ホモ・ル-デンス
2003年 06月 13日
もともとサッカ-なんてのは球蹴りで、遊びだったはずです。それが、いつのまにかル-ルというもので規格化され競技というものになった。そして、勝ち負けを競うことで経済効果が生まれ、プロのチ-ムができた。とするなら、そこから派生するナショナリズムというものは、決して純粋なものではないのではないでしょうか。それなら、いっそ商業的にわりきって、おもいっきり笑かす映画つくって儲けたろ、というのは、ある意味、まっとうな気がします。大まじめで高尚なものがうさんくさくて、お笑いで下品なものが純粋に思える、というのは、僕の性格がいびつだからでしょうか。
高校生の時、ホイジンガという著者の名前のひびきが面白くて、(高校生のときから性格はいびつだった?)「ホモ・ル-デンス」という書物を手にしました。でも、その主テ-マたる、遊びの文化、というものがどうしても理解できず、最後まで読んだかどうか記憶にありません。多分、純粋だったそのころの僕には、文化が遊びなんて不真面目な、という気持がしっかりあったからでしょう。でも、今なら理解できるような気がします。僕の仕事もそんなものだと思うから。
人生、棒に振って遊んでる、とでもいうのでしょうか。
全身全霊、すべてをかけて料理つくってる、とよく思います。つまらない料理つくるくらいなら死んだほうがまし、なんて大真面目に思っている。ランナ-が、足でなく全身で走っているように、歌手が声帯でなく全身で歌っているように、僕は僕のすべてで料理をつくりたい、と。でも、それは誰に命令された訳でも強制された訳でもありません。そうしたいからやってるんで、それって、やっぱり遊びだと思うのです。僕がそんなにむきにならなくても、世の中たいして変わらないのも真実だから。
大真面目に遊んでる、なんて矛盾に聞こえるかもしれません。でも、そう考える時、いつも思いだす言葉があります。「肩の上に風、風の上に満天の星」。これは、一家を戦争で失った毛沢東軍の一兵士が、長征の途中で詠んだ詩の一節だったと記憶しているのですが、「こうして過酷な戦いにいる自分の肩にもあたる風があり、その風の上には無限に拡がる空と満天の星がある。」といった意味だと思います。そんな客体化に僕たちは感動します。世の中には変えられるものと変えられないものがある、それなら、それぞれができることを精一杯やればいいじゃないか、そこには余裕というか、おおらかさがあるような気がします。そして、そこから生まれてくるものが、純粋な感動を生み出すのではないでしょうか。
人に勧められて、斉須政雄さんの「調理場という戦場」という本をよみました。すばらしいお話が隙間なくぎっしりつまっていました。でも、息苦しくなりました。この本はヒマつぶしに読んではいけません。
僕は彼みたいに苦労人じゃないから、苦労話はできない。でも、料理の喜びなら語れるような気がします。プロのサッカ-選手にはなれないけれど、サッカ-選手を演じるプロの役者にはなれそうです。だって僕は、ホモ・ル-デンスだから。