三周年メニューについて
2012年 07月 25日
とにかく、フランス料理ファンが、こういうの食べたいと願っているストライクゾーンにバンバン剛速球投げ込んでいる感じで、見ているだけでも圧倒されます。すさまじい破壊力を秘めていて、彼のやろうとしている料理がコンセンサスを得ることになれば、今の日本のフランス料理の流れは確実に変わるだろうという気がします。
では、彼の料理はどうちがうのか。
キーワードは、ガストロノミーです。美食、という意味でしょうか。すなわち、普段口にできないご馳走を作って供する形態。高級な食材を、家庭ではできっこない手間と技術で調理し、特別に設えた空間で食べてもらうこと。当然といえば当然で、フランス料理の文化とは、とどのつまりはこれなのです。では、昨今はやりの現代フランス料理というのは何か。
ひとことでいうなら、流行です。エル・ブリを代表とする現代スペイン料理が世界を席捲したとき、それを部分的に受け入れることで王者の地位を守ろうとしたフランスの料理界の料理、とでも言えばいいのでしょうか。もちろん、彼らが前面降伏するわけがなくて、現代スペイン料理がバスクやカタルーニャの料理を土台にしているように、現代フランス料理は自国の偉大な料理を元にして成り立っています。ただ、問題は、今の日本のフランス料理界の状況です。
今、日本で活躍している、あるいは注目されているシェフたちはほとんどが30代です。彼らは現代フランス料理にあこがれ、一部のひとたちはフランスに渡りそれを学んで帰国し、フランスに行かなかったひとたちもそういう料理をやっているお店の厨房で働き、身につけたものにさらに自分流の解釈を加えて料理を作っています。そしてマスコミのみなさんがそれをあおり、お客様はそういうお店に集中する。
ここから先の発言は危険水域になるのですが、料理のほめ言葉がいつから「きれい!」とか「かわいい!」になったのでしょうか。そして、食後、「おいしかったね。」と語り合いながら、でも、すでに何を食べたか思い出せない状況が正しいのでしょうか。
料理が運ばれてきたときの第一声が「おいしそう」であり、食後の感想が、「今日食べたアレ、ほんとにおいしかったね。」であってほしい、ぼくはそう願っています。だから、まさしく王道を行く敬三のフランス料理が受け入れられつつある状況を、ぼくはこころから喜ばしく思っています。彼は、とことん高級素材にこだわります。そして、12年のフランス生活で身に付けた、まちがいのない理論とテクニックで、問答無用のおいしさを提供します。
ところで、じゃあ、ミチノさんはどうするんですか?と尋ねられそうですが、ぼくはその答えをやっと出せそうなところまで来れたようです。
ここ数年、ぼくはほんとうに迷ってきました。福島に移転して、それはさらに深まりました。自分が時代遅れに思えて仕方がなかった。世の中に必要とされていない、そこまで思いつめました。ぼくの前を走っている恐るべき子供たちの背中がやたら大きく見えて。
必死で追いつこうとしました。そして、追いついたと思えたときに悟りました。彼らが見ている先には彼らの師匠がいて、その師匠の先にぼくの背中が見える。
ぼくの仕事に特殊性がなくなったのは、それが世の中に受け入れられるようになったからでしょう。それなら、次の手はあります。
これまでに世に送り出したぼくの料理は、ぼくが考えた料理の何分の一かでしかありません。技術的に難しい、手間がかかりすぎる、でも最大の問題は、難解すぎる、ということでした。でも、従来のぼくの仕事が前衛でなくなったのなら、ぼくは、次のステップに歩を進めてもいいのではないかと思えるようになりました。
料理は芸術であってはならない、ぼくは自分にそう言い聞かせてここまで来ました。でも、引退の日が見えているのなら、
好きにさせていただこう。
そんな料理を8月の周年メニューには盛り込むつもりです。
22年もやってると、器用なこともできるようになります。それは、意表をつく角度から球を投げてもストライクゾーンに入れることができるということです。方法論はまったくちがいますが、目的は敬三と同じです。だから、ぼくは敬三を歳の離れた仲間だと思っています。
若さ故の剛直、老い故の柔軟。ほんとに腹立たしいことばかりの加齢ですが、少しはいいこともあるようです。
さて、もう一花咲かせますか。