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ミチノ・ル・トゥールビヨンシェフ道野 正のオフィシャルサイト


by chefmessage
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 ちょっとでも時間があれば、本を読みたい、ぼくはそういう人間で、とくにフィクションというか小説が好みです。これは多分、高校生のころからずっと続く習慣なのですが、それでは、これまでで一番感銘を受けた、あるいは好きな作家は誰かというと、それは開高健にとどめをさします。彼の「日本三文オペラ」と「夏の闇」は、もし余命宣告を受けたら必ず再読したいと思っている作品です。
その開高健が、YouTubeの動画でこんなことを語っています。「筆舌につくし難いとか、声を呑んだとか、言葉を忘れたとか、こういうことを書いている人がいるんだけれども、これは敗北だな。物書きならば、何がなんでもこねあげて、表現しなければならないと思う。」。この言葉を耳にしたとき、ぼくは作家開高の凄みを感じました。矜持というような生易しいものではない。それはまさしく覚悟なんだ、と。その覚悟から立ち昇ってきたのが、あの瑞々しい文章の連なりなのだと思うと、ぼくはこの作家に畏敬の念すら覚えます。
ぼくの仕事は文学のように、社会に影響を与えるなんてことはないし、ときに人の人生観にまで深く関わるといったようなだいそれたものでは全くない、それどころか、一瞬に消えてなくなる実にたよりないものでしかないけれども、それでも、覚悟といったものは必要なのではないかと、時々考えます。
 とはいっても、すべての文学が影響力を持つのではなく、とくにすぐれたものだけがその力を伝播させうるように、料理のなかでも傑出したものだけが、人の心に記憶として残り続けることができるのではないか。そのためには、「なにがなんでもこねあげて表現しなければならない」という覚悟、言い換えるならば、それを成し得なければ自分の人生に意味がないとまで思いつめる覚悟がなければならないのではないか、と思うのです。
たかが料理ごときで、そんなに思いつめることはないとは思うのですが、これは多分に持って産まれた性分でもあるのでしょう。人に楽しんでもらうのが仕事なんだから、自分も楽しんでやらないとだめですよ、という意見も否定はしません。それに、食べ手に難しいことを要求しようとも思っていません。でも、なにかが違う、なにか力強いものが感じられる、そういうものにはやはり覚悟があるのではないでしょうか。
 ただ、これは料理に関してのことなのですが、その覚悟は何を目指してのものなのかは、作る人間によって異なると考えられます。
 例えば、今まで誰もやったことのないもの、なしえなかったことを目指すとするならば、それは何なのか。皿の上の料理の美しさなのか、素材の使い方、あるいは変化のさせ方なのか、組み合わせか、あるいは味そのものか。
残念なことに、上記のすべてを包括させることは不可能です。いくつかをまとめることはできるでしょう。例えば、美しさと素材の使い方、変化、組み合わせ、これらに関しては、もちろん優れた技能と卓越した理論、そしてそれなりの才能は必要だけれども、できないことはない。でも、そこに味の追求まで入れようとすると、これはできません。なぜなら、要素が多すぎてまとまらないからです。味というものはそれ自体が多重構造になっているから、パーツが多くなれば計算しきれなくなるのです。すなわち、「何を食べたかわからない」状態になってしまいます。だから、味を追求しようとするならば必然、パーツや余分な飾りを削っていくことになります。簡単に言うと、装飾の多いもので美味しいものはつくれないとぼく自身は判断しています。

 フランス料理に関して述べるならば、現在の状況は二分化しています。これまでにないような素材の使い方や技法で自分の感性を表現する、あるいは、見た目の奇抜さや美しさで相手に訴えかけるという云わば現代派、もう一方は味に焦点をしぼって素材を吟味し、方向を明らかにして相手の気持ちを着地させる古典派。古典と表すとなにやら古臭い感じが否めませんが、保守とか主流とかもちょっと違うし、それ以外に言葉が見当らないので、現代と比較しやすいこともあって、そういうことにしておきます。もちろん、その両方の美点を兼ね備えた中道派もいますが、話をすすめていくうえで難しくなるので、今は脇に置くとして。
 さて、いわゆる世間の耳目を集めるのは、いまのところ、圧倒的に現代派です。ミシュランガイドでも食べログでも、あるいはそのほかのマスメディアでも、そしてそれらを目にしたグルメな方々の間でも必ず話題になる。そうなると世の常で、みんながそちらに向かいます。お店もお客様も。でも、それでいいのだろうかと、ぼくは時々、疑問に感じます。
 大阪でこの現代派の代表と目されるお店のシェフが、こんなことを言ってたと聞いたことがあります。「今日はお客様全員が日本人じゃなかった、こんな店をぼくはやりたかったんだ。」。
 この言葉には少々解説が必要かもしれません。何故、彼はそのような状況を喜んだのか。
 世界中のレストランをランキングする組織があります。「世界のベストレストラン50」とかいうフレーズがありますが、まさしくそれです。いわゆる、世界で一番予約が取りにくいレストランとかは、これで決まります。そして、そのランキングを決める審査員は日本人だけではありません。すなわち、客の外人比率が高くなると審査員の含まれる可能性も大になるのです。それと同時に、世界を相手にすると、来客層が圧倒的に広がるということもあります。地域密着型というモデルケースはここにはありません。常連客を獲得するとか、リピーターを増やすとかいう考え方も従来と比べると希薄になります。市場を世界に求める、という壮大な目標があるばかりです。それに近づくために必要なものは自身の、あるいは自店のブランド化でしょう。そのためには、とにかく目だたなければならない、マスコミに取り上げられ続けなければならない。そして、最後の目標は?
 たとえば、ルイ・ヴィトンのバッグの原価を考えてそれを買う人がいないように、料金設定が高くてもお客様が次々に来てくださる店にすること。そうすれば余剰金が産まれ、店に、人に、食器にふんだんに投資することができる。そして、よりグレードの高いポジションを目指すことができる。
 それは決して間違いではないとぼくは思います。でも、間違いではないものが必ずしも正しいわけではない、とも思います。なぜなら、それは流行だからです。そして流行は絶えず変化するものだから。「世界のベストレストラン50」がいつまでも同じなら、それには何の価値もありません。そして、料理は品物と違って残らないものだから、変化のスピードは速い。めまぐるしく変化しているのです。
 ぼく自身、なんども書いているように、その変化の中に身を置いていたことがあります。そして、凋落していきました。それがどれだけ辛いことであるのか、ぼくは身をもって教えられました。絶頂の5年、なんとか持ちこたえた5年。そのあとに続く長い長い失意の日々。そして、そこから這い上がろうとする努力、気力を保ち続けることの難しさ。
 28歳で芥川賞を受賞した開高健のことを思い出します。その後の十数年は社会的には絶頂期だったでしょう。けれども、やがて書けなくなる。そして、彼は世界中を釣りして回るようになります。それは豪放にみえるけれども、どこか痛々しい。追い詰められたものが救いを求めているように、ぼくには見受けられました。あるいは、張り詰めたものから目をそらすかのような。
 見つめれば見つめるほど、形がみえなくなるもの、世界はそのようなものかもしれません。でも、それを言葉にして表現しなければならないとすれば、その苦しみはまさしく筆舌に尽くし難いものでしょう。でも、それは許されないとするなら。

 開高健は58歳で病没しました。ぼくは、彼より3歳年上になりました。自店をオープンさせたとき、彼に来てもらいたくて、サントリーの方に中継ぎを頼もうかと迷ったくらいなのですが、本当は、期待すると同時に怖れていました。でも、オープンして1年経つかたたないうちに亡くなってしまいました。正直、ぼくはほっとしました。でも、釣りの話は聞きたかったな。
 彼が病いに倒れなかったら、未完になってしまった「闇の三部作」最終編、「花終る闇」は名作となりえたのか?ぼくが読んだかぎりにおいては、不朽の名作になったであろう感触をつかむことはできなかったのですが、ただ、ぼくは開高健という人物と著作から、本当に多くのことを学んだと思っています。なかでも一番大きいものは、前述の通り、「覚悟」でしょうか。
 話を料理のことに戻すならば、ぼくは現代派も古典派も否定しません。ただ、流行から外れた今は、再びどちらの世界にも戻ろうとは思っていないし、その気力、体力はともに残っていません。では、ぼくはこの先、どこへ向かうのか。
 できればぼくの仕事は、流行を突き抜けたものでありたいと思っています。「新しい天体」となりうるもの。だれもが辿りつけなかった「味」の妙味を示すこと。もちろん時代の空気は取り込む努力は続けようと思っています。でも、自分でしかなしえない仕事、この世に生まれたことを恥じない仕事、辿りつけなくてもそれが「勇気」として、押し付けがましくなく人に伝わる仕事であること。それがぼくの「覚悟」です。
 開高健の遺志を継ぐ、なんてだいそれたことだと思うけれど、ぼくは最後まで「何がなんでもこねあげて、表現しなければならない」、そんな人生を歩みたい。ただ時には、眠らない河に立ち尽くして、未だ遭遇が叶わないメーター級のイトウを釣り上げる夢も見たいと思ってはいます。眠れない夜には耳をすませて河の音を探し、山の空気を求めます。
 息は吸うだけでは死んでしまう。吐くこともまた生きる術だから。そうしてぼくは光と闇のあいだを手探りしながら、明日へと希望を繋ぎ続けています。多分、それが生きるということだと思うから。
    明日、世界が滅びるとしても
    今日、わたしはリンゴの木を植える。
           マルティン・ルター(不詳)
 
 
 
# by chefmessage | 2015-08-14 17:38
 北海道シリーズ第二弾は、恒例の釣り日誌です。

 前述のメランジェ20周年パーティーのあと、二次会にも誘われて、そこで午前1時半までにぎやかに過ごし、いったんホテルに戻って用意して、玄関に降りて迎えの車を待ちました。5月も終わろうというのに、夜中の旭川、吐く息が白いです。フリースのジャケットを荷物に入れてくるべきだった、と後悔していると、やってきました怪魚ハンターS君の車。今回、河原君は続く三次会出席のために参加できず、彼と二人の釣行。
 このS君、ぼくの知る限りでは北海道で1番の釣師、それもイトウ専門。これまでの釣果も半端ではありません。その結果、例えは悪いのですが、指名手配の犯人みたいに追いかけられています。彼の車がどこに止まっているかでポイントを探ろうとする釣師がたくさんいるという話。
 そもそも釣師にとって釣りのポイントは秘中の秘、ましてや相手は幻の魚イトウです。知りたいという気持ちはわからないでもありません。本来なら、一年に一度、それも一日しか釣りにこれないぼくがそれを知る手立てはないのですが、このS君がぼくと同業者で、なおかつ河原君に私淑しているということで、その手の内を明かしてくれるという僥倖に恵まれたのです。

 今日は残念ながら大潮の潮どまりで、イトウ釣りには最悪です、と開口一番のご託宣。この時期、大物は餌が豊富な河口付近にいるらしいのですが、大潮のときは海水が川に上ってくるので、それを嫌がって魚は散るらしい。ましてや、潮どまりになると魚の活性が低下するので、餌を追っかけないのだとか。いきなり、がっくり。そのうえ、ともうひとつダメ押し。いつもの川は濁って釣りになりません。なんでやねん、何日も雨、降ってないやん、と言うと、今は田植えの時期で、水田の水が大量に流れこむため川が濁るらしい。いちいちごもっとも。やっぱり優れた技には科学的根拠とデータがあるんだ、と納得はするけれども、なにやら腹立たしい。
 「でも、必ずどこかに魚はいますから。」という君は、やはり名人、その心意気や貴し。

 ということで、車はどんどん北へ向かって走ります。S君、しょっちゅう車を止めてはスマホを操作してうんうん言っている。色んなところの潮廻りの時間帯や、潮位、水位を調べ、自分の頭にインプットされているデータと示し合わせて、最適なポイントを探している模様。そして、よし、とばかりにまた車は走り出し。
 午前3時に暗かった空が白みはじめ、3時半には夜が明けます。同じ日本とは思えない。やがて、去年も行った第一ポイントに到着。あまりの寒さにダウンジャケットを拝借して、本日の釣り開始。でも、ねばっても、魚はいない。
 イトウ釣りの道具はすべてが大きく太いので、ほかの魚がまちがって釣れることはありません。だから、魚がいないと判断すると、早速、次のポイントへ向かいます。でも、次のポイントにはタッチの差で他の釣師が入ってしまい、断念。車に乗って、次のポイントに向かいます。そこでも、やっぱりダメ。思い切って考えを切り替えましょう、ということで、潮に影響されにくい上流へ向かう途中、だめもとでやってみますか、とS君が車を止めます。ちょっと歩きますけどいいですか。おお、普段運動不足やから望むところや、と道具かついで彼のあとを歩きます。
 打ち捨てられたサイロ?の向こうに、多分牧草地だった平野が広がっています。そして、タンポポの黄色い花が延々と、見渡すかぎり咲き乱れています。その中を歩く釣師ふたり。空は青く、雲は流れ、涼しい風が吹き抜けていきます。歩いているだけで気分がいいのですが、やがて疲れて、足取りも重くなり始めたころ、川岸の葦の切れ目に到着。そこだけがぽっかり開いているので、ポイントだとわかります。で、早速釣り再開。でも、やっぱり釣れない。キャスティングして、置き竿をして座りこみます。久しぶりに徹夜ややし、ああ、しんど。釣れへんけど、まあいいか、とウトウトしかけたら、右手に置きっ放しの竿先が右に二回、大きく引っ張られています。おっ、と思って立ち上がって竿をつかもうとしたら、ぼくよりも竿のそばにいたS君がすばやく手にして渡してくれました。それをつかんで大きくあおったとき、ガン、と逆に引っ張られ、バシャッと大きな水音がして、心臓がドキンと脈打ちます。待ち焦がれたアタリです!
 リールからラインがジージー音をたてて出ていきます。両手でこらえているぼくに代わってS君がドラグ(リールの糸の出を調節するネジ)を締めてくれます。ここであせってはいけない。イトウは口が大きいので、ラインに緩みがでると針がはずれることがあります。竿先を立てて、こらえて、巻いて。イトウが水面に顔を出して、頭を左右にふります。それどころか、巨体にもかかわらず、水面をジャンプします。さすがにサケ科だけあってなかなかのファイト、それでもこらえて巻いて、徐々に岸に寄せて。
 大きいので、抜き上げることはできません。S君がタモを入れて引っ張りあげてくれました。サイズは1メーターに
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もう少しの95センチ。記念撮影をして、川にもって下りて、タモから魚を出します。さすがにくたびれたのか、腹が上になっている。だから右手で尾の付け根を持って、左手でまっすぐになるよう魚体を支えて、時々エラに向けて水を送ってやる。待つことしばし、左手を離しても大丈夫になったら、尾をつかんでいる右手で、そっと川に押し戻す。ゆらゆらと体をゆすりながら、アイヌの人たちが川の神様と呼ぶ魚は棲家に帰っていきました。

 結局その後、二回ポイントを移りましたが、釣れたのは1匹だけ。でも、ふたりで、よかったよかった、安心した、と語り合い、ほどよい疲れのうちに納竿。河原君と打ち上げ予定の、旭川の「こばちゃん寿司」に向かって車を走らせたのでした。

 帰りの車中で、S君が夢を語ります。いつか130センチ、釣りたいです。そんなデカいのいてるん?いや、どこかにきっと140くらいのがいるはずなんです。そんなだと、40キロくらいあります。それは無理としても、せめて・・・。
 オレは、年に二回は来たいな。それで、目指すところはメーター越えやな。いや、いつか、そう、子供達が全員社会人になって、オレが自由になったら、そのときにはこころおきなく釣り三昧、でも、そのときは本当に来るのかな?
 それまで体力は持つのか、気力は保てるのか。それどころか、この命は永らえているのか、だから、
 今日一日の出来事をこころにとめて、一面のタンポポ、青い空、白い雲、吹き渡る風、そして川の神様の力強さを忘れないで、毎日を生きよう。誰にも恥じることのない歩みを続けよう。

 翌朝、ぼくはホテルを出て帰阪の途につきました。そして、夜にはもう自分の店で仕事をしていました。今回の北海道の旅は、得るものの多い2日間でした。河原君、怪魚ハンターS君、そして旭川のみなさん、ありがとうございました。次は9月に行きたいと思っています。そして、そのときには、ぼくの料理を食べていただきます。それが、これまでで最高のぼくの料理であるよう、頑張りたいと思います。また会いましょう、お元気で。
# by chefmessage | 2015-06-04 18:50

不肖の師匠

 先日、北海道の旭川で、かつてぼくの豊中の店で一緒に働いたことのある河原正典君のパーティーがありました。河原君は、旭川で20年前に「ル ビストロ メランジェ」を開店させて、2度移転し現在にいたるのですが、その通算20年という節目を祝おうと地元の仲間達が料理やワインを持ち寄り、大勢のお客様も集まって盛大に開催されたのです。
 彼はぼくの還暦パーティーのときにわざわざ来てくれたから、今度はぼくが行かないといけないとマダムや従業員達を説得し、ぼくは営業日にもかかわらず関西空港に向かい、初めてピーチの飛行機に搭乗しました。乗って驚いたのですが、ピーチの飛行機、とにかく座席が狭い。そのうえ隣の男性、やたら恰幅がいい。それだけならまだしも、前席の青年が飛行中、しっかりシートをリクライニングさせるものだから、ぼくは身動きとれません。自分も前席同様にシートを倒せば少しはその状態が緩和されるのだろうけれど、後席の人のことを考えるとやっぱりできないな、そうするとその後ろその後ろ、ドミノ倒し状態になるのではないか、そう想像してぼくは我慢しました。だから、新千歳から旭川に向かうJRの特急に腰を落ち着けたとき、ぼくはまるでファーストクラスに搭乗したようにリラックスできたのでした。
 札幌を過ぎると、車窓を流れる景色はひたすら田園風景です。それをぼんやり眺めることがぼくはけっこう好きです。おだやかに時が過ぎ、やがて長いトンネルを抜けて、列車は旭川到着。自宅を出てから約8時間、やっぱり遠いなと一息ついて見渡すと、大雪山やそのまわりの山々にはまだしっかり雪が残っていて、旭川の気温は14度。大阪は29度やったのに。
 パーティーの始まる時間まで余裕があったので、ぼくは一度行きたかったお店に行くことにしました。駅から歩いてすぐみたいだし。
 「サロン ドール」というお菓子のお店で、イートインもできるみたい。FB友達の金美華さんがオーナー・パティシェールです。お店に着いて、早速、美華さんにご挨拶して、しっかり焼き色のついたタルトをいただきました。美華さん、クラシックなお菓子がお得意のようで、とてもおいしい。そうして小休止していると、「これからケーキを届けに行くから、シェフも一緒に車で行きませんか」と美華さんから声がかかって、ぼくは会場のホテルまで同乗させていただくことになりました。
 会場に入ると、何人か見知った顔が。これまで河原君とは数回、彼の店でコラボをしたことがあるので、そのとき手伝ってもらった連中、来てくださったお客様。河原君によく連れていってもらった「こばちゃん寿司」のこばちゃんのやさしそうな笑顔もぼくを迎えてくれて、うれしくなってしまいます。そうして、パーティーが始まりました。
 マイクを手に司会者がいきなりぼくの紹介を始めます。「河原シェフの師匠、大阪の道野シャフにご挨拶をいただきます」。これは想定内だったので、ぼくは河原君との出会いから話始めました。
 それにしても、出席者全員の目線がまっすぐなことに少したじろぎます。あの河原シェフの師匠、という熱いまなざし。こういうの、実はぼくはけっこう苦手です。

 これはぼくが常々言っていることなのですが、ぼく自身は、弟子などいないと思っているし、だから、師匠と呼ばれたいとも思っていません。これまで沢山の若い人たちと働いてきたけれど、ぼくは彼等を指導したこともないし、ましてや育てようと努力したこともありません。知人の、三重県伊勢市にあるレストラン「ボン ヴィヴァン」のオーナーシェフ河瀬毅さんは、従業員の育成に実に熱心な方で、チーズやワインの勉強会を営業終了後なさったりして、素晴らしい人格者だとぼくは敬服しきりなのですが、その河瀬さんと比べると、ぼくは残念ながら人格者というより性格破綻者に近いのではないかと思えたりします。
 ぼくは自分のことしか考えていない人間です。だから、ぼくは自分の仕事が楽になるために人を雇っています。そして、楽になった分、ぼくは次のステップに挑みます。雇った人が出来るようになればなるほどぼくは前に進めるから、ぼくは次第に要求をレベルアップさせて、高次元の仕事をその人に要求します。ぼくはずっとそうしてきただけなのです。
 だから、彼等または彼女たちが何かを学んだとするなら、それはその人たちが努力した結果であって、その人たちの業績に過ぎないとぼくは思っています。その業績を基に今現在活躍する人たちを、それではぼくはどう位置付けているか。一言で表すなら、それは「仲間」でしょう。ともに第一線で戦う「仲間」。そしてそういう「仲間」は、決して多くはありません。ともに働いた人たちのなかのほんの一握りです。だからぼくは、感謝の気持ちも込めて、その人たちをこう呼びたい。君達はぼくの「親友」であると。

 ぼく自身、30年近く前に旭川で働いたことがあります。レストランのシェフを指導するシェフとして一年間、滞在しました。でも、それ以上いたくなかった。ここにいると、ぼくは埋もれてしまうと思ったから。
 当時、ぼくが働いていたレストランの近くに、多分JAだったと思うのですが、大きな野菜の集配所がありました。ある日、そこにコーンの山が出来ていました。頂上まで何メートルもあるほど大きな山でした。ぼくは、そこの人に、これは何のためにこうしているのかと尋ねました。すると、その方はこう答えました。「燃やすんだ。」。そして、「欲しければ、いくらでももっていっていいよ。」。
 沢山出来すぎたから、価格調整のために処分するのだと言います。だから、ぼくは店からコンテナを持ってきて、それにいっぱいいただいて、それでコーンポタージュを作りました。ほどよく水分がぬけて甘みの凝縮したコーンで作ったポタージュは、ぼくがそれまで作ったどれよりもおいしかった。
 その数日後、ぼくは雇われている店のオーナーと、旭川で一番といわれているホテルでランチを食べました。そのとき出たコーンポタージュは缶詰をベースにしていた。そして、だれもが当然のようにそれを食べている。ああ、ここにぼくの居場所はないとぼくはそのとき思ったのです。
 その旭川に河原君が行くと言ったとき、当然ながらぼくは止めました。でも、行くと言い張ります。ま、すぐ帰ってくるやろ、とそのときぼくは思ったのです。でも、それから20数年、彼は旭川に留まりました。そして今、多くの料理人が彼のために馳せ参じて、彼のために盛大なパーティーを催している。沢山のお客様が彼に祝杯をあげている。
 もとより、開放的な土地柄ではありません。ぼく自身、それを身をもって体験しました。気候から風土から、大阪とはまるで違う、だから彼の努力を思うと頭が下がります。きっと、何度も帰りたいと思ったことでしょう。でも、彼はまだ旭川にいる。
 パーティーの途中で、ある女性に声をかけられました。まるで訴えかけるかのようにこう仰る。「道野シェフ、河原シェフを大阪に連れてかえらないでくださいね。河原シェフは旭川に必要な人なんです。」。ぼくは冗談めかして、こう答えました。「あんな大きいもの、手荷物で持ってかえれないから大丈夫です」。でも、ちょっと感動したな。

 ぼく達の仕事にはお手本はありません。どんなものを作っても構わない。ただ、それがまっとうなものでないと判断されたなら、その時点でそれは終わりです。次の手を飽くことなく出し続けることができるのか、それでもまだ走り続けたいのか。なんのために走るのか、いつも考えながら、それでもぼく達は走っている。だから、
 もう師匠も弟子もないのです。あいつが走っているから、おれも走る、そして、走る以上は背中は見せたくない。地元の人たちに、かくも愛されている河原君に多少の嫉妬も感じながら、ぼくは今回の北海道行きで多くを学び取りました。ミチノの一番弟子を自認する彼から多くを教えられたぼくは、だから不肖の師匠です。そして、なんだかとてもいい気分です。

 
# by chefmessage | 2015-05-31 15:06

道程

 オーナーシェフになって、もう26年が経ちました。自分の店を立ち上げた日の事が、まるで昨日のことのように思えるし、遥か昔のことのようにも思えます。ただ、振り返ってみると、人生というのはけっこう慌しく過ぎていくものだなと思います。そして、晩年を迎えた今、後悔ばかりが先にたって、なんだか歯軋りすることが多いような。でも、長い間ひとつのことをやり続けて、解ったことも少なからずあるようで、そのことを今回は書いてみたいと思います。

 そもそも独立した当初からぼくの料理は、いわゆる業界人や料理通の方々から、「これ、普通のお客さんにはわからないよ」、あるいは、「もっとわかりやすい料理じゃないとお客さん来ないよ」といわれ続けてきました。でも、ぼく自身は最初からそのつもりでやっていたからそれでいいのだ、と思っていたし、世間の耳目も集めていたから有頂天で、数年はその路線で突っ走っていたのですが、やがてひとつのことに気がつくようになりました。それは、お客様の食後の反応の顕著な違いでした。
 手放しで大絶賛する人がいるかと思うと、戸惑いを隠せない表情で帰られる人もいる。なかには、不愉快な表情を隠そうともしない人もいる。

 ぼくの店は、客観的には高価格な飲食店です。だから、やっぱりより多くのお客様に満足していただくべきではないだろうか。そのために必要なものは何か。
 やっぱり基本が大事でしょう、とぼくは思いました。でも、ぼくは調理師学校にも行っていないし、何軒もの店で修行をしてきたわけでもありません。だから古典を学ばないといけないと思いました。そして、それを取り入れた料理を作るべきだ、と。
 ただ、それまでの料理があまりに奇抜だったから、うまく噛み合いません。そこで方便として、メニューを二本立てにしました。基本を大切にした料理と独創的な料理。お客様がその両方からオードブル・魚・肉を自分で選んでコースを組めるように。

 でも、そのやり方にも限界がありました。何を基準に自分の料理を分ければいいのかわからなくなってきた。今思えば、その頃からぼくの迷走は始まっていたのでしょう。
 料理に迷いが出始めた時期に合わせて、来客数が減り始めました。そうなると、迷いはさらに深くなります。ぼくは料理専門誌を見るのが恐くなった。そこに掲載されている料理がすべて自分のものより優れているように思えて。それでも、店を閉めることはできません。だから、話題の店に頻繁に食事にでかけるようになりました。そして感じたものを自分の料理に取り込もうとしました。でも、所詮は付け焼刃です。追い詰められて、野菜中心のフランス料理店という新ジャンルに挑んだのですが、これは経営的に大失敗。打ちひしがれて、死んだほうがましなのではないか、とまで思いつめたのですが、家族のことを考えるとそんな軽はずみなことはできません。うつ病一歩手前、だったような気がします。でも、悪いことって続くものなんでしょうか。同じ時期に、身内の事情で、豊中の店舗と自宅から出て行かざるを得ないという状況に陥ってしまった。

 終止符打たれたな、と思いました。でも、お客様の一人で、苦境から脱出する手助けをしてくださる方がいて、その方のおかげで現在の福島の店舗に移ることができました。そこでめでたしめでたし、ということになれば良かったのですが、今度は逆に、何があっても失敗できないという心境になったのです。ぼくはその方策としてモード・スパニッシュに注目しました。そこに自分の新しい展開があるのではないか、と。ぼくはのめりこんでいきました。でも、それも迷いに過ぎなかったと今は思います。

 結局、新しいものは外からはやってこないのです。変わるのは自分自身であり、自分自身の意思がそうさせるのです。外的要因に頼ること自体が弱体化していることではないかと思います。大切にすべきものは、すでに自分のなかにあるのです。ただ、すべてを主観で固めてしまってはいけない。いつもこころのどこかに隙間をあけておくこと。その自由な空間にアンテナを一本高く立てて、風の音、花のにおい、人のぬくもり、みたいな小さなものから、時代の変化のような大きなものまでを感じ取り、取り込み、自分自身を刷新し続けること。それが正しい変化のあり方、あるいは生き方なのではないか。

 今年の京都市立芸大の入学式式辞で、鷲田清一学長がこう言っておられます。「自分がこれまで育んできた個性らしきものに閉じこもるな、ということです。それは大切なものだけれど、それは小さすぎるということです。」。これは、ぼくの主張と対立するようですが、実はそうではないと思います。新入生と大人との違いがまずあります。経験の幅に差がある。
 ぼくは、自分を見失った大人でした。それは海図を持たない、いわゆる難破船で、これから航海にでようとする新造船ではありません。出発する船に海図は必需品です。でも、ぼくは海図をどこにしまったか失念してしまっていたのです。だから航海しながら、ひたすらそれを探していた。目的が違っているのです。でも、ぼくはそれを見つけました。胸のポケットにずっと入っていたのに。
 個性についても同じです。個性らしきものと個性は違います。ぼくは個性を薄めようと努力してきた。その結果、それが小さくなってしまった。ぼくはぼくでしかないのです。そして、そのことに諦めに似た感情を抱きながら、でも、もっと遠くへ行くために今はそれを肯定しようとしている。そして、アンテナがキャッチした情報をすばやく取り込んで、それを強化しようとしている。
 海図を再び左手に持ち、個性の力を右手に伝えて舵を握り、ぼくは目的地に向かっています。燃料は残り少なくなっているけれども、それはもはや問題ではない。

 それと、もう一つ判ったこと。
 米米クラブの石井竜也さんの言葉を引用します。朝日新聞の記事から。
「お客さんが求めているものを探すなんて、おこがましい。みんな求めているものは違う。うそをついてもしょうがない」。これを読んだとき、ぼくのなかで揺れていた何かが、すとんと落ち着きました。
 料理人のこころのなかには、いつも二人の自分がいるのです。作る側の自分と、食べて側の自分。言い換えれば、職人と客、二人の自分。その二人が常に意見交換しながら、料理や店が完成していくのです。だから、ひとりよがりなんて、本当はありえない。すなわち、結局は自分が良いと思う料理しか作れないし、お店もやっていけないのです。不特定多数のお客様なんて、そもそもいない。だから、考えて考えて、自分が出した結論に最終的に従えばいいのです。

 もう、怖れる必要はない。どんな素晴らしい料理にであっても萎縮する必要はない。自分の仕事は自分にしかできないのだから。

 たったそれだけのことなのに、理解するまで随分遠回りしてしまいました。でも、今なら自信を持って言えます。ぼくの料理は間違いなくおいしい。そして、もっとよくなっていく。
 青空は青い、当たり前のことがやっとわかった気分です。

 「春を想い出すも
  忘れるも
  遠き 遠き道の途中でのこと」 井上陽水 結詞

 
# by chefmessage | 2015-04-15 20:35

蟻の誘惑

 これまでと重複する内容になるとは思うのですが、まず自分のことを書きます。

 ぼくが大阪の豊中市というところで自分のレストランを構えたのは、26年前です。とにかく無我夢中で走り始めました。だれもやったことのないフランス料理をやりたい、そんな衝動がぼくを突き動かしていた。温かいものを冷たく、冷たいものを温かく、デザートみたいな料理、料理みたいなデザート、魚料理の手法で肉料理、あるいはその逆。アイデアが息苦しいほど湧いてきて、厨房のカレンダーはいつもぼくのメモで埋まっていました。「実験料理」。評論家の山本益博氏が、当時のぼくの料理をそう表現されてましたが、本当にそんな感じの毎日だった。そして、それが受けたのです。ぼくはいきなり時代の寵児になりました。取材がどんどん押し寄せてくる。期待に応えようと、ぼくはあの手この手で攻める。そんな状態が5年くらい続きました。でも、一人の能力には限界があります。段々アイデアがつき始めます。やがて、ぼくは立ち止まらざるを得なくなった。それ以上進めなくなったのです。でも、声が聞こえるのです。「さあ、次ぎは何をやってくれますか?」。
 やろうとすれば出来なくはない、でも、これ以上進むと、それは誰も理解できないものになってしまう。果たして、それが料理と言えるのか?人を驚かせることはできる。面白がってもらうこともできる、でも、それが自分の望んでいたことなのか?
 もう一度、料理の原点に戻ろうとぼくは思いました。やっぱりぼくは、おいしい料理を作りたい。人が素直に笑顔になって、喜んでくれる料理が作りたい。でも、うまく戻れないのです。何かがずれてしまっている。時を同じくして、世間のぼくに対する論調が変化し始めました。曰く、「ミチノの才能は尽きた」、あるいは、「ミチノの時代は終わった」。気がつくと、10年の歳月が流れていました。
 それから10年。ぼくが生き延びてこれたのは、家族がいてくれたからです。家族のためにも、このままでは終われない、その執念がぼくを支えてきたのだと思います。そして、大阪市内に店を移して6年。ぼくはやっと自分を取り戻しつつあります。

 前置きが随分長くなりましたが、やっと本題です。今話題のNOMAについて。
 ぼくはNOMAに行っていません。なのに、どうのこうの言うのはおかしいと自分でも思います。でも、行きたいという気にならない。問題はそこなのです。だから、これから書くことはあくまでぼく個人の感想にすぎません。それを前提にして書き進めたいと思います。
 NOMAの料理本は、出版される前にイギリスのPHAIDONに予約注文し、購入しました。手にして、ぼくは深く感動しました。北欧の過酷な冷たさ、ぬくもりの大切さ、そのようなものが料理を通じて伝わってきたから。風土が生み出す料理はこんなにも美しいのか、と思ったのです。翻って、NOMAが現在東京で展開している料理・・・
 先に登場した山本益博氏が、NOMAのシェフについて、こういう風に書いておられました。「地球を外から眺める宇宙飛行士の料理人」。ぼくは深く首肯せざるを得ませんでした。
 宇宙食を口にして、ラベルを読んで、そういえばそんな味だ、そんな感覚。

 食品加工、ということに関しては、日本の技術は素晴らしいと思います。例えば、マイクロソフト元CTOが書いた「MODERNIST CUISINE」という料理本には、日本企業の食品添加物がけっこう頻繁に登場します。ぼく達の想像をはるかに超える技術が、現在進行形で進められているのです。でも、その土台にあるのは、あくまで人間本来のもつ感覚であろうと思うのです。すなわち、美味しいという記憶。味だけではなく、形や香り、あるいは食感や温度。でも、宇宙船のなかで料理するのは難しいだろうから、宇宙食を開発する。それはあくまで科学技術であるとぼくは考えます。さまざまな困難を克服し、人間の生存を可能とする技術。それはレストランで口にするものとは根本的に異なっているのではないでしょうか。
 ぼくがかつて懊悩し、ここから進んではいけないと考えた一線を越えた料理、それが東京のNOMAの料理であるようにぼくには思えてなりません。もちろん、ぼくに才能がなかったから、そこより先に進めなかったということはあるのでしょうが、では現在のNOMAの料理にどんな未来があるというのか、ぼくには想像もつきません。そして、世界のベストレストラン1位という栄光が何時まで続くのかも。
 果たして勝者は誰なのか、敗者はだれなのか。次に続くのはどこのだれなのか。そこに見られるのは資本主義の原理だけ、であるならば、レストランの料理はすべて宇宙食化していくような気がします。

 岐路に立って判断を迫られる、それは一つの道を究めようとするならば、必ずぶち当たる壁だと思います。例えばコペンハーゲンに留まるか、東京に進出するか。
 ぼく自身はそこで立ち止まりました。そして長い間、その場所で苦しみました。でも気付いたのです。道は分かれてなんかいない。最初から一つしかない。それは、自分の仕事が人を元気にする、人を喜ばせる、ただそれだけで良い、ということ。そのためだけに、自分の全てを投げ打つ、ということ。

 ぼくは蟻の誘惑には惑わされません。それが、東京のNOMAに行きたくない理由です。

 最後に、今とても気に入っているアメリカの詩人、エマーソンの言葉を引用して終わろうと思います。「Success」(成功とはなにか)の最後の文章です。

   そして、たった一人でもいいから、あなたが生きていてくれてよかったと
   思ってくれる人がいるということを知ること
   それが出来たら、人生は成功だったといえる。
# by chefmessage | 2015-02-25 17:46