山を登る、ということ
2012年 01月 19日
エル・ブリのレストラン営業は年6ヶ月で、残りの半年はバルセロナにあるラボでの新メニュー開発に費やされるようなのですが、映画の大半は、そのラボでの活動を克明に追いかける映像です。多分、いくつかのテーマが決められているのでしょう。それは主に食材であるようなのですが、たとえばキノコなら様々な種類を集めて、それを色んな形に切って、煮たり焼いたり、蒸したり真空調理したり、オイルやエキスを加えたり、出来る限りの色んな技術で変化させます。そして写真に撮り、データをパソコンに落とし、並べ替えて整理し、リストを作る。その作業をテーマごとにやっていきます。映画では主に3人のクリエイティヴシェフと呼ばれる人たちがそれを行っているのですが、やっている最中にふと沸いてくる発想もお互いに話し合ってどんどん取り込んでいきます。というか、むしろそれが重要な感じです。で、御大フェラン・アドリア登場。報告を受けて、試食し纏め上げていきます。クリエイティヴシェフが作り、アドリアが試食し、ダメだしし、また作り試食し、まとめて整理していく。少しづつ形が出来始め、デザインや皿が決められ、順番が決められ、その数が35品くらいになるころ、営業日が迫ってくる。全世界から集まったスタジエ(研修生)の配置が決められ、訓練が始まり、でもまだ決めれない料理もあって、オープン当日になってもアドリアは試食している。メモを取って、セクションシェフたちに指示している。雰囲気が張り詰めてキリキリ音をたてているようです。最後まで気を緩めず、少しでも高い場所へ登ろうとしている、そんな気迫が横溢しています。
でも、ぼく自身にとって一番印象的だったのは、スタジエ全員の前でアドリアが語ったこんな言葉です。「みんな、エル・ブリに行ったら変な器械や薬品がいっぱいあると思っていただろう?でも、ここにはそんなものはない。あるのはこれだけだ。」。そうして彼は自分の頭を人差し指でコンコンとたたきます。そうか、ぼくは納得しました。
ある専門誌の記者が、あの映画は秘密を解き明かしていないから一つ星だ、というようなことを書いていましたが、ぼくはそう思いません。逆説的で深読みし過ぎかもしれませんが、結局エル・ブリの秘密とは秘密がないということではないか。あるのは、新しい何かを作り出そうとする個人の意思であり、啓発ではないのか。それを具体化するための器械や添加物の開発であり、人材の育成ではないのか。
だから、トップランナーと追従者の違いはすでに明白であると思います。彼らの料理のコピーにはなんの意味もない。
1月7日の朝日新聞誌上で、コム・デ・ギャルソンの川久保玲さんがこんなふうに語っていました。
「どの分野でも、商品の値段や製作費用をいとわず、新しいものを作り出そうとしている人はたくさんいます。そうした姿勢は、どんな状況であっても人が前に進むために必要なものだからです。」。
では、なぜ人は前に進まなければならないのか。時間が前にしか進まないからではないでしょうか。この世に変化しなものはありません。じっとしていても人は年老いていく、それは自明の理、なのだから。ぼくたちは立ち止まることなんか出来ない。そうであるならば、よりよく変化したい。ないものを作り、ありすぎるものを減らしていく。新しい、とはそういうことなのかもしれません。
でも、エル・ブリは閉店することになりました。もうやれることはやりつくした、フェラン・アドリアがそう語ったという噂です。でも、やりつくしたのは彼個人であって、そこが頂点というわけではない。彼は並外れて非凡だったけど、超人ではない。だから店を閉める決意をしたのでしょう。
あるレストランに行ったとき、メニューの裏にシェフからのメッセージというのがあって、サーヴィスの人間が、料理がくるまでの間にそれをお読みください、と言います。で、読んでみたところ、こういうような一文がありました。「頂点に立ったら、下から土を持ってきてそこに積み、その上に立つ、そのことの繰り返しです。」と。ぼくの感想はこうでした。「キミの山は砂場の山か?」。
頂点はそんな低いところにはないでしょう。そこは地球上で一番、神様に近い場所なのだから。だれも立ったことのない場所なのだから。
みんなそこを目指して生きているのです。たどり着けないだろう、でも、登り続けるしかない。だから、ぼくも思います。自分の力で行けるところまで行ってやる。
「老人と海」の言葉を思い出します。ヘミングウェイ自身は猟銃で自殺してしまったけれど、彼の生み出した物語上での言葉は不滅でしょう。漁師の老人はこう言いました。
[人間は、負けるようには作られていない。]