身を任せる前に
この頃思うのですが、自動車にくっついている高齢者マークというのでしょうか4色のステッカーについて、むしろあれより初心者マークの方が適しているのではないかという気がするのです。というのも、誰でもそうだと、なってみて気がついたのですが、高齢者になるのは初めての経験で、一つ一つの現象が正常なのかそれとも加齢によるものなのか判断がつかないことが多い。だから、まだ大丈夫だろうと過信して、無理をしてクタクタになってしまうことがよくあります。心よりも早く自分の体が衰えていっていることに気づかされて、でもそれをいち早く認識して対処していかなければますます弱くなっていって、その結果、もういいかと老いを受け入れてしまう、それが実感として理解できるから、ぼくは毎日、自分の行く末を見つめようとしています。
それに周りを見回すと、これは老害だとしか思えないような人たちがそれなりにいて、あんなふうにはなりたくないなと自戒も込めて自分の有り様を模索しています。それにしても、老いを受け入れる、ある意味、もうすぐ人生は終わるんだからと開き直った人間の言動は時に見苦しい。怖いものがなくなる、ということなのでしょうか。それとも、細やかな人の心の機微に鈍感になっているのでしょうか。
ただ、中には必要以上に遠慮深くなる人もいるようで、それもどうかなと思う。幾つになっても、人としてニュートラルな立場でいたい。言い換えれば、ある程度尊厳を公私共に保ちながら、最後の時を迎えたいと思うのです。そのためには、失われたものと得たものとの相互のバランスを図ることが必要ではないでしょうか。失われたものを補う何かを発見する、というか。
過日、「絶唱浪曲ストーリー」という映画を見ました。ぼくが浪曲が好きだというと奇異な目で見られることが多いのですが、それは出会いの問題だと思います。60歳過ぎて初めて浪曲に直に触れた時、ぼくは一撃で引き込まれました。それが玉川奈々福という浪曲再興の先駆けとなった人との出会いであったことが大きいのですが、ぼくにとっては新鮮で刺激的な世界だった。それ以来、ぼくは浪曲ファンであることを公言してきました。
前述の映画に、港家小柳という女流浪曲師が登場します。87歳(85歳の説もあり)で初の独演会を開いて会場を大入り満員にし、芸豪と言われた人です。その人が2年後、口演の途中で「声が出なくなりました」と退場する場面が映し出されます。そして彼女はそのまま引退し、数年後死去するのですが、その時の気持ちを想像すると、ぼくは畏怖を覚えざるを得ません。これまで自分を支えてきた芸に自分自身で終止符を打たなければならなくなった時の気持ちってどんなだろうか。まだできる、もうできない、そんなせめぎ合いにけりをつけた瞬間に胸の内に去来するもの。得たものと失ったものとが一つになって完結する時。
やがてぼくにもその時が来ます。今はむしろいろんな仕組みがわかるようになって、ある程度思い通りの仕事ができるようになってきたから、その意味では面白くなってはいるのです。でも、体力が保たない。気合いを入れないと体が動かないし、すぐに疲れてしまう。やっとできるようになってきたのに、と悔しさがつのります。そんな時に思うのです。初心者マークをつけて走ろう。今が出発点だと思って進もう。それならまだ、行けるところがある。
ディラン・トマスというイギリスの詩人は
「穏やかな夜に身を任せるな」と書きました。むしろ、怒れと彼は言いました。でも、ぼくは怒ろうとは思わない。ただ、立ち向かおうとは思います。ぼくの仕事の流儀は「前衛」です。常に新しいことを発見し、それを形にすることだと考えています。でもそれは気を衒うことではありません。伝統と言われているものを今日的なものとして表現すること。すなわち、「新しいけれども懐かしいもの」を作ることです。ぼくもやがて小柳さんのように「声が出なくなる」でしょう。でも、その時がまだぼくには出発点であることをぼくは願っています。