360ヶ月の進化と明日
ここ数ヶ月、体力・気力ともに最悪の状態で、本当に辛い毎日でした。原因は色々とあるのでしょうが、とにかく、朝起きて仕事に行く気力すら湧いてこないなんてこれまでになかったことなので、不安でたまりませんでした。心を覗き込んでみると、大きな哀しみが横たわっているみたいで。どうも、軽い鬱状態に入り込んでしまったみたいです。
これまでの人生が無駄に思えてなりませんでした。もっと他の生き方ができなかったのだろうか、やっぱり職業の選択を間違ったのではないだろうかと、今さら考えても仕方のないことをずっと考えています。
もっとマダムを幸せにできたのではないか、子供たちにしてあげられることがもっと沢山あったのではないか。
なんだか毎日、ギリギリのところでしのいでいる印象でした。でも、こんなことも考えていました。「もうだめだ」と「だめかもしれない」というのは似ているようで別物だな、と。
こういうことがありました。まだ料理人になって間もない頃、スーシェフだった先輩が総上がりしようと言い出しました。総上がり、というのは、従業員が示し合わせて一斉に辞めることです。ぼくの仕事先はちゃんと探してやるから心配するな、と言うのですが、ぼくはその考えに馴染めなかった。せっかく雇ってもらえたのに何故辞めなければならないのだろう。それに、そういう不義理はやってはいけないのではないだろうか。
だからもう一人の、すぐ上の先輩に逆提案しました。二人で残らないか、そうすればスーシェフの仕事を分け合うことができて早く仕事を覚えることができるじゃないか。彼は、その提案を受け入れました。
その後ぼくたち二人は、一人が調理場、もう一人がサービスに配属になりました。ただし、一ヶ月ごとに入れ替わること。そして、先輩が調理場に立っていたときにひとつの事件が起こりました。
その日は日曜日で、とにかく猛烈に忙しい日でした。調理場のガス台の前にはオーダー表がずらりとぶら下がっています。その忙しいピークの最中に、先輩が大きな声でこう叫びました。「もうだめだ、できない」。だめだと思った瞬間に頭の中が真っ白になってしまったのでしょう。そして棒立ちになってしまった。シェフがあわててぼくに言いました。「今すぐ着替えて、調理場と代われ!」。交代したぼくは無我夢中でオーダーを消化していきました。だめかもしれないけれど、何とかなる、そう自分に何度も言い聞かせながら。
数ヶ月後に先輩はその店を辞めました。きっと自信がなくなったのでしょう。そして、ぼくは結局、フランスに行くまでその後もその店で働きました。
そんな経験があったから、ぼくは何があっても必ず道は残されていると思ってやってきました。何度も危機があったけれども、「もうだめだ」と決めつけずに、なんとか乗り越えてここまできたのです。でも今回は、なかなかそう思えない。それはどうしてだろう。
ぼくは気がついたのです。心のどこかで、ぼくは老いを受け入れてしまっていたのでしょう。いくら頑張っても、もう時間がない、と。すでにすべては遅すぎる、と。
それでも毎日、我が身を励ましながら仕事をしていたのですが、お客様が帰り際におっしゃる言葉が気になり始めました。多くの方が、こうおっしゃるのです。「シェフのお料理は、本当においしい」と。本当?
長年こういう仕事をやっているとお世辞かどうかはわかります。でも、みなさん真顔でそう言ってくださる。
「美味しければ必ず客が来るという時代ではない」。そんな言葉が大手を振ってまかり通っています。大切なのはマーケティングだ、それもわかります。それでも、ぼくは美味しさを第一義に考えてきました。時代遅れかもしれないけれど、自分の仕事は美味しいものを作ることだと考えてここまで来ました。
ミシュランで星を取るための、あるいはベストレストランのランキングに食い込むための仕事をぼくはしたくない。
まずフランス料理という構造があり、あくまでそれに基づいてオリジナルを作り上げる、それがイノベーションです。むしろジャンルを感じさせないことで斬新さを打ち出したり、あえてストーリー性のない記号化されたような料理をぼくは作りたいとは思っていません。だから、「本当に美味しい」という言葉はなによりの応援だと思えました。
そんなことを考えていた時、「ル・マンジュ・トゥー」の谷シェフから、10月に函館に来れないかという電話がありました。今年で8回目を迎える「世界料理学会」へのお誘いでした。面白そうだし行きましょう、と返事したら、先日、正式に招待状が届きました。講演を依頼したいという内容でした。
そういう催事があることは以前から知っていましたが、自分にはまったく関係がないと思っていたのです。でも、まだ自分が必要とされていることが嬉しかった。引き受けることにしました。
そういえば、ぼくの本を見て食事に来られた女性に、「何年でも待つから続編を書いてください」と言われたこともありました。
まだ世界は開かれているから、オレは怯んでなんかいられないな。気づいて、ぼくは少しづつ浮上し始めました。いろんな人の熱い思いが、ぼくに浮力を与えてくれています。
独立して30年目を迎えました。9月に記念のディナーを一ヶ月間やります。メニューを考えようとスマートフォンのメモを見たら、400種類近くの料理のアイデアが入っていました。ぼくにはまだやりたいことがこんなに沢山あるんだ。ぼくにとって、突破力は料理以外にはないのだと強く思いました。
だから30周年記念ディナーのタイトルは「360ヶ月の進化と明日」です。360ヶ月まであと少し、でも、その先までずっと歩いていこうと思います。
「絶え間なく壊すこと以外に、そして常に作り直すこと以外に、損なわれないようにする方法はない」
福岡伸一「動的平衡」あとがきより。