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ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


by chefmessage
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青空ひとりきり

 青空、ひとりきり

 これまで散々尋ねられたことがあります。「神学部を出たのになぜコックさんになったんですか」。でもそれに答えることは本当に難しい。その時々で思い付くまま色んな答えをしてきたけれど、ぼく自身もどれが正解か未だに分かりません。
 ただ、卒業間際、その進路を表明する度にことごとく反対されました。前にも書いたことですが、面白いからやってみなさいと言ってくださったのは、学生時代の恩師である野本真也先生ただひとりでした。

 それまでぼくが料理好きであったかというとそうではないし、食べることに執着するタイプでもありませんでした。だから「料理人になる」というのは実は単なる思いつきを言葉にしただけだったのです。それに対する周りの反応が全て否定的だったから、ぼくは俄然その方向に突き進むことになったのだと思います。ぼくは根っからの偏屈者なのでしょう。指し示された方向ではなく、それとは逆の道をいつも選んでしまう。

 でも実際に料理人になってみると、それは本当に厳しい職業でした。やめたいと何度も思いました。でも今更やめられない。それ見た事かと言われることは明らかだから、意地でも続けなければならない、そう思ってぼくは自分の手を見ました。当たり前のことですが指が5本あります。そしてそれぞれが役割を持っている。今まで考えたことがなかったけれども、不思議でした。なぜこんな形をしているんだろう。そして気がついたのです。これは何かを作り出すために与えられた形なんだ。それなら足はどうだ、口は目は耳は。その時ぼくは決心しました。とにかく動かなくなるまでこの体を使おう。使い切った時に初めて、ぼくは自分が存在する意味を知ることができるだろう。

 それから半世紀近くの時が流れました。ぼくの肉体の各パーツは力を失いつつあります。そんなに遠くない未来にぼくは動きを止めざるを得なくなるでしょう。でもまだ時間がある。だからそれを有効にするためにぼくは何をすれば良いのかを考えています。

 前述のようにぼくはへそ曲がりだし意地っ張りだから、人と同じものを作りたいとは思いませんでした。でもそれと同時に、揺るぎないものにも強い憧れを抱き続けてきました。フランス料理に限って言うなら、いわゆる伝統的な料理を片時も忘れたことがありません。ただ、伝統といっても2種類あって、それは「本来伝統」と「擬似伝統」です。「ブイヤベース」を例にすると、それは地方によって、あるいは個別でも様々な構成になっています。すなわち、どれがオリジナルかと問うてもはっきりしません。つまり「本来伝統」と言うものは存在しないのです。全ては「擬似伝統」なのです。問題は解釈の仕方であり、どの角度から光を当てるか、なのだと思います。ぼく自身は、それらをわきまえた上で、自分が良いと思ったものを作り続けてきました。時には行き過ぎであったり、あるいはあまりに原点回帰であったり。それでも、いつも自分ならどうするかということを考えて仕事をしてきたつもりです。ただそれは、今日的に解釈すると、中途半端なものに見えるのかもしれません。フュージョンというにはツッコミが足りず、古典というには走りすぎている。

 インスタグラムで自分の料理の動画を流した時に、見知らぬ人からコメントが入りました。「料理になっていませんよ」、「フランス料理を勝手に解釈するのはやめてください」。恥ずかしいけれど、読んだ途端に髪の毛が逆立つほど感情が掻き乱されました。でも時が経つにつれ、こんな気分になりました。「確かにそうかもしれない」。
でも、それのどこがいけないんだろう。風景が立つ場所によって異なって見えるのは当然です。ぼくはぼくにしかできない料理を作り続けてここまで歩いてきました。迷ったり苦しんだりしながら、でもぼくは決して後ろには下がらなかった。そうしてぼくはまだ進み続けている。たくさんの人たちがぼくの背中を押している。
 ある人がぼくの料理をこう解釈してくれました。「新しいけれど懐かしい」。それが本当のフュージョンではないかと今のぼくは思っています。だから、どんなコメントが入ってもぼくは揺るがず、最後まで自分の道を歩みたい。振り返って、あなたが辿り着けないところにぼくはいると言ってみたい。

 偏屈で意地っ張りだけど、この人生しかなかったんだろうなと思う。
   悪い気分じゃないですよ。
     「青空、ひとりきり」。

# by chefmessage | 2024-06-02 18:57

我が良き友よ

   我が良き友よ

 先日、ゴ・エ・ミヨのパーティーに出席した時に、久しぶりに手島純也シェフにお会いしました。東京の「シェ・イノ」のシェフに就任して以来とても忙しそうで、当日もたくさんの人たちに取り囲まれていて短時間しか話すことができなかったのですが、帰阪してから、そういえば頼みたいことがあったんだと思い出して、彼にメールをしました。彼に直接ではなくて、「シェ・イノ」のグランシェフである古賀さんにお尋ねしたいことがあったのです。パーティー当日も手島シェフの隣におられたのですが、面識のない方にご挨拶するのがどうも苦手で結局お話しすることができなくて、後日、手島シェフにお願いして聞いてもらうことになりました。

 それは古い友人のこと。
 
 31歳でフランスに渡って、初めて働いたのはソーリューにある「ラ・コート・ドール」でした。当時、「水の料理人」として世界中から注目されていたベルナール・ロワゾー氏のホテル・レストラン。右も左も分からない、言葉も満足でないぼくは、正直に言います、もう怖気付いてしまって手も足も出ない状態でした。厨房は毎日まるで戦場です。弾かれ罵られ、本当に辛かった。どうしてこんなところに来てしまったんだろう、来なければよかったと思う日々。情けなくて、一刻も早く日本に帰りたかった。そんなぼくにさらに鞭打つような言葉を投げつけてくる日本人の先輩がいました。Nさんです。この人はぼくよりいくつか年下でしたが、同じ人間だとは思えないほど仕事ができました。何をさせても素早くて正確で、その時すでに滞仏歴5年だったからフランス人コックたちとも互角以上に渡り合う猛者でした。その仕事ぶりからムッシュロワゾーにとても気に入られていて、それはフランス人コックたちに妬まれるほどでした。
 今でも鮮明に覚えている出来事があります。当時の「ラ・コート・ドール」の厨房は、歴史的な名シェフ、アレクサンドル・デュメーヌがオーナーだった頃とほとんど変わっていない古びた施設で、動線がとても悪かった。それにもかかわらずムッシュロワゾーが新しく考案した料理をやれと言うのですが、瞬間移動できない限りは到底無理なものでした。でもムッシュに逆らうことはできません。フランスは実は厳然たる階級社会なのです。フランス人たちは黙って俯いています。その時、キャセロールを床に放り出してNさんが「そんなことできるか」と日本語で怒鳴った。そこにいる全員が青ざめてムッシュの顔を見た。ムッシュは例のどんぐりまなこを見開いています。そして「なぜだ」とNさんに聞きました。Nさんが説明をし終わった時ムッシュが「お前の言うとおりだ」と答えてニコッと笑いました。実にいい笑顔だった。その時、この人は本当にすごい人だと思いました。いくらもてはやされても物事の道理を弁え、冷静に判断を下すことができる。結局その料理は再考され、古びた厨房でも対応できるものになりました。

 まごまごしているぼくはNさんによく怒鳴られました。「何やってんですか!」「ダメじゃないですか」。それでも仕事が終わって相部屋に戻ると彼はいつも「今帰っちゃいけませんよ」とぼくに言いました。今帰るともう料理できなくなりますよ。一生負け犬気分を引きずりますよ。今までやってきたことが全部無駄になりますよ。

 数ヶ月後、ぼくはトゥルニュスという田舎町の「ル・ランパール」というホテルに移りました。ミシュラン一つ星でしたが、そこで1年近く頑張ってソーシエ(ソース係)になりました。その後二つ星の「ジャン・バルデ」で働いた後日本に戻り、その3年後に独立したのですが、それができたのは、あの時のNさんの叱咤激励があったからだと思います。
 Nさんはムッシュロワゾーの推薦でパリの「ギィ・サヴォワ」に移り、その後帰国して郷里の鹿児島で自分の店を持ったと聞きました。その名は「ロワゾー」、ムッシュに心酔していたNさんらしい命名でした。「いつかスタッフ連れて道野さんのお店に行きますから」、その電話での会話が最後で、それ以降は彼と連絡がつかなくなりました。お店を畳んだらしいということは耳にしていたのですが、誰に聞いてもその消息がわからない。ずいぶん経って、やっぱり気になって、その頃付き合いのあった鹿児島のイタリアンのシェフに依頼して方々当たってもらったのですが手がかりすらない。最後に彼と電話で話して以来30年以上の月日が流れました。

 古賀さんに尋ねてみようと思ったのは、Nさんが「シェ・イノ」か、その系列店である「ドゥ・ロアンヌ」の出身で、かつて同僚だった古賀さんの話を聞いたことがあると思い出したからです。
 手島シェフからの返信は「古賀シェフはもうお付き合いがないので、Nさんと一番親しかった方に尋ねてみるとおっしゃってます」。翌日、またメールがありました。
 「残念なお知らせです。Nさんは3年ほど前に亡くなられているそうです。詳しいことは分かりませんが、鹿児島のお店を閉められて以来、料理界からは身を引いて、関係者とも付き合いを断っておられたようです」。

 この30年以上の月日に彼に何があったのか、どこでどうしていたのか、今はもう知る術はありません。師匠のムッシュロワゾーは2003年、ミシュラン三つ星の座から凋落するのではないかと疑心暗鬼にかられ自死しました。あるいはそのことも影響しているのか、とも思いましたが分かりません。
 何より、あれほどフランス料理を愛して、誰よりも優れた技術と知識を持ちながらなぜそこから身を引いたのか聞いてみたい。それは同時に、ではなぜ自分はなお生きながらえて料理を作り続けているのか、という問いとなって跳ね返ってきます。
 彼はあの時、ぼくに戻ってはいけないと言いました。だからぼくはずっと走り続けてきました。戻ったら、今まで積み上げてきたもの全てが無駄になると信じて、ぼくはひたすら進み続けたのです。そして不意に消えてしまった背中に呆然としながらも、まだぼくは行こうとしている。

 この先に何があるのかぼくには分かりません。けれども、ぼくの心にはいつも彼の、ガッカリしながらもぼくを見捨てなかったあの笑顔があります。

 たとえあなたが身を隠したつもりでも、そうはいかないからね。これからは一緒に走ろうぜ、我が良き友よ。

# by chefmessage | 2024-04-06 17:03
     2024、年始に思うこと。北陸の友人たちへ。
 もう何年前になるのでしょうか。当時、金沢で「プレミナンス」というフランス料理店のオーナーシェフであった川本紀男さんが、地元の若い人たちを集めて、北陸の生産者さんを巡るツアーを開催していることをFacebookで知りました。それがうちの定休日でもある月曜日だから参加したくて、一面識もなかったのに川本さんにその旨を伝えたところ、是非来てくださいと快諾してくれました。ただ問題が一つ。集合時間が午前6時だったことで、前日に金沢入りしようとしても日曜日に店を留守にすることができません。いろいろ調べたところ、JR大阪駅から出る夜行バスがありました。出発は22時半でJR金沢着5時半。スタッフに「疲れますよ」と言われたけれども、それまで夜行バスに乗ったことがなかったから、むしろワクワクしてチケットを購入。時間通りに乗り込んで金沢に向かいました。川本さんが駅まで迎えに来てくれると言ってたし。

 案の定眠れなくて、やっと着いた、まだ人もまばらな金沢駅の端っこに、上下黒のジャージ姿の大男が中腰になって座っていました。何だか厳つい男だな、と近づいていったら、向こうもそう思ったのか立ち上がって、?という表情をして、こちらを見た。目と目が合って、二人とも一気に笑顔になった。川本さんとの初顔合わせでした。

 それから何度も彼のツアーには参加しました。途中からは「ルセット」の依田英敏シェフも同行するようになりました。これは結構きつかった。夜中に依田シェフがぼくの店まで車で迎えに来て、そのまま眠らずに金沢まで走るのですから。でも、高農園さんやワタリガラスさん、高村刃物さんをはじめ、多くの生産者さんと知り合いになれた。一緒に行った同業者の皆さんとも。「ぶどうの木」米田シェフ、「ENSO」の土居シェフ、「ラトリエ・ド・ノト」池端シェフ、川嶋亨くん、平田明珠くん、黒川恭平くんら若手の諸君。数え上げたらキリがないくらいたくさんの友人に恵まれました。いつしかそのツアーは「青春ドリーム号」と呼ばれるようになりました。その由来は、ぼくが初めて乗った金沢行きの夜行バスの名称が「青春ドリーム号」だったからです。このツアーは、新型コロナウイルスが蔓延して我々の身動きが取れなくなるまで続きました。

 この元旦に能登半島を中心とした地震と津波が発生したことはみなさんご存知の通りです。続々と送られてくる情報は目を覆うばかりで、ぼくは立ちすくむしかなかった。そして、今すぐにでも大切な友人たちのところに駆けつけたいと思った。でも今行って何ができるというのか。
 素人が手出しできる次元ではないのです。むしろ下手な親切ごころで闇雲に動くと邪魔になるだけでしょう。自家用車で乗り込んで、援助のために食料や資材を運ぶ車両の通行を妨げるべきではない。それでなくとも道路は寸断され迂回しなければ現地に辿り着けないし、放置車両も多く、渋滞もしているのです。衣料品や食品も、公平に行き渡る量でなければ混乱が起きるだけです。大量の支援物資が届いても、それを仕分けする必要がある。不必要なものはゴミになるだけです。自分の「善意」が「悪意」になるかもしれないということに留意しなければならない。だから後方支援はむしろ冷静に、しかも持続的でなければいけないとぼくは考えました。
 では何をすればいいのか。

 輪島の池端シェフは自店が壊滅状態になっているのに、毎日1,000から1,500人分の食事を作っているそうです。金沢のシェフたちは川本さんが中心になってチームを作り、朝晩300食の炊き出しをやっている。自分の店は営業できなくはないのに休んで参加しているシェフたち。避難所に向かうためのガソリン代、不足分の食材費、全て持ち出しだと聞いています。同業者として彼らの心意気には感動を覚えます。だから、今のぼくにできることは、その原資を送ることです。幸いなことに「北陸チャリティーレストラン」という確実な窓口が開かれています。

 自分の店にもっとたくさんお客様を呼びたい。そうすれば送れるものも多くなる。今も続いている「蘇ボックス」を一つでも多く買っていただきたい。コロナ禍が落ち着き、役割を終えたかもしれない「蘇ボックス」に再び出番が来ている気がします。
 ぼくはもっといい仕事をしてお客様に喜んでもらわなければならない。今のぼくにできることはそれだと思います。そして利益をあげて還元する。

 あと2ヶ月でぼくは70歳になります。でも、力と知恵を振り絞って働きたいと思う。そんな気持ちにさせてくれる北陸の仲間たちをぼくは心から尊敬しています。そしていつの日にか、また全員で、「青春ドリーム号」で、北陸生産者ツアーに行きたいと思います。

# by chefmessage | 2024-01-10 18:04