Y先生のウエストン
フランスのトゥルニュスというブルゴーニュの田舎町でぼくが働いていたのはもう35年以上前のことですが、その頃からフランスは週休2日でした。仕事をしていたのはホテルだから年中無休だったのですが、もぐりのスタジエでしかないぼくもちゃんとシフトに組み入れて休ませてくれました。
その連休を利用して、月に一度くらいはパリに行きました。でも、決して優雅な旅ではありません。宿は、扉を開けるとベッドと小さな机があるだけの安ホテルです。メトロの回数券を買って、適当な駅で降りて、ひたすら街を歩く。それでも解放感があって楽しかった。
お気に入りの場所はシャンゼリゼのカフェ「フーケ」。テラス席に座って一杯のエスプレッソで長時間、本を読んだり手紙を書いたり歩く人たちを観察したり。それに飽きたら、次に行く場所は決まっていました。「フーケ」の少し先の角を曲がったところにある一軒の靴屋さん。小さいけれども重厚な店構え。外日の差し込む端正なショーウインドウには男性用の靴が並んでいます。「J Mウエストン」。当時日本ではそれほど知名度は高くなくて、だからぼくも知らなかったのですが、陳列されている靴には存在感があった。何やら神々しさまで漂ってくるようでした。かつてアイヴィ小僧であったぼくにはローファーが気になります。そして圧巻はリザードとクロコのそれ。お値段も圧倒的。店の中に入っていって、せめて手に取ってみたかったけれど、とてもそんな勇気はありませんでした。毎回、パリに行ってそのショーウインドウを眺めて、いつかあんな靴が履けるようになりたいと焦がれるように思った。その時のぼくにあるのは夢だけでした。
それからずいぶん時が流れました。ウエストンのローファーを買おうと思えば買えないことはなかったし、実際にオーダー会場にまで足を運んだこともあったのです。でもぼくはその度に、「まだまだ」と、はやる気持ちを抑えてきました。他の高価な靴は、それこそ履き切れないほど買ってきたのに。
それが今頃になって、またウエストンの靴が気になってきました。Y先生のFBでの投稿がきっかけです。
Y先生は阪大医学部の高名な教授で、とても親しくお付き合いをさせていただいているのですが、その投稿は「靴磨き」のことでした。休日の午前にのんびりと靴磨きをすると精神が澄んでくる、といった内容で、そういえばぼくの大切な友達であるネジ屋のK社長もそんなこと書いていたなあ、と思い出したりしていたのですが、投稿の写真で瞠目しました。それはウエストンの綺麗なサイドゴアブーツだった。読めば、他にもローファーを3足、レースアップも一足お持ちだとか。前からおしゃれの達人だと思ってはいたのですが、やるなあY教授、とそこで話は終わらないのです。宿痾とも言える物欲がむくむくと鎌首持ち上げて「ウエストン、買おうぜ」と囁きかけるのです。明日は定休日やし、阪急メンズ館に売り場あるし。ブルーのローファーなんかええんとちがう?それを履き倒して、休みの日にキウイの靴クリームで磨き上げたら気分ええで、きっと。
でも、歳とともに自制することも覚えた心が抵抗します。「このごろスニーカーしか履かへんやん」、「まだ一回も履いてない靴、何足もあるやん」、そしてトドメは「まん防で店めっちゃヒマやねんで」。
天使と悪魔のにぎやかな戦いが繰り広げられて、やがて心は穏やかになります。そして思い至るのです。憧れは現実になった途端に色褪せる。もう何度も繰り返し経験してきたことなのです。韜晦かもしれません。でも、最後まで憧れのままであることも大切なのではないだろうか。
だから、ぼくは瞼の裏側で艶やかなブルーの光を放っているローファーに向かってこう言うことにしたのです。
「まだまだ」。
仰ぎ見ると、パリの青い空が広がっています。