料理の命
2008年 05月 18日
それに対する女将の弁明が、「手つかずの料理は食べ残しとは違うと思った。」というもので、日本屈指と言われた料亭の社長の見識がそれかと、あっけにとられたのはぼくだけではないと思います。
ましてやこの人、湯木貞一さんの実のお嬢さんで、使い回しを指示したご主人はそのお婿さんなのだから、今までの吉兆という存在全体に対する評価そのものが疑問視されてしかるべきではないか、という気がします。というか、高級料亭って何?という感じでしょうか。
実際料理を作る立場からすると、料理が生き物であるということがよくわかります。
出来上がった瞬間が一番美しくて、あとは瞬く間に力を無くしていきます。
種類によっては、お客様の前に置いたとき、すでに容色が衰え始めているものもある。
ぼくが故ベルナール・ロワゾー氏のところで働いていた時、一番驚いた料理はルジェ(ヒメジに似た魚)のポワレでした。
その料理のポイントは、魚の火の入れ方にありました。しっかり温めたテフロンのフライパンに油を流し、皮側をしっかりと焼く。
同時にアツアツのお皿の中心に赤ワインソースを流しておきます。火が7分方通ったらもう片側は焼かず、焼いていない面を下にして赤ワインソースの上に置きます。おわかりいただけるでしょうか。そうすれば、お客様の前で魚は完璧な状態になる、ということなのです。見た目はなんの飾りもないシンプルなもの、でも、これこそが料理だと思った気持は今も忘れてはいません。
同じくらい感動した料理に、御影にあるジュエンヌのサラダがあります。
何年も前のことですが、うちに来られたお客様が絶賛しておられたので、ものは試しと出かけました。
まだぼくも鼻っ柱が強い時期だったので、本当はそれほど期待していませんでした。
これも故ロワゾー氏の教えですが、最高のサラダとは、たとえば道端に咲いているタンポポがそのままの形で皿の上にあって、なおかつ葉っぱの先までドレッシングが乗っているもの、ということでした。
これを実現するのは実は至難の業です。というのも、サラダの葉っぱは塩気があたるとすぐにフニャフニャになってしまう。そのうえ、オイルがかかると、その重さで垂れてします。でもぼくはその解決法を何年もかかってみつけました。
丁度そのような時期だったので、正直、驕りもありました。
でも、ジュエンヌで出てきた海の幸のサラダには叩きのめされました。
生の葉はしゃきっとしている、茹でた野菜には歯ごたえがほどほどに残っている、魚介類の処理も的確。ドレッシングやソースの量も丁度。で、これが一番大切なことなのですが、すべてに味がある。つまり、塩味が的確、ということです。塩が土台を支えているから酸味・甘み・苦味がほどよく感じられる。これは、ひとつひとつの食材を実際に食べて決めなければならないし、センスも必要です。参った!
失礼ながら、サラダごときに命がけなんや、と思いました。だから料理が生きている。こんな料理人がいてるんや。
帰りに、名刺を出して大川シェフにごあいさつしました。
「ミチノと申します。今日は勉強になりました。ありがとうございます。」。
ぼくが店をレザール・サンテにしてからも、彼のサラダを忘れたことがありません。
むしろ、前よりも意識しているかもしれません。ジュエンヌのサラダに負けてはいないか。自分なりのサラダができているか。そして、ぼくの料理には命があるか。
大川シェフもぼくも、ちっぽけなレストランのおやじにすぎません。吉兆さんとは比べるのもおこがましい。でも、料理が使い回しなんてできるはずがない生き物であることを知っています。それは多分、ぼくたちがつたない人生をかけて人を感動させようとしているからで、それを喜びとする料理人であるからだと思います。
でも大川クン、キミ、最初にあいさつしたときもそうやったけど、ちょっと顔こわいで、なんて人のこと言えないか、オレも。
追伸
最近、厨房にやってきた新人ミハルの盛るサラダ、けっこうセンスいいです。マダムのデザートも随分よくなってきました。皆さん、是非お越しください。きっと喜んでいただけると思います。尚、前述の最高のサラダを作る方法は企業秘密なのでここでは明かせませんが、ご来店いただければ教えてあげてもいいかな。
レザール・サンテ! オーナーシェフ 道野 正