ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


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祈り

 桐野夏生の小説「OUT」の中で、弁当屋のパート勤めをしている主人公の主婦が、自宅で風呂場のタイルの目地を磨き立てるシーンがあります。休みの日にそれをすることで気持ちが落ち着く、そんな内容でした。ぼくも、それと同じようなことをしたことがあります。10年くらい前のことでしょうか。

 多分その夜はノーゲストだったのだと思います。といっても、そのころはそういうことが多くて、一生懸命やっているつもりなんだけれども、何をやってもお客様がこない。何か取材でもあれば好転するのではないかと思っても、そんなものは都合よくきません。編集の人に問い合わせても、「ミチノさんには新しい切り口がないから難しい」という返事ばかり。かといって、いまさら違う仕事に就くこともできないし、でも家族がいるし。

 フランス料理の世界にも、実は流行り廃りがあります。それはけっこう目まぐるしい。運よく昇り詰めることができても、その地位は盤石ではありません。とくに急激に上昇すると、滑り落ちるのも早いような気がします。でも、そこで人生が終わるわけではありません。むしろそこからが長い。流行というのは恐ろしいものです。華やかな時代が過ぎてしまうと、後は何をやっても、どんな優れた仕事をしても見向きもされなくなります。過去の栄華にすがるといったものではありません。むしろ、人並みですらなくなったような気持になります。その状態が延々と続きます。

 でも、ぼくはあきらめたくなかったのです。自分の時代は終わった、もう役目はすんだのだと思い込もうとしても、自分の存在意義を失いたくなかった。祈るような気持ちで毎日を耐えていた。そんな夜。

 お風呂に入っていて、ふと足元をみるとタイルの目地に黒いところがありました。だから、ブラシで磨き始めました。裸のまんまでごしごし、端から端まで。何かしなければ自分が保てなかったのでしょう。それは、他人からすればずいぶんと奇異に見えただろうと思います。全面やり終えてシャワーで洗い流して、風呂から出たぼくは、すこし気分が楽になった。

 桐野夏生さんの描写は、だからすぐに理解ができました。どこにも持って行きようのない哀しみ、そういうものを誰もが抱えているのではないか。

 あれから10年、ぼくは今でも店をやって、料理を作っています。耐えながら、少しづつ前にでてきたのかもしれません。見捨てることなく支え続けてくれたマダム、従業員、そしてお客様のおかげもあります。でも、ぼくはまだ納得していません。ぼくはもう一度世の中に認めてもらいたいと思っています。流行り廃りなどに左右されない、一つのことをやり続けて悔いのない人生を人は送れるということを。

 懇意にしていただいている玉川奈々福さんという浪曲師がいます。彼女の折々の言葉にぼくはずいぶん薫陶を受けたのですが、なかでもこの言葉が胸に響きました。「手を抜くということを私は知らない」。「目の前に一人でもお客様がいれば、わたしは全力でその人を楽しませようとするから」。

 

 ぼくの店にはミシュランの星はありません。多分、人が気にする食べログの点数なんて大したことないだろうし、アジアのベストレストランのランキングとかにはまるで縁はないでしょう。それは仕方のないことです。ぼくはそういうもののために、どんな努力もしたことがないし、これからもしようとは思っていません。そんな流行り廃りの世界に、もうこの身を置きたくないから。ぼくはひたすら、来てくださったお客様のために料理を作ってきました。それも、自分が納得し、自信を持ってこれがぼくの料理です、と言えるものを作ってきたし、これからも、そうありたいと思っています。例え数少ないお客様であっても、ぼくは全身で朗々と歌うばかりです。

 そしてこの年齢になって、ぼくは自分の料理が、今までにないほど完成度を高めていると感じています。まるで呼吸をするようにぼくは考え、作っている。ただ残念なことに、年齢的な肉体の衰えは隠せません。それでも、最後まで全力疾走、それがぼくの願いであり、そして祈りです。


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# by chefmessage | 2018-04-21 18:37

親父の背中

 今でも不思議に思うのですが、けっして身体が丈夫ではないうちのマダムは、なぜか出産に関しては三人とも超安産でした。中でも印象に残っているのは、二人目の長女のときです。

 長男が初産だったのですが、それが短時間で済んだので、産婦人科医から「次はもっと早くなるから」と言われて、二人目を身ごもってからは常に気にかけていました。だから、産気づいたマダムをすぐに同じ病院に車で連れて行ったのですが、到着すると、夜も遅かったので看護師さんしかいません。とにかくマダムを分娩室に運び込み、前回同様立ち合い出産ということで着替えようとしていると、看護師さんが、そんなにあわてなくてもすぐには生まれませんよ、とぼくに言います。いや、前回先生に早くなると言われたからと抗弁すると、まあ、そこで座っといてください、一旦、自宅に帰ってもらうかもしれませんからと、軽くいなされました。大丈夫かな、と心配していると、案の定、看護師さんがすぐに顔をのぞかせて、「ご主人、すぐに着替えて中に入ってください」とぼくに声をかけました。あわてて用意をして分娩室に入っていくと、看護師さんが手を洗ってくださいと言います。手を洗ったらこっちに来てください。「赤ちゃんが出てきそうやからグッと押さえててくれる、助産婦さん呼んでくるから」。そして二人っきりになった分娩室で、思わず言葉がもれました。「なんでオレ、こんなことせなあかんねん」。笑っていると助産婦さん登場。それから45分で、元気な女の子が産声をあげました。ちょっとぐったりしていましたが、横たわったマダムはぼくに向かって、あろうことかVサイン。そして言いました。「楽勝だぁ」。先生をはじめ、その場にいる全員が大笑いした一夜でした。

 その子が19歳になりました。子供のころから勉強が大嫌いで、塾に行かせれば逃亡する、家でマダムが勉強させようとすれば泣く。とにかく、何かをさせようとしても嫌がるので、彼女が中学生になったときにマダムが宣言しました。あの子は生まれるときから生命力が強かった、だから信じて好きにさせる、もう何も言わない。

 高校生になってからは熱心にバイトに励んでいました。私はお小遣いもお年玉もいらない、そう言って平然としていました。そして、そのバイトで貯めたお金と奨学金で、彼女は今、専門学校に通っています。

 この頃は夜に、リビングの大テーブルで勉強している姿をよく見ます。ぼくたちが住んでいる家は古い一軒家なので、リビングが一番温かいからです。初めてその姿を見た次の日、ぼくとマダムは顔を見合わせて言いました。「あの子、勉強してたよな」。

 ぼくは帰宅するとまず食事をするのですが、そのとき勉強している彼女にこうお伺いをたてます。「横でご飯食べていいですか」。

 クリスマスには、店の皿洗いに来てくれました。23日と24日の二日間、実に根気よく仕事をしてくれました。手が空くと、ぼくたちが料理している姿をじっと見ている。これは気のせいかもしれませんが、それ以来、ちょっとだけぼくを尊敬してくれるようになったみたいです。

 今年のお正月のことです。その日は恒例の、家族で実家に行ってぼくの父と昼ご飯を食べる日。一人暮らしのぼくの父は、91歳で足が不自由ですがあいかわらず雄弁です。名古屋の大学に通っている長男も帰省して参加しているので、爺さんは上機嫌です。口の端っこにマヨネーズがついていてもかまわずしゃべりまくります。すると、長女がティッシュをとって、すっと近づいて、爺さんの口をやさしくぬぐいました。あれ、この子はこんなことが自然にできるんや、ぼくは驚きました。そして、ちょっと感動した。

 高校生のころは、家では、スマホをさわっているか寝ている姿しか見たことがなくて、本当にこの娘はどうなるんだろうかと、ぼくはイライラしたり心配したり。でも、マダムが好きにさせようというから、ぼくは黙って辛抱していました。でも、19歳になったこの頃の彼女のときおり見せる表情が、思慮深い一人の女性に見えるときがあります。そして、本当はこの子はいつも、両親や兄弟をやさしい気持ちで見ていたのだと思う。自分なりに、大切にしようとしてくれていたのだということに、愚かな父親はやっと気づいています。

 だから、これからこの娘がどんな道を歩んでいくのかずっと見守りたい、そして、自分にできることがあれば全力でそれを成し遂げたいと思うけれども、命に限りがある以上、それはできない相談でしょう。では、ぼくにできることはなんだろうか。

 人は親の背中を見て育つ、と言います。それなら、ぼくはずっと見られても恥かしくない後ろ姿で居続けよう。そして、子供たちが勇気を必要としたときに、思い出して頑張ろうという気持ちになってくれる生き方を最後までしようと思います。

 でも、長女がある日、こんなことを言ったことがあります。「お父さん、無理しなくても大丈夫だよ。子供たちを信用していいから」。そのとき、ぼくはこう言いました。「そうじゃない。子供たちを信用しているから、オレは無理をするんだよ」。

 前に向かって進む親父の背中を、押し続けてくれるのは子供たちです。励まされているのはこっちやな、と親父はそっと苦笑いです。


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# by chefmessage | 2018-03-02 20:37

終わりと始まりと。

 今年1年間は、ケータリングによく出かけました。主にお昼ですが、小さな子供さんがいたりお年寄りがおられて、誕生日などのお祝いの食事会をしたいけれどもレストランにでかけられないからお家でやりたいという依頼を受け、料理を作りに行ったのです。うちの店はスタッフが充実しているので、よほど忙しくないかぎり昼間はぼくがいなくても問題ないから、ぼくひとりが車に荷物を積み込んで出かけていきました。

 初めての場所、それも見ず知らずの方のお家で料理を作ってお出しするのですから、出かける前はけっこう不安です。道具やお皿は揃っているか、台所の広さはどうだろうか。あらかじめ電話でいろいろとお聞きしてそれなりの準備をしていくのですが、やはり想定外の出来事は起こります。それでもなんとか対処して、苦情が出たことは一度もありませんが、楽しく仕事ができるときもあれば、そうでないときもあります。でも、店の中に閉じこもっていてはわからないことをたくさん学ぶことができたし、なにより、普段は入り込むことができない人さまのお家で料理を作ることでたくさんの方とお知り合いになれたことは自分の気持ちにプラスになったと思います。

 でも、それももう来年はできなくなりました。従業員が一人退職する予定で、人の補充も難しく、営業中は店にいなければならなくなったからです。だから、12月中旬に受けた依頼が最後のケータリングになりました。

 その日の依頼は6名様。1歳のお嬢ちゃんの誕生日のお祝いです。食事のスタートは午後12時。40分前に近くのコインパーキングに車を置いて台車を出し、荷物を積み込みます。そこで電話を入れてお相手のマンションのお部屋へ。到着して準備を始めます。でも、台所に6人分のお皿を並べて料理を盛るスペースがありません。さて、どうしたものか。見回すとリビングに、子供さんが食事をするための低い折り畳み式テーブルがあります。お借りできますか?はい、どうぞ。ということで、冷蔵庫の前の隙間にそれを設置しました。そのようなことをやっていると奥様とご主人がやってきて、小声でぼくに話しかけます。実は、

 今日の出席者の一人に情緒不安定な女性がいて、とにかく思いついたことをその場でそのまま言葉にするから、もし気に障ることがあっても悪意はないから聞き流してください、と。わかりました、ということで食事のスタートです。始まってみると、とにかくぼくは仕事で精いっぱい。慣れない場所で悪戦苦闘、全部ひとりでやらなければならないし。

 一品目はポタージュです。具材をいため、牛乳の泡を作り、ちゃぶ台に皿を並べ、ひざまずいてポタージュを注ぎ。その間にパンも温めなければなりません。できあがったら運んで。

 さて、次の料理の用意をしようとしていたら、「おいしい!」という女性の大きな声。みなさん慣れている様子で、そうだね、とか相槌打ちながら楽しそうに食事しておられます。次はサーモンのキッシュとサラダ。また「おいしい!」と同じ方の声。その後を引き継ぐように奥様のお父さんが、いろんなキッシュ食べたけど、これはほんとに美味しいな、とか言っておられます。続いて魚料理、今日は天然の真鯛で、付け合わせに大根が添えてあります。お出しすると、今度はひときわ大きな声で、「この大根おいしい、こんな大根今まで食べたことない、どうやって作るんやろ、わたし大根って好きじゃなかったけど、これはおいしい、スーパーに行っても大根って買わへんけど、これからは買おう、だいたいお味噌汁でも大根が入ってたらいややったけど、こんな大根やったらいくらでも食べられる、、、」と延々と話が続きます。そして、メインの肉料理が出て。そのころになっても、まだ大根の話が続いています。やっと、「でも、お肉もおいしいなあ」。

 しばらくみなさん沈黙。やっぱり牛肉は一番人気で、食べるのに夢中、という感じです。すると、「わたし、さっきまでしんどくて横になっててん」と話が再びはじまりました。「でもな、おいしい料理食べたらすごく元気になってきた。おいしいものたべたらこんなに元気になるねんな。わたしももっと料理するようにしよう。料理ってすごいな」。

 あ、オレの料理で元気になってもらえたんや、それがとても新鮮な印象となってぼくのこころに広がりました。そうか。

 

 今、おもてなしとかホスピタリティという言葉がトレンドのようです。外国人の訪日客が年々増えているのは、そこにひかれてではないか、それならそれを分析し、もっと積極的に広げようということなのでしょう。ぼくの仕事も、その言葉が重要な意味を持つ職業です。でも、ぼく自身はすこし違う。もちろん人を喜ばせたいという気持ちはありますがそれ以上に、ぼくは自分自身のためにこの仕事をやっているように思います。

 そういう風に書くと不思議に思われるかもしれません。でも、ぼくという人間が社会、あるいは世界とかろうじてつながっていられるのは、ぼくが仕事をしているからだとぼくは考えています。だから、ぼくの作る料理に優れたところがあるとすれば、それは強さからくるのではなく、弱さからきています。自分という脆弱な存在が生きていることを、それが間違いでないことを、ぼくは料理という手段で訴えようとしているのです。でも、その声が小さくて、人に届かないかもしれないから、もっといい仕事をしなければならない、それを長い間ぼくは続けてきました。もっと高く、もっと深く、そしてこの声が誰かに届くようにと。

 メインのお皿を下げて、最後のデザートの準備をしながら、ぼくはうれしかった。声が届いた、と思った。そしてそれを感じた人が元気になることでぼくも元気になった。自分は一人ではない、そしてあなたも一人ではない。仕事をするということはそういうことではないかと思います。そして、生きるということも。

 デザートを出し終えて洗い物を済ませ、後片付けをして、最後に作業した場所を磨き上げます。来た時よりもきれいにして帰る、それがプロの矜持だと思うからいつもそうするように心がけているのですが、その日はとくに念入りだったような気がします。最後のサーヴィスに全員の記念撮影のカメラマンを務めて、本日のお仕事は終了。ありがとうございましたとお礼を言って帰ろうとすると、その女性が大きな声で、「色んな人に来てもらったけど、今日は最初から最後まで全部おいしかった。完璧やったわ。」。いや、完璧なんてとてもとても、こちらこそ、と言おうとしたけれども、うまく言葉にできなかったから、深々とお辞儀だけしてそのお家を後にしました。

 駐車場で車に荷物を積み込みながら、ほっと一息。1年続いたケータリングが終わりました。でも最後に、思いがけないご褒美をいただいたような気分でした。この仕事、やっててよかったな。

 今年1年がもうすぐ終わろうとしています。そして、新しい年がやってきます。終わりは次の始まり。ぼくにとっては64回目の未来がやってきます。でもいつか、終わりがほんとうに終わりとなる時が来るのでしょう。その時まで、ぼくは声を上げ続けたいと思います。ぼくの声があなたに届くように、そして、あなたの声もぼくに届くように、と。


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# by chefmessage | 2017-12-25 16:38

桜と口笛と

めずらしくマダムが旅行することになり、一週間の留守の間、我が家はふたりの娘とぼくの3人家族になりました。娘たちは共に春休みなので、家事や食事は二人で分担してくれることになったのですが、高校2年生の下の娘は部活があって忙しく、やったとしても洗濯物を干すくらいで、どうしてもお姉ちゃんの負担が多くなります。それでも、買い物に行って、上手に食事は作ってくれるし、片づけもしてくれるしで、ぼくはちょっと彼女のことを見直しました。

 というのも、お姉ちゃんの方は本当に勉強が嫌いで、部活もせず、高校1年のころからバイトばかり。いつもスマホを触っているか部屋に閉じこもっているかで、よくわからない娘、というのがぼくの印象だったからです。それに、バイトしているからお小遣いもお年玉もいらないというので、ぼくにとっては、良くも悪くも手のかからない子でした。

 ところが、ある日帰宅すると、台所に洗い物がたまったままになっていました。「今日はどうしたの?」と尋ねたら、「疲れたから。」と言います。そこで、ぼくは言わなくてもいいことを言ってしまったのです。「それなら、オレの方が疲れていると思うけど、やってあげるわ」。

 そして、大人げないことに、とことんきれいにしてしまいました。

 お風呂から出てきた娘がその様子を見て、ぎゅっと目を閉じました。あれ、どうしたのかな、と思っていたら、ボロボロ泣き始めた。しまった、と思ったぼくはあわてて「いつもやってくれてるからたまには手伝おうと思ったんや」と言い訳したのですが、泣き止まない。「今日は朝から夜までずっとバイトやったから、明日の朝起きて片づけようと思ったのに。」。「ごめん、いつもご飯も用意してくれて、よくやってくれてると思ってるから。」と、父も必死の弁明をするのですが聞き届けてもらえない。「もうご飯作らへん」そして「もういやや」そう言って一層はげしく泣きます。それから、自分の部屋に入り、バタンと扉をしめてしまった。

 ぼくはそのとき、悟ったのです。実は、手のかからない子供というのは、子供がそうしているんだ、と。親がめいっぱい努力しているとき、子供も同じくめいっぱい努力しているのだ、と。

 高校1年生のときからバイトを始めたのは、自分だけでも親に負担をかけないようにしようという彼女の決意だったのでしょう。

 実際問題として、小さなレストラン一軒分の収入だけで子供を3人そだてるというのは、とても厳しい。そのことを彼女は子供ながら理解していたのでしょう。ぼくはそのことにまったく気付かず、彼女のことをよくわからない、でも、手のかからない子供だと思っていた。

 彼女のことをまったく理解していなかったことに今更ながら気づいて、ぼくはとても恥ずかしくなってしまいました。そして、父親として不甲斐ないことがこころから悲しくなった。こんな家庭の娘でいることが「もういやや」と言われたような気がして、とてもつらくて、抑えても抑えても涙が止まらなくなってしまった。

 もっと他に生きる道があったのではないか。少なくとも子供たちに、お金の心配をさせることのない職業に就けたのではないか。

 ただ、そこに彼女が自分の目的を見つけて、前向きに生きる道筋ができたという側面もあるのかもしれないのですが、それはそれ、ぼく自身の問題とはまた別です。

 明日も仕事だから眠ろうとするのですが、なかなか眠れません。真夜中に、娘にメールをしました。それでやっと明け方にうっすらと眠ることができました。

 翌日は、メールの返事が来ていないかと気にしていたのですが、帰宅するまでありませんでした。帰ったのが遅かったので、娘たちはすでに眠っていましたが、食事は用意してあって、その横に手紙が置いてありました。昨日は泣いてしまってごめんなさい、と書いてあった。そして、この春から彼女が通う専門学校のことが書かれてありました。

 早々と大学には行かないと宣言していたのですが、その専門学校への進学は、彼女が自分で決めてきました。3年制。とりあえず入学金はなんとかなったのですが、さて授業料はどう捻出するか?あれこれ算段は調えてはいたのですが、なにも言ってこなかった、その答えが、その手紙には書いてありました。

 「明日、1年分の授業料を払ってきます。3年間、バイトでためたお金です。あとの2年分は奨学金を申請しました。パパに負担はかけないから心配しなくていいです。それより、私がちゃんと資格がとれるようになるまで応援してくださいね。」。

 明日が彼女の入学式です。桜が満開でしょう。でも、その桜は同じように見えるけれども、去年の桜ではありません。毎年、新しい花が咲き、散り、1年が過ぎると、また新しい花が咲く。まっすぐに生きて、毎年、新しい花を咲かせてほしいと思います。そして、人を思いやるそのこころを失わず生きていってほしい。

 多分、本人は気付いていないだろうけれども、彼女が機嫌のいいときはわかりやすい。よく口笛を吹いているのです。それが随分と上手で楽しそうで、聞いている方も思わず微笑んでしまいます。

 今年の桜には口笛が似合います。ぼくにとっても、一生忘れられない思い出になりそうです。


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# by chefmessage | 2017-04-07 20:29

白いウサギ

 どの分野においても、いくつかの偶然が重なってできあがったものが、いつまでも記憶に残る作品になったりすることがあるようです。今回のぼくの料理、白いリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルもそのようにして完成し、ぼくにとっては忘れられない一品になりました。

 始まりは、関西イタリアンの雄、そして長年の友人でもある八島淳次君とのコラボの話でした。

 八島君とは、以前にもコラボのディナーをやったことがあるのですが、その時は、お互いが主張しすぎてうまく嚙み合わず、お客様にも決して満足していただける内容ではありませんでした。だから、いつかもう一度やろうと話し合ってはいたのですが、そうこうするうちに八島君の淀屋橋のお店が閉店となってしまい、立ち消えになりそうになる前に、今回はぼくの方から持ち掛けて、新年早々、開催する運びになったのです。

 どうせやるなら、だれもやったことのないテーマで、と考え、オールジビエのコースをぼくが提案しました。魚介類、一切なし。鳥類で八島、四足獣は道野が担当。デザートは八島君とうちのマダムが一品ずつ、ペアリングのワイン監修は八島君。とりあえず日時を決めてしまおうということで、19日成人の日に決定。

 全体的な量の問題を話し合い、食材と料理法が重ならないようにするために何度も打ち合わせをしました。歴史に残るような一日にしたいというのが、ぼくたちの望みでした。そして、フェア告知の第一弾ということでSNSにアップしたところ、ほぼ一日で満席になってしまいました。それでも問い合わせが続くので、急遽、前日の8日も開催することに。八島君と二人、これは年明けからえらいプレッシャーやな、と顔を見合わせました。

 そんなときに、旧知のハンターから電話がありました。野ウサギの入手ルートができたんですが、使いますか?実は、ぼくは過去25年間、野ウサギは触っていません。最後に使った個体の状態が良くなくて、二度とやりたくないと思っていたからです。だから、検討します、ということで一旦、電話を切りました。

 そういう時に、偶然、パリにおられる料理人のAさんという方がSNSでアップしている、リエーブル・ア・ラ・ロワイヤルの写真を目にしました。それが実に美しい料理で、ぼくは感動しました。でも、従来のやり方ではこういう風にならないと推察したぼくは、一面識もない、なぜSNSで友達になったのか記憶にもないその方に、厚かましくもメールをしました。これは、こういう風に作ってらっしゃるのではないでしょうか。

 すると、そのAさんは、実に丁寧に答えてくださった。おおよそは、ぼくの想像した通りだったのですが、そのときぼくの頭の中で、キラっと光るものがありました。ひょっとすると、今までだれもやらなかったリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルができるかもしれない!

 ぼくはAさんに感謝のメールを差し上げた後、いそいで例のハンターに電話しました。年始に、野ウサギ4羽、確保できますか。多分、大丈夫でしょう、という答え。それが12月の半ばのこと。それから年始の営業が始まり、野ウサギが店に届く1月4日まで、ぼくはこの料理のことをずっと考え続けました。設計図を、楽譜を、頭の中で書いては消し、書いては消し。同時に、理論的に間違ってはいないか推考を重ね。

 そして仕込み。4羽の野ウサギの皮を剥ぐところから始めて、本体の仕上げからソースのベース作りまで、ほぼひとりでやりました。熱に浮かされるとは、こういう状態のことを言うんだろうな、と思いながら。新しいものを生み出せるかもしれないという興奮が、疲れを忘れさせていたように思います。4日間、ぼくはひたすら仕事をし続けました。

 そもそもリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルとは、野ウサギの骨をすべて取り除いて一枚開きにし、あらかじめ外してあった前足や後ろ足、首回りの肉と内臓をミンチにしたものを、フォアグラ、トリュフと一緒に包み込み、赤ワインで煮込む料理です。ソースは、赤ワインでウサギのくず肉や骨を煮出してフォン(だし汁)をとり、それを煮詰め、フォアグラバター、ウサギの血、チョコレートなどでつなぎ、そして最後にアルマニャックをたらして仕上げるというのが定番。それを、筒切りにした本体にたっぷりと注ぎます。だから、この料理の仕上がりは、赤というより黒です。

 でも、ぼくは白いリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルを作りたいと思った!

 野ウサギを赤ワインで煮込むのは、それが一番妥当な料理法だからです。そうしないと臭みが取れないから。しかし、現在のように流通がスムーズになると、状態がよいままで食材を手に入れることができます。それをわざわざ煮込む必要はないのではないか。だから今回の料理は、煮込まないで、真空パックに入れて低温で火を通しています。そのことで、野ウサギの肉を煮込んだ時のパサついた感じはなくなります。肉本来のおいしさを表現できるのです。このテクニックが、Aさんの料理の美しさの秘訣でした。そして、フォンをとるときに、ぼくはくず肉や骨を焼きませんでした。煮こぼしたあと一度きれいに洗って、コンソメの2番を使って煮出し、それを漉して煮詰め、クリームを入れて、さらに煮詰めています。フォアグラバターでつなぎ、レモンを絞り込んで軽くし、最後にアルマニャックを数滴。

 クラシックではソースにウサギの血を入れますが、これも匂い消し、すなわち、より強い香りで臭みを制することが目的だとぼくは推察しました。それと、ソースに濃度をつけて、肉にたっぷり注いで食べさせよう、と。チョコレートは、さらに血の匂い消しと苦みの補給。苦みがまざることで、味に複雑さがでるから。また、チョコレートのポリフェノールが血の味を中和する役目もあるのかもしれません。そもそも、赤ワインにはポリフェノールが入っているし。アルマニャックは、最後の芳香。

 考えると、実によくできた素晴らしい料理です。ぼくは、この料理の考案者に畏敬の念を感じているし、この料理を上手に作ることができる料理人をこころから尊敬します。しかし、文化というものは時代に応じた変化があってしかるべきではないかと、ぼくは思います。選択肢が多い方が文化としては豊かだと思うし。

 でも、実際のコラボディナーの時には、一つの本体にクラシックなソースも添えて、2種類のソースで食べていただきました。本当は真っ白にしたかったのですが、初めてリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルを召し上がったお客様に、これが本来の姿だと誤解されると困るし、どこかのレストランでお話しされて、それを聞いた料理人が、「道野さん、間違っている」と言い出すと嫌なので、あえて、そのような形でお出ししました。どちらがおいしいと感じるか、お客様の感想も聞きたかったし。

 ある方が食後に、白いソースだと、リエーブル・ア・ラ・ロワイヤルの独特な匂いが薄まるという意見を言われましたが、それは無理難題だと申し上げたい。なぜなら、あの独特な香りは、元となる野ウサギの熟成香、あえていうなら、腐敗臭があるから出てくるものだからです。状態の良いものを適切に調理して、あの香りを立たせることはできません。

 レシピというものには、必ず背景があります。重要なことは、それを読み取ることです。必然性のない要素は含まれていない。そのうえで、ひとつひとつが組み合わさって全体がまとめられ、完成していくものです。だから、表面だけをとらえていては、その料理の神髄に触れることはできないと思います。

 リエーブル・ア・ラ・ロワイヤルとは煮込み料理のことではない。野ウサギをおいしく食べさせる知恵だと思います。それなら、元になる野ウサギの状態によって調理法やソースはかえるべきです。ただ、かえてはいけないところがあるとすれば、それは、野ウサギを開いて詰め物をする、いわゆるバロティーヌの形にすること、そして、フォアグラとトリュフをたっぷり使うことだとぼくは思います。

 ア・ラ・ロワイヤルの語源は貴族風ということになると思いますが、それは、庶民がなかなか口にすることができない食材を使っているからで、だから、フォアグラとトリュフははずせない。

 赤ワインが必然になるのは状態のよくないものを煮込む場合だから、鮮度の良いものが入手できるなら、それを白ワインに代えて、クリームとフォアグラバターで仕上げることには問題がない、血を入れる必要もないと、ぼくは結論付けました。

 相性としても、決してわるくない組み合わせだと思います。

 当日のお客様の中に、長年、業界紙記者を務めた方がおられたのですが、彼女がこの料理を口にした途端、「これ、ほんとにリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルだ!」と叫んだその瞬間、ぼくの胸にあった氷が一瞬にして溶けた、それほど熱い思いが、この料理にはこめられていたのです。

 一つの料理を繰り返しやり続けることで完成度を高めていく、それも尊い行為です。でも、ぼくはそうではない。まだ何かある、まだ知らないことがある、そう思って生きてきました。安定を潔しとしない気風が抜けない。そのことで、ずいぶん波風の多い人生を歩んできたし、毀誉褒貶にも巻き込まれてきました。

 苦しくなかった、と言えばうそになる。それは、今でも同じです。もっと別の生き方ができたのではないか、と思うこともよくある。この白いウサギ料理もそうです。批判する人も結構いるだろうとも思う。

 けれども、これがミチノの料理です。いろんな偶然に恵まれ、いろんな人に助けられて、ぼくはこの料理を完成させました。また一段、ぼくは階段を上ったと思います。

ぼくはすくなくとも、自分自身の選んだ道を歩んでいる。そして、少しだけ誇らしげに、こう言おうと思う。

 見ろ、これがオンリーワンということだ。

 

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# by chefmessage | 2017-01-12 17:59