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ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


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桜の花の舞う中で

    桜の花の舞う中で
 近頃は帰宅するとまずジョギングに出かけます。ぼくたちの仕事は肉体労働ですが、実は狭い場所で同じような動きしかしていないので、かえって運動不足になりがちです。だから、強ばった体をほぐすつもりで短時間でも運動することを心がけています。

 いつも同じ道筋を辿るのですが、昨夜はちょっと違うルートになりました。コンビニに寄って、朝食用の食パンを買わないといけなかったから。そのついでに、ずっと気になっていた場所に行きました。

 自宅の近くに千里川という小さな川があって、そのほとりに立派な桜の木があります。それは見事な桜なのですが、車で通勤する道の川向こうなのでそばまで行く機会がなかったのです。
 初めて間近で見るその桜は大きな樹でした。樹齢何年になるのだろう。道路のフェンスの向こう側、小さな土の面から太い幹が伸びています。見える土の面積は小さいけれども、その下にはしっかりとした根が縦横無尽に張り巡らされているのでしょう。見上げると、ほのかな照明を受けて、音もなく無数の花びらが舞っています。まるで坂口安吾の小説みたいです。怪しい雰囲気すら漂っているようで。ぼくは動くことができず、じっとそれを見上げていたのですが、その時、同じような光景を目にしたことを思い出しました。

 正月元旦に家族で、父が一人住まいをしているマンションを訪ねました。店のお節とマダムのお菓子を持って行って、全員で食べるのが我が家の慣例です。食べ終わった頃に父がおぼつかない足取りで何かを探しに行きました。やがて、一つの風呂敷包みを大事そうに持ってきました。その中には一着の晴れ着が丁寧に畳まれて入っていました。
 「これはな、お母ちゃんがぼくとの結婚式の時に着たもんや」。
 それは質素なものですが、彩りは華やかだった。所々にシミはあるけれど、大切にしまわれていたことがわかります。娘たちが着たがったので、マダムがまず長女に着せました。サイズはぴったりで、よく似合います。次に次女。椅子に座った父がその様子を嬉しそうに眺めていたのですが、唐突に動きを止めました。次女の晴れ着姿を見ているのですが、微動だにしない。瞬きすら忘れたように。全員がその様子を凝視しています。やがて父がふっと息を吐いた。まるで、戻ってきたような感じです。
 「あの時はびっくりしたな」。帰りの車の中で全員が頷きました。「タイムスリップしたのかな?」。
 桜の太い幹に手を添えて見上げながら、ぼくが思い出したのはその時の父の様子でした。

 その父が亡くなったと今朝、兄から連絡がありました。マダムと抱き合って、二人で泣きました。

 この父は家族には厳しい人でした。ぼく自身も父との間には様々な葛藤がありました。でも、晩年の父は穏やかで、認知症を患った母の面倒を一人でみました。母の亡くなった後も子供たちに面倒をかけたくないと一人暮らしを続けていた。
 父の部屋にはいろんな写真が壁一面に張り巡らされていました。母の写真が一番多かったようです。寂しかったんだろうな。
 父の部屋のテーブルの上に一枚のメモがあったのを思い出しました。こんなことが書かれてありました。
 「世界にひとつだけの花、正枝さん」。

 オヤジ、母さんに会えたか?もう寂しいことないな。

 桜の花の舞い散る中に、若かった頃の父と母がいるような気がします。


by chefmessage | 2021-04-03 15:41