禿頭の天使
2003年 04月 13日
結局、僕は数ヶ月で失意のうちにその店を去って、トゥルニュスのランパ-ルという一つ星のホテルに移るのですが、でも、ラ・コ-トド-ルで過ごした日々を、僕は忘れられません。自分の力を何一つ発揮できなかった悔しさが大きな原因ですが、それとともに、シェフのベルナ-ル・ロワゾ-氏の料理と彼の人間性の特異さに依るところが大きかったと思います。
こんな事がありました。キャセロ-ルのキャラメルを洗い流そうとしていたら、ムッシュ・ロワゾ-がたまたま近くにいて、僕に気を付けろよ、と声をかけました。それまで彼と話したことがなかったので緊張してしまい、かえって勢い良く水を出してしまって、そのせいでキャラメルが飛び散り、それが彼の真っ白なコックコ-トにくっつきました。大きな目をもっと大きくして、睨まれた。これはえらいことになったと思ったのですが、だから言っただろ、と彼は笑って、着替えに行きました。冷や汗が流れたけれど、何故か感動しました。
またあるとき。ス-・シェフのパトリックが、おやつのクレ-プを何枚も焼いていました。サ-ヴィスの始まる前で、厨房に全員勢揃いしていてコ-ヒ-なんか飲んでいた。すると、給仕長のイベ-ルがクレ-プを1枚手に持って、なにを思ったか、それをムッシュの禿頭に後ろからかぶせたのです。全員が息を飲みました。ムッシュの顔が怒りの表情になったから。そして、イベ-ルの方に向き直った。すると、イベ-ルはニコニコ笑っている。もう一度ムッシュが振り向いた時、その顔には満面の笑みがありました。それを見て、今度は全員が笑った。すると、彼はハゲ頭にクレ-プをのせたまま踊り出したのです。歌いながら。これこそ天才だと思った。
でも、こんな事もあったのです。休憩時間、明かりもついていない厨房で、ムッシュが三度豆の筋を黙々と剥いている。手伝いましょうか、と声をかけたら怒りだしました。気分を鎮めるためにやってるんだから邪魔するな、と。こんな偉大なシェフでも苦しみはあるのかと、当時のぼくは多いにおどろいたものです。
でも、今なら解ります。大いなる野心は、傷つきやすい魂と裏表なんだと。けれども、彼は登りつめました。プレッシャ-に潰されることなく、星を掴んだ男になったのです。
ただ、三ツ星をとった途端、水の料理人、破壊と革命の風雲児は、ブルゴ-ニュの伝統的な料理人に変身していました。明確に守りに入ったのです。でも、それを非難することは僕にはできません。数年前、大阪のリ-ガ・ロイヤルホテルで再会したときの彼の話題は、料理ではなくもっぱら景気の事だった。それほど、三ツ星を維持するのは大変なのでしょう。守りは、攻めよりずっと難しいのでしょう。でも、たかがあのうさんくさいゴ-・ミヨの評価が下がった位で死ぬなよ、ムッシュ。
『階段をのぼりつめたら 閉ざされたドアが重たい』桑田佳祐と奥田民雄のデュエットが聞こえてくるようです。でも、そのドアは開けられないのでしょうか。
原風景は今も僕の心にしっかりと居座っています。僕は、今も立ちすくんだ記憶を抱えています。そして、毎日そこから踏み出そうとしています。だから、僕は厨房を離れない。僕は心細いから、お客さんの感動を目の当たりにしないと落ち着かない。でも、お客さんの喜ぶ気持を感じる事ができたとき、僕はこの仕事選んで良かった、と心から思います。そして、感謝して、もっと前にいかなければ、と思います。
階段を登りつめた、と思うからドアの重圧を感じるのであって、登りつめた、と思わなければそのドアは開くんじゃないか、これは詭弁でしょうか。でも、僕はそこに隠された鍵があるような気がします。
大きな流れ星が去っていきました。沢山の日本人料理人が、その輝きを一生忘れることは無いと思います。そして、僕は、彼の事を思って新しい料理を考えました。彼から学んだことを基にしています。それを一人でも多くの方に召し上がっていただいて、喜んでもらえれば。僕にできることはそれくらいで、とても彼の偉業には遠く及ばないけれど、でも、それが僕の彼への感謝の表し方であり、今の僕の答えであると思います。ムッシュ、オレは最後までアヴァンギャルドだからね。