人気ブログランキング |

ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


by chefmessage
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

カテゴリ:未分類( 178 )

地図のない旅 2

 今回の東京小旅行のお伴は、ジェフリー・ディーヴァーの「d0163718_13104787.jpg追撃の森」でした。
 ぼくの場合、旅行が楽しいかどうかは、実は、どの本を持っていくかで決まります。その本が読んで楽しいものであれば、旅の合間の退屈な時間がなくなって、中身がしっかり詰まった充実した時間が過ごせるからです。移動の途中でも、ホテルで一人でいるときでも、ぼくは時間を持て余さずにすむ。だから、ぼくは旅にでるときには、必ずお気に入りの作家の本をカバンに入れていきます。ディーヴァーは「ボーンコレクター」以来、その著作の殆どを読んでしまっているので、まだ未読のこの本(ましてや携行に便利な文庫本)はそれだけで、今回の旅を期待多きものにしてくれました。
 その本のなかで、執拗に殺人犯に追われる女性保安官補が、迷いこんだ森林公園から抜け出る道を探すために、コンパスを手作りする場面が出てきます。まず保安官バッジのピンをはずして、それを石で叩くことでピンに磁性を帯びさせます。そのピンを小枝にくくりつけて、水を入れたペットボトルにそっと浮かせる。すると、針は南北に向いて止まります。あとは、その針の左右が東か西かで、指し示す方向が北か南かわかる仕組みです。一方、殺人犯の側はというと、これがアイフォンのGPSで彼女を追いかけている。原始的な道具と近代機器の対比も絶妙で、この作家の本は本当に面白い。

 ここで話はまったく別方向に進むのですが、先日フェイスブックに投稿された記事に、ぼくはとても違和感を覚えました。それは、古典料理を得意にする、あるシェフを称賛する記事でした。曰く、昨今のカタチから入る料理人の料理はキレイだけれど、味はさえない。これは本質を理解していないからで、その点、彼は古典料理に精通していて本質がわかっているから、その料理はマジで旨い、云々。さらに、本質は時代を超えて残る、と明記しておられる。
 では、料理の本質って、一体何なんですか?と、ぼくは、その投稿された方に聞きたかった。それこそ、ぼくが25年のシェフ生活で、一番知りたいことだから。
 マジ旨いことが本質だとは言わないでいただきたい、とぼくは思います。それは、食べる方の主観であって、普遍的な回答にはなりえないから。
 ぼく自身は、独創とか異端とか、あるいは前衛というレッテルを貼られ続けてきた料理人です。その言葉で持ち上げられ、そして、叩きつけられた人間です。喜びも沢山あったけれど、それ以上に、苦しみ迷いも多かった。いまだにぼくは迷い続けているのです。料理の本質とはいったい何なのか。それを探して、ぼくは毎日戦いつづけているといっても過言ではない。
 確かに、見た目重視の風潮が料理の世界に蔓延していることは否定しません。けれども、すべてがそれに染まっているわけではありません。古典を学ぼうという流れができつつあるのも事実です。ただ、それもいわゆる流行ではないかとぼくは思います。行き過ぎた革命には、反革命がつきものなのですから。メトロノームと同じで、左に振れきったら、針は右に向かうものなのです。
 その反革命の急先鋒に、件のシェフがなりつつあるのではないでしょうか。でも、だからといってすべてのシェフが、レペルトワール(フランス古典料理の手引き、みたいな書物)片手に古典ばかり作りはじめたら、あまりに退屈だろうとぼくは思います。
 それに、今、若手シェフが古典だ、と言っている料理は、現代風古典料理だろうとぼくは考えています。レペルトワールは食材の列記だけで分量や作り方は書いていないから、作り手によって出来上がりはちがったものになります。リアルタイムでその料理に接してきたぼくたちみたいな世代とは、解釈はちがっていて当然でしょう。それに、食材そのものが昔とは違う。質もちがっているだろうし、値段もちがう。トリュフなんて、ぼくがコックになったときの3倍以上になっているから、採算を考えると、使う量もかわって当然です。
 だから、料理の本質というものは、料理そのものにはないとぼくは考えています。もしそれがあるとすれば、それは細部の、料理を構成する個々の要素に存在するのではないか。
 料理は、絵ではありません。そのような平面的なものではなく、もっと立体的なものです。例えるなら、建築とか時計とか。
 要は、パーツなのです。パーツひとつひとつがよくないと、組み上げられないし、完成度は低い。基本のテクニックであり、そのテクニックが確かな方向性をもったとき、そこに本質が宿るのではないか。
 正確に刻まれ、しかもむらなく磨き上げられた歯車、何度も焼きをいれられて剛性に富み、しかも均一なゼンマイ、それらが組み合わさって完璧な時計ができあがる。まさしく、細部に神は宿る、なのです。
 だから逆に、パーツさえしっかり作り上げることができれば、あとは新しい世界に踏み込んでいっても何ら問題はないと、ぼくは思います。見た目は本当に美しく、芸術的でありながら、食べるとさえない味の料理、あるいは何を食べたかわからない料理というのは、個々のパーツの完成度が低く、しかもその方向性が不確かだからではないでしょうか。

 ル・マンジュ・トゥーの谷シェフの鴨料理はクリームソースでした。まず下に、柔らかく炊いたお米が敷かれています。これは、その鴨が米を主食にしているからだそうです。その米はやわらかい、これは鴨の身が柔らかいから。トリュフの風味がするのは、米とトリュフの相性がいいから。それにはクリームのようなやさしい味がよくあいます。鴨は網で捕って無傷だから血なまぐささはあまりない。それなら家禽に使うようなクリームソースで食べてもらおう。米の炊き加減、鴨の火の通し、クリームの煮詰め具合、あるいは香り、すべてが完璧で、しかもお互いが補完しあい、支えあって一つの構造物として成り立っている。これがフランス料理です。ちなみに、古典で、鴨にクリームを使う料理はそれほど多くないのではないでしょうか。

 敬三のフグの白子とフグのコンソメもそうです。まず、主材料が日本特有のものです。そのフグは、バターでじっくりムニエルにし、その後、軍鶏でとった敬三自慢のコンソメで火を通します。白子はぶつ切りにして、オーブントースターで焼く。それを意表をついた缶詰に入れ、コンソメを注ぎ、柚子を飾る。まさしく、敬三にしかできないフランス料理です。
 オマージュの荒井さんの魚料理も同じく。じっくり焼き上げた魚に、黒にんにくとナスビのピューレのソース。根セロリのピューレに紅たでを盛り、大葉で巻いたナッツ味噌!食材は和ですが、一つ一つのテクニックはフランス料理以外のなにものでもない。その融合の按配が、彼の料理を比類なきものに仕立てています。
 以上の3っつの料理は、見方によっては独創であり、ユニークです。でも、本質は宿っていると思います。
 彼等は人並み以上の苦労をして、手製のコンパスを作りあげたのでしょう。そして、それを使って、自分の行く道を確かな足取りで歩いています。
 GPSで情報を集め、行く先が間違いなくわかっている旅人とちがって、迷ったりすることもあるかもしれないけれど、彼等こそ、新しい地図を作るとぼくは思います。そして、それが復元ではない、新しい古典をいつか生み出すような気がします。

 時代そのものが変化するように、本質もまた変化していくのでしょう。だから、本質を見据えたと思った瞬間に、それはもう本質ではなくなっているかもしれない、それなら、ぼくたちに残された道はただ一つ。手製のコンパス片手に、勇気を奮い起こして、旅を続けること。
 
 
 
 
by chefmessage | 2014-01-24 13:11

 地図のない旅 1

 大晦日のことです。ぼくのこころない一言がうちのマダムを激怒させてしまって、ぼくはおおいに驚きました。多分、彼女は長年にわたって、数え切れないほどの我慢を抱え込んできたのでしょう。それが瞬間に堰を切って、一直線にぼくに向かってきました。結婚して以来、一度もそういうことがなかったので、不意をくらって、ぼくはたじたじになり、ぼくのこころも折れそうになりました。いつも一緒にいて、ぼくを支え続けてくれた人、その人からの攻撃は防ぎようもなく。
 そのショックから回復できぬまま年が明け、慌しい日々が始まり、気がつくと東京の杉本敬三とのフェアが間近にせまっていました。なんとかぼくの料理の輪郭だけを決め、必要なものを宅急便で送り、飛行機に乗って。
 今回の東京滞在は3日間で、初日は打ち合わせ、2日目が仕込みなどの準備とフェア本番で、3日目は昼にどこかで食事をして夕方の飛行機で帰る、という予定です。でも、どうにもテンションがあがらない。いつもの調子が出てこない。そこで、初日の打ち合わせは早々に済ませて、一人で食事に出かけることにしました。こんなときは、おおいに盛り上がる店に行くにかぎるということで、行き先は牛込神楽坂。盟友、谷昇シェフの「ル・マンジュ・トゥー」です。予約を入れると、満席だけど断るわけにはいかんでしょう、ということで、厨房前の特別カウンター席にお邪魔することになりました。

 最寄の駅に着くと、時間が早かったので、念願の神楽坂探訪です。上から下まで行ったり来たり。でも、まあ、普通の商店街という感じかな。
 で、「ル・マンジュ・トゥー」の扉を開けると、厨房で谷さん、電話で打ち合わせをしている。「いや、そういう料理はぼくはやりたくありません。どうしても、ということなら、詰め物は別にします。それでいいですか?あ、ご理解いただいてありがとうございます。それでは、よろしくお願いします。」。うわ、いきなりわがまま言うてるわ、と思って、なんだかこちらもニンマリしてしまいます。
 「いやー、道野さん、どうも!」とがっちり握手して、その夜のディナーは始まりました。
 ぼくとの話に夢中で、オーダーの数がわからなくなったり、料理の順番があべこべになり、マダムの楠本さんに注意されたり。でも、生き生きと、しかも的確に動く谷さんはかっこいい。「オレ、かっこわるいこと、絶対にいやだから。」という発言は、ぼくとの最も大きな共通点です。「道野さん、生粋の大阪人?オレは江戸っ子なんですよ。生粋同士は気が合うんだね。」とうれしいことを言ってくれます。去年、初めてお伺いするときは、予約を入れてくれた敬三が、「いきなり大喧嘩するか、最初から意気投合するか」と気を揉んだ我々ですが、お互い話題は尽きず、楽しい時間はどんどん過ぎていきます。料理も素晴らしくて、メインの鴨などは、生涯で一番のおいしさだったな。
 でも、こういうことも言ってました。「うち、めんどくさいことは全部、かみさんがやってくれてるんですよ。かみさんがいないと、オレ、お金のこととかなんにもわかんないから。だから、感謝しなくちゃいけないね。」。いや、その言葉、胸に痛いです。
結局、終電になんとか間に合う時間までマンジュトゥーにいて、ぼくはホテルに戻りました。楽しさの余韻で、風邪気味だった体調も好転しているような。よしよし、テンションあがってきたぞ、ということで就寝。一日目終了。

二日目は敬三の店「ラ・フィネス」の厨房で、朝から仕込みです。午前中に、やっとコース内容と順番、そしてワインの組み合わせが決定しました。毎回のことなのですが、ぼくの料理がなかなか決まらない。とくに、メインの肉料理の食材。大概の高級食材は既に敬三が使っていて、お客様も慣れている。結局、敬三と話し合って、ベキャスとお約束のトリュフを使おうということだけは決めてあったのですが、こまかい仕上げは出たとこ勝負。だから、ぎりぎりにならないと詳細が判明しないのですが、それもなんとか間に合って。
もう一つのぼくの料理はオードブルなのですが、これは「フォアグラのヌガーグラッセとクロワッサンのエスプーマ」で、ほとんど出来上がったものを大阪から送ってあるので問題なし。
で、みんなでわいわい言いながら仕事をしていたら、敬三の奥さんが、子供といっしょに顔を出してくれました。まだうまれたばかりの女の子。その子をはさんで家族3人、ほんとに仲睦まじそうに微笑みあっている。
ついこの間、高校生だったはずの敬三が結婚して子供がいて。なんだか不思議な気分になりましたが、この家族が今の彼を一層強くしているのだとぼくは思いました。
 その後、昔うちの厨房にいて、今は東京の「サンス・エ・サヴール」で働いている滝本亘もやってきて、近況を話し合っている間に、フェアが始まる時間が迫ってきました。滝本も自分の職場に戻って、「ラ・フィネス」の厨房が活気づき始め、緊張が高まっていきます。
 そして、フェアは無事終了。お互い全力を出し切ったことに満足して、敬三とがっちり握手をして、ぼくは「ラ・フィネス」を後にしました。ほっとして、その夜はホテルで熟睡。

 3日目は、浅草にある荒井昇さんのレストラン「オマージュ」へ。
 去年、大阪の「ラ・シーム」で食事したとき、シェフの高田くんとコラボした荒井さんの料理が印象深かったので、是非伺いたくて、上京前に予約を入れておいたのです。浅草というところにも、一度行ってみたかったし。
 浅草寺ではすっかりおのぼりさん気分で、あっちこっちでお賽銭撒きまくり、とりあえず商売繁盛を祈願して拍手打ち倒し、そのうえもっと頭がよくなるようにとお線香の煙にアタマをつっこんで、すっかり抹香臭くなったぼくは意気揚々とオマージュへ向かいました。「花やしき」とかいうへんてこな遊園地を通り過ぎ、大きな道を一本渡ってあとはまっすぐ。でも、浅草寺の賑わいとは別世界に人がいない。ここ、ほんまに東京か?といぶかりながら、通りすぎようとした交差点の角に、そのお店はありました。
 どうやら1階は厨房で、2階が客席らしい。階段を上ると、お客様でいっぱい。人事ながらほっとしていると、和装のマダムがご挨拶に。
 「ラ・シーム」では、マダムの和装で話が盛り上がったのです。うちのマダムも着物が好きで、自分でブラウスに仕立て直した着物着てサーヴィスしてるから。
 荒井さんも出てきてくれて、挨拶して握手して、食事が始まりました。一品ごとにマダムの丁寧な説明があって、食べ終わると、「どうでしたか。」と必ずお聞きになる。
 じつは、ぼくはその手の質問が苦手です。応えるのが、ちょっと面倒くさい。それに、ぼくは正直なコックさんなので、ついつい本音を言って、いやな顔されて、それなら聞くなよ、とこころで思って。
 でも、こちらのマダムの尋ね方が、まるで自分が作っているかのように真摯なので、ぼくも一生懸命、答えてしまいます。シェフの料理を気に入って欲しい、そんな思いが伝わってくる。なんだか、とても暖かい。
 うちのマダムもそうやって、ぼくの料理を大切に思ってきてくれたんだろうな、とぼくは振り返りました。そして、大切なものをないがしろにしてきた自分を、情けなく思ったのでした。

 荒井さんの料理は、繊細で上品で、それでいてしっかりと方向を見定めている感じで、好感度大でした。結構、刺激になったし、新しいアイデアの啓蒙もしてくれました。
 和の食材もちらほら出てくるし、自分も和装だから、お客様にはよく和フレンチですね、と言われるんです、とマダムが困惑顔で仰っていたけれど、そんなことは全くないとぼくは思いました。フランス料理の本質とは何か?その答えの一つがこのお店にはあると、ぼくは考えます。
 それにしても、2年8ヶ月と8ヶ月の二人の小さな子供がいるのに、サーヴィスに出ているマダムの姿には感動しました。そして荒井さんに、「奥さん、大事にせーよ。」と言いたくなって、それはお前やろ、とひとりツッコミ入れて、ぼくは見送る二人に手を振って、オマージュをあとにしたのでした。
 谷さんも、敬三も、荒井さんも、みんな素晴らしい伴走者に恵まれて、だから全力を仕事にむけることが出来る。もっと他の人生があったかもしれないのに、彼女達は彼等を支えている。
 ぼくたちは地図を持たずに、新しい地図を作るために旅を続けている種類の人間です。そして、それなりに成果をあげて、世の中で認められているとするなら、それは優秀なナヴィゲーターのおかげでしょう。

 大阪に帰って、翌朝からまたハードな毎日が始まりました。いつものようにまず奈良に出勤して、昼過ぎまでそこでの仕事をこなし、大阪の自店に戻ろうとしたとき、大事なことを忘れていたことに気づきました。うちの奥さんの誕生日だったのです。そこで、ささやかなプレゼントを買いました。
 自店での仕事を終え、夜遅く帰宅すると家族はもう眠っています。ぼくは、プレゼントに「いつもありがとう」というメッセージを貼り付けて、そっと冷蔵庫に入れました。それは大粒の、とても甘くて、雪のように白いいちごです。
 

 
 
by chefmessage | 2014-01-21 20:54

時を超えて

 1970年代のことです。当時、世界に先駆けて電池駆動による水晶発振の腕時計(クォーツ)を製品化した日本のセイコーが、その特許を公開しました。それによって、世界の時計産業の構図が一変しました。多くのメーカーがなだれをうって、クォーツの開発に突き進んだのです。その結果、従来の機械式の時計が売れなくなり、アメリカやスイスの多くのメーカーが倒産していきました。いわゆるクォーツショックです。
 それ以前に、アメリカのブローバが、同じく電池駆動で音叉を発振させる時計を開発していたのですが、かたくなに特許を守ろうとしたので、それ以上の開発が進まず、クォーツが登場すると姿を消していきました。
 栄華を誇ったスイスの時計産業も、壊滅的打撃を受けたのです。ところが・・・。
 そのスイス時計が今、驚異的に売れまくっているらしい。昨年末に阪急の営業の方から聞いたのですが、腕時計の売り上げ前年比200%!それも百万円単位のものがポンポン売れるらしい。完全に息を吹き返した様子です。景気がよくなっている兆候かもしれませんが、それだけではない、これはいったいどうしてなのか。
 ぼくが想像するに、これはかつてのアンティーク時計の大流行がきっかけだったのではないでしょうか。
 クォーツが機械式を駆逐する勢いであったとき、一部の愛好家がわざと古い時計を腕にはめるようになりました。例えば針の動き、ゼンマイを巻くことで動き始めるアナログ感、時を刻む音、そして歴史、そういうクォーツにない要素が、時代に逆行する優越感みたいなものを刺激したのではないでしょうか。そして、クォーツの開発がすすみ、どんどん廉価になっていくに従い、逆に、アンティークの市場価格はどんどん高騰していきました。丁度、世の中もバブル期、それこそ百万円単位のものも現れて、それがポンポン売れて。
 それに力を得たのがスイスの高級時計のメーカーです。消滅していた、あるいはしかけていたメーカーを復活させ再統合し、職人を再度養成し、それに現代のテクノロジーを加え、設備投資を行い、徐々に回復傾向にもっていって、ついに現在の空前の繁栄を成し遂げたのです。

 長々と時計の話を書きましたが、実はこの流れは、フランス料理の移り変わりとそっくりです。そしてその流れに翻弄されてきたぼく自身の歴史とも。
 
 今、売れに売れている腕時計は、どれもこれもとても派手です。豪華で、大きくて、重くて。そして、不必要に複雑です。でも、基本になる機械部分は昔も今もかわらない。むしろ手薄になっている感があります。それは工芸品ではあるけれども、工業品ではなくなっている。だからぼくはこのごろ、クォーツに席捲される前の、工業製品であったころの60年代や70年代のスイス時計を好んで身につけています。それは古い時計だけれども、時計職人に言わせると、もっとも完成された機械だそうです。整備しやすく壊れない、そして長持ちする、だから、美しい。ぼくは、そのような時計が再評価される時代が近々やってくるのではないかと思ってます。ぱっと見て、時針と分針がどこにあるのか、どこをさしているかわからない時計って、やっぱりおかしいと思いませんか?

 今年、ぼくは60歳になります。栄華を極めた時代があり、絶望の日々もありました。自信にあふれていたこともあるけれど、迷ってもがいていたときのほうが長かった。それでもここまでやってこれたのは、家内や家族、支持してくださるお客様、そして同業の皆さんの助力があったからでしょう。そのぼくの料理人人生は、あと何年あるのか。
 晩節を汚すことのない毎日にしようと思います。もう時代の流れにおびえることもなく、奇を衒うこともなく、ただ、一つ一つを丁寧に積み重ねていきたい。そして、最後の最後まで料理人としての矜持を持ち続けたい。

 古いことが新しい、それがぼくの年初のキーワードです。また一年、みなさん、よろしくお付き合いください。
by chefmessage | 2014-01-04 17:51

ダンダさんのこと

d0163718_18313883.jpg ライターの団田芳子さんに初めて記事を書いてもらったのは、もう12~3年くらい前のことでしょうか。「あまから手帖」の別冊で、シェフとその奥さん、みたいな特集があって、ぼくとうちのマダムの担当が彼女でした。
 取材そのものにはまったく問題はなかったのですが、掲載写真について、当時の「あまから」編集部のほうからクレームがつきました。その写真は、当時のぼくたちの住まいの居間で撮ったものだったのですが、前面に、紺のサテンの中国服を着たぼくがソファに座って靴を磨いています。ぼくの足元には靴が数えきれないほど並んでいる。そしてそのうしろに、うちのマダムがインドのサリーを着て、インド舞踊のポーズで微笑んでいる。その写真が「あり得ない」、「こんな夫婦がいるわけがない」と判断されたのです。そして、いたって無難なツーショットに差し替えたい、と。それを聞いて、ぼくは「あまから」編集部に電話をいれて、こう言いました。「あの写真にまったく嘘はありません。だから、あのままでお願いします。」。
 実際、ぼくがその時着ていた中国服は、東京のユナイテッド・アローズが限定販売していた上海灘というブランドのもので、当時のぼくのお気に入りだったし、靴はすべて自前のものでした。そしてマダムは、インドに留学までしたインド舞踊家だったのです。他人がどう判断しようが、それがその頃のぼく達の日常でした。
 写真はそのように一見、奇矯なものでしたが、文章はそれとはまったく裏腹な内容でした。曰く、このシェフは仕事が終わると、眠っている家族を起こさないようにそっと帰宅して、子供の残り物のハンバーグを電チンして食べるのを楽しみにしている云々・・・。
 流れるような筆致で、ユーモアを散りばめながら、でも、ぼくの伝えたかったことをちゃんと表現してくれていることに、ぼくは感動しました。この人、文章上手やなあ。
 実は、そのようなことは滅多にないことなのです。なんかちがうよな、ほとんどの場合、ぼくはそう思っていたから。歯がゆい思いで、送られてきた掲載誌を閉じて、それっきり、ということが大半だったから。
 だから、ぼくはダンダさんに電話してこう言いました。「素敵な文章ありがとう。めっちゃうれしかったわ。」。
 その後のダンダさんの活躍ぶりは、ぼくの想像を超えるものでした。そして、井上理津子さんと共著で出版した「関西名物」「大阪名物」で、不動の地位に。今では、錚々たるメンバーで構成されるファンクラブまで出来るほど、めでたしめでたし、で終われば罪のない話なのですが・・・。
 なんと、来年早々、ダンダファンクラブの新年会がぼくの店で催されることになったのです。それも、すでにキャンセル待ちまで出ているという。

 なにしろ、いわゆる「食にうるさい」メンバーの集まりです。それに、ダンダさんは折にふれ、ぼくの料理を食べてこられて、ぼくの手の内はほぼ把握しておられます。さあ、どうするか。

 年明けると、オレももう還暦やしなあ、とふと弱気になる今日この頃です。やっぱり無難な線でいっとくべきかなあ。でも、心が騒ぎます。なにやら声も聞こえてくるような。「ガツンといっとかんかい。」。

 普段、料理を考えるときは、段取りと保存を重視します。どれだけ準備しておけるか、と、どれだけ鮮度を保てるか。だから、料理は決して自由ではありません。でも、料理人はいつでも夢想しています。何も制約がなかったら、どこまでできるのか。
 やってみようと思います。最低限の仕込み、そして一回で使い切りの高価な食材。
 たぶん、その仕事が、今後のぼくの方向を決めてくれるような気がします。残念ながら、よくもってあと10年でぼくの力は尽きるでしょう。末の娘が大人になるまでの期間と重なっているのは、むしろ僥倖と捉えるべきでしょう。ぼくは自分の仕事を総括しなければならない、でも、ぼくは死ぬまで前衛の料理人だから、立ち止まってはいられない。

 見とれよ、とぼくは思います。そして、記憶して、いつか「ミチノさんっていう料理人がおってな。」とダンダさんに語ってほしい。だから・・・。
 ぼくはドキドキしながら、実はその日を楽しみにしています。そして、せっせとネタを書きとめています。そのネタが花を咲かせて、ひとりでも多くのひとに楽しんでもらえたら、ぼくはそれだけでいいと思うんですが、折角だから自分へのご褒美に、靴もう一足買っていいかどうか、ダンダさん、うちのマダムに聞いてくれる?
 
by chefmessage | 2013-12-11 18:31

八ッちゃんの笑窪

 この歳になりながら、ぼくは同窓会というものに未だ一度も出席したことがありません。仕事柄、土・日に休みが取れないということもあるのですが、それよりも大きな理由は、ぼくがかつての同窓生、あるいは先生方に、いい印象を持たれていないと思い込んでいるからです。今、振り返っても、恥ずかしくて赤面するような学生でした。
 小学生のころはまだしも、中学・高校時代となると、もう最悪。勉強はしない、授業には出ない、部活はさぼる。あげくに数度の停学に留年。実際、実の母親が高校の卒業式のとき、「恥ずかしいから行きたくない」とまで言いきる体たらく。さすがに大学に入学してからは多少は反省の色をみせたのですが、それにしても決して人様に自慢できるものではありませんでした。
 だから、むしろその頃の人間関係から遠ざかるようにぼくは生きてきたような気がします。それなのに、料理人になって自分の店を構えて、ちらほらと雑誌やTVなどに顔を出すようになると、その頃の友人達がパラパラ来てくれるようになりました。
 当時の悪友連ばかりではなく、けっこうぼくを白眼視していたはずの優等生たちも。
 ぼくは不思議でなりませんでした。そこで、かつての優等生のひとりが食事に来てくれたときに尋ねました。「オレって、嫌われ者じゃなかったか?」。「そんなことないで。同窓会で集まったら、必ず道野のことが話題に出てな、みんな会いたがってるで。」。
 そうなんですか、とぼくは思って、なんだかすこしうれしくなりました。でも、いまだに、かつての同窓生から予約が入ると不安になります。
 先日も、高校時代の知り合いから電話があって、びっくりする人を連れていくから楽しみにしとって、と告げられて、内心ビクビクでその日を迎えたのです。
 その人は年配の紳士でした。鋭い一瞥にたじろぐワタシ。誰やろか。
 開口一番、「道野、久しぶり。」と仰います。なんとその人は、中学時代の歴史の先生。サッカー部の顧問にして、当時ダントツの熱血ぶりで名高かった尾崎八郎、通称、尾崎の八ッちゃん(失礼!)でした。45年ぶりのご対面!
 何を言えばいいのか、しどろもどろでご挨拶して、とにかく厨房に逃げ込みました。

 順調に料理は進んでいきます。でも、デザート前になって、マネージャーの原から「若い女性、涙ぐんでます。」という現場報告が入りました。その日のメンバーは、高校時代の同級生の村上くん、尾崎先生、共通の知り合いらしき親子3人(両親とおじょうさん)の5人構成。どうもお嬢さんの進路相談の話し合いをかねての食事会であったようなのですが、尾崎先生の熱弁にお嬢さんが感極まった様子。センセイ、いくつになっても熱いなあ、とぼくは感心してしまいました。
 そして、食後のご挨拶。驚いたことに、尾崎先生はぼくのことをとてもよく覚えておられる。45年間、接した生徒は、それこそ星の数ほどもいただろうに。だから、ぼくは尋ねました。「何故、そんなにぼくのことを覚えてるんですか?。」。
 「道野、お前な、中学生のくせに我流を貫く奴やったやろ。それに、こっちの言う理論の隙間を的確に、それも笑いながら突いてきたやろ。そんな生徒、忘れるかい。」
 そして笑顔で話は続きます。
 「オレがお前のことどついたんは、お前が目立つやつやったからや。目立たんやつどつくのは、効率が悪いからな。そやから、お前、自分が悪くないのに、ようどつかれたやろ。」。
 今なら、絶対に問題になるであろう会話が続きます。
 「ということは、オレは見せしめにどつかれとったんですか。」と笑って言うと、尾崎先生は、「そや、学年でお前のこと知らんやつおらんかったからな。」と返します。喜んでいいのか、悲しむべきなのか。でも、ぼくはそのとき、尾崎先生の上あごのあたりに、ちいさな窪みがあるのを発見しました。そうだ、この人は笑顔になると、そのあたりに笑窪ができるんだ。だから、ぼくはこの人が嫌いではなかった。
 突然、45年前の尾崎先生の姿が思い浮かびました。黒い髪はスポーツ刈りで、眼鏡をかけていなかった顔は、目つきが鋭くて精悍だった。背筋がまっすぐ伸びて、声もはりがあって。授業は厳しくて、礼儀にもうるさくて。
 思い出しているぼくも中学生にもどっていました。
 新婚早々だったから、奥様のことを話すとき、照れくさそうだった。買ったばかりの車を眺めては満足そうだった。硬派だけれど、物分りのいいところもあって、最終的には温情で対処してくれて、そして、最後にはいつも笑っていた顔には笑窪があって。

 あれから45年もたったのか。いまだにぼくは、自分の人生を肯定することができません。これでよかったのだろうか。後悔なんて柄じゃないのに。
 尾崎先生はどうなんだろう。でも、センセイ、70過ぎても熱く語って若いお嬢さん泣かせているし。ぼくはぼくで、いまだに負けん気ばかりの料理人だし。
 結局、ぼく達はやんちゃなまま生きてきたのでしょう。それは多分、ぼくの拙い人生で失ってはならないものだったのでしょう。尾崎先生は、ぼくにそれを気づかせてくださった。やっぱりこの人、心底センセイなんや。

 その夜、帰宅の途上で、ぼくはすこしうれしくなりました。オレって、自分で思うほどいやな奴ではなかったんや。それは、勇気となって、これからのぼくを支えてくれるような気がします。ちなみに尾崎先生は、神戸にある啓明学院の理事長・院長をなさっておられます。「センセイ、たくさんの生徒達に慕われて、幸せな人生じゃないですか。」と別れ際に言ったら、センセイはうれしそうに「うん。」。やっぱり、笑窪がありました。
by chefmessage | 2013-10-01 12:31

4周年のフェアについて

 19年、ずっと続けてきた豊中の店を閉めて、大阪市内の福島区に移り4年がたちました。1年たつごとに周年のフェアを催してきたのですが、これはいつも、自分自身の目標設定になってきました。いわば、ハードルを引き上げる役目を担ってきたのです。

 移転してきたばかりの頃は、自分のモチベーションが最も下がっていて、正直、途方にくれている、という状態でした。どこへ向かえばいいのか全くわからなかった。
 23年前、デビューしてすぐに、思いもかけなかったほどの高評価を与えられ、無我夢中で走りだしたのですが、なにしろ浮き沈みの激しい業界です。いつまでも人気者というわけにはいきません。やがて凋落の憂き目にあうのですが、なんとか返り咲こうと、それのみを考える日々でした。一曲目が大当たり、でもその後は鳴かず飛ばずの歌手の気持ち、に似ているでしょうか。
 もともと努力不足で、実力もさほどなかったのだと思い知らされた気分で、もはや身の置き所はどこにもないのではないか、とまで思いつめました。これは辛かったな。でも、幸いなことに移転で再スタートをきるチャンスが訪れたのですが、いざ走りだそうとしても、どちらに向かえばいいのかわからない。だから、話題になっているレストランに毎週のように食べ歩き。自店に戻っては試行錯誤を繰り返し、やっぱりこの方向しかオレの道はないな、と納得したのが移転後1年目でした。そして1周年のフェア。
 考えぬいたコースメニューでした。梯子を1段登った感じです。それから1年間は、そのレベルを維持して、さらに2年目3年目へと。そして、今年は4周年。

 正直なところ、ぼくの肉体は加速度的に衰えてきています。年齢的には、とっくにピークはすぎているのだから。それにともなって、気力も。でも、ぼくはまだハードルを上げようとしています。これはいったい何なのか。

 ぼくの主治医のS先生が先日、こんなことを仰っていました。「自分にはやり残したことがある、そう思っている人間はなかなか死にません。」。多分、それなのでしょう。ご存知のようにぼくには3人の子供がいて、高校2年生、中学3年生、中学1年生。そう、親としてはこれからが正念場なのです。ぼくには果たさねばならない責任が残っている。でも、彼らのために働くわけではありません。結果的にはそうであっても、ぼくは彼らがいるから前に進めると考えています。そうして、不屈の料理人として最後まで突っ走ってやる。
 料理の世界にあがりはありません。頂上に立っている、そう思っている人間は遅かれ早かれ転げ落ちます。いつも途上なのです。それなら、一歩でも進むのが本来の姿でしょう。たとえ力尽きて倒れても、目の前に草でも生えていようものなら、それを握り締めて、最後の力を振り絞って、倒れた体を押し出す、それが本望なのではないでしょうか。
 だから、今回の4周年の料理も、ハードルは高い。今までで、一番高い。
 どうですか、もうすぐ還暦を迎える男の旬の料理、ちょっと食べてみたいと思いませんか?9月18日からスタートです。
 
by chefmessage | 2013-08-31 20:05

ヨシノさんのこと

 ヨシノさんは、ぼくの釣りの師匠です。何年間か毎週、いっしょに釣りにでかけていました。場所は、神戸の沖合いにいくつかある防波堤です。
 渡船で行けるのは主に4箇所で、それぞれ5防、6防、7防、8防と呼ばれていて、手前から順番に沖に向かって浮かんでいます。長さは大体1キロから4キロくらい。そこに渡って、迎えの船が来る時間まで釣りをするのです。
 それまでも、ぼくは釣りの本を読んだり、情報誌を眺めたりして、ひとりであちらこちらに釣行していたのですが、これがさっぱり釣れない。というのも、釣りというのは、その場所場所によってポイントがあり、また道具や仕掛け、あるいは餌までちがっていたりするので、一箇所に通いつめて学習しないと良い結果は得られないのです。
 上達への一番の早道は、その場所に精通したベテランに指導を仰ぐことなのですが、釣り師というのはやっかいな人種で、よほど懇意にならないと手の内は明かしてくれません。中には、偽の情報を流してかく乱する人もいて、多分、縄張りを荒らされたくないということなのでしょうが、そこまでしなくても、と思うことも度々ありました。

 ヨシノさんを引き合わせてくれたのは、ぼくがいつも仕入れをしている魚屋の社長でした。「この人、釣りが好きやねんけど、さっぱりよう釣らんねん。ヨシノさん、教えたってえな。」。見ると、同じ時間帯にその魚屋で顔を合わせる人でした。料理人にしてはお洒落なたたずまいで、印象に残っていたのですが、話してみると定休日が一緒だったので、ほな一回、一緒に行こか、ということになりました。
 その魚屋の社長に言わせると、「うちの難しい客の上位3人のうちの二人」が、ぼくとヨシノさんということで、なかなかヘンコやで、と聞かされていたのですが、ぼくたちはそれから、毎週連れ立って釣りに行くようになりました。偏屈モノ同士、気が合った、ということなのでしょう。

 ヨシノさんは、こと神戸沖の防波堤の釣りに関しては生き字引でした。どの時期に、どの防波堤のどの場所でどんな魚が釣れるか、どの仕掛けと餌がいいか、懇切丁寧に教えてくれました。釣り道具屋から餌屋にいたるまで、手の内をすべて明かしてくれた。ただし、独特のルールも持っていました。それは、自分のことは自分でする、ということ。
 餌や道具に関しては、貸し借り厳禁。経費はすべて割り勘。移動は基本的に自分の車ですること。これは、万が一事故にあったとき、相手の分まで責任が持てないから、という理由でした。確かに気難しいところがあって、こちらの軽口に本気で腹を立てる、ということもありましたが、ヨシノさんとの釣行はほんとに楽しかった。黄金時代だったと思います。
 でも、そんな蜜月もいつか終わるときが来ます。営業上の都合から、ぼくが店の定休日を変更せざるをえなくなったからです。ヨシノさんは不機嫌でしたが、でも、仕事は大事にせないかん、ということで理解してくれました。
 その後もヨシノさんは、市場で会うたびに、どこそこの波止(防波堤)でアレが釣れてるで、今はあそこがエエで、行っといでや、と教えてくれました。

 そのヨシノさんが、あまり市場に姿を見せなくなりました。ヨシノさんは独学で料理人になった人で、料理を提供するスタイルは和・洋混在のおまかせコース一本、それも選びぬいた高級食材しか使わない人だったので、仕入れに来ないのはおかしいな、と思っていたのです。その矢先、ヨシノさんから電話がありました。
 「道野くん、ぼくな、病気で入院してな、店も閉めることにしてん。」。
でも、どんな病気かは、何度尋ねても言ってくれません。入院先も教えてくれない。それどころか、見舞いにも来てくれるな、と言います。そして最後に、
「道野くん、一緒に釣りに行けて楽しかったわ。奥さん、大事にしいや。」

 その後、ヨシノさんが末期の肺ガンであったこと、どうやら亡くなったらしいことが噂になって流れました。でも、だれ一人、真相を知らない。
 そういう身の引き方があるのか、と驚きました。いつの間にかいなくなる。
ヨシノさんらしいな、と思いました。常々、「いいものを出していたら、客に媚びへつらう必要はない」、と公言していたほどプライドの高い人だったから。孤高の人だったから。
 ぼくも、いつしかヨシノさんのことを忘れていくのでしょう。でも、その前にやっておかなければいけないことがあります。
 ヨシノさんは、どれだけ親しくなっても、絶対に自分の釣りのポイントは譲ってくれませんでした。そして、とっておきは秘中の秘、だった。
 そのヨシノさんが、電話の最後に耳打ちしてくれました。それは、
 「何月になったら、何防のどこそこで1匹だけ馬鹿でかいアコウ(小豆ハタ、高級魚)が釣れる。時合いは夕方、タナ(ウキ下の深さ)はこれだけで、エサはこれこれや。そのことは、ぼく以外、だれも知らん。アンタには教えたげる、行ってみ。」。

 いつかその場所で、ヨシノさんのことを思い出しながら、ぼくは竿を出そうと思います。
 
 
 

 

 
by chefmessage | 2013-07-27 15:54

迷い道

 奈良の橿原市に、JAならけんが経営母体の「まほろばキッチン」という施設が先月の14日にオープンしました。これは、いわば巨大な「道の駅」で、奈良県産の野菜や特産物の売り場がメインなのですが、それに120席のカジュアルなレストランと、22席の高級レストランが併設されていることが特徴となっています。その両方のレストランの総料理長を、なぜかぼくが務めることになりました。
 就任の要請があったのは去年の11月で、オープンまで半年もなくて、なのに実質、何も決まっていない状態だったので、これは無理だろうと判断して、ぼくは一旦はお断りしました。自分の店もあることだし。
 でも、JAとの橋渡し役だった元ミーツリージョナルの名編集長、ご存知「だんじりエディター」の江弘毅氏が、「ミチノさんしかやる人いてへんから。」と例の調子で、半ば強引にまくしたてるので、とにかく相棒を探してみるかとイタリアンの重鎮、親友の鈴木勤くんに相談したところ、なんと彼が引き受けてくれることになったので、話は一気に現実化しました。
 その後、数々の紆余曲折を経て、なんとかオープンにこぎつけたのですが、いざ幕を開けてみると、両レストランともに大盛況。鈴木くんが責任者を務めるバイキングレストランは、オープンの11時にはすでに長蛇の列、ぼくが主に担当するフレンチレストランは連日、予約で満席。おかげで、ぼくは毎日、奈良と大阪福島区を往復、鈴木くんは全く休みが取れません。二人合わせて115歳コンビ、体力・気力ともに限界ギリギリの毎日です。
 そんなわけで、世間の注目度は高いようでいろんな取材もあるのですが、その度に聞かれることは、「ミチノさんは奈良と何かご縁があったんですか?」ということ。毎回同じぼくの答え。「全くありませんでした。」。
 でも、発見は毎日あります。
 いつも産直の売り場が開店する前に、ぼくは野菜を見てまわるのですが、ある日びっくりするようなグリーンアスパラを見つけました。それは随分立派で、先っぽまでまっすぐで、一目惚れ。早速、厨房に持ち込んで茹でて食べました。太くて大きいのに全然筋っぽくありません。みずみずしくて、甘くて、生命力にあふれている。何じゃこれは。そこでぼくは、生産者のところまで出かけることにしました。「まほろばキッチン」から車で10分。島岡鈴子さんという方のビニールハウスは、そんな近くにありました。
 前もって連絡しておいたので、ご本人が出迎えてくれました。早速ハウスに入れていただくと、中は有機肥料の独特の臭いが漂い、そのうえに蒸し暑い。でも、生えているアスパラは、どれもこれも逞しくて、まるで天に向かって声をあげているようです。島岡さんに苦労話をいっぱい聞きました。土を改良してここまでくるのに14年もかかったこと、農薬をゼロにしたいけど、あと一歩のところで悔しい思いをしていること、あるいは、おおきくなると規格外の扱いになるので、逆に値段をたたかれること。
 「だからわたし、65歳になる今まで、ずっと貧乏ですねん。」と、タオルで顔の汗を拭きながら島岡さんは言います。でも言葉とは裏腹に島岡さんは随分楽しそうです。ぼくはその時、和歌山の脇田さんのことを思いだしていました。
 脇田さんは、だしを取ったあとの昆布と鰹節を、大阪の有名な昆布やさんから引き取って、それを肥料にしてトマトを作っています。それは桁外れに甘くて、生命力に満ちあふれたアイコトマトです。でも、完熟なので大手の販売元では扱ってくれません。だから販路が限られている。それに完熟まで採取しないから割れがいっぱい出てしまいます。とても割りにあう仕事ではない。なのに脇田さんはあっけらかんと「貧乏で嫁はんに逃げられました。」と仰る。
 ぼくは脇田さんのアイコトマトは日本一だと思っています。そして、島岡さんのアスパラも。
 なんでそこまでやるんですか?やればやるほど貧乏になるのに、何故あなたたちは進もうとするんですか?
 でも、これはぼくのこころにもある問いなのです。JAとの仕事も、労力や経費に比して換算すると、得られるものは決して多くはありません。鈴木くんもそうです。ぼくたちはいつもやり過ぎてしまう。そして、ふと立ち止まったときに考えこんでしまう。「どこで道を間違ったんだろう。」。せめて家族には、もう少し恵まれた生活をさせてあげたい。できれば従業員にも、もっとお給料あげたい。こんなに一所懸命働いているのに、何故それができない?途方にくれて、出るのはため息ばかり。でも、ほかにしたい仕事も見つからなくて。
 答えは未だに見つかりません。そういう人間だから、そう思うほかはないのでしょうか。
 ただ、こころのどこかで、自分の仕事は他のだれにもできない仕事だとは思っています。そして、まだ自分にはやれることがある、とも。
 最後まで、ぼくたちは歩み続けるのでしょう。どこかであきらめながら、でも、あきらめきれずに。それは自己満足にしか過ぎないかもしれないけれど、多分、そういう自分の仕事がぼくたちは好きなのでしょう。
 西原恵理子さんが、「生きることは仕事をすること」と何かに書いていたけれど、そういうことなら、ぼくたちは生きることが好きなんだろうな、と思います。だから、脇田さんも島岡さんも、笑いながら苦労話ができるのでしょう。
 ひょっとすると、この道は迷い道ではなくて、けっこう真っ当な道なのかもしれません。
そして、ぼくたちが見る最後の空は、きっと、どこまでも澄んだ青空であるような気がします。
 
 
by chefmessage | 2013-05-22 18:40

トキワへの道

 先日、高田裕介くんのお店「ラ・シーム」で、東京は浅草にある「オマージュ」の荒井シェフとコラボのディナーをするということを聞き、食事に行ってきました。うちの古くからのお客様のTさんと、「ヴレ・ド・ヴレ」の大垣シェフ、男3人色気はないが食い気は旺盛というトリオでテーブルを囲みます。
 若手二人の料理は斬新で刺激にあふれていました。驚いたり感心したり。根っからフランス料理好きのトリオですから、終始白熱した料理談義です。盛り上がり方は半端じゃなく、それもとても楽しかった。
 デザートの後、お二人が挨拶に来られました。高田、荒井両シェフが並んでいる姿は、なにやらオーラ発生で眩しかった。荒井シェフに歳を尋ねると「39歳です。」。大垣シェフ49歳、そしてぼくが59歳。日本のフランス料理の縮図みたいです。
 彼らが他のテーブルへ移動したあと、ぼくは大垣シェフに言いました。「なれるものならもう一度若くなって、彼らと一緒に料理作ってみたいなあ」。すると、大垣シェフがこう言ったのです。「でもあと10年たったら、彼らも、今の若い連中の料理は、なんて言うようになるんですよ。」。
 若い料理人たちの仕事にショックを受け、古臭いと言われたくないから必死で彼らに追いすがろうとした時期がぼくにはありました。でも、やっぱり馴染めなかった。自分は自分の道をいくしかないと思ったとき、ぼくは身軽になって今までよりおいしいものが作れるようになった、それは錯覚ではないと大垣シェフに教えてもらったような気がしました。

 4月14日、奈良県橿原市に「まほろばキッチン」という巨大な野菜直販所がオープンします。その施設には3つの飲食スペースが併設されているのですが、そのうちの二つ、130席のカジュアルレストランと24席のフランス料理部門の総括料理長をぼくが引き受けることになりました。現在、準備に忙殺される毎日で、自分の店をやりながらの二足のわらじは結構きつい。それはこれからますます激しくなりそうで、先日もマダムに、「死ぬ気でやってもいいけど、本当に死ぬのはダメだよ。」と念を押されたのですが、でも、ぼくはそれに耐えて、この仕事を是非成功させたいと願っています。
 若手や中堅の料理人に、こうありたいと思ってもらえるような将来像を示すことができたら。ぼくは、昔は凄かった人などと言われたくないし、それで人に尊敬を求める生き方などしたくありません。最後まで毅然と、自ら道を拓く者でありたい。それが、同じ道を歩む人たちへの、人生を懸けたぼくのメッセージだと、ぼくは思っています。
 新しい店のパンフレットに、こんな文章を載せました。長くなるけれど、よければご一読ください。

 (奈良県の橿原市にできるフランス料理店を任せたい、というお話しをいただいたとき、ぼくはあまり乗り気になれませんでした。自動車文化の発達した本国フランスならまだしも、この日本においては、フランス料理店は都市部でしか成り立たないとぼくは思っているからです。それでも一度くらいは現地を見てみるかと、ぼくは重い腰を上げて、出かけていきました。
 建物の周りはほとんど田畑です。さえぎるものがないので、冷たい風がまともにぶつかってきます。早く帰りたかったのですが、案内してくださった方が熱心なので言い出せない。「ところで」とぼくは尋ねました。「あの森は何ですか?」。「耳成山です。」「あちらが香具山、こちらが畝傍山で、大和三山になります。」。
 存在は知っていたけれど、見るのは初めてでした。眺めていると、昔習った日本史の断片や人名が浮かんできます。推古天皇に聖徳太子、蘇我馬子や蘇我入鹿。不思議な気分になりました。今自分が立っているこの土地は歴史のある土地なんだ。呼ばれているのかな、と、ふとそんな気分になりました。小野妹子、そうか、自分は現代の遣隋使なのか。

 フランスで修行した店のなかで、今でもぼくの記憶に残っているのは、故ベルナール・ロワゾーの「コート・ドール」でした。当時のロワゾーはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、フランスで一番テレビ出演の多いシェフと言われていました。ヌーヴェルキュイジーヌで軽くなったフランス料理をさらに軽くしたのが彼でしたが、その時代に彼の店ではすでに野菜ばかりのコース料理があって、これがぼくには一番の驚きでした。いつか自分も店を持って、そういうことがしてみたいと夢みたのでした。
 だから、大阪の豊中市で営んでいた自分の店を15年目に大改装し、店名も「レザール・サンテ」(健康な芸術)として本格的に野菜に取り組むことにしたのも、そういう背景があったからです。野菜を中心に据えて組み立てるフランス料理。食材の医学的効能を謳い、食育のために子供のコース料理まで考えました。スローフードとかロハスとかが流行する以前のことです。ぼくは最先端を自認し、突き進んでいきました。当初は、随分世間の注目を集めましたが、次第に、ぼくと客層の価値観の違いが出てきました。手間がかかるわりには評価されなくなり、ぼくはついに錦の御旗を降ろさざるを得なくなったのです。
 あまりに早すぎた、それが世間の評価でした。そして、ぼくは「レザール・サンテ」時代の自分を封印して今日まできたのです。
 
 もう一度やってもいいのかもしれない。ふっとそう思いました。自分が学び、発展させてきたものをこの地で集大成できるのではないか。
 隣に地場野菜の産直場があります。奈良にしかない肉類や特産物も集まってきます。いわば、大きな市がたつのです。それらを活用したカジュアルなレストランがあって、その上座により高度な技術と理論、芸術性を持ったフランス料理店ができるとするなら、ここはまさしく「まほろば」となる。

「常盤」とは「変わらない様子」を表す言葉だといいます。でも、まだここにはなにもありません。これからぼくたちが作っていくのです。だから店名はあえて「トキワ」にしました。現代の遣隋使たちが持ち帰ってきた文化を、既存の文化と融合させて新しい歴史とする。それが「トキワ」への道です。
 「悠々として急げ」これは開高健の名文句ですが、ぼくたちは大和三山を仰ぎ見るこの歴史ある土地で、今、そのような大きな第一歩を踏み出そうとしています。)
by chefmessage | 2013-03-12 19:46

恋の神楽坂

 先月の22日の夕暮れ時、ぼくは東京の牛込神楽坂駅のA1出口にいました。前日にあったラ・フィネスでのフェアで頑張った自分へのご褒美のつもりで、以前から一度食事に行きたかったレストランに予約を入れていたのです。右手に、プリントアウトしたグーグルマップを握り締めている様子はまったくのお上りさんですが、前もって道順をなぞっていたので、ぼくは迷うことなく眼前の幹線道路を左に向かいました。閑静な住宅街を、どんどん直進します。でも、左折の目印になるはずのコンビニになかなかたどり着かない。おかしいなあ、と思っていたら、幹線道路を横切る形で、いきなり明るい通りにぶつかりました。右手から左手に向かって下り坂になっていて、木にはイルミネーションがぶらさがり、こぎれいなお店が軒を連ねています。女子大生のような若い女の子たちが、グループで嬌声を上げながらたくさん歩いている。道路標示を見上げると、「神楽坂」の文字。そうか、ここが神楽坂なのか、とぼくはうれしくなりました。
井上陽水の歌に「恋の神楽坂」というのがあって、どちらかというとマイナーな曲なのですが、陽水らしい意味不明な歌詞と旋律がぼくはけっこう好きだったから。
ちょっと歩いてみたいな、と思ったのですが、予約した時間が近づいていたので、角の交番の前に立っていた婦警さんに地図を示して、ここに行きたいんですが、と尋ねました。すると、想像していた通りの答え。「まるっきり逆方向です。」。実はぼくは、方向音痴なのです。急いで引き返しました。A1出口の前を早足で通り過ぎて、すると目印のコンビニがあって、その角を曲がり、二つ目の信号を右折し、しばらく行ったら左折、と思ってたちどまったら、何故か目当てのお店の前にいました。その名は「ル・マンジュ・トゥー」。谷 昇さんのレストランです。

 ぼくの店の調理場には、ずっと谷さんの「素描するフランス料理」という本があって、実はそれは、ぼくのバイブルに等しい本なのです。それが発刊されたのは随分前なのですが、当時のぼくは勢いはあったけれどアイデア先行型で、基礎の足らなさを実感していたから、じっくりとソースの解説などが書かれてあるこの本は、本当に勉強になりました。だから、一度お会いして、その人の料理が食べたかった。ぼくは、わくわくしながら、そのお店の扉を開きました。すると、いきなり谷さんが目の前にいて、「ミチノさん」と大声の笑顔で右手を差し出している。ぼくは初対面なのに、昔の戦友に会った様な気分になって、「谷さん」と言いながら、満面の笑顔でその手を握りました。
 二階のホールに案内され、饗宴が始まりました。一つ一つが丁寧で、抑制のきいた料理です。基本はクラッシックなんだけど、盛り付けは若干今風。それが、今でも最前線であろうとする意気込みに思えてうれしくなります。きっと、若い料理人のこと意識して見ているんだろうな。ただ、味のバランスは、ベテランらしい精妙さです。そして、意味の無い仕事がない。自分もこうありたいと思いました。
 すべて食べ終えて。すると、谷さんのもとで長年マネージャーをやっておられる楠本典子さんが、下で谷さんが待っている、と仰る。降りていくと厨房に面したカウンターがあって、すぐ前で谷さんがまな板洗っていました。

 だいたい、シェフがまな板を自分で洗ってはいけません。そういうのは下っ端の仕事で、そこまでシェフがやるお店は繁盛しません。なぜなら、そういうお店はいつもシェフがいないと動かないから、効率が悪く、多店舗化もできない。一軒の店にかかりっきりになっていては、儲かるはずがないのです。でも、そういうぼくも、
 朝一番の仕事は玄関の掃除です。一日の仕事の終わりはダクト清掃です。疲れた日は、明日にしようと思う。もう歳なんだから、こういうのやめようと思う。でも、やらないと自分を甘やかしているようで。
 だから、似た物同士なのでしょう。お互いの修行時代の話、今時の若い子に対する小言、あれやこれやの苦労話。谷さんは営業が終わってから仕込みしたりするので、家に帰れないことが多い。だから、上に仮眠できる場所があるそうなのですが、お風呂がないと言うのです。そういうときは厨房の大きなシンクにお湯をためて行水するんですよ。丁度、足のせるのにいい台が前にあって、でも、オレなにやってんだろ、と時々いやんなって・・・。  
 涙がでるほど笑って、話がはずんで。そして、時々真面目に決意を述べあって。
 最後にお店の全員と握手し、再会を約束して別れました。とても気分のよい夜でした。

 大阪に帰ってから、谷さんに感謝の手紙を出しました。「大阪には同世代の料理人がいないので、時々、夜道をひとりで歩いているような気分になることがあります。でも、谷さんに会って、勇気をいっぱいいただきました。」という内容でした。
 数日後、谷さんから電話がかかってきました。「ミチノさん」と、また大声で始まって、お手紙ありがとう、自分も本当に楽しかった、というようなことを話されました。そして最後に、「ミチノさん、夜道の一人歩きなんか、しちゃだめですよ。」と。
 ああ、この人はわかってくれているんだ、とうれしくなりました。同じ時代に生きて、同じ感性で人生をとらえているんだ、と。まさに戦友と呼ぶにふさわしい人物にぼくは出会うことができました。
 ラ・フィネスの杉本敬三君も、毎年フェアしようと言ってくれているから、その時には必ず「ル・マンジュ・トゥー」に行こうと思います。そして、その日はすこし早めにホテルを出て、神楽坂をのんびり歩いてみるつもりです。

 帰りは気楽な歌で 神楽坂をくだって
 時計が 夜店の先で 祭りばやしの店じまい
   井上陽水 「恋の神楽坂」
by chefmessage | 2013-02-06 20:55