道程
2015年 04月 15日
そもそも独立した当初からぼくの料理は、いわゆる業界人や料理通の方々から、「これ、普通のお客さんにはわからないよ」、あるいは、「もっとわかりやすい料理じゃないとお客さん来ないよ」といわれ続けてきました。でも、ぼく自身は最初からそのつもりでやっていたからそれでいいのだ、と思っていたし、世間の耳目も集めていたから有頂天で、数年はその路線で突っ走っていたのですが、やがてひとつのことに気がつくようになりました。それは、お客様の食後の反応の顕著な違いでした。
手放しで大絶賛する人がいるかと思うと、戸惑いを隠せない表情で帰られる人もいる。なかには、不愉快な表情を隠そうともしない人もいる。
ぼくの店は、客観的には高価格な飲食店です。だから、やっぱりより多くのお客様に満足していただくべきではないだろうか。そのために必要なものは何か。
やっぱり基本が大事でしょう、とぼくは思いました。でも、ぼくは調理師学校にも行っていないし、何軒もの店で修行をしてきたわけでもありません。だから古典を学ばないといけないと思いました。そして、それを取り入れた料理を作るべきだ、と。
ただ、それまでの料理があまりに奇抜だったから、うまく噛み合いません。そこで方便として、メニューを二本立てにしました。基本を大切にした料理と独創的な料理。お客様がその両方からオードブル・魚・肉を自分で選んでコースを組めるように。
でも、そのやり方にも限界がありました。何を基準に自分の料理を分ければいいのかわからなくなってきた。今思えば、その頃からぼくの迷走は始まっていたのでしょう。
料理に迷いが出始めた時期に合わせて、来客数が減り始めました。そうなると、迷いはさらに深くなります。ぼくは料理専門誌を見るのが恐くなった。そこに掲載されている料理がすべて自分のものより優れているように思えて。それでも、店を閉めることはできません。だから、話題の店に頻繁に食事にでかけるようになりました。そして感じたものを自分の料理に取り込もうとしました。でも、所詮は付け焼刃です。追い詰められて、野菜中心のフランス料理店という新ジャンルに挑んだのですが、これは経営的に大失敗。打ちひしがれて、死んだほうがましなのではないか、とまで思いつめたのですが、家族のことを考えるとそんな軽はずみなことはできません。うつ病一歩手前、だったような気がします。でも、悪いことって続くものなんでしょうか。同じ時期に、身内の事情で、豊中の店舗と自宅から出て行かざるを得ないという状況に陥ってしまった。
終止符打たれたな、と思いました。でも、お客様の一人で、苦境から脱出する手助けをしてくださる方がいて、その方のおかげで現在の福島の店舗に移ることができました。そこでめでたしめでたし、ということになれば良かったのですが、今度は逆に、何があっても失敗できないという心境になったのです。ぼくはその方策としてモード・スパニッシュに注目しました。そこに自分の新しい展開があるのではないか、と。ぼくはのめりこんでいきました。でも、それも迷いに過ぎなかったと今は思います。
結局、新しいものは外からはやってこないのです。変わるのは自分自身であり、自分自身の意思がそうさせるのです。外的要因に頼ること自体が弱体化していることではないかと思います。大切にすべきものは、すでに自分のなかにあるのです。ただ、すべてを主観で固めてしまってはいけない。いつもこころのどこかに隙間をあけておくこと。その自由な空間にアンテナを一本高く立てて、風の音、花のにおい、人のぬくもり、みたいな小さなものから、時代の変化のような大きなものまでを感じ取り、取り込み、自分自身を刷新し続けること。それが正しい変化のあり方、あるいは生き方なのではないか。
今年の京都市立芸大の入学式式辞で、鷲田清一学長がこう言っておられます。「自分がこれまで育んできた個性らしきものに閉じこもるな、ということです。それは大切なものだけれど、それは小さすぎるということです。」。これは、ぼくの主張と対立するようですが、実はそうではないと思います。新入生と大人との違いがまずあります。経験の幅に差がある。
ぼくは、自分を見失った大人でした。それは海図を持たない、いわゆる難破船で、これから航海にでようとする新造船ではありません。出発する船に海図は必需品です。でも、ぼくは海図をどこにしまったか失念してしまっていたのです。だから航海しながら、ひたすらそれを探していた。目的が違っているのです。でも、ぼくはそれを見つけました。胸のポケットにずっと入っていたのに。
個性についても同じです。個性らしきものと個性は違います。ぼくは個性を薄めようと努力してきた。その結果、それが小さくなってしまった。ぼくはぼくでしかないのです。そして、そのことに諦めに似た感情を抱きながら、でも、もっと遠くへ行くために今はそれを肯定しようとしている。そして、アンテナがキャッチした情報をすばやく取り込んで、それを強化しようとしている。
海図を再び左手に持ち、個性の力を右手に伝えて舵を握り、ぼくは目的地に向かっています。燃料は残り少なくなっているけれども、それはもはや問題ではない。
それと、もう一つ判ったこと。
米米クラブの石井竜也さんの言葉を引用します。朝日新聞の記事から。
「お客さんが求めているものを探すなんて、おこがましい。みんな求めているものは違う。うそをついてもしょうがない」。これを読んだとき、ぼくのなかで揺れていた何かが、すとんと落ち着きました。
料理人のこころのなかには、いつも二人の自分がいるのです。作る側の自分と、食べて側の自分。言い換えれば、職人と客、二人の自分。その二人が常に意見交換しながら、料理や店が完成していくのです。だから、ひとりよがりなんて、本当はありえない。すなわち、結局は自分が良いと思う料理しか作れないし、お店もやっていけないのです。不特定多数のお客様なんて、そもそもいない。だから、考えて考えて、自分が出した結論に最終的に従えばいいのです。
もう、怖れる必要はない。どんな素晴らしい料理にであっても萎縮する必要はない。自分の仕事は自分にしかできないのだから。
たったそれだけのことなのに、理解するまで随分遠回りしてしまいました。でも、今なら自信を持って言えます。ぼくの料理は間違いなくおいしい。そして、もっとよくなっていく。
青空は青い、当たり前のことがやっとわかった気分です。
「春を想い出すも
忘れるも
遠き 遠き道の途中でのこと」 井上陽水 結詞