「波屋書房」さんのこと
大阪の難波に「波屋書房」という本屋さんがあります。訪日外国人で賑やかな商店街に面しているのですが、奥に細長い店内に入ると静かで穏やかな空気が流れています。昔ながらの本の匂いがします。出来上がったぼくの「つむじ風の向かう場所」は、どこの書店よりも先に、こちらの棚に並べられました。
「つむじ風の向かう場所」という本は、最初から人とのつながりで始まりました。ぼくの最初の書籍である「料理人という生き方」を読んだある出版社の編集者がわざわざ東京から食事に来られて、その時交わした短い会話から、彼女が当時関わっていた本にぼくのインタヴュー記事が掲載されることになりました。その記事を読んだぼくが今度は自分の本の作成をお願いすることになったのですが、それには理由があります。
これまでたくさんのインタビューを受けて記事を書いてもらいましたが、聞き手が主体で、その流れに沿ってぼくの話をピックアップしているという感じが多かった。でも彼女は上手にぼくを流れに乗せて自由に語らせてくれて、尚且つ見事に全体をまとめ上げていた。その手腕に、この人になら任せられると、ぼくは確信したのです。
引き受けてくれることになって喜んでいたのですが、それからしばらくして、彼女が会社を辞めたという知らせがもたらされました。困ったな、と思ったのですが、これからどうするの、と彼女に尋ねると、一人出版社を立ち上げると言います。大手の出版社から本を出せるというのは魅力ですが、ぼくは彼女の手腕と人柄に信頼を寄せていたので、その会社の第一号出版物にしてもらうことにしました。
完成までずいぶん時間がかかりましたが、その間、本を作るということがどれだけ大変なことであるかを教えられました。好きでないとできない。でも、そんな人がいる限り世の中から本が消え去ることはないということも知らされて、ぼくは嬉しかった。文章を書く、ということと、本を作るということは同じではありません。どれだけ素晴らしい文章を書いても、作り手がいなければ本は生まれないのです。だから、彼女と出会えてぼくは本当に良かったと思っています。
「波屋書房」さんは、いわば彼女のお得意さんで、とても良好な関係を保っていたから、彼女の作ったものなら、ということでぼくの本は扱っていただけることになりました。これは是非にでもご挨拶に伺わないといけないと思ったので、休みの日に出かけることにしました。
手土産はマダムの焼き菓子。それからもう一つ、取っておきを用意しました。
波屋さんは創業100年を超える老舗の本屋さんだから、数多くの作家が常連だったとお聞きしています。その中の一人が織田作之助だったそうです。
高校生の時、ぼくは織田作之助の小説に夢中になりました。何がそんなに良かったのか今ではよくわからないのですが、全集を手に入れて隅から隅まで読みました。並行して、大阪神戸の古本屋さんをくまなく訪ねて、初版本を何冊か買い込みました。その中の一冊を波屋さんの手土産にすることにしたのです。
これが功を奏したのでしょうか。初対面だというのに、ご主人に奥様を交えて話がつきません。お二人ともご高齢ですがずいぶんお元気です。楽しくて楽しくて、その間にも料理人と思しき人たちが熱心に料理本を物色しています。波屋さんは料理本の品揃えの多さで有名な本屋さんだから。
でも、あんまりお仕事の邪魔をしては行けないと思って、ぼくは帰ることにしました。すると、ご主人が一冊の分厚い本を手渡してくれました。そういえばご主人が丁寧にブックカバーをつけておられると思っていたのです。奥様が満面の笑顔で「物々交換で持っていってください」とおっしゃる。馬車の絵が描かれたカバーを外すと「オダサク アゲイン」という表紙が現れました。それはぼくがこちらに来た時から気になっていた本だったのです。イラストレーター成瀬國晴さんの大作。サイン入り。表紙のオダサクのイラストが素晴らしくカッコいい。その粋な計らいに胸が熱くなって、挨拶もそこそこに外へ出て、やっぱりお二人と写真が撮りたくて店に戻ると。
先ほどから料理本を物色していた二人のお客さんが、ぼくの本を持ってレジの前に立っている。ご夫妻と記念撮影後、「よう戻ってきてくれはった」と言ってご主人がサインペンをぼくに手渡します。本を買った人が「お願いします」とぼくに言う。サインして名刺交換すると、お一人は仙台、もうお一人は気仙沼の料理人さんでした。先日、仙台に行ってきたばかりだったから話が弾んで、僕たちのお店にも来てください、と言うことになって、店の外に出て写真撮って、握手して別れて。もう何が何だかわからない。それでも歩き出そうとして振り返ると、ご主人が店内から笑顔で手を振っておられた。ぼくはなぜか、報われた、と思った。人の繋がりって素晴らしい。オレはまだやれる、そう思った。
文章を書く人がいる、それを本にする人がいる、それを売る人がいて買う人がいる。
ここに来て本の匂いを嗅げばホッとする、そんな町の本屋さんがいつまでもありますように。