不肖の師匠
2015年 05月 31日
彼はぼくの還暦パーティーのときにわざわざ来てくれたから、今度はぼくが行かないといけないとマダムや従業員達を説得し、ぼくは営業日にもかかわらず関西空港に向かい、初めてピーチの飛行機に搭乗しました。乗って驚いたのですが、ピーチの飛行機、とにかく座席が狭い。そのうえ隣の男性、やたら恰幅がいい。それだけならまだしも、前席の青年が飛行中、しっかりシートをリクライニングさせるものだから、ぼくは身動きとれません。自分も前席同様にシートを倒せば少しはその状態が緩和されるのだろうけれど、後席の人のことを考えるとやっぱりできないな、そうするとその後ろその後ろ、ドミノ倒し状態になるのではないか、そう想像してぼくは我慢しました。だから、新千歳から旭川に向かうJRの特急に腰を落ち着けたとき、ぼくはまるでファーストクラスに搭乗したようにリラックスできたのでした。
札幌を過ぎると、車窓を流れる景色はひたすら田園風景です。それをぼんやり眺めることがぼくはけっこう好きです。おだやかに時が過ぎ、やがて長いトンネルを抜けて、列車は旭川到着。自宅を出てから約8時間、やっぱり遠いなと一息ついて見渡すと、大雪山やそのまわりの山々にはまだしっかり雪が残っていて、旭川の気温は14度。大阪は29度やったのに。
パーティーの始まる時間まで余裕があったので、ぼくは一度行きたかったお店に行くことにしました。駅から歩いてすぐみたいだし。
「サロン ドール」というお菓子のお店で、イートインもできるみたい。FB友達の金美華さんがオーナー・パティシェールです。お店に着いて、早速、美華さんにご挨拶して、しっかり焼き色のついたタルトをいただきました。美華さん、クラシックなお菓子がお得意のようで、とてもおいしい。そうして小休止していると、「これからケーキを届けに行くから、シェフも一緒に車で行きませんか」と美華さんから声がかかって、ぼくは会場のホテルまで同乗させていただくことになりました。
会場に入ると、何人か見知った顔が。これまで河原君とは数回、彼の店でコラボをしたことがあるので、そのとき手伝ってもらった連中、来てくださったお客様。河原君によく連れていってもらった「こばちゃん寿司」のこばちゃんのやさしそうな笑顔もぼくを迎えてくれて、うれしくなってしまいます。そうして、パーティーが始まりました。
マイクを手に司会者がいきなりぼくの紹介を始めます。「河原シェフの師匠、大阪の道野シャフにご挨拶をいただきます」。これは想定内だったので、ぼくは河原君との出会いから話始めました。
それにしても、出席者全員の目線がまっすぐなことに少したじろぎます。あの河原シェフの師匠、という熱いまなざし。こういうの、実はぼくはけっこう苦手です。
これはぼくが常々言っていることなのですが、ぼく自身は、弟子などいないと思っているし、だから、師匠と呼ばれたいとも思っていません。これまで沢山の若い人たちと働いてきたけれど、ぼくは彼等を指導したこともないし、ましてや育てようと努力したこともありません。知人の、三重県伊勢市にあるレストラン「ボン ヴィヴァン」のオーナーシェフ河瀬毅さんは、従業員の育成に実に熱心な方で、チーズやワインの勉強会を営業終了後なさったりして、素晴らしい人格者だとぼくは敬服しきりなのですが、その河瀬さんと比べると、ぼくは残念ながら人格者というより性格破綻者に近いのではないかと思えたりします。
ぼくは自分のことしか考えていない人間です。だから、ぼくは自分の仕事が楽になるために人を雇っています。そして、楽になった分、ぼくは次のステップに挑みます。雇った人が出来るようになればなるほどぼくは前に進めるから、ぼくは次第に要求をレベルアップさせて、高次元の仕事をその人に要求します。ぼくはずっとそうしてきただけなのです。
だから、彼等または彼女たちが何かを学んだとするなら、それはその人たちが努力した結果であって、その人たちの業績に過ぎないとぼくは思っています。その業績を基に今現在活躍する人たちを、それではぼくはどう位置付けているか。一言で表すなら、それは「仲間」でしょう。ともに第一線で戦う「仲間」。そしてそういう「仲間」は、決して多くはありません。ともに働いた人たちのなかのほんの一握りです。だからぼくは、感謝の気持ちも込めて、その人たちをこう呼びたい。君達はぼくの「親友」であると。
ぼく自身、30年近く前に旭川で働いたことがあります。レストランのシェフを指導するシェフとして一年間、滞在しました。でも、それ以上いたくなかった。ここにいると、ぼくは埋もれてしまうと思ったから。
当時、ぼくが働いていたレストランの近くに、多分JAだったと思うのですが、大きな野菜の集配所がありました。ある日、そこにコーンの山が出来ていました。頂上まで何メートルもあるほど大きな山でした。ぼくは、そこの人に、これは何のためにこうしているのかと尋ねました。すると、その方はこう答えました。「燃やすんだ。」。そして、「欲しければ、いくらでももっていっていいよ。」。
沢山出来すぎたから、価格調整のために処分するのだと言います。だから、ぼくは店からコンテナを持ってきて、それにいっぱいいただいて、それでコーンポタージュを作りました。ほどよく水分がぬけて甘みの凝縮したコーンで作ったポタージュは、ぼくがそれまで作ったどれよりもおいしかった。
その数日後、ぼくは雇われている店のオーナーと、旭川で一番といわれているホテルでランチを食べました。そのとき出たコーンポタージュは缶詰をベースにしていた。そして、だれもが当然のようにそれを食べている。ああ、ここにぼくの居場所はないとぼくはそのとき思ったのです。
その旭川に河原君が行くと言ったとき、当然ながらぼくは止めました。でも、行くと言い張ります。ま、すぐ帰ってくるやろ、とそのときぼくは思ったのです。でも、それから20数年、彼は旭川に留まりました。そして今、多くの料理人が彼のために馳せ参じて、彼のために盛大なパーティーを催している。沢山のお客様が彼に祝杯をあげている。
もとより、開放的な土地柄ではありません。ぼく自身、それを身をもって体験しました。気候から風土から、大阪とはまるで違う、だから彼の努力を思うと頭が下がります。きっと、何度も帰りたいと思ったことでしょう。でも、彼はまだ旭川にいる。
パーティーの途中で、ある女性に声をかけられました。まるで訴えかけるかのようにこう仰る。「道野シェフ、河原シェフを大阪に連れてかえらないでくださいね。河原シェフは旭川に必要な人なんです。」。ぼくは冗談めかして、こう答えました。「あんな大きいもの、手荷物で持ってかえれないから大丈夫です」。でも、ちょっと感動したな。
ぼく達の仕事にはお手本はありません。どんなものを作っても構わない。ただ、それがまっとうなものでないと判断されたなら、その時点でそれは終わりです。次の手を飽くことなく出し続けることができるのか、それでもまだ走り続けたいのか。なんのために走るのか、いつも考えながら、それでもぼく達は走っている。だから、
もう師匠も弟子もないのです。あいつが走っているから、おれも走る、そして、走る以上は背中は見せたくない。地元の人たちに、かくも愛されている河原君に多少の嫉妬も感じながら、ぼくは今回の北海道行きで多くを学び取りました。ミチノの一番弟子を自認する彼から多くを教えられたぼくは、だから不肖の師匠です。そして、なんだかとてもいい気分です。