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ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


by chefmessage
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     2024、年始に思うこと。北陸の友人たちへ。
 もう何年前になるのでしょうか。当時、金沢で「プレミナンス」というフランス料理店のオーナーシェフであった川本紀男さんが、地元の若い人たちを集めて、北陸の生産者さんを巡るツアーを開催していることをFacebookで知りました。それがうちの定休日でもある月曜日だから参加したくて、一面識もなかったのに川本さんにその旨を伝えたところ、是非来てくださいと快諾してくれました。ただ問題が一つ。集合時間が午前6時だったことで、前日に金沢入りしようとしても日曜日に店を留守にすることができません。いろいろ調べたところ、JR大阪駅から出る夜行バスがありました。出発は22時半でJR金沢着5時半。スタッフに「疲れますよ」と言われたけれども、それまで夜行バスに乗ったことがなかったから、むしろワクワクしてチケットを購入。時間通りに乗り込んで金沢に向かいました。川本さんが駅まで迎えに来てくれると言ってたし。

 案の定眠れなくて、やっと着いた、まだ人もまばらな金沢駅の端っこに、上下黒のジャージ姿の大男が中腰になって座っていました。何だか厳つい男だな、と近づいていったら、向こうもそう思ったのか立ち上がって、?という表情をして、こちらを見た。目と目が合って、二人とも一気に笑顔になった。川本さんとの初顔合わせでした。

 それから何度も彼のツアーには参加しました。途中からは「ルセット」の依田英敏シェフも同行するようになりました。これは結構きつかった。夜中に依田シェフがぼくの店まで車で迎えに来て、そのまま眠らずに金沢まで走るのですから。でも、高農園さんやワタリガラスさん、高村刃物さんをはじめ、多くの生産者さんと知り合いになれた。一緒に行った同業者の皆さんとも。「ぶどうの木」米田シェフ、「ENSO」の土居シェフ、「ラトリエ・ド・ノト」池端シェフ、川嶋亨くん、平田明珠くん、黒川恭平くんら若手の諸君。数え上げたらキリがないくらいたくさんの友人に恵まれました。いつしかそのツアーは「青春ドリーム号」と呼ばれるようになりました。その由来は、ぼくが初めて乗った金沢行きの夜行バスの名称が「青春ドリーム号」だったからです。このツアーは、新型コロナウイルスが蔓延して我々の身動きが取れなくなるまで続きました。

 この元旦に能登半島を中心とした地震と津波が発生したことはみなさんご存知の通りです。続々と送られてくる情報は目を覆うばかりで、ぼくは立ちすくむしかなかった。そして、今すぐにでも大切な友人たちのところに駆けつけたいと思った。でも今行って何ができるというのか。
 素人が手出しできる次元ではないのです。むしろ下手な親切ごころで闇雲に動くと邪魔になるだけでしょう。自家用車で乗り込んで、援助のために食料や資材を運ぶ車両の通行を妨げるべきではない。それでなくとも道路は寸断され迂回しなければ現地に辿り着けないし、放置車両も多く、渋滞もしているのです。衣料品や食品も、公平に行き渡る量でなければ混乱が起きるだけです。大量の支援物資が届いても、それを仕分けする必要がある。不必要なものはゴミになるだけです。自分の「善意」が「悪意」になるかもしれないということに留意しなければならない。だから後方支援はむしろ冷静に、しかも持続的でなければいけないとぼくは考えました。
 では何をすればいいのか。

 輪島の池端シェフは自店が壊滅状態になっているのに、毎日1,000から1,500人分の食事を作っているそうです。金沢のシェフたちは川本さんが中心になってチームを作り、朝晩300食の炊き出しをやっている。自分の店は営業できなくはないのに休んで参加しているシェフたち。避難所に向かうためのガソリン代、不足分の食材費、全て持ち出しだと聞いています。同業者として彼らの心意気には感動を覚えます。だから、今のぼくにできることは、その原資を送ることです。幸いなことに「北陸チャリティーレストラン」という確実な窓口が開かれています。

 自分の店にもっとたくさんお客様を呼びたい。そうすれば送れるものも多くなる。今も続いている「蘇ボックス」を一つでも多く買っていただきたい。コロナ禍が落ち着き、役割を終えたかもしれない「蘇ボックス」に再び出番が来ている気がします。
 ぼくはもっといい仕事をしてお客様に喜んでもらわなければならない。今のぼくにできることはそれだと思います。そして利益をあげて還元する。

 あと2ヶ月でぼくは70歳になります。でも、力と知恵を振り絞って働きたいと思う。そんな気持ちにさせてくれる北陸の仲間たちをぼくは心から尊敬しています。そしていつの日にか、また全員で、「青春ドリーム号」で、北陸生産者ツアーに行きたいと思います。

# by chefmessage | 2024-01-10 18:04

「波屋書房」さんのこと


   「波屋書房」さんのこと
 大阪の難波に「波屋書房」という本屋さんがあります。訪日外国人で賑やかな商店街に面しているのですが、奥に細長い店内に入ると静かで穏やかな空気が流れています。昔ながらの本の匂いがします。出来上がったぼくの「つむじ風の向かう場所」は、どこの書店よりも先に、こちらの棚に並べられました。

 「つむじ風の向かう場所」という本は、最初から人とのつながりで始まりました。ぼくの最初の書籍である「料理人という生き方」を読んだある出版社の編集者がわざわざ東京から食事に来られて、その時交わした短い会話から、彼女が当時関わっていた本にぼくのインタヴュー記事が掲載されることになりました。その記事を読んだぼくが今度は自分の本の作成をお願いすることになったのですが、それには理由があります。
 これまでたくさんのインタビューを受けて記事を書いてもらいましたが、聞き手が主体で、その流れに沿ってぼくの話をピックアップしているという感じが多かった。でも彼女は上手にぼくを流れに乗せて自由に語らせてくれて、尚且つ見事に全体をまとめ上げていた。その手腕に、この人になら任せられると、ぼくは確信したのです。
 引き受けてくれることになって喜んでいたのですが、それからしばらくして、彼女が会社を辞めたという知らせがもたらされました。困ったな、と思ったのですが、これからどうするの、と彼女に尋ねると、一人出版社を立ち上げると言います。大手の出版社から本を出せるというのは魅力ですが、ぼくは彼女の手腕と人柄に信頼を寄せていたので、その会社の第一号出版物にしてもらうことにしました。

 完成までずいぶん時間がかかりましたが、その間、本を作るということがどれだけ大変なことであるかを教えられました。好きでないとできない。でも、そんな人がいる限り世の中から本が消え去ることはないということも知らされて、ぼくは嬉しかった。文章を書く、ということと、本を作るということは同じではありません。どれだけ素晴らしい文章を書いても、作り手がいなければ本は生まれないのです。だから、彼女と出会えてぼくは本当に良かったと思っています。
 「波屋書房」さんは、いわば彼女のお得意さんで、とても良好な関係を保っていたから、彼女の作ったものなら、ということでぼくの本は扱っていただけることになりました。これは是非にでもご挨拶に伺わないといけないと思ったので、休みの日に出かけることにしました。
 手土産はマダムの焼き菓子。それからもう一つ、取っておきを用意しました。

 波屋さんは創業100年を超える老舗の本屋さんだから、数多くの作家が常連だったとお聞きしています。その中の一人が織田作之助だったそうです。
 高校生の時、ぼくは織田作之助の小説に夢中になりました。何がそんなに良かったのか今ではよくわからないのですが、全集を手に入れて隅から隅まで読みました。並行して、大阪神戸の古本屋さんをくまなく訪ねて、初版本を何冊か買い込みました。その中の一冊を波屋さんの手土産にすることにしたのです。
 これが功を奏したのでしょうか。初対面だというのに、ご主人に奥様を交えて話がつきません。お二人ともご高齢ですがずいぶんお元気です。楽しくて楽しくて、その間にも料理人と思しき人たちが熱心に料理本を物色しています。波屋さんは料理本の品揃えの多さで有名な本屋さんだから。
 でも、あんまりお仕事の邪魔をしては行けないと思って、ぼくは帰ることにしました。すると、ご主人が一冊の分厚い本を手渡してくれました。そういえばご主人が丁寧にブックカバーをつけておられると思っていたのです。奥様が満面の笑顔で「物々交換で持っていってください」とおっしゃる。馬車の絵が描かれたカバーを外すと「オダサク アゲイン」という表紙が現れました。それはぼくがこちらに来た時から気になっていた本だったのです。イラストレーター成瀬國晴さんの大作。サイン入り。表紙のオダサクのイラストが素晴らしくカッコいい。その粋な計らいに胸が熱くなって、挨拶もそこそこに外へ出て、やっぱりお二人と写真が撮りたくて店に戻ると。
 先ほどから料理本を物色していた二人のお客さんが、ぼくの本を持ってレジの前に立っている。ご夫妻と記念撮影後、「よう戻ってきてくれはった」と言ってご主人がサインペンをぼくに手渡します。本を買った人が「お願いします」とぼくに言う。サインして名刺交換すると、お一人は仙台、もうお一人は気仙沼の料理人さんでした。先日、仙台に行ってきたばかりだったから話が弾んで、僕たちのお店にも来てください、と言うことになって、店の外に出て写真撮って、握手して別れて。もう何が何だかわからない。それでも歩き出そうとして振り返ると、ご主人が店内から笑顔で手を振っておられた。ぼくはなぜか、報われた、と思った。人の繋がりって素晴らしい。オレはまだやれる、そう思った。

 文章を書く人がいる、それを本にする人がいる、それを売る人がいて買う人がいる。

 ここに来て本の匂いを嗅げばホッとする、そんな町の本屋さんがいつまでもありますように。
 





# by chefmessage | 2023-10-25 20:54

身を任せる前に

  身を任せる前に
 この頃思うのですが、自動車にくっついている高齢者マークというのでしょうか4色のステッカーについて、むしろあれより初心者マークの方が適しているのではないかという気がするのです。というのも、誰でもそうだと、なってみて気がついたのですが、高齢者になるのは初めての経験で、一つ一つの現象が正常なのかそれとも加齢によるものなのか判断がつかないことが多い。だから、まだ大丈夫だろうと過信して、無理をしてクタクタになってしまうことがよくあります。心よりも早く自分の体が衰えていっていることに気づかされて、でもそれをいち早く認識して対処していかなければますます弱くなっていって、その結果、もういいかと老いを受け入れてしまう、それが実感として理解できるから、ぼくは毎日、自分の行く末を見つめようとしています。
 それに周りを見回すと、これは老害だとしか思えないような人たちがそれなりにいて、あんなふうにはなりたくないなと自戒も込めて自分の有り様を模索しています。それにしても、老いを受け入れる、ある意味、もうすぐ人生は終わるんだからと開き直った人間の言動は時に見苦しい。怖いものがなくなる、ということなのでしょうか。それとも、細やかな人の心の機微に鈍感になっているのでしょうか。
 ただ、中には必要以上に遠慮深くなる人もいるようで、それもどうかなと思う。幾つになっても、人としてニュートラルな立場でいたい。言い換えれば、ある程度尊厳を公私共に保ちながら、最後の時を迎えたいと思うのです。そのためには、失われたものと得たものとの相互のバランスを図ることが必要ではないでしょうか。失われたものを補う何かを発見する、というか。

 過日、「絶唱浪曲ストーリー」という映画を見ました。ぼくが浪曲が好きだというと奇異な目で見られることが多いのですが、それは出会いの問題だと思います。60歳過ぎて初めて浪曲に直に触れた時、ぼくは一撃で引き込まれました。それが玉川奈々福という浪曲再興の先駆けとなった人との出会いであったことが大きいのですが、ぼくにとっては新鮮で刺激的な世界だった。それ以来、ぼくは浪曲ファンであることを公言してきました。
 前述の映画に、港家小柳という女流浪曲師が登場します。87歳(85歳の説もあり)で初の独演会を開いて会場を大入り満員にし、芸豪と言われた人です。その人が2年後、口演の途中で「声が出なくなりました」と退場する場面が映し出されます。そして彼女はそのまま引退し、数年後死去するのですが、その時の気持ちを想像すると、ぼくは畏怖を覚えざるを得ません。これまで自分を支えてきた芸に自分自身で終止符を打たなければならなくなった時の気持ちってどんなだろうか。まだできる、もうできない、そんなせめぎ合いにけりをつけた瞬間に胸の内に去来するもの。得たものと失ったものとが一つになって完結する時。

 やがてぼくにもその時が来ます。今はむしろいろんな仕組みがわかるようになって、ある程度思い通りの仕事ができるようになってきたから、その意味では面白くなってはいるのです。でも、体力が保たない。気合いを入れないと体が動かないし、すぐに疲れてしまう。やっとできるようになってきたのに、と悔しさがつのります。そんな時に思うのです。初心者マークをつけて走ろう。今が出発点だと思って進もう。それならまだ、行けるところがある。

 ディラン・トマスというイギリスの詩人は
「穏やかな夜に身を任せるな」と書きました。むしろ、怒れと彼は言いました。でも、ぼくは怒ろうとは思わない。ただ、立ち向かおうとは思います。ぼくの仕事の流儀は「前衛」です。常に新しいことを発見し、それを形にすることだと考えています。でもそれは気を衒うことではありません。伝統と言われているものを今日的なものとして表現すること。すなわち、「新しいけれども懐かしいもの」を作ることです。ぼくもやがて小柳さんのように「声が出なくなる」でしょう。でも、その時がまだぼくには出発点であることをぼくは願っています。

# by chefmessage | 2023-08-09 15:02