怒りについて
2015年 09月 23日
穏やかな夜に身を任せるな。
老いても怒りを燃やせ、終わりゆく日に。
怒れ、怒れ、消えゆく光に。
ディラン・トマス
半年ほど前から体調がすぐれず、これはなんだかおかしいと思っていたのです。とにかく体が重い。何をするのも億劫で面倒くさい。仕事どころか、朝起きて、顔を洗うことすら気合を入れないとできない。疲れきっている、という感じ。
それに、気分もよくない。悪いほうにばかり気がいきます。とにかく気が滅入る、楽しい気分になれない。まったくおしゃれに気を使えないし、物欲もなくなっている。なにより、美しい女性がそばにいてもときめかない!これは病気やな、と判断して、主治医のS先生のところに行きました。
S先生は内科医で、本来は専門外だけど、それは多分、更年期障害だろうとおっしゃる。男にもあるんですか?と尋ねると、加齢による著しい体力の低下にストレスが重なると、鬱と同じ症状になることがある、多分それでしょう、という診断。では、どうすればよいのか。とにかく、安定剤と抗鬱剤を飲んでみてください、それで様子を見ましょう、ということになりました。
たしかに薬を飲むと、なにやら足取りが軽くなった感じです。なんとか日常生活には差し支えなくなった。そして1週間で、処方された薬はなくなりました。そのとき、不安が芽生えました。薬を飲まないと、また元に戻るのではないか。でも、それに頼るのは危険ではないか。
もとより、意志の強い人間ではありません。本来は怠惰で誘惑に弱い人間です。そこで、一計を案じました。なにか無理やりにでも面白いことをしよう。周囲が驚いて、それで自分も楽しくなるようなこと。とにかく雰囲気を変えて、気分が高揚すること。薬に頼らず、自力で浮上しようと試みました。では、なにをすればいいのか?手っ取り早く出来ることは何か?
そや、髪の色を変えよう。そういえば、近くの美容院でネイルを専門にしてる女の子がいきなり金髪にして周囲を驚かせてたから、それをしよう。
その美容院のオーナーに相談に行きました。色んな話を聞いて、その道のプロというのはどの世界でもよく勉強しているな、と感心したのですが、その翌日に予約を入れたときの、そのオーナーの反応からして、すでに面白かった。「ミチノさん、本当にするんですか?」。
ブリーチを連続2回、4時間以上かけてぼくの金髪は完成しました。仕上げを施しているときに、そのオーナーが言いました。「ぼくがブリーチした人の中で、一番の高齢はミチノさんです。」。そして、「ミチノさん、マジで怖いですよ。」。
でも、その金髪の威力で、ぼくはすこし浮上しました。それでも、本調子ではない。もとより、元に戻るはずはないのですが。なにしろ、本来ならば定年退職の年齢なのですから。
そんな時、一本の映画に出会いました。そして、大いに感動しました。それは、最新のバットマン三部作の監督だった、クリストファー・ノーランの「インターステラー」。
まさに滅ぼうとする地球に替わって、人類が移住できる惑星を探索する宇宙飛行士の物語ですが、その計画の中心人物の教授がいつも呟く詩が、冒頭のディラン・トマスの「穏やかな夜に身を任せるな」です。不確定要素の多い計画、でもそれに賭けなければ確実に人類は滅びる、だから、あきらめるな、という意味をこめて「怒れ」と言う。
実際、ディラン・トマスは、病床にあって今まさに逝こうとしている父親に向けてこの詩を書いたそうなのですが、その文言は最初、ぼくの耳には違和感を持って伝わりました。滅びるときに、何故怒らねばならないのか。むしろ、穏やかに、粛々と受け入れるべきではないのか。
年老いたものは後進に道を譲り、静かに退場していくべきだ。だから、感情の起伏を抑え、物分かりよくあらねばならない、ぼくはそういうものだと思っていました。一度は表舞台に立ったのだから、もういいだろう、と。
でも、あきらめるな、と、この詩は、この映画は訴えてきました。最後の最後まで全力を尽くせ、と。
この「怒り」は、他者に対する直接的な暴力、あるいは何らかの攻撃を指しているのではありません。もっと純粋で基本的な感情そのもの、端的に表すならば、不条理への無意識な抵抗、ということになるのでしょうか。その不条理とは、滅びる、ということ。
ぼく達の業界では、オーナーシェフが店を10年維持できたら奇跡、30年続けることができたら、それは伝説、になるそうです。それなら、ぼくはあと4年で伝説の男になります。でも、実体は、そんなかっこいいものではありません。あとからあとから押し寄せてくる波に抗して、立っているのが精一杯の有様です。押し返すにも加齢がそれを妨げるから、そして、それはますます苛烈になっていくから、更年期障害も起こって当然でしょう。やがて、ぼくは力尽きて滅び、忘れ去られていく。長い間かけて築き上げてきた技術や理論、そして実践の歴史は、いとも簡単に消え去っていくでしょう。そのことを、ぼくは悄然と受け入れなければならないのか。
あるいは、
愛する家族一人ひとりをいつまでも見守っていたいのに、彼や彼女たちが大人になり、それぞれの人生を歩む、それにいつまでも寄り添っていたいのに、ひとりで逝かなければならない、そのことをこころ静かに受け入れなければならないのか、穏やかな夜に身を委ねる準備をしなければならないのか。
否!と、ぼくのこころは叫びます。ぼくは、最後の最後まで抵抗するべきではないのか。そこに考えが至ったとき、当初に感じた「怒り」に対する感情的な違和感はなくなり、むしろ肯定的に捉えていることに気付きました。
そのようなことを「インターステラー」とディラン・トマスの詩から感じ取ったぼくは、どうやら、更年期障害の呪縛から解放されつつあるようです。でも、ぼくはまだ燃え尽きようとは思っていません。それはまだ早すぎる。なぜなら、ぼくにはまだやれることがあると思うから。主治医のS先生も、こう言ってました。「遣り残したことがあると思っているうちは、人はなかなか死にません。」。
これから、ぼくは完成へと向かいます。たどり着かなくても、最後までぼくは「怒り」を抱いて、全力で走りたいと思います。
盲目の目が流星のように燃えたち 明るくありえたことを
見えなくなりつつある目で見る いまわの際の善良な人たちよ
死に絶え行く光に向かって
憤怒せよ 憤怒せよ
Dylan Thomas 「Do Not Go Gentle Into That Good Night」