秋の夜長に
2011年 09月 09日
20数年前、北海道は旭川で1年間だけですが暮らしたことがあります。ハーヴェスト・ロードハウスというレストランでシェフをやっていたのですが、けっこう楽しかった。冬の寒さも積雪による生活の不便さもそれほど辛くはありませんでした。むしろ、年間を通じて吹く風の清冽さが好きでした。とくに冬が来る前の、凛として張り詰めたような秋の空気がとても好ましく感じられました。
そのような季節にひとつの出来事があって、ぼくは今もそのときのことを昨日のことのように覚えています。
それは、百貨店の西武が企画した時計の展示会で、ぼくの働いていたお店を一軒貸切にして、来店した顧客に食事もしてもらう、という催しでした。せっかくだから気合入れていこう、ということで最上の食材とシャンパンを用意しました。
ところが、予想に反してお客さまの入りがいまひとつ。どうも不穏な雲行きになってきました。どう考えても、仕入れた食材が余ってしまいます。当時、血気盛んだったミチノシェフの機嫌が悪くなっていきます。「これ、どないすんねん。」。場違いな大阪弁が響きます。そのとき、展示会の責任者と思しき方がこう言ってくださいました。「シェフ、余ったらぼくたちが食べますから。」。
日本シイベルヘグナーという会社の皆さんでした。その夜、食事のあと、元来時計好きだったぼくはみなさんと大いに時計談義で盛り上がりました。なにげなくはめさせていただいた時計が1500万円もするブランパンのリピーター(チャイムで時刻を知らせる複雑機構)で驚いたこと。将来、独立したら店名をトゥールビヨンにしようと思う、と語ったこと。そのご縁で、数ヵ月後、ヴァシュロン・コンスタンタンの広告にも出させていただきました。(そう言えばあのとき、ギャラの代わりにオメガを一本あげます、と言われたような気がするのですが、もう時効ですね。)。
みなさん本当に時計が大好きで、こだわりの人たちで、夜が明けるまで話していたいと思いました。
その後、各時計ブランドがいろんな会社に分かれて、それに伴い人も移動してしまったため、みなさんとも連絡がとれなくなっていたのですが、ぼくが豊中で「ル・トゥールビヨン」を開業したとき、そのなかのおひとりが来てくださいました。スウォッチグループに移ってブランパンを担当しておられたSさんでした。そのときいただいたダニエルズ博士の「ブレゲのアート」という本は、今も大切にしまってあります。
そのSさんが、ほんとうに久しぶりに福島のぼくの店に来てくださいました。電話では何度かお話していましたが、顔あわせはあのとき以来だから、ほぼ20年ぶりです。
またもや、いきなりの時計談義です。一緒にこられたOさんとおっしゃる方もデパートで長年時計の販売をしておられたとかで、熱く語る語る。失礼して料理にかかりました。
食後は名刺交換会。Sさんはボヴェというスイスの高級時計を扱う会社の社長になっておられました。腕にしている代表作を見せていただきましたが、いい時計でした。
通常はケースの右にある竜頭とクロノのプッシュボタンが文字盤の真上にあります。懐中時計の意匠を再現しているのでしょう。歴史のある会社の作品であることを強烈にアピールしています。そしてバックスケルトンから見えるローターの青色の美しいこと。
その夜、ぼくは明け方まで眠れませんでした。その時計が欲しくなったこともあるのですが、それ以上に、今のぼくには到底手が出せない代物であることが悲しかった。
Sさん、じゃあぼくも一本買わせていただきます。そう言えない自分がすこし辛かった。もちろん、それがつまらない見栄であることは十分理解しています。時計にまわすくらいならほかに有効なお金の使い道はいっぱいあって、優先順位でいくと、それは月よりも遠い。
それでも、秋の夜長が白々と終わりに近づいたころ、ぼくはひとつの結論に達し、納得して眠りにつきました。
この仕事をずっと続けてきたから、Sさんとの変わらぬ友情も長年保ち続けることができたのではないか。それならば、ぼくはこれからも「ル・トゥールビヨン」という店名に恥じることのないよう努力を続けよう。そして、負け惜しみではなく、いつの日かボヴェを腕に巻こう。
福島に移転してもまた来てくださったSさんにこころから感謝です。でも、もうひとつ問題があります。明後日の夜、三重県伊勢市の河瀬さんが食事に来られます。ボン ヴィヴァンというフランス料理店を営みながら、併行してアンティークの時計店もやっていた豪腕の人です。そのこだわりもまた並ではありません。だから、
ぼくの睡眠不足は、もうしばらく続きそうです。そして、北海道に移住なんて夢のまた夢。ぼくは体力の続く限り働きつづけることでしょう。ま、それもいやじゃないけどね。