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ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


by chefmessage
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[蘇ボックス」の由来

    蘇ボックスの由来
  最初は、皆さん慎重だなと思っていたのです。そんなに怖がらなくてもいいんじゃないか、でも、3月後半の予約、特に団体の予約がどんどんキャンセルになっていきました。それでもぼくはまだ、すぐに復調するだろうと思っていたのです。ところが、4月の予約がまったく入らない。いきなりコロナ禍がくっきりとその姿を現しました。といっても、実物は見えないのです。ぼくはそのことに驚愕しました。目に見えるものならまだしも、これでは対処しようがないのではないか。収入の途がブツっと音を立てて消えました。まるで暗転みたいに。 
 数日間、途方に暮れました。そしてひたすら考えました。その時間はたっぷりとあったから。その間、SNSで頻繁に「飲食業救済を国に訴えよう」というキャンペーンが載るようになりました。賛同者が加速度的に増えていきます。ぼくのところにも何人かが賛同するように求めてきました。でも、そのことにぼくは違和感を感じました。「困っているのは飲食業だけなのか?」。 

 飲食業はお客様があってはじめて成り立つ商売です。いわば受け身の業態です。その受け身の側がまず助けを求めるというのは順序が間違っているのではないだろうか。 
 もちろん、すべての人間が同じ意見を持つ必要はありません。声をあげた人にはその人なりの論理があるし、それを否定するつもりは毛頭ありません。賛同する人たちも同じです。でも逆に、勢いが増すに連れて、それに賛同しない人間は許さないという同調圧力が生まれてくるのは避けた方が良い。だからぼくはむしろ、今自分ができることを探して、それを精一杯やるべきだと思ったのです。大きな流れに与するよりも、小さな波動を広げていきたい。手応えを感じることで、自分の存在意義を、あるいは人とのつながりを確かめたい。 
 ぼくは間違っているかもしれません。でも、それもまた意見の一つではないかと思ったのです。 

 能動する側が動けないのならば、受動する側が歩み寄れば良い。それが「蘇ボックス」の原点です。 ぼくは料理人だから、料理を届ければ良い。その料理を基に、家庭内でレストランを出現させれば良い。こういう風に表現すると問題があるかもしれませんが、あえて言葉にするなら、ぼくは「レストランごっこ」をしてもらおうと思ったのです。
 とっておきのお皿を登場させ、そのお皿にシェフになった気持ちで料理を盛り付ける。フォークナイフが並べられ、ナプキンが置かれ、いつか飲もうと買ってあったワインを抜栓する。テーブルにはお花が飾られているかもしれません。外出ができない代わりに、家族の晩餐が催される。沈んでいた気分が高揚し、会話が弾み、思い出となる一夜が生まれる。それは今でしかできないことかもしれません。ぼくは、その手助けをすることで自分の存在意義を見出したかったのです。 
 だからぼくは、主張のある料理は避けようと思いました。このような状況の中での自己主張には意味がない。むしろ、真っ直ぐにおいしさを感じることができるフランス料理を作ろうと思いました。そして、できるだけシンプルに。しっかりとした土台を提供すれば、あとは好きに飾ることができるから。 何も足さなくても完成している。けれども、創意工夫でそれ以上のオリジナルが作れるもの。作っているうちに気持ちが蘇るもの。勇気が湧いてくるもの、それが「蘇ボックス」だと思ったのです。

 まずマダムが「蘇ボックス、スイーツ」を完成させました。だからボックスには「蘇」の字とmadame michino の名が入ったシールが貼られています。次に、何回かの試作を経て実際に出来上がったものを友人知人に送りつけて感想を聞き、それを基にキットを完成させました。最後に販売のツールを、当店の岡﨑と宝塚パソコンサポートの岡田夫妻が完成させ、「蘇ボックス」は世に出たのです。
 最初は徐々に、でも5月の連休と10日の母の日には注文が殺到しました。その後は毎日一定の量を決めて、販売は続いています。 
 
 今回のことでは嬉しい驚きが二つありました。 まず、お礼のメールが少なからず送られてくるということ。送りっぱなし、ではなくて反響が大きいのです。中には、喜びがダイレクトに伝わってくるものもあって、これまで見ず知らずであった人たちに親しみを感じることが多くあります。そのことがとても嬉しい。自分たちのやっていることは間違いではない、それを知ることは励みになります。励ますつもりが逆に頑張れよと背中を押されるのです。これは健全な人間関係だとぼくは思います。
 もう一つは、リピートがとても多いことです。美味しかったから、あの人にプレゼントしたい、そのような依頼がたくさん来ます。投げた石の起こす水面の波紋が広がっていく。相手を思いやる気持ちと、それをお手伝いする気持ちが交流し、沈みがちだった気持ちに優しさが蘇る。圧力で押さえ込んで生まれるものではない、柔らかな人の根本的な気質が具現化していくようです。 

 もちろん、ぼくはレストランの再開を望んでいます。もう40年以上も続けてきた仕事です。でも、今はそれをすることができません。そのことに不服を申し立てても仕様がない。百年に一度という災厄が世界を席巻しているのです。失われるものの大きさに打ちのめされそうです。でも、何か自分にできることはないだろうか。自分のために、隣にいる人たちのために、それを考え、小さなことでも実行に移すことで見えてくる未来もあるのではないでしょうか。 数々の悲劇があって、その一つ一つに呻き声を上げるしかないけれども、倒れてはいけない、倒れる前に為すべきことを成そうと思います。 

小さな花が芽吹くように、荒地のそこかしこで真っ直ぐ立ち上がるもの 
それが「蘇ボックス」の名前の由来です。 

# by chefmessage | 2020-05-21 18:38

眉村さんのこと

眉村さんのこと

天神祭の船渡御で同船して以来、懇意にしていただいている作家の玉岡かおるさんから、ある日、予約の電話が入りました。「5名でランチにうかがいたいのだけれど、退院したばかりの方がおられるので、一人分は少量でお願いします」とのこと。承知しましたとお返事をして、その日が来るのを心待ちにしていました。


当日、お食事中の様子をのぞいてみると、男性2名と女性1名はどうやら新聞社の方のようです。あとお一人、一番奥の席に、年配の上品そうな痩身の男性がおられます。いかにも病み上がりといった様子で、ゆっくりと料理を口に運ばれている。でも、戻ってくるお皿には何も残っていないから、ぼくは安心しました。

食事の後、玉岡さんに呼ばれてみなさんと名刺交換しました。想像通り、新聞社の方達。でも、ぼくは気になっていたので、年配の男性にお聞きしました。「食事はどうでしたか?」。すかさず玉岡さんが「完食でしたね」とその方に話しかけると、「うん、美味しかった」と微笑みながら答えてくださいました。本当はその時に、その方がどなたか気がつくべきだったんです。


その方にも名刺を差し出しました。その方もポケットから名刺入れを出して、ご自分のを出そうとするんだけれども、中身がいっぱい詰まっているせいかなかなか出てきません。見かねて新聞社の方が「先生、ぼくがしましょう」と一枚を抜き出し、ぼくに渡してくれました。それを見てぼくは驚き、一瞬で舞い上がってしまって、思わず叫んでしまいました。「眉村 卓さんだったんですか!まだ生きておられたんですね!」。

しまった、と思ったのです。とても失礼なことを口走ってしまった。でも、眉村さんは微笑んでおられたのでホッと一安心。その眼差しはとても柔らかかった。


ぼくたち世代が若い頃、SF小説が一世を風靡していました。日本の作家でとくに著名だったのは小松左京、星新一、筒井康隆、そして眉村卓。それらの作家の新刊が出るとすぐに買って、貪るように読んだものです。だから、同世代の連中の本棚には、眉村卓の本の一冊は必ずあったと思います。その眉村卓が目の前にいる!


玉岡さんが「このシェフは本も出しているんですよ」と紹介してくださったから、ぼくは玉岡さんと眉村さんにおそるおそる自著を手渡しました。読んでもらえなくてもいい、持っていてくれるだけでも嬉しい、とぼくはそう思いました。すると、眉村さんはご自分のカバンに手を入れてなにかをゴソゴソ探しています。やがて探し出したものをぼくに渡して、ちいさな声で仰った。「サインしてください」。それは青色のサインペンでした。

今でもその瞬間を思い出すと、鼻の奥がツンとします。あの眉村卓に自分が書いた本のサインを求められるなんて。

それからしばらくは、ぼくがサインした本が眉村卓の書斎にある、それを想像するだけでぼくは嬉しかった。


その眉村さんが亡くなって4ヶ月が過ぎました。久しぶりに「僕と妻の1778話」を読みました。この本は、進行性の悪性腫瘍で余命の限られた奥さんが亡くなるまで、眉村さんが毎日書き綴った短編の中から52編を集めて文庫化したものです。

一つ一つの話はそれほど面白くありません。ショートショートはやはり星新一の方が上手だなぁ、と思いながら読み進めていきました。この本を読んだのはずいぶん前のことだから、これは覚えているな、とか、いないとか。記憶に残っていないものの方が多い。では、なぜ今この本を読み返そうと思ったのか。


すこし話は脇道に逸れますが、ぼくは最初と最後のオチが決まらないとブログを書くことができません。もちろん、書きすすめるうちに多少変わってしまうことはあるけれども、だいたいは落ち着くところに落ち着くといった感じです。だから今回も、眉村さんが食事に来てくださったことから書き始めて、「僕と妻の1778話」を引用し、本の内容よりもむしろ、奥様に毎日書きつづけたその持続力の尊さをメッセージとして伝えようと思ったのです。それがコロナ禍で先が見えない現況に必要なことではないかと考えたから。でも、1775話から先に進んで、奥様が亡くなるその日に書かれた1777話、そして最後の1778話を読んだ時、ぼくは自分の考えがいかに卑小なものに過ぎなかったかを思い知りました。ぼくは読み終えて、思わず天を仰ぎました。


「また一緒に暮らしましょう」

涙が溢れそうになった。


マダムは今、誰よりも早く厨房に来てテイクアウトのお菓子を作ってくれています。どちらが先に逝くのかはわからないけれど、いつかそんな言葉を彼女に言う日が必ずやってくるのだと想像するだけで、ぼくは何も考えられなくなってしまいます。この箇所も昔確かに読んだはずなのに、それが今こんなにも胸に迫るのは、実感としてそれがわかる年齢にぼくが至ったからだ思います。

それは、マダムに対してだけではありません。


そういえば、息子が数日前にくれたメールには、こんなことが書かれていました。「大変だと思うから、今月は仕送りはいりません」。

社会人になって初めてお給料をもらうことになった長女は「いくらか生活費を入れようと思うんだけど」と言ってくれました。今はまだ大丈夫だから、ぼくはそう答えました。

学校がお休みの次女は今、お母さんの代わりに晩御飯を用意してくれています。クックパッド見ながらだけど。


一人暮らしの老いた父の顔が思い浮かびます

頑張ってくれている従業員たち、友人、常連のお客様、生産者の皆さん、たくさんの顔が思い浮かびます。ずっとあなた達と一緒に暮らしていたいけれど、それは無理な話でしょう。いつか別れて、もう会えなくなる日がやってきます。


でも、今はまだその時ではない。

同じ時代に生きていることを感謝しながら、ぼくたちはまだ、一緒に暮らせるのです。

今回の前例のない災厄も必ず終わる日が来るでしょう。これもまた思い出のひとつになるはずです、だから、ぼくたちはなんとしても生き延びるべきです。生き延びて、そして一緒に暮らすんです。


眉村さん、また奥さんに書いた話を読んであげていますか?

今、また再びあなたに勇気をいただいています。

あなたに出会えて、本当に良かったと思います。



# by chefmessage | 2020-04-12 18:11

悔いのない日々を。

ぼくの店で10年間マネージャーを勤めてくれた原くんが、4日前の12月30日に退職しました。彼は実に真面目で信頼できる仲間でした。長い間、家族同然に過ごして来たので、辞めると言われて動揺して、なんとか翻意を促そうとしたのですが、彼が言ったこんな言葉を聞いて、ぼくはむしろ彼を笑顔で送り出そうと思ったのです。「ぼくがあと10歳若ければ、シェフと最後までご一緒したかったのですが」。

ぼくは65歳です。正直なところ、あと何年この仕事を続ける事ができるかわからない。そんなぼくに付き合っていたら、今45歳の彼は再就職の難しい年齢になってしまいます。だから、10年という区切りの良い時に退職し、将来を見据えて生きる道を再考したい、その思いの切実さに触れてぼくは何も言えなくなってしまいました。彼の人生は彼のもので、ぼくに付き合う必要なんてないのです。それに、今は東京に住んでいる老いた両親のそばにいてやりたいという希望もあったようです。だからぼくは、彼がぼくの店を去るその日まで、これまでと変わる事のない気持ちで接することにしました。

その彼が最後に、店の床のワックス掛けをしたいというので、ある日の営業終了後に手伝うことにしました。まずテーブルの半分をホールの隅に移します。それから残ったテーブルをひっくり返して、天板同士をくっつけて重ねます。椅子も同じようにして、できるだけ広いスペースを作ってワックスをかける。それを場所を変えてもう一度やって終了するのですが、やってみて驚いたことに、ぼくはテーブルをひっくり返して重ねる事ができない。重くて持ち上げる事ができないのです。そんなはずはないと何度か挑戦したのですが、原くんにはできてもぼくには無理なのです。自分の肉体の衰えをはっきり感じた瞬間でした。そして思いました。「あと10歳若ければ」。

ぼくはいつも、挑戦する気持ちを忘れないで生きてきたつもりです。いつかこういう風にしたいと思う事がなくなることはありませんでした。それは今でも同じです。でも、ぼくは気付きました。ぼくにはもう、いつかというのはない。今ここにある事がすでに奇跡なのかもしれません。それなら、今やるべきではないのか。
同世代の友人たちの多くは終活に向かっています。断捨離に努め、事業を縮小し、あるいは後継者に譲り。ぼくもそういう方向に向かうべきだとは思うのです。でも、「このままでは終われない」と訴える声が消えない。「もう一歩だけでも進みたい」と心が言っている。
やっといろんな事がわかってきたのです。やっと自分の本当にやりたい事が見えてきたのです。だから、これが最後のチャンスだと思っていろんなことに着手しようと考えています。年齢を考えると無謀かもしれないのですが、ぼくは残された日々を大切にしたい。

年末になると、いつもしていることがあります。お世話になった方達に、お節と称して重箱に詰めたオードブルを送っています。一つは必ず、大学時代の恩師、野本真也先生に。
大学を出て、無謀にも全く畑違いの料理人になると決めた時、背中を押してくださったただ一人の先生です。先生のお宅でお話をうかがったあと外に出ると、満開の桜並木から風に煽られた花びらが散っていました。その下で不安な気持ちを抱えて、それでも行こうとする自分の姿をぼくは忘れた事がありません。それから40年以上が経ちました。

一度、先生のご子息が婚約者と一緒に食事にこられたことがあります。「父がいつも話しているシェフの料理が食べたかったので」。食後にぼくは、常々思っていたことを尋ねました。「毎年ぼくが送っているお節は、かえってご迷惑ではないでしょうか?」。息子さんが答えてくれました。「そんなことは全くありません、むしろお正月にうちの両親が一番楽しみにしているのはシェフのお節なんですよ。」。
野本先生は同志社の神学部教授を勤められたあと、学校法人 同志社の理事長を長年なさっておられたので、お正月にはたくさんの方々がご挨拶に来られて大変だろうと思っていたから、ぼくはいつも気にしていたのです。でも、息子さんのお話を聞いて安心したぼくは、それからもずっと野本先生にお節を送り続けています。それを続ける事ができるのは、ぼくのこころの支えでもあると思っているから。

お節が届いた頃に、いつも先生からメールが送られてきます。今年はこんなことが書かれていました。
「この味は、これからも決して忘れることがないでしょう。痛みのために食欲不振がずっと続いていましたが、この味を思い出しながら、残された与えられた人生をなんとか生きていきたいと思います」。
先生の奥様も先生も、ともに闘病生活を送っておられます。だから、その言葉はとても重く胸に迫ります。でも、ぼくのささやかな行いが先生と奥様にとって慰めになっているとするなら、ぼくにとってもそれは慰めになっている。
メールはこんな言葉で結ばれていました。
「神様の豊かな祝福がありますように心から祈っています」。

「あと10歳若ければ」、ぼくは違った抱負をのべたかもしれません。ミシュランの星を取る、とか、アジアのベストレストランにランクインする、とか。でも、今のぼくはそういうことのために残された大切な時間を費やそうとは思っていません。流行というものに身を委ねて、自分の人生を消費されたくない。
できることはもう多くはないけれど、自分が納得できるものだけを世に送り出し、必要とする人に届けたいと思う。そして神様の前に立った時、やれるだけのことはやりましたと言える自分でありたいと思う。

いつかやろうと思っていたことを、今年は順番に実行します。そして、態勢を整えて最後まで走ります。
これがみなさんに向けた年始のご挨拶です。新しく人生を始めようとする原くんにも。
悔いのない日々を!
「Good luck!」
# by chefmessage | 2020-01-03 20:59