初めにあたって。
2009年 01月 10日
際限のない言葉の列に学んできた
変幻する万象に学んできた
そしていま自分の無知に学んでいる
世界とおのが心の限りない広さ深さを
谷川俊太郎 「かすかな光へ」より
1月1日の朝日新聞に、人間国宝では最高齢の三輪壽雪という方の記事がありました。2月4日で99歳になる女性陶芸家なのですが、1月2日から大阪、名古屋、東京など5か所で、ご自身の「白寿展」を開かれるそうです。ぼくは萩焼というものがどんなものかまるでわからないし、これまで興味もなかったのですが、行こうかと思っています。というのもその記事のなかで、ご本人が、その個展の評価をすごく気にしている、と書かれてあったからです。
普通、大家と言われる、あるいは自分でそう思っている人たちは、世間の評価なんて気にしていないよ、というスタンスを取ろうとするように僕は思います。ぼく自身は大家でもなんでもないけれど、昨今のネット時代、批評されることもないわけではないので、やはり同じような接し方をしがちです。なぜなら、決して納得できないような批判もあるからです。そして多くの場合、反論するのは大人げない、というような雰囲気があるので、たとえ自分のなかで感情の嵐が吹き荒れようとも、あえて関知しないようにする方が得策と判断するからです。ネット上ではとくにそうです。何故なら、相手は匿名でこちらは実名だから、こちらが圧倒的に不利なのは自明の理、なのですから。
なのに、この壽雪さんは、評価が気になると仰る。「壽雪、これしきのもんかと言われはせんかのー」と。
この一言に、ぼくは深く感動しました。この方は、未だに初々しい感性を持ち続けておられる!
料理でもそうなのですが、長い間ものを作りつづけていると、体力と同じように、才能というものは無限ではないと思わせられるときがあります。そして、おそろしくなります。ひょっとして、自分はもうなにも生み出せなくなっているのではないか、という気がして。でも、実はまだそれは入口です。本当におそろしいのは、実は自分には最初から才能なんてなかったのではないか、と思うことです。そして暗澹となります。自分はなにも知らない、と。なにも学んでこなかった、と。
やればやるほど、闇は深くなります。続ければ続けるほど、自分の無知を悟ります。ならばやめてしまうか。でも、もう後戻りできない距離まで来てしまっています。ではどうすればよいのか。
多くの人が、前へ進めなくなって自分の模倣をはじめます。そして進歩は止み、終焉まで無為に時が流れて。
でも、その闇や無知を知って尚、前へ進もうとする人がいます。むしろ、それを知って、そこから始めようとする人も。
これまで全力でやってきたはずのものが色あせて見えるほど世界が広いのならば、かえってまだあきらめるべきではないし、まだなにかできることがあるのではないか。まだ遅くはないのではないか。お前はそれだけのものか、なんてまだまだ言われたくもない、だから。
年頭に、素晴らしい啓示をうけたような気持になりました。昨年は迷いの一年で、今年もそれが払拭されたわけではありません。むしろ、さらに迷いは深くなるように思っていました。でも、世の中には素晴らしい人がいることを知って、勇気がわきました。ここから、ぼくもみなさんも出発しましょう。「世界とおのが心の限りない広さ深さを」信じて。
レザール・サンテ! オーナーシェフ 道野 正