Yes or No
この頃やっと認知されるようになったマナーの一つに「予約」ということがあります。例えば歯医者さんで治療を受けようとすれば必ず事前に予約が必要で、急に行っても診てもらえないことが多いです。これは面倒かもしれませんが、お互いに無駄な時間を省くためには有効な手段だと思います。フランスで働いていた時、散髪屋さんが予約していないとやってくれなくて、ずいぶん不親切だなと思いましたが、今は当然のことのように感じます。
ぼくたちのようなフランス料理のレストランも、基本的には予約で動いています。コース料理だけだから仕入れや仕込みが重要で、前もってある程度数の把握ができていないと足りないものが出てきたり、逆に食材を余らせてしまったりするととても困るからです。だからぼくの店では、ランチは当日の午前11時、ディナーは17時までの予約はお受けしていますが、それ以降はお断りしています。予約なしで来店されるお客様のことを我々の業界ではパッサージュ(通りかかった人)と呼びますが、これもお断りしています。また、「あと15分後に行きます」というのも無理です。折角足を運んでやったのに、あるいはわざわざ電話しているのにとお叱りを受けるかもしれませんが、前述の理由だけではない事情もあります。
コース料理はお客様のペースに合わせて調理します。ちょうど良いタイミングに、一番良い状態の料理をお出ししたいからです。言ってみれば、それぞれのテーブルに応じたタイムスケジュールを組んで動いています。そこに予定外の仕事、それも急を要する仕事が入ると全てが計算通りに行かなくなってしまう。スムーズな流れに乱れが生じてしまいます。それは、何日も前に予約してくださって、ご来店いただいたお客様に対して申し訳ないと思うのです。それに、イライラしながら仕事をすると、料理が荒れてしまいます。冷静に対処しているつもりでも、どこかで無理が生じてしまうのです。
とはいうものの、暇な時には後悔もします。やればよかったとクヨクヨすることもあります。やはり売り上げあっての商売ですから。だけど、やっぱりぼくは良い仕事がしたい。あと何年できるかわからないのにいい加減な仕事で、大切な残り時間を浪費したくない。
そんな思いで毎日を過ごしているのですが、先日、それを揺るがす出来事がありました。ぼくがとても親しくしているシェフの営むレストランでのことです。
その日、彼のレストランは珍しいことにディナーの予約がありませんでした。だから前から気になっていたダクトの掃除をしようと思い立ち、脚立を持ってきて、始めようとしたその時に電話が鳴りました。「今から2名で行きます」。彼は大慌てで脚立を畳んで厨房の隅に立てかけ、準備を始めました。すると、それから立て続けに予約なしで二組のお客様がいらっしゃった。彼は断らず引き受けた。神様が呼んでくださったと思ったそうです。
その話をFBで読んで、ぼくは彼にメールしました。「ぼくには到底真似できない、見習った方がいいだろうか?」。
「むしろ道野さんの方が正しいと思う」そんな書き出しでメールが返ってきました。「折角ぼくの店に来るんだから、やっぱり予約はして欲しい。万全の準備ができるから。そして、その日が来るのを楽しみにしてほしい、でもね、」。
その日、彼の店は給料日だったそうです。それは用意してあった。でも業者の大きな支払いがあったから、財布の中身は心許なかった。その時、彼は思い出したそうです。去年、年が変わったら昇給してあげると約束していたことを。だからこれは神様がお客様をよこしてくれたんだと思ったそうです。
彼の店は彼とマダム、それから二人の女子の4人構成です。この女子たち、ぼくも知っているのですが、明るくて前向きで、その上働き者の良い子たちです。シェフはぼくとそう変わらない年齢ですが、毎日賄いを作るほど従業員を大切にしています。まるで家族、いやそれ以上だなとぼくはいつも思っているのです。
「それで仕事が終わったあと昇給分をあげることができたんだ」。
で大団円と思いきや、実はマダムに指摘されたらしい。来年から昇給という約束ならそれは来月からで、今日の支払いは、去年の12月分だよ、と。
「だからこれは神様がぼくと従業員両方のことを思ってしてくれたことなんさ」。彼の笑顔が目に浮かぶようでした。メールを読んで、ぼくも大笑いしましたが、いい話だとちょっと感動してしまいました。
と、ここまで話を進めてきましたが、これは、だから急な予約をしてもパッサージュで来てもらってもいいですよ、ということではありません。逆に、それくらいの事情がないと気が進まないですよ、ということです。それよりも伝えたいのは、レストランというところにもドラマがあり、シェフは人の気持ちを、お客様に対しても従業員に対しても大事にしたいと願っているという事実です。
人を幸せにするためには自分たちも幸せでなければならないと、この頃強く思います。労働時間も長くて、それに比べると経済的には決して恵まれているとは言えない飲食業界ですが、ぼくたちは懸命に生きています。そして、ささやかながらも誇りを持って毎日暮らしています。
一年が始まりました。またもや状況は波乱含みになっていますが、あきらめないで頑張りたいと思います。