ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


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桜の花咲く頃に。

どうして自分がコックになったのか、実は、今でもよくわかりません。だから、もう40年近くこの仕事をやり続けているのに、料理を作っている自分を不思議な気持ちで眺めているもう一人の自分がいることに気がつくことがあります。そして、どうしてフランス料理なんだろうと、首をかしげていることにも。

 初めてフランス料理なるものに接したのは、大学4年生の時でした。そのとき付き合っていたガールフレンドがアルバイトをしていたレストランに、その彼女と一緒に行きました。エスカルゴと牛フィレのペッパーステーキを食べたことを憶えています。

 食後に、シェフと話しました。なにげなく、ぼくが「こういう仕事もいいなと思っています」と言うと、シェフがすかさず「やめとき」と仰った。「大学までいった賢い君が、たとえば黒だと思っても、私が白だといったら従わないといけないのがこの世界や。我慢できるはずがないから、やめとき。」。

 その言葉を聞いたとき、ぼくは唐突に決めたのです。ぼくは料理人になる、フランス料理のシェフになる、と。そのときの心の動きを何度も反芻しては分析しようと試みたのですが、すべては後付けの理屈のように思えて、未だに納得できる答えは見つけられてはいません。天啓、といえば格好いいのでしょうが、実際は、単なる思い付きでしかなかったような気がします。

 かといって、なんの伝手もありません。ぼくは食べることに興味があったわけではないし、それまで料理なんて作ったことがない。リンゴの皮すら剥けなかったし、イワシと鯵の区別もつかなかった。だから、最初に行ったレストランのシェフにお願いするしかありませんでした。「ぼくを雇っていただけませんか?」。

 最初は、定員いっぱいで無理だと言われました。でも、これは後からシェフに聞いた話ですが、ぼくのガールフレンドが必死に頼み込んでくれたらしい。「しゃあないから雇たったんや。」とシェフがよく言ってたのを覚えています。

 (これは先に明らかにしておきますが、その彼女は、今のぼくの家内ではありません、残念ながら。世の中は、それほどロマンチックではないようです。)

 それから、ぼくは時間があるときはそのレストランでアルバイトをするようになり、卒業と同時に、正式に調理師見習いとなりました。その店の名は「ボルドー」、そして、全くなにもできなかったぼくを雇ってくれたのは、先日、黄綬褒章を受勲した大溝隆夫シェフです。

 その大溝シェフの受勲パーティーが2月29日にあったので出席してきました。場所は、京都のホテルグランヴィアだったのですが、行って驚きました。出席者400人、その殆どが、日本中から集まった業界の著名人や重鎮。恐れ入りました。大溝シェフは、いわば街場の、一軒のレストランのオーナーシェフに過ぎません。それなのに、この圧倒的な人脈は何なのか。40年という時の重みをひしひしと感じました。それを如実にあらわしていたのが、当日のグランヴィアの料理でした。一切手抜き無しのガチガチのフランス料理を400人分出してきた。メインの料理にいたっては、各テーブルを著名なシェフが一人ずつ担当して料理を盛り、サーヴするという演出。その数、40人!参りました。多くの人たちが労を惜しまず、大溝シェフのために尽力しているのが伝わってきて、ぼくは感動しました。それと同時に、ぼくは自省せざるを得なかった。大溝シェフが、かくも広範な人脈を築くに至るまでの間、ぼくは一体なにをしてきたのか。

 自分では懸命に生きてきたつもりです。でも、どれだけぼくは進歩したというのか。世にもてはやされて有頂天になった時期もあったけれど、その後凋落し、そこから抜け出そうと必死で努力してなんとかここまで来たけれど、その間、ぼくはどれだけ成長したというのか。

 桜の花咲く頃に、不安を抱え、途方にくれながらもとりあえずスタートして以来、ぼくはどれだけの距離を走破することができたのだろうか。

 何もあの頃とは変わっていないような気がします。でも、着実に時間は過ぎてきました。件のガールフレンドは大学卒業後、郷里に戻って英語の教師になったそうです。そして、いまでも大溝シェフとは連絡を取り合っているようで、「彼女、定年やって言うてたわ。」とシェフから聞きました。もうそんな年になったのかと大いに驚きましたが、考えたら当たり前です。来月、ぼく自身が62歳になるのですから。

 大盛況のパーティーの中にいて、ぼくは暗澹たる気持ちになりました。自分に残された時間は、もう多くはない。でも、お開きになる前の大溝シェフのスピーチを聞いて、ぼくは思い直しました。シェフは声高らかに宣言していました。「力の続く限り頑張ります。」。そうか、それなら、その弟子たる自分もやらねばならない。今まさにスタートラインに立ったつもりで、もう一度走りだそう。

 「ボルドー」の近くにある、常照寺の桜もやがて咲き始めるでしょう。長年忘れていたその光景を、ぼくは今思いだしています。そして、いつまでも忘れないで、唐突に始まった料理人人生を、悔いの残らないよう全うしようと思います。


# by chefmessage | 2016-03-03 12:13

新年の抱負 2016

 毎年1月1日は、家族とともにぼくの両親に会いに行きます。今年は長女がアルバイトでいないので、長男と次女、そしてぼくたち夫婦の4人での訪問になりました。

 父はもうすぐ90歳、そして母は83歳になります。ふたりでマンション暮らしをしています。母は、もうずいぶん前から認知症で、その世話を父がする、いわゆる老老介護の世帯です。

 玄関を入ると、父が出迎えてくれます。そして、まず写真部屋にぼくたちを誘います。そこには孫たちの写真がいっぱい張り付けてある。そして、子供たちに自分たちの近況を話し、子供たちからも聞く、これが毎年の恒例行事です。

 話が途切れたときに、父がぼくに目配せをして、一枚の文書を差し出しました。それは、かかりつけの医師による母の病状の説明で、肺がん末期により余命6か月から1年、と書かれてある。そして、在宅ケアとして、痛みの緩和、という項目に線が引かれてありました。

 母は他人と会うことをいやがります。そして、不機嫌になります。それは、相手のことが認識できないから不安になるのと、そんな自分にイライラするからなのでしょうが、今年は椅子に座ったままで随分おとなしかった。それが、薬のせいだと父はぼくに伝えたかったのでしょう。

 コタツのある居間に移って、みんなで持参したお節を食べました。母は、椅子に座ったまま動きません。父はあいかわらずおしゃべりです。孫相手に、本当に楽しそうです。そんな様子を、母は時々見つめている。

 食事のあとは、うちの家族で初詣。足がすこし不自由な父が、戻ってくるのか、と尋ねます。うん、また帰ってくるから。それなら、セブンイレブンでコーヒーを買ってきてくれ、と言います。お母さんと半分ずつ飲むから。

 シャッターの閉まった商店街を通り抜けて近所の神社に到着。それぞれが願掛けをし、古いお守りを新しいものと変え、おみくじを引いて見せ合います。毎年の出来事。でも、来年、母はいないかもしれないと思うと、突然、涙がこぼれそうになる。

 両親のマンションに戻る途中にあるコンビニで全員のコーヒーを買って部屋に戻ると、母が居間に移動してコタツに足を入れている。父が買い置きのお菓子を出してきて、みんなでそれを食べながら談笑。次女が父に、子供のなかで一番親の言いつけを守らなかったのは誰?と聞きます。ぼくは男ばかり4人兄弟のうちの次男です。父が、子供の前では言いにくいけど、と言いながら、ぼくの方を見ます。あ、やっぱり、とうちの次女。子供があんまり言うこと聞かんときは押し入れに放り込んで、謝るまで出してやらんようにしてたんやけど、あんたのお父さんだけは絶対謝らんかった。しばらくして、あんまり静かやからそっと覗いたら、なんとただしくんは寝とった!

 そんな話の合間に母が、コタツのうえのお菓子を指して、それ何?とぼくの息子に尋ねます。お菓子だよ、食べる?うん。包装紙を外して手渡すと、おいしそうに食べます。

 そういえば、こないだケアセンターの人が、お父さん大変だろうから1週間お母さん預かりましょうか、と言うてくれたので任せることにしたんや、と父が話します。でもな、気になって預けた次の日に見にいったら、お母さん車いすに乗せられて、おおきなおむつでぐるぐる巻きにされて、ポツンと置き去りにされて、前の台に缶詰開けたもん置いてあって、それが不憫でな、その晩ぼくは寝れなんだ。だから朝一番で、家内に会いたい人が来るからとウソついてな、ホンマの事言うて気を悪くされても困るし適当なこと言うて帰らしてもろたんや。

 お父さん本当にたいへんですね、わたしも忙しいから時間がなかなか取れないけど、どうしようもないときには言ってくださいね、とぼくの奥さんが言うと、いやいや、4人の子供生んで育ててくれた恩があるから、ぼくはできる限り自分で面倒みてやろうと思うてんのや、と父がいいます。

 いまや好々爺となりはてたぼくの父ですが、この人は本当に厳しい父であり夫だった。初めて作り上げたプラモデルを、こんなもの作るヒマがあったら勉強しろと、ハンマーで粉々にされたことがあった。そうっと買ってきた漫画を破り捨てられたこともあった。母に対して手を挙げたこともありました。だから、ぼくはこの父をこころから憎んだこともありました。ぼくたち兄弟も母も、この父のために幸せになれないと思った。

 でも今、母は幸せだと思う。

 

 夜は、母に父が添い寝をするのだそうです。そして、目が覚めたら母の寝息を確かめ、それを聞いて、安心してまた眠るのだと。

 ぼくは、自分がこの年齢になってやっと、父の本質を理解することができたように思います。本当は、誰よりも家族を愛する人だったんだ。そして、ぼくは父を今、こころから尊敬しています。伝わる方法があるなら伝えたい。ぼくは、あなたの息子として生まれたことを誇りに思っていると。

 帰り際に、ぼくの家族全員が父と握手をするのも恒例の行事です。母は、いつものように知らん顔をしている。そうして別れを告げてエレベーターに向かっていると、ちょっと待った、と父が声をかけてきます。振り返ると、母がいる。なんやお母さんが急に立ち上がって見送るって言うんや。

 母が手を振っている。そして、またね、と言う。また、があるかどうかわからないのに。

 帰宅して一人になったとき、涙があふれてとまらなかった。そして、ぼくにできることは何なのかと考えました。ぼくは両親に、なにも恩返しができなかったひたすら親不孝な息子だった。でも、もしできることがあるとするなら、それはただ一つ。ぼくの子供たちが、ぼくの子供であることを誇りに思ってくれるような父親になること。ぼくは両親から伝えられたことを彼らに伝えるのが役目だから。そしてその役目を喜んで果たしたいと思う。

 これがぼくの今年の抱負です。言葉にするなら、それは「勇気」です。

 

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# by chefmessage | 2016-01-04 19:09

熱帯魚の飼い方

 よくある質問に、「子供の頃は何になりたかったですか」というのがありますが、ぼくの場合は、「水族館の館長」です。そう答えると、だいたい不思議そうな顔をされるのですが、ぼくは水族館で魚を見ることが大好きな子供でした。だから、小学生から中学生の頃は、金魚や熱帯魚を飼っていました。でも、どれも長生きしてくれない。すぐに死んでしまう。それでも、飽きもせず色んな種類を飼いつづけていたのですが、やがて水槽は空になり、その水槽もなくなりました。それがどういうわけか、また飼いたくなってきた。でも、以前のように次々死んでしまうのもいやだから、予習をしようと考えて、ネットで熱帯魚の飼い方、まず初心者向けのサイトから読み始めたのです。すると、熱帯魚飼育の世界も、実は随分科学的になっていることに気がつきました。いや、本当は前からそうだったのかもしれないけれど、ネットのない時代には、それを理解するには本を購読するか、あるいはベテラン、例えば古くからの熱帯魚屋のオヤジとかと懇意になって、教えを乞うしかなかった。小学生や中学生には縁遠い世界だったのです。でも、いまや携帯電話があれば実に多くの情報が手に入る。そして、ぼくは確信を持つに至ったのです。今なら、熱帯魚を長生きさせることができる。
 でもぼくの場合、手間ヒマ惜しんで、というのは時間的に無理です。だから大きい水槽はやめました。魚種も、マニアックなものは難しい。熱帯魚の王様、といわれているのはディスカスという魚で、これを飼ってみたかったのですが、到底歯がたちません。例えば、こうです。
「ディスカスの産地であるネグロ川は、導電率が8us/cm、ph5.0、GH1以下、KH1以下、という軟水で、繁殖を狙うならこのようなデータを元に環境を整えるようにする。」。
 できるはずがないやん、と思いません?

 熱帯魚飼育の第一歩は、水をととのえることです。まず、水道水の塩素(カルキ)を抜く。これは薬品で簡単にできます。次に、温度を調整する(25~26度くらい)。それから、水中のバクテリアを増やす。魚の排泄物や餌の食べ残し、枯れた水草の葉などが水槽のなかでアンモニアを発生し、これが毒素となるのですが、それを亜硝酸へ、さらに硝酸に変えて毒素を弱める力がバクテリアにはあります。逆にいうと、バクテリアなどの微生物すら住めない水では魚は生きていけないのです。このバクテリアは基本、ろ過で増やせます。急ぐ場合はバクテリア剤を入れます。そして、次のステップ。飼いたい魚の住んでいた場所に近い水にする。軟水か硬水か。PHはどのくらいか。これは、ネットで簡単に調べてデータを手に入れることができるし、対処法もむずかしくありません。
 どうですか、結構、科学だと思いません?でも、魚種によってはかなり気をつかわないといけないものもあり、先のディスカスなどはその筆頭なのですが、それゆえに、マニアの世界はとことん深くなっていくのです。
 ぼくが子供のころのディスカスといえば、茶色にうっすらと黒の縦じま、上下にブルーの波型が入っているものがほとんどで、改良型のブルーというかターコイズというのがめずらしかったくらいでしたが、現在のディスカスには数え切れないくらいの改良バージョンがあります。白、赤、青、黄色にキャリコ、そのどれもが写真でみると素晴らしく美しい。血統も、本家あり分家あり、出身もアジア、ドイツと多岐におよびます。その改良にどれほどの時間が費やされ、どれだけの心血が注がれたのか想像するのも恐ろしい世界なのですが、でも、もっともマニアックとされているのは、じつはワイルドと呼ばれている原種なのです。現地ですくってきたそのもの。
 そこまで考えてきたとき、ぼくはふと思いました。これって、料理の世界とそっくりやん。
 まず、料理は科学である、ということが明らかになりました。そこから、多くのことが理論的に解明され、それに基づいて、さまざまな技法が再構築、あるいは発見されました。それがネットで世界中に発信されるようになり、それぞれの国の固有の文化と結合し、いまや百花繚乱となっている。でも、情報過多による混乱も多くみられるようになってきた。料理人が、自己不信に陥り、将来の展望を見出しにくくなっている。そのようなときに原種が再び注目を集めるようになる、ということになれば話は大団円になるのですが、料理の世界はやはり熱帯魚のような趣味の世界と同一にはなりません。なにしろ歴史が桁違いに長い、それに、文化として生活にしっかりと根をおろしている。また、流行の規模が全世界的です。それだけに混沌もまた桁外れに大きいとは思うのですが、ただ、ひとつの指針として、原種はなくなってはならないと思うのです。原種、といっても、そのままではありません。その面影を未だ残しているもの、という程度ですが、でも、それはなくなってはならないと思うのです。
 原種があるから、その改良型は評価の対象となりうるのではないか。
 厨房の火の前に立って、ひたすら完璧をめざそうとする姿勢。自分が描き、形として生み出す第一歩を踏み出し、いくつかの工程を人の手を経ても、最終的に自分が完結させるスタイル、それはすでに時代遅れであり、できあがるものはあまりに簡潔すぎるかもしれない。努力に比べて、その成果はあまりに小さなものかもしれないけれど、そして、自己満足とそしられることもあるかもしれないけれど、自分に恥じない毎日を生きること。
 みんな、自分好みのディスカスを選べばよいのです。それが個性であり、優劣なんてないように思います。ぼくは、原種を選びたい、というか、それが性に合っているということなのでしょう。

 仕事が終わって帰宅すると、まず熱帯魚の水槽を覗き込む毎日です。水槽は2個あって、一つには魚が入っていません。やっと水ができあがりつつあるところ。来週の月曜日に注文した魚が届きます。ペルヴィカクロミス・タエニアータス・ナイジェリアレッド。何故か、熱帯魚の名前は覚えることができます。料理名はしょっちゅう忘れるのに。やっぱり、水族館の館長になったほうがよかったのかな、と、その一瞬だけ思います。
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# by chefmessage | 2015-12-01 20:51

怒りについて

 
穏やかな夜に身を任せるな。
老いても怒りを燃やせ、終わりゆく日に。
怒れ、怒れ、消えゆく光に。
   ディラン・トマス

 半年ほど前から体調がすぐれず、これはなんだかおかしいと思っていたのです。とにかく体が重い。何をするのも億劫で面倒くさい。仕事どころか、朝起きて、顔を洗うことすら気合を入れないとできない。疲れきっている、という感じ。
 それに、気分もよくない。悪いほうにばかり気がいきます。とにかく気が滅入る、楽しい気分になれない。まったくおしゃれに気を使えないし、物欲もなくなっている。なにより、美しい女性がそばにいてもときめかない!これは病気やな、と判断して、主治医のS先生のところに行きました。
 S先生は内科医で、本来は専門外だけど、それは多分、更年期障害だろうとおっしゃる。男にもあるんですか?と尋ねると、加齢による著しい体力の低下にストレスが重なると、鬱と同じ症状になることがある、多分それでしょう、という診断。では、どうすればよいのか。とにかく、安定剤と抗鬱剤を飲んでみてください、それで様子を見ましょう、ということになりました。
 たしかに薬を飲むと、なにやら足取りが軽くなった感じです。なんとか日常生活には差し支えなくなった。そして1週間で、処方された薬はなくなりました。そのとき、不安が芽生えました。薬を飲まないと、また元に戻るのではないか。でも、それに頼るのは危険ではないか。

 もとより、意志の強い人間ではありません。本来は怠惰で誘惑に弱い人間です。そこで、一計を案じました。なにか無理やりにでも面白いことをしよう。周囲が驚いて、それで自分も楽しくなるようなこと。とにかく雰囲気を変えて、気分が高揚すること。薬に頼らず、自力で浮上しようと試みました。では、なにをすればいいのか?手っ取り早く出来ることは何か?
 そや、髪の色を変えよう。そういえば、近くの美容院でネイルを専門にしてる女の子がいきなり金髪にして周囲を驚かせてたから、それをしよう。
 その美容院のオーナーに相談に行きました。色んな話を聞いて、その道のプロというのはどの世界でもよく勉強しているな、と感心したのですが、その翌日に予約を入れたときの、そのオーナーの反応からして、すでに面白かった。「ミチノさん、本当にするんですか?」。
 ブリーチを連続2回、4時間以上かけてぼくの金髪は完成しました。仕上げを施しているときに、そのオーナーが言いました。「ぼくがブリーチした人の中で、一番の高齢はミチノさんです。」。そして、「ミチノさん、マジで怖いですよ。」。
 でも、その金髪の威力で、ぼくはすこし浮上しました。それでも、本調子ではない。もとより、元に戻るはずはないのですが。なにしろ、本来ならば定年退職の年齢なのですから。
 
 そんな時、一本の映画に出会いました。そして、大いに感動しました。それは、最新のバットマン三部作の監督だった、クリストファー・ノーランの「インターステラー」。
 まさに滅ぼうとする地球に替わって、人類が移住できる惑星を探索する宇宙飛行士の物語ですが、その計画の中心人物の教授がいつも呟く詩が、冒頭のディラン・トマスの「穏やかな夜に身を任せるな」です。不確定要素の多い計画、でもそれに賭けなければ確実に人類は滅びる、だから、あきらめるな、という意味をこめて「怒れ」と言う。
 実際、ディラン・トマスは、病床にあって今まさに逝こうとしている父親に向けてこの詩を書いたそうなのですが、その文言は最初、ぼくの耳には違和感を持って伝わりました。滅びるときに、何故怒らねばならないのか。むしろ、穏やかに、粛々と受け入れるべきではないのか。
 年老いたものは後進に道を譲り、静かに退場していくべきだ。だから、感情の起伏を抑え、物分かりよくあらねばならない、ぼくはそういうものだと思っていました。一度は表舞台に立ったのだから、もういいだろう、と。
 でも、あきらめるな、と、この詩は、この映画は訴えてきました。最後の最後まで全力を尽くせ、と。

 この「怒り」は、他者に対する直接的な暴力、あるいは何らかの攻撃を指しているのではありません。もっと純粋で基本的な感情そのもの、端的に表すならば、不条理への無意識な抵抗、ということになるのでしょうか。その不条理とは、滅びる、ということ。

 ぼく達の業界では、オーナーシェフが店を10年維持できたら奇跡、30年続けることができたら、それは伝説、になるそうです。それなら、ぼくはあと4年で伝説の男になります。でも、実体は、そんなかっこいいものではありません。あとからあとから押し寄せてくる波に抗して、立っているのが精一杯の有様です。押し返すにも加齢がそれを妨げるから、そして、それはますます苛烈になっていくから、更年期障害も起こって当然でしょう。やがて、ぼくは力尽きて滅び、忘れ去られていく。長い間かけて築き上げてきた技術や理論、そして実践の歴史は、いとも簡単に消え去っていくでしょう。そのことを、ぼくは悄然と受け入れなければならないのか。
 あるいは、
 愛する家族一人ひとりをいつまでも見守っていたいのに、彼や彼女たちが大人になり、それぞれの人生を歩む、それにいつまでも寄り添っていたいのに、ひとりで逝かなければならない、そのことをこころ静かに受け入れなければならないのか、穏やかな夜に身を委ねる準備をしなければならないのか。
 否!と、ぼくのこころは叫びます。ぼくは、最後の最後まで抵抗するべきではないのか。そこに考えが至ったとき、当初に感じた「怒り」に対する感情的な違和感はなくなり、むしろ肯定的に捉えていることに気付きました。
 そのようなことを「インターステラー」とディラン・トマスの詩から感じ取ったぼくは、どうやら、更年期障害の呪縛から解放されつつあるようです。でも、ぼくはまだ燃え尽きようとは思っていません。それはまだ早すぎる。なぜなら、ぼくにはまだやれることがあると思うから。主治医のS先生も、こう言ってました。「遣り残したことがあると思っているうちは、人はなかなか死にません。」。
 これから、ぼくは完成へと向かいます。たどり着かなくても、最後までぼくは「怒り」を抱いて、全力で走りたいと思います。

盲目の目が流星のように燃えたち 明るくありえたことを
見えなくなりつつある目で見る いまわの際の善良な人たちよ
死に絶え行く光に向かって
憤怒せよ 憤怒せよ
       Dylan Thomas 「Do Not Go Gentle Into That Good Night」 
# by chefmessage | 2015-09-23 20:19
 ちょっとでも時間があれば、本を読みたい、ぼくはそういう人間で、とくにフィクションというか小説が好みです。これは多分、高校生のころからずっと続く習慣なのですが、それでは、これまでで一番感銘を受けた、あるいは好きな作家は誰かというと、それは開高健にとどめをさします。彼の「日本三文オペラ」と「夏の闇」は、もし余命宣告を受けたら必ず再読したいと思っている作品です。
その開高健が、YouTubeの動画でこんなことを語っています。「筆舌につくし難いとか、声を呑んだとか、言葉を忘れたとか、こういうことを書いている人がいるんだけれども、これは敗北だな。物書きならば、何がなんでもこねあげて、表現しなければならないと思う。」。この言葉を耳にしたとき、ぼくは作家開高の凄みを感じました。矜持というような生易しいものではない。それはまさしく覚悟なんだ、と。その覚悟から立ち昇ってきたのが、あの瑞々しい文章の連なりなのだと思うと、ぼくはこの作家に畏敬の念すら覚えます。
ぼくの仕事は文学のように、社会に影響を与えるなんてことはないし、ときに人の人生観にまで深く関わるといったようなだいそれたものでは全くない、それどころか、一瞬に消えてなくなる実にたよりないものでしかないけれども、それでも、覚悟といったものは必要なのではないかと、時々考えます。
 とはいっても、すべての文学が影響力を持つのではなく、とくにすぐれたものだけがその力を伝播させうるように、料理のなかでも傑出したものだけが、人の心に記憶として残り続けることができるのではないか。そのためには、「なにがなんでもこねあげて表現しなければならない」という覚悟、言い換えるならば、それを成し得なければ自分の人生に意味がないとまで思いつめる覚悟がなければならないのではないか、と思うのです。
たかが料理ごときで、そんなに思いつめることはないとは思うのですが、これは多分に持って産まれた性分でもあるのでしょう。人に楽しんでもらうのが仕事なんだから、自分も楽しんでやらないとだめですよ、という意見も否定はしません。それに、食べ手に難しいことを要求しようとも思っていません。でも、なにかが違う、なにか力強いものが感じられる、そういうものにはやはり覚悟があるのではないでしょうか。
 ただ、これは料理に関してのことなのですが、その覚悟は何を目指してのものなのかは、作る人間によって異なると考えられます。
 例えば、今まで誰もやったことのないもの、なしえなかったことを目指すとするならば、それは何なのか。皿の上の料理の美しさなのか、素材の使い方、あるいは変化のさせ方なのか、組み合わせか、あるいは味そのものか。
残念なことに、上記のすべてを包括させることは不可能です。いくつかをまとめることはできるでしょう。例えば、美しさと素材の使い方、変化、組み合わせ、これらに関しては、もちろん優れた技能と卓越した理論、そしてそれなりの才能は必要だけれども、できないことはない。でも、そこに味の追求まで入れようとすると、これはできません。なぜなら、要素が多すぎてまとまらないからです。味というものはそれ自体が多重構造になっているから、パーツが多くなれば計算しきれなくなるのです。すなわち、「何を食べたかわからない」状態になってしまいます。だから、味を追求しようとするならば必然、パーツや余分な飾りを削っていくことになります。簡単に言うと、装飾の多いもので美味しいものはつくれないとぼく自身は判断しています。

 フランス料理に関して述べるならば、現在の状況は二分化しています。これまでにないような素材の使い方や技法で自分の感性を表現する、あるいは、見た目の奇抜さや美しさで相手に訴えかけるという云わば現代派、もう一方は味に焦点をしぼって素材を吟味し、方向を明らかにして相手の気持ちを着地させる古典派。古典と表すとなにやら古臭い感じが否めませんが、保守とか主流とかもちょっと違うし、それ以外に言葉が見当らないので、現代と比較しやすいこともあって、そういうことにしておきます。もちろん、その両方の美点を兼ね備えた中道派もいますが、話をすすめていくうえで難しくなるので、今は脇に置くとして。
 さて、いわゆる世間の耳目を集めるのは、いまのところ、圧倒的に現代派です。ミシュランガイドでも食べログでも、あるいはそのほかのマスメディアでも、そしてそれらを目にしたグルメな方々の間でも必ず話題になる。そうなると世の常で、みんながそちらに向かいます。お店もお客様も。でも、それでいいのだろうかと、ぼくは時々、疑問に感じます。
 大阪でこの現代派の代表と目されるお店のシェフが、こんなことを言ってたと聞いたことがあります。「今日はお客様全員が日本人じゃなかった、こんな店をぼくはやりたかったんだ。」。
 この言葉には少々解説が必要かもしれません。何故、彼はそのような状況を喜んだのか。
 世界中のレストランをランキングする組織があります。「世界のベストレストラン50」とかいうフレーズがありますが、まさしくそれです。いわゆる、世界で一番予約が取りにくいレストランとかは、これで決まります。そして、そのランキングを決める審査員は日本人だけではありません。すなわち、客の外人比率が高くなると審査員の含まれる可能性も大になるのです。それと同時に、世界を相手にすると、来客層が圧倒的に広がるということもあります。地域密着型というモデルケースはここにはありません。常連客を獲得するとか、リピーターを増やすとかいう考え方も従来と比べると希薄になります。市場を世界に求める、という壮大な目標があるばかりです。それに近づくために必要なものは自身の、あるいは自店のブランド化でしょう。そのためには、とにかく目だたなければならない、マスコミに取り上げられ続けなければならない。そして、最後の目標は?
 たとえば、ルイ・ヴィトンのバッグの原価を考えてそれを買う人がいないように、料金設定が高くてもお客様が次々に来てくださる店にすること。そうすれば余剰金が産まれ、店に、人に、食器にふんだんに投資することができる。そして、よりグレードの高いポジションを目指すことができる。
 それは決して間違いではないとぼくは思います。でも、間違いではないものが必ずしも正しいわけではない、とも思います。なぜなら、それは流行だからです。そして流行は絶えず変化するものだから。「世界のベストレストラン50」がいつまでも同じなら、それには何の価値もありません。そして、料理は品物と違って残らないものだから、変化のスピードは速い。めまぐるしく変化しているのです。
 ぼく自身、なんども書いているように、その変化の中に身を置いていたことがあります。そして、凋落していきました。それがどれだけ辛いことであるのか、ぼくは身をもって教えられました。絶頂の5年、なんとか持ちこたえた5年。そのあとに続く長い長い失意の日々。そして、そこから這い上がろうとする努力、気力を保ち続けることの難しさ。
 28歳で芥川賞を受賞した開高健のことを思い出します。その後の十数年は社会的には絶頂期だったでしょう。けれども、やがて書けなくなる。そして、彼は世界中を釣りして回るようになります。それは豪放にみえるけれども、どこか痛々しい。追い詰められたものが救いを求めているように、ぼくには見受けられました。あるいは、張り詰めたものから目をそらすかのような。
 見つめれば見つめるほど、形がみえなくなるもの、世界はそのようなものかもしれません。でも、それを言葉にして表現しなければならないとすれば、その苦しみはまさしく筆舌に尽くし難いものでしょう。でも、それは許されないとするなら。

 開高健は58歳で病没しました。ぼくは、彼より3歳年上になりました。自店をオープンさせたとき、彼に来てもらいたくて、サントリーの方に中継ぎを頼もうかと迷ったくらいなのですが、本当は、期待すると同時に怖れていました。でも、オープンして1年経つかたたないうちに亡くなってしまいました。正直、ぼくはほっとしました。でも、釣りの話は聞きたかったな。
 彼が病いに倒れなかったら、未完になってしまった「闇の三部作」最終編、「花終る闇」は名作となりえたのか?ぼくが読んだかぎりにおいては、不朽の名作になったであろう感触をつかむことはできなかったのですが、ただ、ぼくは開高健という人物と著作から、本当に多くのことを学んだと思っています。なかでも一番大きいものは、前述の通り、「覚悟」でしょうか。
 話を料理のことに戻すならば、ぼくは現代派も古典派も否定しません。ただ、流行から外れた今は、再びどちらの世界にも戻ろうとは思っていないし、その気力、体力はともに残っていません。では、ぼくはこの先、どこへ向かうのか。
 できればぼくの仕事は、流行を突き抜けたものでありたいと思っています。「新しい天体」となりうるもの。だれもが辿りつけなかった「味」の妙味を示すこと。もちろん時代の空気は取り込む努力は続けようと思っています。でも、自分でしかなしえない仕事、この世に生まれたことを恥じない仕事、辿りつけなくてもそれが「勇気」として、押し付けがましくなく人に伝わる仕事であること。それがぼくの「覚悟」です。
 開高健の遺志を継ぐ、なんてだいそれたことだと思うけれど、ぼくは最後まで「何がなんでもこねあげて、表現しなければならない」、そんな人生を歩みたい。ただ時には、眠らない河に立ち尽くして、未だ遭遇が叶わないメーター級のイトウを釣り上げる夢も見たいと思ってはいます。眠れない夜には耳をすませて河の音を探し、山の空気を求めます。
 息は吸うだけでは死んでしまう。吐くこともまた生きる術だから。そうしてぼくは光と闇のあいだを手探りしながら、明日へと希望を繋ぎ続けています。多分、それが生きるということだと思うから。
    明日、世界が滅びるとしても
    今日、わたしはリンゴの木を植える。
           マルティン・ルター(不詳)
 
 
 
# by chefmessage | 2015-08-14 17:38