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 12月の6日と7日に、元プログレ ヨコヤマの横山淳シェフと二回目のコラボディナーを行いました。このコラボは、今年の3月にあったぼくの還暦パーティーで、横山シェフが料理を提供してくれたことに端を発しています。
 彼が、週に3回の腎臓の透析をしなければならない病気を患い、断腸の思いで自店を閉めたことをぼくは知っていたので、無理しなくていいからと引き止めたにも関わらず、彼は数品の料理を用意して持参してくれました。それだけでもぼくはありがたく思っていたのに、そのときの彼の料理が素晴らしくて、なんだか生命力に溢れているような気がして、ぼくは瞠目したのでした。
 彼はあきらめてはいない。その料理に対する熱意は、重い病気を凌駕しようとしている。
 
 長い間、ひとつの仕事を続けるというのはとても難しいことです。ましてやぼく達の仕事は流行的な側面がかなりあるから、いつまでも良い状態は続きません。次々と新しい才能が生まれ、もてはやされ、それに従って以前のものはどんどん忘れ去られていきます。それに抗って、前衛の位置をまもるのは至難の業という他はありません。ぼく自身、何度も何度も、自分の時代と役割は終わったのではないか、と苦しみました。今でも、その呪縛から解き放たれてはいない。毎日、苦しみながら歩んでいる、といっても過言ではないのです。だから、もしぼくが横山シェフのように重い病に見舞われたなら、ぼくは多分、あきらめてしまったと思います。でも、彼は打ち勝とうとしている。
 だから、ぼくはそのパーティーの席上で、彼に「一緒にフェアやろう」と持ちかけたのです。安易な同情ではなくて、ぼくは彼に同調したかった。
 一度目のフェアは大好評でした。是非次回を、という声がたくさん寄せられたので、今回、二度目が実現したのです。
 
ぼく達の共通の傾向として、とにかく人のやらないことをやりたがる、というところがあります。これはかなりきわどい分野で、ともすれば奇を衒っただけのものになってしまい、食べ手に無用な混乱、ときには不快感まで与えてしまいます。食材の連結や、味とか香りとか食感のバランスをとるのが非常に難しい。へたをすると、「こんなことしない方がおいしいのに」という批判を受けてしまいます。だから、ぼく達は細部に至るまで計算しつくさねばなりません。何度も自問自答を繰り返して練り上げていきます。
 そのことに関して言及するなら、横山シェフはいまやぼくの手強いライバルとなっています。完成度は、むしろ今のほうが高くなっている印象です。純粋に自分の料理に向き合っている。だから、彼とのフェアはお互いの笑顔とは裏腹に、真剣勝負です。そこに同情の入り込む余地はありません。全力で相手を叩きのめす気魄が必要です。
 前回もそうだったのですが、今回もぼくは必殺技を用意しました。それは「仔牛腎臓のローストとタラの白子のパンケーキ」。

 これは北海道の河原正典シェフが、地元のイタリアンの鈴木シェフと、自店の「メランジェ」で開催したコラボで出した料理が元になっています。この料理はぼくにとっては衝撃的な一品でした。家畜と魚類の内臓を一皿に盛る、というのは前代未聞ではないか、と思ったのです。そして、自分ならどうするかと考えたとき、すごく難しいと感じました。
 二つの料理をただ単に一つの皿に盛る、というのならさほど難しくはありません。でも、それぞれが連結して、皿の上にある全てを一緒に食べたときに全く別の次元に食べ手を誘う、というぼくの理想論に照らし合わせると、その実現には途方もない工程が必要になると思えました。
 そもそも、この二つを結びつける必然性もないし、蓋然性も乏しいのです。組み合わせそのものがすでに常軌を逸している。平たく言えば、「そんなことしなくていい」部類の料理なのです。でも、だからこそやってみたい。
 まったく結びつかない素材同士の接着剤には何をつかえばいいのか、緩衝材を何にするか、バランスはとれているか、縦横の強度に問題はないか、そして、円は閉じているか。それはまるで設計図です。頭のなかで建物を完成させていく感じです。そして、フェア開催の2時間前になって、ようやく完成。
 とはいうものの、素材そのものに抵抗のある方には、この料理はまったく無用の長物です。だから事前にコース内容を公開し、当日もメニューを印刷してお渡しし、食材の変更にはお応えするつもりだったのですが、残念ながら、二日間で3名の方の料理がほぼ手付かずで戻ってきました。そのことに関しては申し訳なく思っているのですが、結果的には好評でした。挑んでよかった、今ぼくはそう思っています。

 どなたかの著作の孫引きですが、「一色しかないなら、それは色ではない」という言葉が記憶に残っています。人の性癖を色にたとえるなら、ぼくや横山シェフは、料理界ではすこし色合いの違うタイプなのでしょう。でも、そういう異なった色がなければ、この世に色はなくなってしまう。それは寂しいことだし、なにより自然の摂理に反しています。この世界は、色があってはじめて世界として成り立つのだから。
 だからぼく達は、自分達の個性をより一層、鮮明にすべきなのでしょう。それがぼく達の役割かもしれないから。

 ぼく自身、オーナーシェフになって26年がたちました。そんなに長い間やってこれたのは、ぼくがあきらめずに自分の役割を果たそうとしてきたからではないかと思ったりもします。この線より後ろにさがったら、自分は終わってしまう、そう思って踏ん張ってきました。でも、例えば水鳥がじっとしているように見えて実は水面下で水かきのついた脚を絶えず動かしているように、ぼくはずっと足掻いてきたのです。ぼくは止まらない、ずっと足掻きつづけて踏みとどまりたい。だから、ぼくは若い料理人達の料理に触れ、敬意をはらってその話に耳を傾け、専門書も読みネットでも検索し、ときには今回のようにコラボをするのです。そして、そのときにこころのどこかに小波が立ったら、ぼくはその原因を調べ、検証し、自分の持つ引き出しを次々開けて思考し、再構築します。いつか、足掻いた足の後ろに土が溜まり、それを踏み台にして自分自身がさらに一歩前に出る、そんな日を夢見て。

 フェア当日は、横山シェフのお店のかつての常連さんたちが集って、サーヴィスを務めてくれた横山千晴さんとの話が盛り上がり、みんなとても楽しそうでした。またやってね、その声がある限り、ぼくは彼等とのコラボを続けようと思います。そして、その度ごとに挑めるとするなら、ぼくは横山夫妻と当日来て下さったすべてのお客様にこころからの感謝の言葉を伝えなければなりません。ぼくはあなたたちから勇気をわけてもらいました、と。
 来年も、ぼくは足掻き続けようと思います。そして、最後まで踏みとどまるつもりです。これが、今年最後のぼくのメッセージです。どうかみなさん、来年もよろしくお願いいたします。
 
by chefmessage | 2014-12-09 21:40

早川くんのこと

 振り返って見ると、人生の曲がり角に立っていて、お互いが意図しないにも関わらず、その後の方向を決定することになった人物が誰にでも何人かいる、とぼくは思うのです。ぼくにとって、早川くんは、まさにそういう人でした。

 ぼくが30歳になったかならないか、それぐらいの時代のある夏の日、当時湘南のレストランで働いていた早川くんが、ぼくの仕事場であった京都の「ボルドー」にやってきました。一応顔見知りだったので挨拶をして、ところで何の用事?と尋ねたところ、フランスへ行くので大溝シェフにご報告に来ました、と言います。彼が働いていたお店は大溝シェフの紹介だったらしくて、そこを辞めるので、お詫びということもあったのでしょう。そういう義理固いところは、今も変わらない彼の美徳の一つなのですが、そのときぼくはチャンスがきた、と思ったのです。彼が渡仏するにいたった経路を聞いて、可能ならぼくも同じようにフランスへ行こう、と。

 後日、彼に連絡して詳細を聞きました。東京に、とりあえず一軒目の働き口を斡旋してくれて、渡航の手続きや片道の航空券の購入も手配してくれる会社があるということ。費用を聞くとその額は、その当時のぼくでもなんとかなる範囲だったので、ぼくはすぐに上京し、その会社を訪問することにしました。幸運なことに、東京に用があるからぼくも一緒に行ってあげましょう、と早川くんが言ってくれたので、お願いしてぼく達はともに上京することになったのです。
 その会社、というより個人事務所といった感じの一室で、ぼくは責任者から説明を聞きました。で、いつ行きますか?と尋ねられたので、できるだけ早い時期に、と答えると、じゃ、早川さんと一緒に行かれたらどうですか?とその方が言います。いや、それは早すぎる、と言うと、夏が終わると多くのレストランがバカンスに入るので、就労先が見つからない、と仰る。わかりました、では早川くんと行きます、とぼくは答えて、一月後の渡仏が決まったのです。
 まったく無謀としか言いようのない行動で、それは今でもぼくの最大の欠点でもあるのですが、とにかく慌しく準備に取り掛かりました。
 まず、ボルドーを辞めなければなりません。ただ、ぼくはいずれこの日がくることを見越していたので、ぼくが抜けても調理場はまわるように態勢は整えてありました。だから、シェフもすんなり了承してくれる、と思っていたのですが。
 給料を上げてやる、仕事は後輩の指導だけでいい、だから辞めるな、とシェフが言います。でもぼくが、どうしてもフランスへ行きたいからと訴えると、解った、と言ってくれました。そして、店をやめるその日、大溝シェフが退職金として結構な金額を手渡してくれたことを、ぼくは今でも忘れてはいません。
 父もそうでした。30歳をすぎても無謀な行動を取り続ける出来の悪い息子を常々苦々しく思っていたはずなのですが、やはり渡航する前夜に大金を手渡してくれて、死ぬ気で頑張ってこい、と励ましてくれたのも、今では遠い思い出です。

 そうして早川くんとぼくはフランスへ向かいました。二人とも不安でいっぱいだった。たいして言葉も喋れない、1軒目のレストランは無給が条件、その後はあてもなく、航空券は片道だけでビザは観光ビザだけ。
 パリに着いて、ぼくたちは別れて、それぞれの就労先に向けて出発しました。でも、寂しくなったら、お互いに電話もしたし、ときには一緒に食事にも行きました。ポール・ボキューズやタイユヴァンなどなど。彼には随分、助けてもらいました。そして、ぼくはあの手この手で合計3軒のレストランで働き、もういいか、ということで帰国して。
 あれから、もう30年近くが過ぎました。

 早川くんは帰国後、「パリの食堂」というビストロを開いて日本中にビストロブームを巻き起こし、10年間で3店舗を経営する大成功を収めました。そして、何故かレストラン業から突然撤退、レストランのプロデュース業に転進し、今では、デパ地下スイーツの展開で、やはり大成功。畏敬の念を抱かざるを得ません。
 その彼が、先月の、うちの25周年ディナーに来てくれました。久しぶりにゆっくりと話すことができて、その席上で、ぼくは彼にこう伝えました。「あの夏の日、君がボルドーに来なかったら、今のオレはない。そういう意味では、キミにはこころから感謝している。」と。すると、彼も言います。「道野さんが、ぼくの店にマスコミの取材いっぱいひっぱってきてくれたから、ぼくは成功しました。」。でも、それはきっかけに過ぎないとぼくは思っています。その後の大成功は彼の努力の賜物以外の何ものでもないから。
 しばらくして、彼が思い出したかのように、こう言い出しました。「道野さんは、もう一つぼくに良いことをしてくれたんですよ。」。その内容は、
 彼がレストラン業から撤退するきっかけは、ぼくの料理だったというのです。

 早川くんが1年だけの営業で閉店させた最後の店は、これまでのカジュアル路線から脱却するとても優雅なレストランでした。でも、採算があわなかったらしい。それで悩んでいたとき、ぼくの店に食事に来たそうです。そして、これまで自分は料理が好きだと思ってやってきたけれど、この人に比べるとそれほどではない、ということに気づいてしまった、のだそうです。だから、すっぱりやめる決心がついたんです、と彼は笑って言いました。
 それを聞いて、ぼくはちょっと困ってしまいました。それって、いいことなのか悪いことなのか判断がつかなくて。でも、あれがよかったんです、だからぼくの今があるんです、道野さんのおかげです、という言葉を聞いて、そうか、世の中にはそういう関わり方もあるのかと思って、面映いながらも、妙に清清しい気分になりました。
 ぼくもどうやら、曲がり角の道先案内人であったようです。

 そうして、ぼく達はみんな、いろんな人たちとの出会いに導かれて、今、ここにいるのでしょう。それならば、よりよき方向へ人を導ける人間でありたいと、ぼくは思うのです。そのためには、自分自身がまっすぐであらねばならない。ちょっと道徳の教科書っぽくなってしまいますが、そういうことなのではないでしょうか。

 あ、思い出した。フランスで、早川くんに貸してあげたセーター、返してもらってないな。もうとっくに失くしてるだろうな。でも、先日のディナーのときに随分立派なお花をいただいたので、もう帳消しにします。
 ハヤカワ、これからもよろしくな。
 
by chefmessage | 2014-10-19 17:40

25年目の述懐


 以前、何かの雑誌の対談記事で、フランスのレストラン「レスペランス」のマルク・ムノー氏がこんなことを言ってました。「ひとつの道を究めることができたら、いろんなことがわかるようになる。方法論は、どの分野でも似通っているものだから。」。
ぼくは自分がひとつの道を究めたとは思っていないけれども、彼の言わんとすることは解るような気がします。自分の中にぶれない軸があれば、色んな事象を客観的にとらえることができると思うからです。ぼくは今の仕事に就いて以来ずっと、様々な出来事を、料理人という目で見て、分析し、捉えてきました。
 だからと言って、ぼくは自分の子供に、ぼくと同じように料理人になってほしいとは全く思っていません。こんな辛い仕事をさせたいとは思わない。何より、その労力に値する経済的恩恵を受けることができない、というのは、生きていくうえで、とても厳しいことだから。彼等は彼等で、自分の道を見つければいいのです。
 でも、ぼく自身は、この仕事に就いて「救われた」と考えています。

 ひたすら我の強かったぼくは、子供の頃から問題児でした。容易に人の説諭を受け入れない頑なさも持ち合わせていたから、いろんなところで衝突を繰り返していました。ちょっと難しい家庭環境も作用していたのでしょう。ぼくはいつもそんな自分を持て余していました。「自分とは何なのか?」あるいは「何のためにこの世に生を受けたのか」がわからなくて、いつも自問自答を繰り返して、一時期はほとんど学校にもいかず、手当たり次第に本を読むだけの生活をしていたこともありました。このままでは答えは見つかりそうにない、そう観念したぼくが大学卒業と同時に「料理人」の世界に飛び込んだのは、当時のぼくにとって、料理がまったく縁のない世界だったからです。ぼくは自分にとって不可能としか思えない世界に敢て身を置くことで、自分自身を「固定」しようとした。そして、何度も放棄しようとする心をなだめすかしながら、明日へとかすかな希望を繋ぎながら、ぼくは自分の軸を作っていきました。
 やがて、ぼくは「料理人」になった。
 すくなくとも、モノを作る、ということに関してはプロの目を持つことが出来るようになったと思っています。すなわち、良いものと悪いものの違い、まがい物と本物の違いを少しは見極められるようになりました。それは料理の世界のみならず、他の分野においても多少は有効であるようで、そのことでぼくは随分と精神的に楽になりました。だから、
 ぼくは料理に出会って救われた、と思っているのです。
 でも、気がついたら独立してから25年がたち、ぼくは60歳になってしまいました。残念なことに、ぼくの料理人生命は残りわずかになってしまいました。でも、残りわずかになったからこそ、大事にしたいとも思っているのです。

 以前、このブログにも書いたことですが、今年の3月に、たくさんの料理人に還暦のお祝いをしてもらいました。ほんとにたくさんのシェフたちが持ち出し覚悟で料理を提供してくれました。そして、終盤、ぼくが挨拶をし終わったとき、全員が集まってぼくを胴上げしてくれました。それは、まったく予定になくいきなり自発的に始まったのですが、全員が純粋にこころからぼくを持ち上げてくれているのを感じて、ぼくはこころに誓ったのです。こんなに多くの料理人が自分の将来をぼくに見てくれているのなら、ぼくはもう後には引けない。必ずもう一花咲かせてみせる、と。

 先週のことですが、ある雑誌の取材で、現代スペイン料理「アコルドゥ」のシェフ、川島宙君と対談する機会がありました。お互いの料理を2品ずつ食べて、その感想を述べ合ったりして、本当に有意義で楽しい時間を過ごしたのですが、最後に川島君がぼくにこう尋ねました。「シェフ、どこまで行くんですか。」。ぼくは答えました。「行けるところまで。」。
 でも、ぼくはどこかに辿りつけるとは思っていません。ぼくはこころざし半ばで力尽きるでしょう。それはそれでいいのです。料理に到達点なんてないのだから。

 昔読んだ夢枕獏の小説で、こんな伝説が挿話として紹介されていました。年に一度、晴れた日に、エベレストの山間を鶴の群れが渡っていくことがある、それを目にする幸運に恵まれた者はほとんどいない。
 それを読んだとき、その光景がありありと目に浮かびました。真っ白な静謐の世界を、白と黒と赤を纏った生き物が移動している。羽ばたきに風は鳴っているか、たがいに啼き交わす声は響いているか、あるいは、荘厳な山の気配がそれらすべてを吸い込んで、沈黙と光のみが世界を支配しているか。
 見れるものなら見てみたい。でもそれは、山頂に身を置いては見ることは叶わないのです。山頂にあるのは、ただ茫々と空。だったら、ぼくは途上で息をこらしてそれを見てみたい。

 25年は、アッと言う間だったような気がします。でも、ぼくにはまだ行く道があります。ぼくは料理人になってよかったと思います。そして、最後まで料理人であることを願っています。
by chefmessage | 2014-09-15 15:57

北帰行

7月とはいえ、日本の北の端では午前3時過ぎに空が白み始めるのです。

 午前12時30分に旭川を出発した怪魚ハンターS君の車は、まっしぐらに北へ向かいました。7時間半の長旅のあと、ジンギスカン食べてやっと一息ついたばかりのぼくは、後ろの席でウトウトしています。前の席では、旭川のジャイアンこと、ビストロメランジェの河原くんとS君が、釣り場の検討をしています。どうやら目的地は、稚内に近い、幻の魚イトウの聖地、あのS川らしい。その名を聞いて、居眠り半分のぼくはニンマリします。でも、しばらく雨が降っていないから川の水量がどうのこうの、潮の廻りがよくないから云々。窓の外は天気予報に反して霧雨。どうもコンディションは良くないみたいです。でも、それは仕方のないことです。普段は大阪にいるぼくが、北海道で釣りに費やせるのは1年のうちでたった1日だけ。それも、変更の効かないその日限り。大雨でないだけ僥倖とするべきでしょう。
 そして最初の釣り場に着いたのが3時半。もう夜は明けています。着替えて、道具を用意してポイントに向かいます。そこでS君のいきなりの嘆きの声。「網が入ってます。これでは釣りにならない。」。
 そのポイントは河口でした。イトウはサケ科なので汽水に順応できます。海でも近海なら生きていけるのです。さきほど車中で二人が話していた潮廻りが、これに関係しています。潮廻りが良ければ、降海して餌をいっぱい食べて成長した魚が、また川に戻ってくるのです。そのサイズは陸封型よりも大きい。1メーターを超えるものも多い。今回はそれを狙おうという目論見だったのですが、河口にサケ捕獲の網が入っていたのです。
 これは北海道にはよくあることなのですが、サケが繁殖のために遡上する季節になると、河口をふさぐような形で網を入れます。あえて川上に行かせないで、河口で捕獲するのです。なぜなら、遡上しても産卵に適した場所がなかったりするから。
 治水のためにという名目で、堰堤(堤防)を作るとサケはそこから上流には行けません。また、本来は曲がりくねった流れをまっすぐにしてコンクリートの護岸にしてしまうとプランクトンが発生しないので稚魚が育たない、だからサケは産卵しません。すなわち。
 人間の都合で、多分に政治的な駆け引きで、北海道の多くの川はサケが自然産卵できない場所になってしまっているのです。だから河口でサケを捕獲し、水産試験場で人工受精させて、産まれた稚魚を海に戻しているのです。そうしないと、北海道にサケは帰ってこなくなる。イトウが幻になったのも、同じ理由です。イトウの場合は保護するシステムがないから、姿を消すしかなかったのでしょう。

 その網が予想よりも1ヶ月早く設置されてしまっていて、絶好の釣り場所の範囲が狭められているからS君は嘆いたのです。その距離わずか15メートル。それでも、とにかく攻めようや、ということでぼく達は分散してキャスティングを始めることになりました。S君が、一番いいポイントをぼくに譲ってくれます。聞けば、過去にその場所で彼はメーター超えをあげているとのこと。胸が高鳴ります。そして第一投。
 不思議なもので、釣りは、第一投でいきなりヒットすることが多い。巨大な針の付いたルアーが着水します。底につくまでしばらく待ってリールを巻き、ゆっくりと引き始める。残念ながら一発目は不発。2度目、3度目、4度目、そして5度目にさお先が2回大きく振れました。すかさずあわせると、グイっときた後、プツンと音をたてて糸が切れました。

 釣りの仕掛けは、リールに巻いて伸ばした道糸、その先に短いテグス(リード)をつけてルアーをセットします。道糸は縒り糸、テグスは強化ナイロンなのですが、今回は道糸にかなり強いものを使っていたためリードをつけず、直結でルアーをセットしていたのです。それをイトウの歯で切られてしまった。イトウは肉食なので、尖ってはいないけれど頑丈な歯を持っています。ルアーを咥えたときの角度によっては糸が擦り切れたりする。巨大な針を折ることもあるのです。
 油断していました。強力なリードをつけていたら、あるいは。

 その後、日が暮れるまで、何度か場所をかえてぼく達はロッドを振り続けました。さすがに昼食後は仮眠をとったけれど、それ以外は黙々と。
 藪をかき分けて川辺に下ります。あるいは流れの中に腰近くまで入って目指すポイントにルアーを投げ込みます。ウグイスが鳴きます。カワセミが飛んできます。時々、雁の編隊が上空を横切ります。位置をかえて、また投げ。
 河原くんやS君の、ロッドの風切り音がビュッと響きます。またウグイスが鳴き。それ以外は、ひたすら、川と空と緑と。
 結局、釣果は、S君が80センチ超を一尾かけて面目を保ちましたが、ぼくと河原くんはノーヒット。帰路、S君が「すみません、ぼくの修行不足です。」としきりに詫びを入れます。でも、そんなことは全くない。ぼくはイトウに関して、彼以上の釣り人はいないと思っています。その知識の豊富さ、知るポイントの多さ、そしてその技量。一度、手を休めて彼の釣り姿を眺めていたのですが、しなりを利用して、遠くのポイントに狙い通りにルアーを投げ入れるロッドのさばき方は、芸術的とも言える素晴らしさでした。ぼくはむしろ、彼が苦労して開拓したポイントをぼくに惜しまず教えてくれることにこころから感謝しています。
 そして、至福のときは終わりを告げました。

 いつか1メーターを超えるイトウと出会いたい。その願いは来年に持ち越されました。でも、それでいいのです。1年でたった一日でいいのです。自然の中に入り込んで、幻の魚を追い求める。ただ黙々とルアーを投げる。
 その一日があるから、ぼくは日々の戦いをしのいでいける。苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、寂しいとき、こころに浮かぶ風景があるかどうか。
 ぼくは多分、そこで小さな自分を感じているのでしょう。それと同時に、おおきなものに包まれていることも。
 生きることが戦いであるならば、それは自分との戦いに他ならず、でも、その自分の本来の姿を知ることができれば、ぼく達は心置きなく力尽きるまで挑むことができる。そういうことではないか。

 釣りの翌日は、河原くんのお店で、ぼくのフェアをさせてもらいました。そして多くのお客様に、また来て欲しいと言われました。ぼくにまだ来年があるならば、是非、また来たい。その日まで、ぼくは不撓不屈であろうと思います。
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by chefmessage | 2014-07-16 20:28
今年の3月にあったぼくの還暦パーティーに、たくさんの料理人が料理を提供してくれた話は以前に書きましたが、ぼくの親友である横山淳くんもその一人でした。
 実は、彼が「自分も料理を出したい」と言った時、ぼくは断ろうと思ったのです。というのも、彼は腎臓が悪くて、週に3日透析をしないといけないことを知っていたから。そのため通常の仕事を続けることができず、やむなく自分のお店を閉めざるを得なかったということも。
 横山くんの気持ちはとてもありがたいけれど、無理をさせることはできません。だから、顔をだしてくれるだけで充分だからと、ぼくは伝えたのです。でも、彼はさせてくれ、と言います。それなら、お言葉に甘えさせていただきます、ということになりました。
 そして当日、彼は真剣な表情で、でも楽しそうに料理を作ってくれました。それは実に細やかな、愛情あふれる料理で、ぼくはこころから感謝したのですが、そのとき横山くんは、ぼくにこう言いました。「ミチノさん、料理を作る場を与えてくださってありがとうございました。」。ぼくはその言葉で、彼の気持ちを理解しました。
 横山くんは料理を作るのが本当に好きなんだ。重い病気も彼のその思いを消すことができず、むしろ病気になったことで、彼は今まで以上に料理に対して真摯になっている。それなら、
 「横山くん、一緒に料理作ろか。」。
 そして、ぼくの店で横山淳、道野正コラボフェアの開催が決定したのです。

 料理の分担を決め、日時も決定しました。サーヴィスに、ソムリエールでもある横山マダム、千晴さんも参加してくれることになりました。案内を始めたら、わずか数日で開催予定の二日とも予約で満席に。もう後には引けません。

 横山くんが泣き言いいます。「すごいプレッシャーで、ぼく、眠れません。」。千晴さんは「わたし、できるでしょうか?」と心配しています。その度に、ぼくは答えます。「だいじょうぶだ~。」。
 ぼくも決してこころ穏やかだったわけではありません。でも、ぼくが動揺すると折角のフェアがこわばったものになってしまう、だからぼくは勤めて明るく振舞っていたのです。でも、ぼくにも余裕があったわけではありません。というのも、ぼくは今回のフェアで、今まで頑なに避けてきた料理を再現しようと決意していたから。
 イカを巻いたラパン(ウサギ)のファルス、カカオのソース!

 15年前にこの料理を作ったとき、もうこれ以上は進めない、進んではいけないとぼくは自分に言い聞かせました。ここより先の領域に踏み込むと、ぼくの料理は誰にも判断がつかないものになってしまう。なによりぼく自身が壊れてしまう。
 それでなくても、開業以来10年の疾走で、ぼくの力は尽きかけていました。自分なりに考えられることは、すべてやりつくした、そんな思いが強かったし、精神的にも限界だった。だから、ぼくはこの料理を境に、もっと一般的に受け入れられるであろう方向に舵を切ったのです。そして、それ以後の15年間、ぼくは迷走しました。
 謂わばこの料理は、自己保身のための結界だったのです。孫悟空の行き着いた巨大な柱、釈迦が拡げた掌の果て。でも、ぼくは今回、敢てその領域に近づこうと考えました。それくらい真剣じゃないと、病気になっても尚、料理への情熱を失わない横山くんに対して失礼だし、彼の励みにもならない。まず自分が勇気を奮い起こして、このフェアを成功させるために全力を尽くそう。そしてぼくは、綿密に設計図を書き、試作を繰り返し、決意を形にしました。あとは、どう評価を受けるか、だけ。

 アミューズは5種類。横山くんの世界が広がります。
 一つ目のオードブルは、カツオと三元豚のシンフォニー。カツオのマリネから始まって、進むにつれ、煮込みやローストにした豚肉がカツオに添って味わいを深めていきます。横山くんの独創が功を奏して、お客様の感動を呼びます。
 二つ目のオードブル。直前まで泳いでいた琵琶湖の稚鮎を揚げて、川に見立てたキューリとキューリの泡に乗せ、鮎が遡上する姿を再現。これと次の鮎のリエット、ティラミス仕立ては道野。続いて魚料理は横山くん。
 魚に見立てたレンコンのステーキに、鱈のすり身のブランダードをかけるというトリッキーな技。見事です。
 そして、道野の件の料理。
 デザートは、うちのマダムが生産地まで足を運んで選んだ愛東メロンのテリーヌ。

 千晴マダムは、ずっとうちの店で働いているように見える落ち着きぶりで、ひさびさに彼女と会うお客様方もすっかり満足でくつろいでおられます。ため息と感嘆と笑顔と。幸福感が店に充満しています。
 大受けやな、横山くん、大成功や。
 そして、お客様のリクエストの多さに、年2回の開催をお約束して、二日間の饗宴は終わりました。
 横山くんは、本当にうれしそうだった。かなり疲れただろうけど、それを上回る成果があったはずだと思います。
 そしてぼくは、
 お釈迦様の掌を超えたと思います。ぼくは自由になれた気がします。その手助けを横山くんがしてくれました。

 できることとできないことと。でも、できないことのいくつかは、いつか出来るようになるのでしょう。大切なことはあきらめないこと。
 ぼくは、横山くん、千晴さん、このフェアに来て下さったすべてのお客様に感謝したいと思います。
 ありがとうございました。半年後に、また会いましょう。その時、ぼくと横山くんがどれだけ進歩しているのか。
 横山くん、オレ達の戦いはまだこれからやで。
 
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by chefmessage | 2014-05-20 16:46

映画のような話

 これはフェイス・ブックにも投稿した話なので、それを目にされた方には内容が重複することになるのですが、どうしても詳細が書きたくなったので、よろしければ今一度お読みになってください。

 それは40年くらい前のこと。ぼくには親友がいました。彼は成績もよく、明朗快活で学級委員タイプ、ぼくはといえば、落ちこぼれの不良学生、本来ならば水と油ほど違う高校生だったのですか、何故か気があいました。
 彼は何代か続いたカツラ屋の一人息子で、当時心斎橋のど真ん中にあった彼のお家、というかビルに、ぼくはよく泊まりに行きました。
 一階の作業場では、彼のお母さんが職人さんたちとカツラを作っています。カツラといってもいわゆるウイッグではなく、時代劇の女優さんがかぶっているいるような本格的な日本髪のものです。入り口の扉を開けて、彼が大声で「ただいま」と言うと、彼のお母さんが「お帰り!」「ごはん食べといで」と、元気に言い返します。カバンを放り込んで、ぼくたちは意気揚々、街に繰り出します。そして、お好み焼き、ハンバーグ、それからカツサンド、最後にコーヒーと、食べ物屋さんのハシゴをします。とにかく、二人ともよく食べた。いずれも心斎橋の名店なので、どこの料理もおいしかった。ただ不思議なことに、どの店でも彼はお金を払わないのです。「ごちそうさん。」と言うだけ。そして、「次、行こか。」。
 「お金、払わんでエエのか?」と聞くと、「ツケといたらエエねん。」と言います。ぼくは呆気にとられました。そして、老舗の持つ底力に畏怖しました。
 彼の部屋に戻って、夜遅くまで馬鹿話をして騒ぎました。本当に彼との付き合いは楽しかった。それは、ぼく達が別々の大学に進むまで続きました。
 それから数年たって風の噂に、彼が大学を中退したと聞きました。しばらくして、気になったぼくは心斎橋の彼の実家を訪ねたのですが、そこは何故か中華料理店になっていて、どう見ても、彼の家族が住んでいる様子はありませんでした。そして、彼の行方は、誰に聞いてもわからなくなった。
 いったい彼はどこに行ってしまったのか。どこで、どうして暮らしているのか。ぼくはずっと気になっていました。これほど探しても見つからないということは、もう彼は亡くなっているのではないか、とさえ思っていたのです。

 ある日、フェイス・ブックに友達リクエストがひとつ入っていて、それは彼とはまったく別の、でも同姓の人でした。その時、ひょっとしたら、とひらめいたのです。あるいは彼もフェイス・ブックをやってるんじゃないか。ダメもとのつもりで検索しました。すると・・・
 まぎれもなく彼が、美しい金髪の女性と並んで写真に写っています。ぼくは思わず叫びました。「おい、見つけたぞ!。」。

 スタンフォード大学卒業、エマーソン・カレッジ教授!専攻は生物統計学。
 うそやろ。大学教授ということはPh.D(博士号)もとっているのでしょう。スタンフォードもエマーソンも、ともにアメリカの超名門校です。驚きました。死んだとさえ思っていたのに。
 すかさずメッセージを送りました。翌朝、返ってきた返事に、涙が出たとありました。うれしくて眠れなかったとも。
 そして、ぼくは悟ったのです。彼は行方不明になったのではなくて、日本にいる友人達と連絡をとる余裕もなかったのだと。すさまじいほどの勉強量だったのでしょう。そうして彼は、熾烈な戦いに勝ち続けてきたのでしょう。日本を振り返るどころか、より深くアメリカという国に溶け込むために、彼はあらゆるものをかなぐりすてて突き進んできたのだと、ぼくは思うのです。
 すごい奴やなあ。

 その彼から、今日、新しいメッセージが届きました。辞書を片手に読みました。
「道野くん、ぼくは今、気がついたよ。きみと過ごしたときに、君が語ってくれたことが、ぼくの人生における心の核になっている、と。ぼくはすべてをいまだに理解しているわけではないが、きみは今でもぼくの師匠だよ。」。おおよそですが、そのような内容でした。
 なんということなのでしょう。確かに、当時のぼくは風変わりな高校生で、わかりもしない哲学書をいつも読みかじっていました。そして、自分とは何か、ということをいつも考えていました。例えば、人間は水の入ったコップなのではないか、とか。
 体は入れ物であり、そこに様々な価値判断の基準という水が注ぎこまれているとするなら、それらはどこから来たのか。それは、自分で選んだものか、それとも他者が強制的に詰め込んだものか。ならば、すべての価値判断を放棄すれば、本来の自分を発見できるのか、などなど、まあ、そのようなたわいもないことです。
 多分、そのころのぼくは、そんな愚にもつかない論議に夢中だったのでしょう。そしてぼくは、結局、料理人になりました。自分とは何か、ではなく、何になるべきか、という答えを求めて。ぼくも未だに全てを理解したわけではありません。だから、彼に師匠などと言われると、本当に困ってしまいます。

 でも、ぼくは彼と再会できて、ひとつだけわかったことがあります。ぼくは、最後まで料理そのもので勝負するべきなんだ、ということ。
 レストランの成功は、場所であるとか、雰囲気であるとか、あるいはサーヴィスにあるとか。それ以上に、不可視な、運というものに左右されるというのが、多くの人たちの結論です。でも、運なんて、それこそ雲をつかむような話です。だから、
 彼が、どんなときもひたすら自分を信じて、一歩一歩登りつめてきたように、ぼくも自分の力量と才能を信じて、料理というたった一つの武器で、正面から最後の戦いを挑むべきなのでしょう。

 Prof,Satake You are great,my best friend.
勇気をありがとう。きみの懐かしい大阪で、会える日を楽しみにしているよ。


 
 
by chefmessage | 2014-04-18 18:37

還暦だから武者修行

 1年以上続いた奈良での仕事を終えて、解放感でいっぱいの春です。
 週に5日、早起きして豊中の自宅から車で自分の店に向かいます。仕入れがある場合は、いつもの豊南市場に寄ってお買い物。店に荷物を降ろして、近くに借りているガレージに車を入れ、JR環状線で鶴橋へ。そこからは近鉄です。大和八木の次の駅、耳成まで。
 この近鉄がなかなか曲者で、特急に乗る場合は乗車券とは別に特急券を買わなければなりません。これが結構高くて、毎日だと馬鹿にならない。でも、特急優先でダイアが組まれているから、時間を節約しようと思えば乗らざるを得ません。でも、もっとストレスがたまるのが、土曜・日曜。周りは、伊勢神宮や志摩・賢島に出かける旅行者ばっかりなのです。みなさん、旅への期待でうきうきしています。笑顔であふれる観光列車。その中でひとり、仕事に向かうわたし。なんでヴィスタカー(2階建ての客車。小学校の修学旅行以来です。)乗って働きにいかなあかんねん、と、はなはだ気分がよろしくない。このまま宇治山田まで行って、伊勢のボンヴィヴァンで食事したろか、と何度思ったことか。
 帰路は逆の道程で自店に戻り、夜の営業に従事します。本当に時間に追われる毎日でした。だから、指折り数えて終わる日を待ちました。収入が減って、経済的にかなり苦境に立たされるのは明白で、はっきり言って恐怖ですが、それでも待ち遠しかった。そして、ぼくは解き放たれました。

 はらはらと満開の桜から花びらが散り、春風に舞っています。この季節になると、いつも坂口安吾の「桜の満開の下で」を思いおこします。桜の根元には魔が潜んでいる。その魔にそそのかされるように、ぼくは旅に出たくなります。人生の再出発である還暦も迎えたことだし。
 よし、とぼくは自分に気合を入れます。武者修行に出たろ!
 自分の世界を構築し、それをいかに進化させるかだけでぼくは半生を費やしてしまいました。人生も残り少なくなってしまった。それなら、これまで得たものの真価を世に問うてみよう。だから、ぼくは今、いろんな料理人にコラボレーションのフェアをさせてくれるよう申し入れています。ベテランもいれば若い人もいます。フランス料理、イタリア料理、洋食に和食。道場破りの気持ちで挑みますが、あえなく返り討ちにあう危険性もある。それでも。
 何かを得て、そこから生まれたものを返し、さらに何かを得て、また返し。そのようなことが、呼吸するように自然にできたなら、ぼくは更なる高みへ自分を導けるのではないか。

 まず第一弾は、元プログレヨコヤマの横山淳くんと。
 彼がアミューズ、オードブル一品、魚料理を担当し、ぼくがオードブル一品、メインの肉料理、そしてうちのマダムがデザート担当。サーヴィスはうちの原と横山千晴さんが行います。
 横山くんは現在、腎臓病で透析を受けており、週の半分しか仕事ができません。そのため、自分のお店も閉めざるを得なかった。でも、彼はやはり生粋の料理人です。その創作意欲は病を得ても衰えをみせてはいません。むしろ、内圧は高まっているように見受けられます。相手に不足はありません。ともに前衛を自認してきたふたりです。いい仕事ができるのではないかと思っています。

 還暦パーティーのときの挨拶で、ぼくは「もう一花、咲かせてみせます。」と言いました。それを実現するために、ぼくは一歩踏み出そうとしています。どうかみなさん、応援してください。ぼくもまた、なにかをみなさんにお返しできるようにがんばるつもりです。
by chefmessage | 2014-04-02 18:17
 どうしてこんなことになったのか、よくわからなかったのです。
発端は1年くらい前。
神戸のルセットというレストランで、東京の杉本敬三(ラ・フィネス オーナーシェフ)と彼の義理のお父さんとぼくの3人で食事をする機会がありました。食後、ルセットの依田シェフを交えて雑談していたとき、敬三と依田くんが、ぼくの還暦パーティーをしようと言いはじめたのです。
 ぼくは、自分のために人の手を煩わせることが基本的に好きではありません。それに、できれば誕生日はそっとしておいてほしい。というのも、ぼくには二つ違いの弟がいて、彼とは誕生日が同じで、彼が35歳、ぼくが37歳になったその当日に彼が急死するということがあったから、それ以来、ぼくは自分の誕生日は速やかに過ぎていってほしいと願うようになったのです。だから、ぼくはあまり乗り気ではありませんでした。
 それに、実際問題として営業を休まないといけない店もあるだろうし、義理で参加してもらうというのも好ましくないから、そんな理由を述べ立てて、ぼくは彼等の申し出を頑なに固辞しました。
 でも、本音を言うなら、人が集まらないのではないか、と危惧したのです。一生懸命彼等が動いてくれても、実際に人が集まらなければ彼等をがっかりさせてしまう。それになにより、ぼく自身が寂しくなってしまう。
 何度も書きましたが、ぼくは一世を風靡した人間です。その時代のことを覚えていて、ぼくを尊敬してくれている料理人もいないことはない。でも、ぼくはこころのどこかで、自分を過去の人だと思ってここ何年かを生きてきました。
 自分の役割は終わった、もう自分に居場所はない、そう思わざるを得ない状況に陥って、本当に辛かった。でも、このままでは死んでも死に切れないと思ったから、少しずつ少しずつ自分の仕事のブラッシュアップをはかり、やっと出口が見えてきた、と思っていた矢先なのです。ここで再び辛い現実にさらされてしまったら、ぼくはもう立ち上がれないのではないか。そんな気配を察してか、彼等からその話題が出なくなって、ホッとしていたら、それから数ヵ月後。
 依田シェフからメールが届きました。道野シェフ還暦大祝賀会は3月16日に決定しましたので、よろしく云々。
 場所、時間、おおまかなプランが出来上がっていました。参加者の顔ぶれも。もうやるしかないな、とぼくも腹をくくりました。そして、いろんな方に声をかけ始めて。
 結局、当日料理を持ち込んでくれることになったのは。

ルセット(仏、神戸)依田英敏
ラ・フィネス(仏、東京・新橋)杉本敬三
ラッフィナート(伊、芦屋)小阪歩武
ダ・ジュンジーノ(伊、大阪)八島淳次
テツヤ・イシハラ(仏、大阪)石原鉄哉
アルテ シンポジオ(伊、夙川)荻堂桂輔、紀里
レストラン ヨコオ(洋、大阪)横尾淳
プログレ ヨコヤマ(伊、大阪)横山淳
ビストロ リッペ(仏 豊中)中尾匡宏
ドゥ アッシュ(仏、大阪)中田貴紀
クードポール(仏、大阪)田中悦男
ラ・ブリーズ(仏、大阪)北川達雄
パトゥ(仏、神戸)山口義照
ギュール ル モンテ(仏、神戸)赤田裕弘
ラ・ルッチョラ(伊、大阪)鈴木浩治
迎賓館(仏、吹田)中村実
アンティーク(仏、神戸)大町誠
ポルト バル ノット(仏、神戸)江見常幸
メランジェ(仏、北海道旭川)河原正典
オマージュ(仏、東京・浅草)荒井昇

バースデイケーキ提供
なかたに亭(大阪)中谷哲哉

パン提供
サマーシュ(神戸)西川功晃
スタイルブレッド(群馬)橋本拓哉

焼き菓子提供
ビレロイ&ボッホ 雲切みどり

トマト提供
脇田章吉良

キムチ提供
龍岡商店 龍岡弘満

サーヴィス補助
オルフェ(仏、神戸)三木丸

調理補助
ル・ベナトン(仏、夙川)高谷慶
    【順不同】


そして、チェロ奏者の庄司拓さんと、ぼくの同級生の二階堂公雄くん率いるジャズトリオが演奏を披露してくれることになって。

 ぼくは途中でおそろしくなってきました。ゲストも100名を超えそうです。
なぜみんな、そこまでやってくれるのか。イタリア勢は、八島親分が若手に檄を飛ばしています。フランス勢は、当日多忙で出席できない人たちも料理を作って出してくれるという。もうやめてくれ、オレはそこまでしてくれるほど立派な人間じゃない。どうお返しすればいいのかもわからないから、もうやめてくれ。何度も何度もこころで叫びました。
 でも、勢いがついて止まらない。日が近づくにつれてみんなのテンションがどんどん上っていくのがひしひしと感じられて。
 そして、その日がやってきました。
 何人もの錚々たる料理人たちが一斉に動いています。その光景は力強く圧巻です。現場のみなさんも気持ちよく協力してくれている。石原くんが、荻堂くんが、横山くんが、大町くんが、生まれたばかりの赤ちゃんを寝かしつけた荻堂マダムまでもが料理を盛っている。その合間を、調整役の小阪くんが走り回って。
それはまるで、オーケストラの音あわせみたいに気迫に満ちている。エネルギーが大気に充満している。
 やがて、バンケットルームに出来上がった料理が並びはじめ、ゲストが次々到着し、大久保かれんさんがマイクを握り、二階堂くんのベースがBGMを奏で・・・。
 料理をサーブする料理人も、それを食べるゲストのみなさんも笑顔です。驚きの声がささやきから、チェロやピアノやサックスやベースの音を巻き込みながら大きなうねりとなって会場に満ち。
 最後にぼくがご挨拶するころには、場の雰囲気がひとつの方向に収斂され、拍手はなりやまず、全員の気持ちがひとつになって、まるで喜びのエネルギーが川に向かって開け放たれたテラスから、うねりながら天へと登っていくようでした。
 おい、そこから見えてるか?35歳のままの弟に60歳になったぼくは語りかけます。
 会ったときの話題がひとつ増えたな。

 人を喜ばせることに精魂かたむける、料理人とはそういう人種です。なんと純粋なやつらなんだろうと思います。その料理人魂が今回のパーティで、ぼくという支点を得て存分に発揮され、ゲストのみなさんに伝わり、それがまた一人ひとりの料理人に戻され、それぞれに勇気の火種をともした、そう思います。
 天国の扉を開く鍵は、実はみんながその手に握っている。それを知ることができたから、きっとみんなあんなにうれしそうな顔をしていたんだ。

 還暦とは干支が一巡して、振り出しにもどるお祝い、とか。だったら、
オレ、もう一花咲かせることできるよな、とまたぼくは語りかけます。

 昨夜、お集まりいただいた料理人のみなさん、忙しい合間をぬって料理を作って届けてくれた仲間達、そしてゲストのみなさん、本当にありがとうございました。また会いましょう。
 
by chefmessage | 2014-03-18 14:12

天国の扉

 先月の29日に、以前このページに書かせていただいたライターの団田芳子さんの、ファンクラブの新年会が当店で催されました。
 このファンクラブ、正式名称は「団田さんを囲む会」というらしいのですが、とにかく構成するメンバーが錚々たるお歴々で、そのうえ、食にこだわる方ばかり。そればかりか、何故かキャンセル待ちが出るほど参加者が増えて、相乗効果でみなさんの期待感がふくれあがり、結局一人のキャンセルもないまま満席御礼で当日に突入することになりました。
 結構、過大なプレッシャーを感じないわけにはいかなかったのですが、それにまともに応えようとすると我を失って、うわすべりしてしまう可能性があったので、ぼくは平常心で臨むことを念頭においてその日を迎えました。
 そして宴の始まり。
 でも、いざ料理に取り掛かったら、これがなんだかスムーズに流れていくのです。自然なリズムができあがって、それにそって粛々と進んでいく。来たな、とぼくは思いました。
 毎日毎日、料理を作り続けていると、ごくたまにこういうことが起こります。
 お客様の、サーヴィスの、料理人の呼吸がひとつになる。ひとつの方向に、全員の気持ちが向かっていく。歓びがその場にいる全員に等しく共有されて、高まっていく。
 お断りしておきますが、ぼくは決して神秘主義者ではありません。むしろ、宗教的な事柄に関しては人並み以上に客観的です。なにしろ、大学の神学部で「比較宗教学」を勉強していた人間ですから。でも、こういうときには感じるのです。なにか別の力が働いているのではないか、と。
 いろんな偶然が重なり合った結果なのだと思います。でも、その心地よさが、たまに訪れる「祝福された時」が、ぼくの料理人人生を長らえさせているのではないか。
 本来の実力以上の力が発揮される瞬間、それが評価され全面的に受け入れられることへの快感。
 めったにあることではないし、それを期待されても困るのです。でも、だからこそ、やめられへんな、と思ってしまう。今回は幸いにも、それが起こったということでしょう。
 そして、もう一つ、ぼくにとって感動的な出来事が同じ日にありました。

 団田さんファンクラブに、プロのチェロ演奏家の庄司さんという方がおられます。この方が当日、興に乗ってチェロを弾いてくださることになりました。その時、ぼくは厨房にいたのですが、マネージャーの原が、「シェフに聞いていただきたい、とおっしゃってます。」と、ぼくを呼びにきました。早速、ホールに出ると、庄司さんが演奏し始めたその曲は、専門のクラシックならぬビートルズのナンバー「ヘルタースケルター」。
 ぼくと庄司さんはFacebookのお友達なのですが、以前ぼくがポール・マッカートニーのコンサートに行ったときの感想を書いた投稿を読んでおられたのでしょう。その内容はこうでした。
 「ヘルタースケルターを聞いているとき、ぼくは随分前に亡くなった弟のことを突然、思い出しました。音楽好きの彼と聞きたかった。きっと彼も喜んだだろうと思えるほど、それは素晴らしい演奏でした。」。
 わざわざチェロ用に編曲してくださったのでしょう。庄司さんの「ヘルタースケルター」は見事で、圧巻でした。背筋がぞくっとするほど。
 そして、その時もぼくは思ったのです。おい、聴いてるか?やっぱり音楽はエエよな。
 もちろん、ぼくだけのために演奏してくださったわけではないと思います。でも、うれしかったな。
 
 楽器を演奏すること、料理を作ること、ともに小さな仕事だとぼくは思います。本来、大量生産できるものではありません。ごく限られた人数に対して、一期一会で提供するもの。決して生産的な仕事ではないし、経済的な効率もはなはだよろしくない。
 でも、演奏家も料理人も、一生の仕事としてそれに懸命に取り組みます。誰かに命令されて、あるいは仕方なくてするものではありません。ただひたすら努力をする。なぜなら、努力すればするほど、人を感動させられると考えているから。

 ぼくは家族をこころから大切に思っています。友達も大事にしたい。でも、やっぱり、人は一人で生まれて、一人で死んでいく。そればかりはどうしようもないのです。
 だから、せめて生きているあいだは、いつも他人と良いかたちで関わっていたい。そして、励まし、励まされたい。そのために、ぼくたちは優れた演奏家や料理人でありたいと願っているのです。自分が、人を感動させられる手段を持っている、それがぼくたちの誇りだから。

 ぼくは庄司さんの演奏で大いに励まされました。感謝の言葉をいくつ並べても足りないくらい。そして、あの日、ぼくも同じく、集まったお客様を勇気づけることができたと思っています。
 天国の扉をいつも開けれるわけではありません。でも、この手にぼくは鍵を握っている、そう実感できた一夜でした。そして、そう感じることができたのは、あの日、ぼくの店に集まってくださったお客様全員のおかげだったと思います。
 ありがとうございました。次は、もっといい料理が作れるように頑張ります。
 
 
 
 
 
 
 
 
by chefmessage | 2014-02-09 11:44

地図のない旅 3

先日、親友の山口くんから予約の電話がありました。彼は、神戸のレストラン「パトゥ」のオーナーシェフです。是非、ぼくのお店に行きたいという女性がいて、その方と食事に伺いたいのですが、ご都合はいかがでしょうか。どうぞ、どうぞ。すると、その女性はミチノさんの知り合いです、と言う。しかも妊娠中と言う。誰?と尋ねても山口くんは答えてくれません。その日のお楽しみ、ということで。・・・なんか、気になるなぁ。

 そして、その日がやってきました。果たしてその女性とは・・・前にブログに書いたこともある、大阪は新町のフランス料理店「バレンヌ」のオーナーシェフ、木村圭子さんでした。お腹はまん丸。聞くと、もうすぐ生まれる、とのこと。
 そういえば、彼女から葉書が来ていたのを思いだしました。1月より3月まで、出産のため休業、4月より営業再開。彼女、いつの間に結婚したんやろ、それよりも、その勇気に驚きました。素直に、エライなあ、と。
 彼女の料理は、今風ではありません。でも、着実なフランス料理です。そして何より、フランス料理が大好き、という雰囲気が横溢していて。それが、山口くんと共通している。
 その彼女、出産にあたっては随分反対されたそうです。子供を産むなら店は閉めるべきだ、とか、どっちつかずで料理がおろそかになる、とか、子供産んで育てる片手間に店なんかするな、とか、あげくのはてに、子供がかわいそうだ、とか。
 そういうことを言うのは、主に同業者だったというのを聞いて、ぼくは非常に腹立たしく思いました。同業者なら、むしろこぞって応援すべきではないのか、と。

 近頃はどこのレストランでも女性の従業員が多い。調理師学校でも、女性の比率は、かなり高いはずです。うちの店でもスーシェフは女性です。5年勤めてくれていて、この頃は、随分頼りになる存在になっています。結婚しても、子供うまれても、うちの店は辞めんといてね、とお願いしているくらい。
 でも、実際は、多くの女性の調理師が、あるいはサーヴィスやソムリエールの仕事をしている人たちが結婚を期に辞めていきます。ぼくはそれが残念でならない。確かに時間は長いし、肉体的には辛い仕事かもしれません。でも、才能ある人たちが去っていくのを見送るのは悲しいもんです。
 だから、木村さんの勇気にぼくは感動すら覚えたのです。
「店を子供みたいに大事にして育ててきたら、ほんとに子供が出来て、でも、どっち取るって言われても、どっちも捨てられないじゃないですか。」。その通りだとぼくは思いました。彼女がお手本を示したら、日本における女性シェフが続々誕生ということになるかもしれない。ぼくはそれは本当に素晴らしいことだと思います。うちのマダムに聞くと、出産後の体調は人それぞれだから、あんまり頑張れなんてプレッシャーかけてはいけない、ということでしたが、それならそれで、方法を探せばいい。ぼくにできることなら、精一杯力になりたい。
 ここにも地図を持たない旅人がいる。ぼくは、彼女と知り合いであることを誇りに思いました。

 事前の電話で、妊娠中なので生ものは避けてください、と山口くんに言われていました。こちらもそのつもりで、料理には気配りをしました。でも、ヴォリュームは変えませんでした。なぜなら、山口くんが大食いで、彼女が持て余したら、彼が食べるだろうと考えたから。料理はすべて山口サイズ(通常の1,5倍)で2人前。大丈夫かな、と途中で見にいったら、なんと妊婦さん、山口サイズを完食!
 大丈夫やで、木村さん、そんだけ食べれたら。なぜか、おおいにほっとした夜でした。
 
 
by chefmessage | 2014-02-04 12:48