祈り
2018年 04月 21日
桐野夏生の小説「OUT」の中で、弁当屋のパート勤めをしている主人公の主婦が、自宅で風呂場のタイルの目地を磨き立てるシーンがあります。休みの日にそれをすることで気持ちが落ち着く、そんな内容でした。ぼくも、それと同じようなことをしたことがあります。10年くらい前のことでしょうか。
多分その夜はノーゲストだったのだと思います。といっても、そのころはそういうことが多くて、一生懸命やっているつもりなんだけれども、何をやってもお客様がこない。何か取材でもあれば好転するのではないかと思っても、そんなものは都合よくきません。編集の人に問い合わせても、「ミチノさんには新しい切り口がないから難しい」という返事ばかり。かといって、いまさら違う仕事に就くこともできないし、でも家族がいるし。
フランス料理の世界にも、実は流行り廃りがあります。それはけっこう目まぐるしい。運よく昇り詰めることができても、その地位は盤石ではありません。とくに急激に上昇すると、滑り落ちるのも早いような気がします。でも、そこで人生が終わるわけではありません。むしろそこからが長い。流行というのは恐ろしいものです。華やかな時代が過ぎてしまうと、後は何をやっても、どんな優れた仕事をしても見向きもされなくなります。過去の栄華にすがるといったものではありません。むしろ、人並みですらなくなったような気持になります。その状態が延々と続きます。
でも、ぼくはあきらめたくなかったのです。自分の時代は終わった、もう役目はすんだのだと思い込もうとしても、自分の存在意義を失いたくなかった。祈るような気持ちで毎日を耐えていた。そんな夜。
お風呂に入っていて、ふと足元をみるとタイルの目地に黒いところがありました。だから、ブラシで磨き始めました。裸のまんまでごしごし、端から端まで。何かしなければ自分が保てなかったのでしょう。それは、他人からすればずいぶんと奇異に見えただろうと思います。全面やり終えてシャワーで洗い流して、風呂から出たぼくは、すこし気分が楽になった。
桐野夏生さんの描写は、だからすぐに理解ができました。どこにも持って行きようのない哀しみ、そういうものを誰もが抱えているのではないか。
あれから10年、ぼくは今でも店をやって、料理を作っています。耐えながら、少しづつ前にでてきたのかもしれません。見捨てることなく支え続けてくれたマダム、従業員、そしてお客様のおかげもあります。でも、ぼくはまだ納得していません。ぼくはもう一度世の中に認めてもらいたいと思っています。流行り廃りなどに左右されない、一つのことをやり続けて悔いのない人生を人は送れるということを。
懇意にしていただいている玉川奈々福さんという浪曲師がいます。彼女の折々の言葉にぼくはずいぶん薫陶を受けたのですが、なかでもこの言葉が胸に響きました。「手を抜くということを私は知らない」。「目の前に一人でもお客様がいれば、わたしは全力でその人を楽しませようとするから」。
ぼくの店にはミシュランの星はありません。多分、人が気にする食べログの点数なんて大したことないだろうし、アジアのベストレストランのランキングとかにはまるで縁はないでしょう。それは仕方のないことです。ぼくはそういうもののために、どんな努力もしたことがないし、これからもしようとは思っていません。そんな流行り廃りの世界に、もうこの身を置きたくないから。ぼくはひたすら、来てくださったお客様のために料理を作ってきました。それも、自分が納得し、自信を持ってこれがぼくの料理です、と言えるものを作ってきたし、これからも、そうありたいと思っています。例え数少ないお客様であっても、ぼくは全身で朗々と歌うばかりです。
そしてこの年齢になって、ぼくは自分の料理が、今までにないほど完成度を高めていると感じています。まるで呼吸をするようにぼくは考え、作っている。ただ残念なことに、年齢的な肉体の衰えは隠せません。それでも、最後まで全力疾走、それがぼくの願いであり、そして祈りです。