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ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


by chefmessage
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地図のない旅 2

 今回の東京小旅行のお伴は、ジェフリー・ディーヴァーの「d0163718_13104787.jpg追撃の森」でした。
 ぼくの場合、旅行が楽しいかどうかは、実は、どの本を持っていくかで決まります。その本が読んで楽しいものであれば、旅の合間の退屈な時間がなくなって、中身がしっかり詰まった充実した時間が過ごせるからです。移動の途中でも、ホテルで一人でいるときでも、ぼくは時間を持て余さずにすむ。だから、ぼくは旅にでるときには、必ずお気に入りの作家の本をカバンに入れていきます。ディーヴァーは「ボーンコレクター」以来、その著作の殆どを読んでしまっているので、まだ未読のこの本(ましてや携行に便利な文庫本)はそれだけで、今回の旅を期待多きものにしてくれました。
 その本のなかで、執拗に殺人犯に追われる女性保安官補が、迷いこんだ森林公園から抜け出る道を探すために、コンパスを手作りする場面が出てきます。まず保安官バッジのピンをはずして、それを石で叩くことでピンに磁性を帯びさせます。そのピンを小枝にくくりつけて、水を入れたペットボトルにそっと浮かせる。すると、針は南北に向いて止まります。あとは、その針の左右が東か西かで、指し示す方向が北か南かわかる仕組みです。一方、殺人犯の側はというと、これがアイフォンのGPSで彼女を追いかけている。原始的な道具と近代機器の対比も絶妙で、この作家の本は本当に面白い。

 ここで話はまったく別方向に進むのですが、先日フェイスブックに投稿された記事に、ぼくはとても違和感を覚えました。それは、古典料理を得意にする、あるシェフを称賛する記事でした。曰く、昨今のカタチから入る料理人の料理はキレイだけれど、味はさえない。これは本質を理解していないからで、その点、彼は古典料理に精通していて本質がわかっているから、その料理はマジで旨い、云々。さらに、本質は時代を超えて残る、と明記しておられる。
 では、料理の本質って、一体何なんですか?と、ぼくは、その投稿された方に聞きたかった。それこそ、ぼくが25年のシェフ生活で、一番知りたいことだから。
 マジ旨いことが本質だとは言わないでいただきたい、とぼくは思います。それは、食べる方の主観であって、普遍的な回答にはなりえないから。
 ぼく自身は、独創とか異端とか、あるいは前衛というレッテルを貼られ続けてきた料理人です。その言葉で持ち上げられ、そして、叩きつけられた人間です。喜びも沢山あったけれど、それ以上に、苦しみ迷いも多かった。いまだにぼくは迷い続けているのです。料理の本質とはいったい何なのか。それを探して、ぼくは毎日戦いつづけているといっても過言ではない。
 確かに、見た目重視の風潮が料理の世界に蔓延していることは否定しません。けれども、すべてがそれに染まっているわけではありません。古典を学ぼうという流れができつつあるのも事実です。ただ、それもいわゆる流行ではないかとぼくは思います。行き過ぎた革命には、反革命がつきものなのですから。メトロノームと同じで、左に振れきったら、針は右に向かうものなのです。
 その反革命の急先鋒に、件のシェフがなりつつあるのではないでしょうか。でも、だからといってすべてのシェフが、レペルトワール(フランス古典料理の手引き、みたいな書物)片手に古典ばかり作りはじめたら、あまりに退屈だろうとぼくは思います。
 それに、今、若手シェフが古典だ、と言っている料理は、現代風古典料理だろうとぼくは考えています。レペルトワールは食材の列記だけで分量や作り方は書いていないから、作り手によって出来上がりはちがったものになります。リアルタイムでその料理に接してきたぼくたちみたいな世代とは、解釈はちがっていて当然でしょう。それに、食材そのものが昔とは違う。質もちがっているだろうし、値段もちがう。トリュフなんて、ぼくがコックになったときの3倍以上になっているから、採算を考えると、使う量もかわって当然です。
 だから、料理の本質というものは、料理そのものにはないとぼくは考えています。もしそれがあるとすれば、それは細部の、料理を構成する個々の要素に存在するのではないか。
 料理は、絵ではありません。そのような平面的なものではなく、もっと立体的なものです。例えるなら、建築とか時計とか。
 要は、パーツなのです。パーツひとつひとつがよくないと、組み上げられないし、完成度は低い。基本のテクニックであり、そのテクニックが確かな方向性をもったとき、そこに本質が宿るのではないか。
 正確に刻まれ、しかもむらなく磨き上げられた歯車、何度も焼きをいれられて剛性に富み、しかも均一なゼンマイ、それらが組み合わさって完璧な時計ができあがる。まさしく、細部に神は宿る、なのです。
 だから逆に、パーツさえしっかり作り上げることができれば、あとは新しい世界に踏み込んでいっても何ら問題はないと、ぼくは思います。見た目は本当に美しく、芸術的でありながら、食べるとさえない味の料理、あるいは何を食べたかわからない料理というのは、個々のパーツの完成度が低く、しかもその方向性が不確かだからではないでしょうか。

 ル・マンジュ・トゥーの谷シェフの鴨料理はクリームソースでした。まず下に、柔らかく炊いたお米が敷かれています。これは、その鴨が米を主食にしているからだそうです。その米はやわらかい、これは鴨の身が柔らかいから。トリュフの風味がするのは、米とトリュフの相性がいいから。それにはクリームのようなやさしい味がよくあいます。鴨は網で捕って無傷だから血なまぐささはあまりない。それなら家禽に使うようなクリームソースで食べてもらおう。米の炊き加減、鴨の火の通し、クリームの煮詰め具合、あるいは香り、すべてが完璧で、しかもお互いが補完しあい、支えあって一つの構造物として成り立っている。これがフランス料理です。ちなみに、古典で、鴨にクリームを使う料理はそれほど多くないのではないでしょうか。

 敬三のフグの白子とフグのコンソメもそうです。まず、主材料が日本特有のものです。そのフグは、バターでじっくりムニエルにし、その後、軍鶏でとった敬三自慢のコンソメで火を通します。白子はぶつ切りにして、オーブントースターで焼く。それを意表をついた缶詰に入れ、コンソメを注ぎ、柚子を飾る。まさしく、敬三にしかできないフランス料理です。
 オマージュの荒井さんの魚料理も同じく。じっくり焼き上げた魚に、黒にんにくとナスビのピューレのソース。根セロリのピューレに紅たでを盛り、大葉で巻いたナッツ味噌!食材は和ですが、一つ一つのテクニックはフランス料理以外のなにものでもない。その融合の按配が、彼の料理を比類なきものに仕立てています。
 以上の3っつの料理は、見方によっては独創であり、ユニークです。でも、本質は宿っていると思います。
 彼等は人並み以上の苦労をして、手製のコンパスを作りあげたのでしょう。そして、それを使って、自分の行く道を確かな足取りで歩いています。
 GPSで情報を集め、行く先が間違いなくわかっている旅人とちがって、迷ったりすることもあるかもしれないけれど、彼等こそ、新しい地図を作るとぼくは思います。そして、それが復元ではない、新しい古典をいつか生み出すような気がします。

 時代そのものが変化するように、本質もまた変化していくのでしょう。だから、本質を見据えたと思った瞬間に、それはもう本質ではなくなっているかもしれない、それなら、ぼくたちに残された道はただ一つ。手製のコンパス片手に、勇気を奮い起こして、旅を続けること。
 
 
 
 
by chefmessage | 2014-01-24 13:11