あの素晴らしい愛をもう一度
2009年 10月 23日
音楽家の加藤和彦氏が亡くなりました。僕は直接には存じ上げないのですが、畏友門上武司氏からよくお話は伺っていたし、中学・高校生時代はザ・フォーク・クルセダースの大ファンだったということもあって、悲しい気持ちになりました。
最後の言葉が、「もう音楽ですることがなくなった。」というものだったらしいと新聞で読んで、その辛さが他人事とは思えませんでした。分野は違うし、その足跡はとても僕が及ぶところではないけれども、一度は全盛期を極めた人間として、その後の身の処し方の困難さは想像できないことはありません。フォークルからサディスティック・ミカバンドと黄金時代があって、でもいつまでも頂点にいられるはずはなくて、いつかその存在が忘れ去られない程度の仕事で精一杯になってしまう。そのことに対する焦りや苦しみがあったのではないかと、これはあくまで僕の想像の範囲でしかありませんが、そんな気がするのです。すべてのミュージシャンがサザンや陽水でいられるはずがない。むしろ、成功が大きかったほど、プライドが高いほど、苦しみもまた大きいのではないか。
スケールは随分小さくて恐縮ですが、僕自身にもそういうところがありました。このままでは忘れ去られてしまう、そんな気持ちからレザール・サンテを立ち上げたのですが、これは本当に、見事に失敗でした。ただ、僕は幸運にも再度、挑戦する機会が与えられました。
それはラッキーではあるけれど、それだけではなくて僕が、あきらめなかったからでしょう。僕は、「料理ですることがなくなった。」とは思っていません。むしろ、まだなにもできていない、ということに今、気づいています。
先日、ミシュランガイドブックの京都・大阪版が刊行されました。大阪の「ハジメ」というフランス料理店が3ツ星を獲得しましたが、その授与式の時のシェフのコメントが、「取ってしまった、って感じかな。」であったと、これも新聞で読みました。頂点に立った、その気持ちから出た言葉なのでしょうが、実はこれからが勝負なのではないかと僕は思いました。あんまり世間をなめるなよ。
一瞬の絶頂とその後に続く苦しみの日々。その間に僕は、地道に力を蓄えようと思います。
そして、ひたすら続けること。最終的に、己に恥じない人生であればよいのではないかと思っています。
「あの素晴らしい愛をもう一度」。加藤和彦氏の生んだ名曲です。いつまでも歌い続けられる歌だと思います。
ならば、それを口ずさみながら、生き急ぐことなく死に急ぐことなく、淡々と努力を続けることで愛を確かめたいと思います。
加藤和彦氏のご冥福を祈ります。
悲しみは言葉にはならない
表題は、2002年に34年ぶりに再結成して、たった一度のコンサートで解散した新ザ・フォーク・クルセダースが歌った曲の題名です。亡くなった加藤和彦氏と北山修氏のオリジナルメンバーに加えてジ・アルフィーの坂崎氏が参加しています。そういえば加藤氏は、あのサディスティック・ミカ・バンドも過去2回、再結成しています。再再結成時の木村カエラの歌う曲は、TVのCMにも流れていたように記憶しているのですが、「昔のことをやるのは好きじゃない。」と言っていた加藤氏なのに、なぜそういう動きをするのか僕にはよくわかりませんでした。
でも、今なら少し理解できるような気がします。彼は、何度もスタートをやりなおしたかったのではないか。
料理の世界でもそうなのですが、どの分野においても、才能ある、あるいは才能があるようにみえる人たちは後から後から出てきます。残る人もいれば、すぐに消えていく人もいる。でも、いつでもその時代時代に、世間の注目を集める人は必ずいます。だから、長くその世界にいる人間は、新しい才能に対して、二通りの見方をします。見ないようにするか、あるいはライバルとして捉えるか。
でも、相手にしていないよというクールなスタンスを取りたがる人ほど、実は内心で気にしているということが多いことも僕は知っています。むしろ、ライバルとして密やかに闘志を燃やしている人たちのほうが少ない。前者は忘れ去られていきます。後者は、生き残ります。研究して、負けない努力をするから。結果として、息長く活動を続けられる。ただ、ここでも生き残り方は二つに分かれます。がらっとこれまでの作風を変えるか、それまでの自分のやり方をより強固なものに鍛えあげるか。
ただ、がらっと作風を変えるやり方には、常に流行を追わないといけない、というリスクが付きまといます。これは結構辛い。気を抜いた途端に、へたすれば笑いものになってしまいます。だから、自分の流儀、というか基本を変えず、表現方法を時代に合わせていく、というやりかたが賢明だと僕は思うのです。
でも、再度頂点に立つことはなかなか出来ません。やはり、あの日のような時代の寵児に返り咲くことは叶わない。多くの人たちにもっと自分の曲を聴いて欲しい、そう思っても、昔のことを知っている人たちが耳を傾けてくれるだけです。
ならば、あの時の名前でもう一度、世間の耳目を集めよう、そしてそこからもう一度スタートするつもりで頑張ってみよう。これは、ある意味、自然発生的な考えではないでしょうか。
それでも思うような結果が得られないとき、人は途方にくれるのかもしれません。そして最悪の場合、こんな結果にたどり着きます。
「自分には最初から何もなかったのではないか。」。「ならば、もうできることはなにもない。」。
気力があるうちは、それでも持ちこたえることができます。でも、気力を支えるものは体力です。その体力が年齢的に衰えると、気力を維持するのは難しくなります。
いくら、過去に名曲が沢山あったとしても、希望にはなりません。むしろ、今の暗澹たる気持ちに拍車をかけるだけかもしれない。その先にあるのは絶望、でしょうか。
本当に、他人事ではありません。いままで書いたことは、程度の大小はあれ、すっかりそのまま今の僕にあてはまることなのですから。
奇才、アヴァンギャルド、異端、そのように言われてきました。でも、今の僕にあの頃のような料理はできません。僕は相応に年をとってしまったし、時代背景もちがっています。なにより、僕の料理は、おいしくなりました。例えるなら、どの角度から球を放っても、その球は同じ場所に収まってしまうのです。なぜなら、僕は20年もの間、そこを目掛けて球を放り続けてきたのだから。
どうやっても、そこそこのものが出来上がるのです。それが熟練というものなのかもしれませんが、またジレンマでもあります。結局、僕は長い年月、同じ場所をぐるぐる回ってきただけではないか。そして、また戻るのです。実は才能なんて最初からなくて、たまたま好き勝手にやったことが、その時代に受けただけではないのか。
希望は見えません。加藤和彦さん、とても辛かっただろうな、そう思って新生フォークルの「戦争と平和」というCDを買って聞きました。「悲しみは言葉に ならない 深すぎて・・・・・」
とても繊細なメロディーでした。ギターの音はクリヤーで、話しかけるような歌声は優しかった。
それはまぎれもなく加藤和彦の曲で、でも、こころに静かに深くしみ込んできました。そして、「そうか。」、僕は気づきました。たとえ多くの人が聞かなくても、ここにはよりそうような豊かな感動があるじゃないか。その年齢にならなければ出てこない味がたっぷりとあるじゃないか。
絶望せずやり続けたら、たとえ相手がたった一人であろうともその仕事は人を生かすかもしれない。
だから僕は、やり続けようと思いました。時代がどう変わろうとも、僕にしか出来ない方法で誰かを元気にしたいから。
絶望するほど僕はまだ努力していないな。加藤和彦さん、僕はもう少し頑張ります。
悲しくてやりきれない
ちかごろの僕は夜更かしです。毎晩YouTubeで、新ザ・フォーク・クルセダースのコンサートの動画を見てしまいます。あるいは、加藤氏に関連あるニュースをのぞいたり。
お葬式は密葬で、その時、遺書が公開されたそうです。その中にこんな文章があって、僕は少し違和感を覚えました。「世の中が音楽を必要としなくなり、もう創作の意欲もなくなった。」。では、世の中に必要とされる音楽というのはどんなものなんだろう?
話は少しずれるのですが、はしだのりひこ氏(フォークルのオリジナルメンバーのひとり)の追悼のコメントにこんな逸話がはさまれていました。外交的な政治配慮とやらで発売禁止になった名曲「イムジン河」の次に発表された「悲しくてやりきれない」のメロディーは、実はイムジン河の旋律を逆回しにしたものだった。僕はこの話を読んだとき、加藤和彦氏の音楽観にふれたような気がしました。彼にとって音楽とは、時代に抵抗するものであり、痛烈な批判となりうるパワーを秘めたものでなければならなかったのではないか。諧謔とでもいうのでしょうか、だからそれは同時に、シニカルな笑いを伴っていた。
オリジナルのフォークルには、確かに、そんな雰囲気があったように思います。真っ直ぐな反戦歌もあった反面、当時まだ若かった僕には理解できない際どいギャグもあった。
おそらく彼は、そのダンディーな外見と貴族趣味の裏側に、いつも戦う姿勢を持ち続けていたのかもしれません。そして機会を窺っては、反撃のチャンスを待っていたのかもしれない。でも、狼煙はあがっても、それに呼応する人民は不在です。
なんだか、自決した三島由紀夫みたいだな。
加藤氏は、音楽にではなく、世の中に失望したのでしょうか。変えようとしても変わらない人々に絶望したのでしょうか。あるいは、もはや変革をもたらすことの出来ない自分の才能に見切りをつけたのでしょうか。
悲しみは言葉に ならない 深すぎて
喜びも しみじみと 噛みしめるもの
嗚呼 あふれる思いも 空の雨に託して
涙声でも 大丈夫 胸を張れ
詞 北山修 曲 加藤和彦
こんな素晴らしい曲を作っていたのだから、作れる人だったのだから、自分を追い詰める必要なんてなかったのに。
新フォークルの一度限りのコンサートで、一回きりということで歌われた、新訳「イムジン河」にこんな一節がありました。
ふるさとの歌声よ 渡る風となれ
イムジン河とうとうと 青い海にかえる
お客さんが一人もこられなかった夜、店を閉めても帰る気にもなれず、自分の仕事はもはや世の中に必要とされていないのではないか、そう思えて、悲しくてやりきれない気分になったことは何度もあります。今でも、自信なんてありません。でも、他にやりたいことがないから、料理を作って、人を元気づけるのが好きだから、僕は、消えてなくなりたいとは思わない。たとえ世の中を変えることができなくても、それどころか、世の中に必要とされなくても、もっといい料理が出来るようになりたい、最後まで僕はそう思って生きるでしょう。大きな流れに身をゆだねて、青い海にかえるとき、笑顔でいたいと思います。
加藤さん、そこは、酒はうまいしネエちゃんはきれいですか。でも、一度僕の料理を食べてほしかった、それがとても心残りです。
ミチノ・ル・トゥールビヨン オーナーシェフ 道野 正
最後の言葉が、「もう音楽ですることがなくなった。」というものだったらしいと新聞で読んで、その辛さが他人事とは思えませんでした。分野は違うし、その足跡はとても僕が及ぶところではないけれども、一度は全盛期を極めた人間として、その後の身の処し方の困難さは想像できないことはありません。フォークルからサディスティック・ミカバンドと黄金時代があって、でもいつまでも頂点にいられるはずはなくて、いつかその存在が忘れ去られない程度の仕事で精一杯になってしまう。そのことに対する焦りや苦しみがあったのではないかと、これはあくまで僕の想像の範囲でしかありませんが、そんな気がするのです。すべてのミュージシャンがサザンや陽水でいられるはずがない。むしろ、成功が大きかったほど、プライドが高いほど、苦しみもまた大きいのではないか。
スケールは随分小さくて恐縮ですが、僕自身にもそういうところがありました。このままでは忘れ去られてしまう、そんな気持ちからレザール・サンテを立ち上げたのですが、これは本当に、見事に失敗でした。ただ、僕は幸運にも再度、挑戦する機会が与えられました。
それはラッキーではあるけれど、それだけではなくて僕が、あきらめなかったからでしょう。僕は、「料理ですることがなくなった。」とは思っていません。むしろ、まだなにもできていない、ということに今、気づいています。
先日、ミシュランガイドブックの京都・大阪版が刊行されました。大阪の「ハジメ」というフランス料理店が3ツ星を獲得しましたが、その授与式の時のシェフのコメントが、「取ってしまった、って感じかな。」であったと、これも新聞で読みました。頂点に立った、その気持ちから出た言葉なのでしょうが、実はこれからが勝負なのではないかと僕は思いました。あんまり世間をなめるなよ。
一瞬の絶頂とその後に続く苦しみの日々。その間に僕は、地道に力を蓄えようと思います。
そして、ひたすら続けること。最終的に、己に恥じない人生であればよいのではないかと思っています。
「あの素晴らしい愛をもう一度」。加藤和彦氏の生んだ名曲です。いつまでも歌い続けられる歌だと思います。
ならば、それを口ずさみながら、生き急ぐことなく死に急ぐことなく、淡々と努力を続けることで愛を確かめたいと思います。
加藤和彦氏のご冥福を祈ります。
悲しみは言葉にはならない
表題は、2002年に34年ぶりに再結成して、たった一度のコンサートで解散した新ザ・フォーク・クルセダースが歌った曲の題名です。亡くなった加藤和彦氏と北山修氏のオリジナルメンバーに加えてジ・アルフィーの坂崎氏が参加しています。そういえば加藤氏は、あのサディスティック・ミカ・バンドも過去2回、再結成しています。再再結成時の木村カエラの歌う曲は、TVのCMにも流れていたように記憶しているのですが、「昔のことをやるのは好きじゃない。」と言っていた加藤氏なのに、なぜそういう動きをするのか僕にはよくわかりませんでした。
でも、今なら少し理解できるような気がします。彼は、何度もスタートをやりなおしたかったのではないか。
料理の世界でもそうなのですが、どの分野においても、才能ある、あるいは才能があるようにみえる人たちは後から後から出てきます。残る人もいれば、すぐに消えていく人もいる。でも、いつでもその時代時代に、世間の注目を集める人は必ずいます。だから、長くその世界にいる人間は、新しい才能に対して、二通りの見方をします。見ないようにするか、あるいはライバルとして捉えるか。
でも、相手にしていないよというクールなスタンスを取りたがる人ほど、実は内心で気にしているということが多いことも僕は知っています。むしろ、ライバルとして密やかに闘志を燃やしている人たちのほうが少ない。前者は忘れ去られていきます。後者は、生き残ります。研究して、負けない努力をするから。結果として、息長く活動を続けられる。ただ、ここでも生き残り方は二つに分かれます。がらっとこれまでの作風を変えるか、それまでの自分のやり方をより強固なものに鍛えあげるか。
ただ、がらっと作風を変えるやり方には、常に流行を追わないといけない、というリスクが付きまといます。これは結構辛い。気を抜いた途端に、へたすれば笑いものになってしまいます。だから、自分の流儀、というか基本を変えず、表現方法を時代に合わせていく、というやりかたが賢明だと僕は思うのです。
でも、再度頂点に立つことはなかなか出来ません。やはり、あの日のような時代の寵児に返り咲くことは叶わない。多くの人たちにもっと自分の曲を聴いて欲しい、そう思っても、昔のことを知っている人たちが耳を傾けてくれるだけです。
ならば、あの時の名前でもう一度、世間の耳目を集めよう、そしてそこからもう一度スタートするつもりで頑張ってみよう。これは、ある意味、自然発生的な考えではないでしょうか。
それでも思うような結果が得られないとき、人は途方にくれるのかもしれません。そして最悪の場合、こんな結果にたどり着きます。
「自分には最初から何もなかったのではないか。」。「ならば、もうできることはなにもない。」。
気力があるうちは、それでも持ちこたえることができます。でも、気力を支えるものは体力です。その体力が年齢的に衰えると、気力を維持するのは難しくなります。
いくら、過去に名曲が沢山あったとしても、希望にはなりません。むしろ、今の暗澹たる気持ちに拍車をかけるだけかもしれない。その先にあるのは絶望、でしょうか。
本当に、他人事ではありません。いままで書いたことは、程度の大小はあれ、すっかりそのまま今の僕にあてはまることなのですから。
奇才、アヴァンギャルド、異端、そのように言われてきました。でも、今の僕にあの頃のような料理はできません。僕は相応に年をとってしまったし、時代背景もちがっています。なにより、僕の料理は、おいしくなりました。例えるなら、どの角度から球を放っても、その球は同じ場所に収まってしまうのです。なぜなら、僕は20年もの間、そこを目掛けて球を放り続けてきたのだから。
どうやっても、そこそこのものが出来上がるのです。それが熟練というものなのかもしれませんが、またジレンマでもあります。結局、僕は長い年月、同じ場所をぐるぐる回ってきただけではないか。そして、また戻るのです。実は才能なんて最初からなくて、たまたま好き勝手にやったことが、その時代に受けただけではないのか。
希望は見えません。加藤和彦さん、とても辛かっただろうな、そう思って新生フォークルの「戦争と平和」というCDを買って聞きました。「悲しみは言葉に ならない 深すぎて・・・・・」
とても繊細なメロディーでした。ギターの音はクリヤーで、話しかけるような歌声は優しかった。
それはまぎれもなく加藤和彦の曲で、でも、こころに静かに深くしみ込んできました。そして、「そうか。」、僕は気づきました。たとえ多くの人が聞かなくても、ここにはよりそうような豊かな感動があるじゃないか。その年齢にならなければ出てこない味がたっぷりとあるじゃないか。
絶望せずやり続けたら、たとえ相手がたった一人であろうともその仕事は人を生かすかもしれない。
だから僕は、やり続けようと思いました。時代がどう変わろうとも、僕にしか出来ない方法で誰かを元気にしたいから。
絶望するほど僕はまだ努力していないな。加藤和彦さん、僕はもう少し頑張ります。
悲しくてやりきれない
ちかごろの僕は夜更かしです。毎晩YouTubeで、新ザ・フォーク・クルセダースのコンサートの動画を見てしまいます。あるいは、加藤氏に関連あるニュースをのぞいたり。
お葬式は密葬で、その時、遺書が公開されたそうです。その中にこんな文章があって、僕は少し違和感を覚えました。「世の中が音楽を必要としなくなり、もう創作の意欲もなくなった。」。では、世の中に必要とされる音楽というのはどんなものなんだろう?
話は少しずれるのですが、はしだのりひこ氏(フォークルのオリジナルメンバーのひとり)の追悼のコメントにこんな逸話がはさまれていました。外交的な政治配慮とやらで発売禁止になった名曲「イムジン河」の次に発表された「悲しくてやりきれない」のメロディーは、実はイムジン河の旋律を逆回しにしたものだった。僕はこの話を読んだとき、加藤和彦氏の音楽観にふれたような気がしました。彼にとって音楽とは、時代に抵抗するものであり、痛烈な批判となりうるパワーを秘めたものでなければならなかったのではないか。諧謔とでもいうのでしょうか、だからそれは同時に、シニカルな笑いを伴っていた。
オリジナルのフォークルには、確かに、そんな雰囲気があったように思います。真っ直ぐな反戦歌もあった反面、当時まだ若かった僕には理解できない際どいギャグもあった。
おそらく彼は、そのダンディーな外見と貴族趣味の裏側に、いつも戦う姿勢を持ち続けていたのかもしれません。そして機会を窺っては、反撃のチャンスを待っていたのかもしれない。でも、狼煙はあがっても、それに呼応する人民は不在です。
なんだか、自決した三島由紀夫みたいだな。
加藤氏は、音楽にではなく、世の中に失望したのでしょうか。変えようとしても変わらない人々に絶望したのでしょうか。あるいは、もはや変革をもたらすことの出来ない自分の才能に見切りをつけたのでしょうか。
悲しみは言葉に ならない 深すぎて
喜びも しみじみと 噛みしめるもの
嗚呼 あふれる思いも 空の雨に託して
涙声でも 大丈夫 胸を張れ
詞 北山修 曲 加藤和彦
こんな素晴らしい曲を作っていたのだから、作れる人だったのだから、自分を追い詰める必要なんてなかったのに。
新フォークルの一度限りのコンサートで、一回きりということで歌われた、新訳「イムジン河」にこんな一節がありました。
ふるさとの歌声よ 渡る風となれ
イムジン河とうとうと 青い海にかえる
お客さんが一人もこられなかった夜、店を閉めても帰る気にもなれず、自分の仕事はもはや世の中に必要とされていないのではないか、そう思えて、悲しくてやりきれない気分になったことは何度もあります。今でも、自信なんてありません。でも、他にやりたいことがないから、料理を作って、人を元気づけるのが好きだから、僕は、消えてなくなりたいとは思わない。たとえ世の中を変えることができなくても、それどころか、世の中に必要とされなくても、もっといい料理が出来るようになりたい、最後まで僕はそう思って生きるでしょう。大きな流れに身をゆだねて、青い海にかえるとき、笑顔でいたいと思います。
加藤さん、そこは、酒はうまいしネエちゃんはきれいですか。でも、一度僕の料理を食べてほしかった、それがとても心残りです。
ミチノ・ル・トゥールビヨン オーナーシェフ 道野 正
by chefmessage
| 2009-10-23 12:21