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ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


by chefmessage
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開高健から教わったこと

 ちょっとでも時間があれば、本を読みたい、ぼくはそういう人間で、とくにフィクションというか小説が好みです。これは多分、高校生のころからずっと続く習慣なのですが、それでは、これまでで一番感銘を受けた、あるいは好きな作家は誰かというと、それは開高健にとどめをさします。彼の「日本三文オペラ」と「夏の闇」は、もし余命宣告を受けたら必ず再読したいと思っている作品です。
その開高健が、YouTubeの動画でこんなことを語っています。「筆舌につくし難いとか、声を呑んだとか、言葉を忘れたとか、こういうことを書いている人がいるんだけれども、これは敗北だな。物書きならば、何がなんでもこねあげて、表現しなければならないと思う。」。この言葉を耳にしたとき、ぼくは作家開高の凄みを感じました。矜持というような生易しいものではない。それはまさしく覚悟なんだ、と。その覚悟から立ち昇ってきたのが、あの瑞々しい文章の連なりなのだと思うと、ぼくはこの作家に畏敬の念すら覚えます。
ぼくの仕事は文学のように、社会に影響を与えるなんてことはないし、ときに人の人生観にまで深く関わるといったようなだいそれたものでは全くない、それどころか、一瞬に消えてなくなる実にたよりないものでしかないけれども、それでも、覚悟といったものは必要なのではないかと、時々考えます。
 とはいっても、すべての文学が影響力を持つのではなく、とくにすぐれたものだけがその力を伝播させうるように、料理のなかでも傑出したものだけが、人の心に記憶として残り続けることができるのではないか。そのためには、「なにがなんでもこねあげて表現しなければならない」という覚悟、言い換えるならば、それを成し得なければ自分の人生に意味がないとまで思いつめる覚悟がなければならないのではないか、と思うのです。
たかが料理ごときで、そんなに思いつめることはないとは思うのですが、これは多分に持って産まれた性分でもあるのでしょう。人に楽しんでもらうのが仕事なんだから、自分も楽しんでやらないとだめですよ、という意見も否定はしません。それに、食べ手に難しいことを要求しようとも思っていません。でも、なにかが違う、なにか力強いものが感じられる、そういうものにはやはり覚悟があるのではないでしょうか。
 ただ、これは料理に関してのことなのですが、その覚悟は何を目指してのものなのかは、作る人間によって異なると考えられます。
 例えば、今まで誰もやったことのないもの、なしえなかったことを目指すとするならば、それは何なのか。皿の上の料理の美しさなのか、素材の使い方、あるいは変化のさせ方なのか、組み合わせか、あるいは味そのものか。
残念なことに、上記のすべてを包括させることは不可能です。いくつかをまとめることはできるでしょう。例えば、美しさと素材の使い方、変化、組み合わせ、これらに関しては、もちろん優れた技能と卓越した理論、そしてそれなりの才能は必要だけれども、できないことはない。でも、そこに味の追求まで入れようとすると、これはできません。なぜなら、要素が多すぎてまとまらないからです。味というものはそれ自体が多重構造になっているから、パーツが多くなれば計算しきれなくなるのです。すなわち、「何を食べたかわからない」状態になってしまいます。だから、味を追求しようとするならば必然、パーツや余分な飾りを削っていくことになります。簡単に言うと、装飾の多いもので美味しいものはつくれないとぼく自身は判断しています。

 フランス料理に関して述べるならば、現在の状況は二分化しています。これまでにないような素材の使い方や技法で自分の感性を表現する、あるいは、見た目の奇抜さや美しさで相手に訴えかけるという云わば現代派、もう一方は味に焦点をしぼって素材を吟味し、方向を明らかにして相手の気持ちを着地させる古典派。古典と表すとなにやら古臭い感じが否めませんが、保守とか主流とかもちょっと違うし、それ以外に言葉が見当らないので、現代と比較しやすいこともあって、そういうことにしておきます。もちろん、その両方の美点を兼ね備えた中道派もいますが、話をすすめていくうえで難しくなるので、今は脇に置くとして。
 さて、いわゆる世間の耳目を集めるのは、いまのところ、圧倒的に現代派です。ミシュランガイドでも食べログでも、あるいはそのほかのマスメディアでも、そしてそれらを目にしたグルメな方々の間でも必ず話題になる。そうなると世の常で、みんながそちらに向かいます。お店もお客様も。でも、それでいいのだろうかと、ぼくは時々、疑問に感じます。
 大阪でこの現代派の代表と目されるお店のシェフが、こんなことを言ってたと聞いたことがあります。「今日はお客様全員が日本人じゃなかった、こんな店をぼくはやりたかったんだ。」。
 この言葉には少々解説が必要かもしれません。何故、彼はそのような状況を喜んだのか。
 世界中のレストランをランキングする組織があります。「世界のベストレストラン50」とかいうフレーズがありますが、まさしくそれです。いわゆる、世界で一番予約が取りにくいレストランとかは、これで決まります。そして、そのランキングを決める審査員は日本人だけではありません。すなわち、客の外人比率が高くなると審査員の含まれる可能性も大になるのです。それと同時に、世界を相手にすると、来客層が圧倒的に広がるということもあります。地域密着型というモデルケースはここにはありません。常連客を獲得するとか、リピーターを増やすとかいう考え方も従来と比べると希薄になります。市場を世界に求める、という壮大な目標があるばかりです。それに近づくために必要なものは自身の、あるいは自店のブランド化でしょう。そのためには、とにかく目だたなければならない、マスコミに取り上げられ続けなければならない。そして、最後の目標は?
 たとえば、ルイ・ヴィトンのバッグの原価を考えてそれを買う人がいないように、料金設定が高くてもお客様が次々に来てくださる店にすること。そうすれば余剰金が産まれ、店に、人に、食器にふんだんに投資することができる。そして、よりグレードの高いポジションを目指すことができる。
 それは決して間違いではないとぼくは思います。でも、間違いではないものが必ずしも正しいわけではない、とも思います。なぜなら、それは流行だからです。そして流行は絶えず変化するものだから。「世界のベストレストラン50」がいつまでも同じなら、それには何の価値もありません。そして、料理は品物と違って残らないものだから、変化のスピードは速い。めまぐるしく変化しているのです。
 ぼく自身、なんども書いているように、その変化の中に身を置いていたことがあります。そして、凋落していきました。それがどれだけ辛いことであるのか、ぼくは身をもって教えられました。絶頂の5年、なんとか持ちこたえた5年。そのあとに続く長い長い失意の日々。そして、そこから這い上がろうとする努力、気力を保ち続けることの難しさ。
 28歳で芥川賞を受賞した開高健のことを思い出します。その後の十数年は社会的には絶頂期だったでしょう。けれども、やがて書けなくなる。そして、彼は世界中を釣りして回るようになります。それは豪放にみえるけれども、どこか痛々しい。追い詰められたものが救いを求めているように、ぼくには見受けられました。あるいは、張り詰めたものから目をそらすかのような。
 見つめれば見つめるほど、形がみえなくなるもの、世界はそのようなものかもしれません。でも、それを言葉にして表現しなければならないとすれば、その苦しみはまさしく筆舌に尽くし難いものでしょう。でも、それは許されないとするなら。

 開高健は58歳で病没しました。ぼくは、彼より3歳年上になりました。自店をオープンさせたとき、彼に来てもらいたくて、サントリーの方に中継ぎを頼もうかと迷ったくらいなのですが、本当は、期待すると同時に怖れていました。でも、オープンして1年経つかたたないうちに亡くなってしまいました。正直、ぼくはほっとしました。でも、釣りの話は聞きたかったな。
 彼が病いに倒れなかったら、未完になってしまった「闇の三部作」最終編、「花終る闇」は名作となりえたのか?ぼくが読んだかぎりにおいては、不朽の名作になったであろう感触をつかむことはできなかったのですが、ただ、ぼくは開高健という人物と著作から、本当に多くのことを学んだと思っています。なかでも一番大きいものは、前述の通り、「覚悟」でしょうか。
 話を料理のことに戻すならば、ぼくは現代派も古典派も否定しません。ただ、流行から外れた今は、再びどちらの世界にも戻ろうとは思っていないし、その気力、体力はともに残っていません。では、ぼくはこの先、どこへ向かうのか。
 できればぼくの仕事は、流行を突き抜けたものでありたいと思っています。「新しい天体」となりうるもの。だれもが辿りつけなかった「味」の妙味を示すこと。もちろん時代の空気は取り込む努力は続けようと思っています。でも、自分でしかなしえない仕事、この世に生まれたことを恥じない仕事、辿りつけなくてもそれが「勇気」として、押し付けがましくなく人に伝わる仕事であること。それがぼくの「覚悟」です。
 開高健の遺志を継ぐ、なんてだいそれたことだと思うけれど、ぼくは最後まで「何がなんでもこねあげて、表現しなければならない」、そんな人生を歩みたい。ただ時には、眠らない河に立ち尽くして、未だ遭遇が叶わないメーター級のイトウを釣り上げる夢も見たいと思ってはいます。眠れない夜には耳をすませて河の音を探し、山の空気を求めます。
 息は吸うだけでは死んでしまう。吐くこともまた生きる術だから。そうしてぼくは光と闇のあいだを手探りしながら、明日へと希望を繋ぎ続けています。多分、それが生きるということだと思うから。
    明日、世界が滅びるとしても
    今日、わたしはリンゴの木を植える。
           マルティン・ルター(不詳)
 
 
 
by chefmessage | 2015-08-14 17:38