金魚のアロハと渡邉先生のこと。
2004年 07月 22日

夏はアロハ、これが定番の服装になって、もう何十年もたつような気がします。僕は、体型とファッションのセンスが高校生の頃から変化していないという珍しい人間で、もうチョット年齢相応になれないもんか、と思い続けてきたのですが、まあいいか、と流しているうちにこんな年になってしまってしまいました。で、もういまさらなあ、という感じで、このままいけば、ドラゴンボ-ルの亀仙人も夢ではないと思うのですが、今年のアロハはひと味ちがいます。なんと、オ-ダ-メイドのアロハなんです。
もともと、誂える、というのが大好きで、同じ物がない、というところと、職人仕事にダイレクトに接する事ができる、というところが偏屈ゴコロを多いに刺激するのですが、今回のアロハは、長年の夢であった金魚柄が、誂えでしかできない、というので、ダブルで興奮状態、喜び勇んで注文したというわけです。
場所は西大路五条。そこに亀田富染工場という着物の染め屋さんがあります。ここが、昔からの着物の柄を沢山持っていて、それらを復刻して生地に染め、Tシャツやアロハを作るということをやっておられます。その製品はパゴンというブランド名で、主に直営店で販売しておられるのですが、一部生地のサンプルだけで、製品にしていないものもあるのです。そこで僕は、金魚柄を発見してしまったんですね。本当は、黒の出目金とかキャリコがよかったのですが、そこまでワガママはいえません。赤の流金でした。でも、下地の淡いグリ-ンが魚体の赤とよくあって、涼しげな風情。つ、つくってください、と焦るミチノ、でも一枚分だけ染めてシャツを作るので、時間とお金はかかります、とのお答え。問答無用、即オ-ダ-。で、出来上がったものを着ているのが、巻頭の写真です。
出来上がりに初めて袖を通したそのとき、うれしさと共に、何故か、先日逝去された豊中渡辺病院の渡邉純甫先生のことが思い浮かびました。先生も誂え好きだったなあ、と。
亡くなる前に、ウイ-ンにご旅行されたときの事を、奥様からお聞きしました。十数年前に、オペラ座の前の靴屋で靴を誂えたけど、あの店はまだあるだろうか、とお二人で探されたところ、件の店はまだあった。懐かしくて中に入って、昔話をしたら、その靴を作った本人がいて、ちょっと待ってろ、と言う。で、渡邉先生の木型を持ってきた。感激した渡邉先生、また注文。でも、病み衰えた体に革底
は辛い。申し訳ないが、ラバ-ソ-ルでお願いできないか。わかった、日本に帰るまでに大急ぎで作ってやる。その靴を先生が履かれたかどうか、僕は奥様に聞くことができませんでした。
亡くなるまで、一度も辛いとか苦しいとか言われなかったこと。自宅療養に耐え切れず、病院に連れて行ってくれ、と奥様に告げられたときも、救急車は呼ぶな、と仰って、おもむろにス-ツに着替え、ネクタイまできちんと締めて、奥様の運転で病院に向かわれたこと。最期まで、僕も頑張るから、みんなも頑張るように、と逆に周囲を励まされたこと。もう一花咲かそう、が末期の言葉だったこと。
ご自分の病気のことは、よくご存じだったろうに。
今頃は、ちょっと恥ずかしそうな笑顔と、右手をヒョイと持ち上げるいつものご挨拶で、懐かしい人達と会って、旧交をあたためておられることでしょう。ラバ-ソ-ルの靴の履き心地はいかがですか。それにしても残念なのは、先生にもアロハ誂えていただきたかった。赤の地に、白い鶴が羽をいっぱいにひろげて飛んでいる図柄がとてもお似合いになったんじゃないだろうか。それで、先生のオ-ルドメルセデスをオ-プンにして、金魚のアロハの僕が運転し、助手席には鶴のアロハの先生がいて、なんか他愛のないこと喋ってたら、きっとおもいっきり目立って楽しかったと思うのですが。
ご贔屓いただいて本当にありがとうございました。金魚のアロハ着るたびに、もう一花咲かせる気持を震いたたせます。応援してください。