今や「メランジェ」の料理は、全国区に通じる完成度の高さだとぼくは思っています。そのきっかけが、ぼくの紹介した「高掛農園」の野菜だとしたら、ぼくにとってこれ以上嬉しいことはありません。


 高掛くん本人も好青年です。たくさん取引先を紹介していただいたからお礼のご挨拶をかねて、と食事に来てくれたのですが、ガチガチに緊張している姿が微笑ましかった。「もっと紹介しようか?」と問うたら、「いや、これ以上になるとできません」と笑っていました。去年の7月の豪雨で畑が冠水して、途方に暮れていたけれども、わずかひと月で農園を再開した気概は称賛に価すると思っています。

 「ヨシノ ハーブファーム」は、「オリジン」の吉田くんを介して知り合いました。吉田夫妻が食事に来てくれたときに、お土産で持ってきてくれたのが吉野さんの作ったキク芋でした。ずいぶん立派なものなので感心していると、吉田くんが「吉野さんが是非、手渡して欲しいというので」と言います。まったく面識のない方なのにどうして?と問うと、ぼくの「料理人という生き方」を読んで「道野シェフの大ファンになったようです」と言います。それなら、ということでSNSでつながりを持って、サンプルを送ってください、と連絡すると、「面談したことがない方にはお送りすることはできません」という返事。面接試験ありということなのか?と驚きました。それはないやろ。でも、それからすぐに彼と会う機会が訪れました。大阪に来る用があるというので、「オリジン」で一緒に食事をすることになったのです。

 大阪芸大を出て、映像プロデューサーをやっていた彼が実家の農業をするようになったのは6年前のことだと言います。当時、ガンで余命いくばくもなかったお父さんが、頼むからこれだけはやってくれ、と彼に依頼したのは、トラクターで畑の雑草を漉き込むことでした。そうしないと雑草の種が飛んで、周りの畑に迷惑をかけるから、と。そしてかすれた声で、彼にトラクターの運転方法を教えてくれたそうです。

 実際にやり終えてみると、楽しんでいた自分がいて、雑草を漉き込んで畝ができた畑は美しく目に映ったそうです。そのときに、絶対後を継がないと言っていた農業に心が動いたと言います。

 食後に、ぼくの本をカバンからとりだして、サインしてほしいと言いました。でも、それは全くの新品だった。ぼくが怪訝な目をしていると、彼はもう一冊をカバンから取り出しました。それはページがごわごわになっていて、紙も茶色くなっていました。「農作業にももっていくから汚れたので、サイン用にもう一冊買いました」。だからぼくも、よれよれになるまで彼の野菜を使って料理しようと思ったのです。

 去年のことですが、ミシュランガイドで三ツ星を取っているシェフの講演を聞きに行きました。その時、そのシェフがこんなことを言いました。「ぼくは生産者のところには行きません。情が移ると目利きができなくなるので」。それを聞いて、自分も若いころはそうだったな、と述懐したのですが、今のぼくはそうではありません。むしろ、それが星を得るためのこだわり、流儀であるというのならば、ぼくはそんな星などいらないと思っています。


 注文していた野菜が届くと、一つずつ点検します。それから品種ごとに、生で、あるいは焼いたり茹でたりして、ちょっと食べてみます。そして、どうすればその野菜の良さを生かすことができるのか考えます。同時に、送ってくれた生産者さんのことを思います。

 矢野さんは今日も、若い人たちの指導をしているのだろうか。

 高台にある高さんの畑から見下ろす今日の海の色はどんなだろうか。

 寒い日が続いているけれど、高掛くんのハウスの中は温かいのだろうか。

 あるいは、

 吉野さんは今日も、畑のすぐ先にある小学校に登校する子供たちの元気な声を聞きながら作業をしているのだろうか、とか。

 それぞれの息づかい、「情」を感じながら、ぼくは料理を考えます。

 彼等の「情」を集め、自分の「情」と同一化させ、もてる能力のすべてを動員して、この世に二つとない料理に結実させる。

 それを口にした人たちが呼応し、新たな「情」が生まれていく。それが、ぼくという料理人の仕事だと、今のぼくは思っています。


こだわりを抱えてひとりで走るより、情でつながって人生を全うしたい、そう願っている自分がいるようです。

 


# by chefmessage | 2019-02-15 20:19

道を作る

 今年は、ぼくが店を開いて30年目になります。こんなに長い間、店を続けることができたのは、それを支えてくださった方がたくさんいたからだと思います。そのうちの一人に重藤さんという方がいます。福岡県にある「マーズ」というデザイン会社の社長さんなのですが、この方は、ぼくが不調にあえいでいた時もずっと見放すことなく応援をしてくださいました。

 3年前の春だったでしょうか、その重藤さんから、2.3日福岡に来てほしいという連絡がありました。「相談したいことがあるから」。指定された事務所に伺うと、「マーズ」のスタッフが勢ぞろいしています。何がはじまるのだろうと思っていると、重藤さんが言いました。「新しいプロジェクトとして、本を出版しようと思います。第一弾は道野さんの本です」。

 以前からそのようなお話は伺っていたのですが、本当になるとは思っていませんでした。でもその日から、「料理人という生き方」と題するぼくの本を出版する計画は始まりました。


 毎月3品の料理撮影をして、1年分で36カットにすること。カメラマンは、うちのマネージャーである原の友人の宮谷くんが引き受けてくれることになりました。それから、これまでホームページに書き続けてきたブログを年代順にピックアップして手直しをすること。新しい文章を書き足して、全体の時系列をまとめること。料理の解説と図解を書き起こすこと。編集者はいないから、重藤さんと頻繁にやりとりしながら、すこしづつ形にしていきました。ぼくが迷ったときの彼の答えはいつもこうでした。「道野さんの思うようにやってくれていいから」。でも、ぼくはいつも不安だった。「本当にこの本は売れるのか?」。

 費用はすべて彼の会社が負担してくださっています。本が売れなければ多大な損害を与えることになってしまう。第一、彼がぼくのためにそこまでの労力と財力を傾ける根拠なんてまるでないのです。だからある日、ご本人に尋ねました。「どうしてそこまでしてくれるんですか?」。重藤さんが応えます。

 「ぼくは今50代だけれど、やがて60代、70代になる。その時、やればまだできるんだ、という希望が欲しいんだよね」。


 何度かブログで書いたことですが、料理人のピークは45歳くらいではないかとぼくは思っています。体力、気力ともに一番充実しているのがその頃ではないか。ぼく自身もそうでした。でもぼくの場合、それからがたいへんでした。自分の人気が真の実力の故ではなく、多分に時代を反映させたものだったからでしょう。ぼくはそのピーク以降、流行から外れてしまった。それからの20年、なにをやっても、どれほど懸命に努力をしても、客足は戻らなかった。何度もやめようと思いました。もう自分の役割は終わったんだ、そう思えてならなかった。打ちひしがれては気持ちを立て直し、それでもまた打ちひしがれて。でも、ぼくはやめることができませんでした。どうしても、自分のやっていることがまちがいだとは思えなかったから。

 だから、重藤さんの言葉に自分の思いを重ねることができました。そして、2年の歳月を経て「料理人という生き方」は完成し、販売されることになりました。さすがにデザイン会社の手がけた本です。手にしたとき、ぼくはその美しさに感動しました。

 

 この本は幸いなことに、世に好評をもって受け入れられることになったのですが、そこには二人の方の尽力がありました。その一人目は、旧知の仲である大阪大学医学部教授、仲野徹先生です。発売と同時に、HONZ.Jpというwebの書評サイトで、過分に思えるほどの素晴らしい書評を掲載してくださいました。仲野先生はご自分の著書まで書評してしまうという自己肯定の権化のような人物ですが、その実力と才能は、「こわいもの知らずの病理学講義」を始め、出す本がすべからくベストセラーになるということで証明されています。実際は、ユーモアあふれる大阪のおっちゃんで、ぼくがこころから敬愛する人物です。

 そしてもう一人は、メンタリストDaiGoくんです。あるレストランで、ぼくがゲストシェフを仰せつかった時に偶然お客様として来られていたのですが、ぼくの料理を随分気に入ってくださって、それ以来親しくさせていただいています。その彼が「ニコニコチャンネル」という動画サイトで、ぼくの本を紹介してくださった。その夜、驚くべきことが起こりました。アマゾンのぼくの本の在庫が一瞬にしてゼロになったのです。そして、それからしばらくの間、アマゾンの自伝・伝記ランキングでぼくの本は1位となり、重版になることが決定しました。まさにミラクルボーイのおかげです。


 重藤さんより、重版分から本に帯を付けようという提案があったので、仲野先生とDaiGoくんに文章を書いていただきました。そして、「料理人という生き方」は、今でも少しづつ売れ続けています。


「人はなりたいものになれる」、そのことをまず我が身で証明しようと、ぼくは料理人になりました。そして、ぼくはシェフになり、自分の店を持ち、それを30年どうにかこうにか維持してきました。すでに当初の目的は達成することはできました。でも今、ぼくはこのままでは終われないと思っています。20年間苦しみぬいた成果を、もう一度世に問いたい。いくつになっても、まじめに努力を続ければ必ず報いられることを証明したい。それがだれかの勇気になるはずだと信じているから。

 実際、店の来客数は本が出て以来確実に増加しています。また、人間関係が思いもかけない良い方向に広がっています。それが一過性のもの、流行にすぎないのかどうかはわかりません。でも、重藤さんを始め、いろんな方が、もうすぐ65歳になるぼくにチャンスを与えてくださいました。ぼくはそれに応えたい。そして、新しい道を作りたいと思っています。


 お正月休みに、ゲイリー・オールドマン主演の「ウインストン・チャーチル」という映画を観ました。目前に迫るナチス・ドイツの猛攻に対して、降伏を進言する議員たちを相手に、徹底抗戦を呼びかけた一人の男の物語です。その映画の締めくくりに、チャーチル自身の言葉が映し出されて、それを読んだぼくはひとり納得しました。

 「成功も失敗も終りではない。肝心なのは続ける勇気だ」

 新年の営業が始まりました。道を作るために踏み出します。

 


# by chefmessage | 2019-01-08 21:43

料理人の日々

うちのお店ではディナーの電話予約をいただいたときに、「ご記念日を兼ねたお食事でしょうか」とお聞きするようにしています。そもそもフランス料理というものが日本では日常食ではなくて、晴れの日の食事という印象が強いため、お誕生日とか結婚記念日などのお祝い事のご利用が多いからです。だから前もってそのことがわかっていたなら、例えばデザートのお皿にメッセージを書いたり、お誕生日ならそれにロウソクも立てて、ぼくたちもいっしょにお祝いすることができます。



 ある日のこと、電話の声から察するに、やや年配の男性からディナーの予約が入りました。例によってお聞きすると、「特別なことは必要ない」とおっしゃる。「それではお待ちしております」とマネージャーは電話を切りました。しばらくして、また同じ男性から電話がかかってきました。「一緒に食事に行く人が誕生日なので、やっぱりデザートのプレートにお祝いのメッセージと、その人の名前を書いてやってください」とのこと。そして、その日がやってきました。



 想像していたよりもご年配のご夫婦でした。静かに食事を楽しんでおられます。ときどきお話をされておられますが、料理は一定のスピードで淡々と進行していきます。やがて魚料理になったのですが、そこで速度がゆるやかになった。



 うちのお店のディナーはコースのみです。全体的な分量は経験に基づいて計算していますが、食事の量には個人差があります。少ないというご意見はあまり聞かないのですが、人によっては多い場合もあります。だからマネージャーに「メイン料理の量は少なくしましょうか?」と聞いてもらうことにしました。すると、女性の方だけ少なくしてほしいとのこと。調節してお出ししました。



 デザートの前に客席に出て「量はいかがでしたか?大丈夫でしたか」とその女性にお聞きすると、「ちょうどよかった」とおっしゃっていただけたので一安心、一つ目のデザートが運ばれます。次にメインのデザート、お皿にお誕生日のメッセージとお名前が書かれているのを確認して、ロウソクを灯し、その方の前にそっと置いて、「お誕生日おめでとうございます」と声をかけました。



 びっくりしたご様子で、目を見開いておられます。それから、ご主人の方に視線を移された。ご主人は一つうなずいて、無言で微笑んでおられます。すると、奥様のお顔に笑顔が広がりました。それまでの、ちょっと物憂げな表情とはまるで別人になったかのような良い笑顔。



 食事が終わり、「お帰りです」というマネージャーの声に促されて、再び客席にでました。お二人が帰り支度をされています。奥様は足が不自由なご様子で、差し出されたご主人の腕に手を回してゆっくりと歩いてこられます。「よいお誕生日になりましたね」と声をかけました。すると奥様は立ち止まり、ぼくに右手を差し出されました。最初、何のことかわからなかった。でも、思わず握手をすると、奥様の握る力が強くなった。ぎゅっ、という感じではなくて、ふんわりと。温かい気持ちが流れ込んでくるようでした。



 ぼくたちの仕事はほんとに小さなものです。自分はもっと大きな仕事ができたのではないか、職業の選択を誤ったのではないか、いつもこころのどこかで、ぼくはそんなことを考えていました。若いころは有名になりたかったし、お金持ちにもなりたかった。でも、今のぼくは、これでいいのだと思っています。



 今日できることを悔いなくやりきること。そのことで、少しでも人を元気にすること。そんなことの繰り返しの中でぼくは、生きるということがどういうことなのかを学んできたように思います。



 これが世界の片隅の、ちっぽけな「料理人の日々」です。そしてぼくは、ずっと料理人でいようと思っています。


# by chefmessage | 2018-10-30 19:06