9月15日の産経新聞夕刊
2011年 09月 19日
「今から3年前、54歳のとき、医師から、いつ心筋梗塞を起こしてもおかしくないと告げられました。「心筋梗塞になったらどうなるんですか?」と尋ねると、「最悪の場合、死にます」。そのとき、自分も死ぬんだ、という当たり前のことを再確認したのです。
手術を受けての退院後、19年営業した豊中の店を閉め、大阪市福島区に移転する決意をしました。北摂という地域の、絶対数の少ないお客さまをいかにひきつけ店を維持するか、そのことばかり考えて朽ち果てていってよいのだろうか。これがオレのフランス料理だ、そういうものを世に知らしめなければ、死んでも死にきれないのではないか。そう感じ、広い範囲から人が集まる新しい舞台で、それも激戦区といわれる場所で、もう一度、初心に帰って戦おうと思ったのです。
でも、移転した当初は途方に暮れました。自分のフランス料理とは何か、が見えなくなっていました。周囲の若手のやっている今の料理が理解できないのです。
いわゆる「分子ガストロノミー」(ガストロノミーとは「美食学」のこと)の台頭です。料理を科学的に分析し、これまで経験と勘に頼っていた部分を数値として形式化します。たとえば卵の中心が何度になれば半熟という状態になるのか。そのためには何度の湯で何分ボイルすればよいのか、それをすべて明らかにします。ではなぜ分子、という言葉がつくのか。
黄身の状態が問題になるからです。たとえば、中心が60度になればよいのなら、なにも沸騰した湯で、短時間で調理する必要はありません。65度でボイルし続けて結果的に中心が60度になればよいのです。そうすれば激しい温度差による分子の破壊が軽減されます。風味が損なわれにくいし、とろみなどの食感がかわってきます。生卵に近い味わいなのです。但し、調理時間はかなり長くなります。そのように食材の変化を分子レベルでとらえるから分子ガストロノミーとよばれるのです。最初はこれが理解できませんでした。
そして、レシピに登場する聞きなれない健康食品や食品添加物。多機能ミキサーや加減圧調理器などの使ったこともない機械。液体窒素で瞬間冷凍させたオリーブオイル! あるいは先の卵の理論の応用編である、火が通っているのかどうかわからない焼き加減の魚や肉。すべておまかせで、延々と続くミニサイズの料理のコース。何故、こんなことをするのだろう。どこがいいのだろう。わからないから、食べ歩き、調べ、聞き…。
でも、全然楽しくないのです。解るし出来るようにはなったけど身につかない、というか。やっぱり無駄に年くったかなあ。でも、そうではない、とぼくのこころが言います。やっていて楽しくないのは、それがおいしいと思えないからだ、と。
ぼくは、自分がおいしいと思うものしか作れない。そしてそのおいしいという感覚は、母親から受け継いできたものだとぼくは思っています。彼女が毎日毎日、子供達の成長を願ってつくってくれたその努力の積み重ねがぼくの土台になっている。新しさが全てではない。むしろ、受け継いできたものを大切に育てて、次の世代に手渡すべきだと思うのです。
どんな状況にあろうとも、あきらめないで、そのとき自分にできることを精一杯やろう。そして、大切な私流のフランス料理を築きあげよう。残された時間内に、自分が思い描く場所にたどり着けるかどうかはわかりません。でも、すくなくとも近づいている、その気持ちがいつの時代でも、希望と言われるのではないかと思います。」