河瀬さんのこと。
2025年 06月 04日
河瀬さんのこと
この頃思うのですが、過去のことを語る際の年数が40年前とか50年前とか、もっと古くなると60年くらい前とか、なんというか時代がかってきているなぁと、我ながら笑えてしまいます。
だから30年前となると比較的近代(笑)の話なのですが、その頃のぼくのブームはヴィンテージの腕時計でした。仕事の合間にその関係の雑誌を眺めるのが楽しみで、広告に載っている時計が欲しくて無理して買った苦い経験が多数あります。そんな広告の中で、いつも気になるお店がありました。掲載されている時計もそうなのですが、むしろその店自体がぼくにとっては謎だったからです。一階が時計店で二階がフランス料理店、どうやら経営者は同じ人物らしい。どうすればそのような営業形態が成り立つのかわからない。ずっと不思議だったのですが、結局行けずじまいで、いつしか時代は移り変わり。
それから20年後、ディナーの忙しい時間帯にソムリエが一枚の名刺を厨房のぼくのところに持ってきました。「こんなお客様がいらっしゃっています」。聞くと、その名刺のお客様が「あなたシェ・ワダにいた人でしょ」とおっしゃったらしい。驚いて訳を尋ねると、「その時計に見覚えがあるから」。その時、彼は愛用のジラール・ペルゴの古時計を着用していました。「見せてくれないか」と言われたので外してご覧にいれると、自己紹介がわりにとおっしゃって、その名刺をくださったらしい。
そこに書かれた店名は「ボン・ヴィヴァン」、場所は三重県伊勢市。ん?脳に送られた電気信号がグローランプみたいにチカチカしています。オレはこのお店を知っている。どこだ?脳内照明がパッと明るくなった。思い出しました。そのお店こそずっと気になっていた謎の時計店兼フランス料理店でした。
「目処がついたらお話しをしたいから待っててもらってください!」。
その時にはもう時計店は閉めていて、レストランも伊勢神宮の外宮前に移転していたのですが、それが河瀬毅氏との親交の始まりでした。以来10年、僕たちは今や無二の親友です。彼との時計談義は、微に入り細に入り、といった感じで、何時間喋っても飽きない。ほぼ同年代ということもあり、お互いの苦労話も虚飾なく語れます。たまに意見の食い違いがあっても、結局は「そやな」という言葉で受け入れてしまう。
彼との関係から生まれたイベントもあります。
ある日、郷土愛の強い彼がぼくに言ったことがあります。「伊勢志摩をスペインのサンセバスチャンみたいな食の都にしたいと思っている」。その時、ぼくは彼に一冊の本を推薦しました。それは柴田書店から出ている「料理人にできること」。著者の深谷宏治氏は函館のスペイン料理店のオーナーシェフですが、世界料理学会in HAKODATEの主催者として高名な方で、ぼくは講演者としてそこに呼ばれたご縁で知り合うことができました。世界料理学会in HAKODATEは、サンセバスチャンに長年にわたる縁のある深谷シェフが発起人となり、本家に倣って2009年に始めた催事で、今や東京、岩手、佐賀、広島とその枝を広げています。
「料理人にできること」を読んだ河瀬さんから数日後、深谷さんにお会いしたいから連絡して欲しいと言われて、ぼくは仲を取り持ちました。最初は河瀬さんご夫妻だけ行くつもりだったのに、同行したいという人たちが集まって、函館行きは団体旅行になりました。その団体名は「エバーグリーン」という三重の飲食店オーナーの集まりで、河瀬さんが世話役をやっています。それが発端となって、三重でも世界料理学会が大型商業施設であるVISONで開催されることになり、今年の11月で3回目を迎えます。ぼくも呼んでいただいて、大阪大学医学部栄誉教授の吉森保先生と細胞のオートファジーについて対談をする予定です。
ここで急に井上陽水の話になります。彼がライブで、曲の合間にこんな話をしていました。「雨雨降れ降れ母さんが 蛇目でお迎え嬉しいな、それを口ずさむとその光景が目に浮かんで、なぜかウッとなるんですよね」。年取ると涙もろくなる、些細なことで目に涙が浮かんでしまう、そんなことを言ってるんだと思うのですが、わかる気がする自分がちょっと嫌だったりします。
でも、歩いていて空の青さに気づき、この青空がいつか見れなくなるのかと思って寂しくなる。なんでもなかったことが、とても大切なことに思える。だから、もう一度大事にしようと思う。これが老いることの醍醐味かもしれないなと苦笑したりするのですが、友情もまた同じく。
以前は自動車で行っていたけれども、この頃は疲れるので電車で行くようになった伊勢ですが、それはそれでのんびりとして楽しい、そうして河瀬さんに会いに行く小旅行がずっと続いてほしい。
あの青い空と同じように、変わらぬ友情がありますように。そして、自分にとってのこの世の終わりが来るまで、お互いの脳内信号が輝き続けて励まされるように。それが、いささか涙もろくなっている、今のぼくの願いです。
by chefmessage
| 2025-06-04 13:08