イトウは、アイヌの人たちに河の神様と呼ばれていた鮭科の魚で、日本固有の淡水魚としては最大級です。過去には210センチという記録がありますが、そんなサイズは夢物語で、かの開高健が釣ったのは74センチでした。河川の環境破壊により、いまや激減している魚種です。そうそう簡単には釣れてくれません。ところが、ここに名ガイドがいてくれると可能性はうんと高くなります。
釣りには必ずポイントがあります。そして、その場所ならではの釣り方がある。これを知らないと、よほどの僥倖にめぐり合わない限り、結果は出せません。ましてや、相手は「幻」です。ただし、そんなことをやすやすと教えてくれる釣師はいません。それは、秘中の秘、なのですから。でも、その名ガイドと知り合うことができたことから、ぼくの北海道でのイトウ釣りは飛躍的に現実味をおびるようになりました。その男を、仮にS君と呼ぶことにします。
そのS君の職業は料理人で、彼は河原君を随分尊敬しています。いまや「クラブサルセル」というシェフの会を興し、その重鎮となっている河原君です。彼を慕う同業者は多い。そして、河原君も大の釣り好きとなれば、ひと肌脱ごうという気にもなるのでしょう。ぼくは幸運なことに、それに便乗することができるようになったのです。
S君は、日本一のイトウ釣師である。これは、ぼくと河原君の共通の認識です。またの名を「怪魚ハンター」。北海道のある川で、150センチ超のチョウザメを釣り上げて新聞に載ったこともある。先日は、112センチという巨大イトウを釣り上げていました。腰に熊除けの鈴をつけ、ヴェストのポケットには熊撃退スプレー、ポケットには熊を寄せつけない爆竹まで忍ばせているという豪の者です。
さて、6月19日のこと。前日が結構忙しくて、帰宅して眠ったのが午前2時半、4時半には起きて仕度を整え、千里中央からリムジンバスで関西空港へ、飛行機で新千歳、それからJRで旭川へ。早速、河原君のお店「メランジェ」へ行き、その日の夜のフェアの準備、一旦ホテルに入って小休止のあと店へ戻って、午後6時からコラボディナースタート。「ポプーレ」のヤブキ君がヘルプに来てくれています。そして、顔見知りのお客様に料理をお出しし、歓談して午後11時には好評のうちに終了。「サロンドール」の金美華さんの差し入れのケーキを食べて、ホテルに戻って待機。今回は「トーヨーホテル」の武田シェフが広い部屋を用意してくださったので、気持ちもおおらかになって、できればゆっくり休みたいな、と思っていたら眠ってしまいそうになり、ハッと時計を見ると、日付は変わり、お迎えの来る午前1時です。あわててフロントに下りていくと、ホテルのまん前に怪魚ハンターのランドクルーザーが停まっている。それに乗り込んで、念願の釣行が始まりました。
S君と河原君、そしてぼくの3人です。前席の二人が、どのポイントに入るか相談しています。ぼくは寝不足でぼんやりしながら窓の外を眺めている。週間天気予報では晴れだったのに、当日の予想は雨!とにかく行きましょう、でも、心配で仕方がない。雨、降るなよ、と祈りながらちょっとウトウト、そうするうちに午前3時には夜が白み始めます。北海道の夜明けは早い。やがて、ランクルは川の土手を走り始め、いきなり河川敷に降り、生い茂る草をなぎ倒しながら進んでいきます。おい、どこまで行くねん、とヒヤヒヤしていたら、なんと行き止まりに車一台分止めれるスペースがありました。さすがやなあ。早速、車から降りて準備をはじめます。腰まであるウエイダーをはき、道具を点検、それぞれがロッドや荷物を持って出陣。おっとその前に、虫除けスプレーを手とか首筋に吹き付けます。これをしないと蚊やアブがいっぱいよってきます。
車を降りてからポイントまでが遠い。藪こぎ、というやつです。生い茂る草木の中を歩いていく。でも、その先にイトウのいるポイントがあると思うと足早になる。そして、今日一つ目の場所に到着。うれしいことに、一番いい場所を譲ってくれました。河原君がその右手、S君は左。しばらくすると左からバシャッという水音、ついでS君の声。「すみません。釣れちゃいました。」。おい、いきなりかい!
慎重に寄せて取り込んだイトウ103センチ。でかい。怪魚ハンターの実力、いきなり炸裂です。記念撮影して放流。ぼくと河原君に気合が入ります。引き続いて、右手、河原君のロッドがビュッと音をたてます。これは空振り。しばらくして、またビュッ。また空振り。その次はバキッ、アタリがあって合わせた時に、なんと岩に竿尻をぶつけてロッドを折ってしまった。呆然のカワハラ。そろそろオレの番かな。というのも、先ほどから小さなアタリが何度もあるのだけれど、どうしても決定打にならないのです。待って待って、でもグイッと持っていってくれない。ドキドキする、まだかまだか、もういいかもういいか、その時、ぼくは何も考えていません。対岸の緑、ゆったり流れる川の反射光、風、ウグイスやカッコウの鳴き声、かすかな手ごたえ、ロッドとラインとその先、水中にいるであろうイトウの呼吸と動き、それを全身の神経を集めて感じ取ろうとしている。境界線が薄れ、世界と一体になろうとしている。ああ、自由だ、とぼくは感じる、その一瞬、竿先がキュッキュッと左に二度もっていかれて、ぼくの手は半ば無意識にそれに反応し、ロッドを逆方向に強く引っ張っている、その時、水面がバシャッと大きく渦を巻いて、河の神様がはねる!
S君が走ってきて、ぼくのロッドのリールにあるドラグ(ラインの張り具合を調整するネジ)を締めます。それでもラインは止まらない。ジージー音をたてて出ていきます。またドラグを締める。まだ、止まらない。もう一度、締める。そうして慎重に慎重に岸へ寄せてくる。これもでかい。やっとの思いで取り込んでみると、105センチ!自己最高記録達成。写真に撮ったあと、同じようにリリース。すると、S君から声がかかります。「シェフ、背景の写ってる写真はSNSでアップしないでくださいね。」。背景でポイントを特定されるのを避けるためです。さすがに日本一の座を守る男、抜かりはありません。「了解」。というようなやりとりをしていると、今度は河原君の出番です。折れていない、予備のロッドの竿先がしなっています。「今度は逃がせへんで。」。でも、なにか様子がおかしい。本人も腑に落ちない顔をしている。結局、それは鯉科のウグイでした。それも本州には生息しないエゾウグイ。黒くて、太くて、でかい。50センチは超えています。でも、これはいわゆる外道。あまり自慢になりません。くやしがるカワハラ。そして、次のポイントに移動することになりました。さらに、昼食と休憩をはさんで2度ほど場所を移動し、全員ノーヒットが続いて、最後に、以前河原君が大物をあげたポイントに。
釣りはじめた頃に、S君に電話が入りました。どうやら職場にトラブルが発生した模様。急遽、旭川に戻らなければならなくなったとのことです。本来ならば、そのときから夕方にかけて、もう一度食いがたつ時間帯になるのですが、やむ終えず残り30分で納竿することに。と、その時、河原君のロッドが音をたててしなりました。ぼくとS君が凝視するなか、彼は慎重なやり取りの末に98センチをゲット。よほど嬉しかったのでしょう。濡れるのを気にせず、川に入ってイトウを抱き上げます。そして、終了。雨男の河原に、晴れ男のミチノがせり勝ったのか、心配していた天気は時折小雨がぱらついた程度で、最後まで保ってくれました。
帰りの車中はおおいに話が盛り上がりました。3人ででかけ、だいたいがS君だけが釣ることが多かったのに、今回は全員が大物を一尾づつ。こんなことは我々にとっては前代未聞の出来事。旭川に戻って、80年続いているという名物居酒屋「天金」での打ち上げでは、料理の美味しさもあって全員上機嫌でした。
翌日、朝が早いからと見送りを丁重にお断りして、ひとりでJRに乗り込み新千歳空港に向かったぼくは、本当は帰りたくありませんでした。もうしばらくいたかった。でも、その日の夕方には大阪に戻らなくてはなりません。また、いつもの毎日が待っている。
さすがに62歳になると、昼も夜も火の前に立って仕事するのは疲れます。ときに身体が動かなくなる。しなければならないと思っていても、気力がわかないということも随分多くなりました。それでも忙しければ、まだ気分もまぎれるのですが、ヒマなときは本当に辛い。なんだか世の中に忘れ去られているような気分になることがあります。若いときには、それでも明日があると思えたけれど、今は体力、気力ともに目一杯という感じだし、明日があるとは思えない。今このときがすべてだと思う。瞬間瞬間を命がけで生きていると思う。でも、だからこそ自分の仕事が充実しているという気もするのだけれど、この張り詰めた状態をいつまで続けていけるのかと考えると、眠れない夜もある、そんなとき。
ぼくは闇の中で意識の触手を伸ばして風の動きをさぐろうとします。緑の木々、鳥のさえずり、ゆったりとした川の流れ、そしてロッドを通したイトウとのやりとり。おおきなものと静かに一体となって、広がりながら、また収斂していく自分。大丈夫、オレはまだやれる、そんな声が聞こえてくるようで。安心して眠りに就けるように。
開高健が「オーパ」でよく書いていました。さんざん愚痴や悪口を飛ばしたあとに締めくくった言葉。若いときには、「何、平和なこと書いてんねん」と思いましたが、今ならよくわかる気がします。
「神、空にしろしめす
なべて世はこともなし」
河原君、S君、また一緒に釣りに行こうな、ありがとう。
何が終わりじゃないのか、何を終わらせたくないのか、わからないまま走っている。
夢枕 獏 「神々の山嶺」
ぼくの関西学院高等部時代の同級生に、杉本隆英という男がいます。彼は現在、シャトー・イガイタカハという名のカリフォルニアワインを製造、販売しています。元々は、自分の娘の結婚式の引き出物に、家紋のラベルのワインを用意したいと考えたのが発端らしいのですが、それが今や、年産25,000本を超えるワイナリーに成長しました。彼の家の紋が「違い鷹羽」で、それをローマ字表記にしたときの最初のCとhをシャトーにひっかけ、そのあとをそのまま読ませてイガイタカハになった、と言うのが、その名の由来なのだそうです。
もとより自社畑を持っているわけではなく、優良なぶどうを高名なワインメーカーと協力してセレクト、あるいはブレンドして瓶詰めを行い販売しているので、いわゆるドメーヌではなくネゴシアンということになるのですが、その味わいや質のよさ、加えて、杉本夫妻の営業努力によって、爆発的に販売数を伸ばしています。
その杉本君のワインと、ぼくの料理をペアリングさせて提供する会が先日、ぼくの店で行われました。お客様は、食のライターの団田芳子さんとそのお仲間たち19名。いずれも味にうるさいお歴々です。
その会の日程が決まったとき、ぼくは一つのことを実行することにしました。それは、現在の自分の限界を超えるレヴェルの料理を作りあげること。当日は杉本夫婦も同席します。彼のワインを引き立てるためにも、ぼくは、参加者が一生忘れないような料理を提供したい。
でも、これはかなり無謀な計画でした。
「神々の山嶺」という夢枕獏が書いた小説があります。この作品が映画化されたので、観る前にもう一度目を通しました。これは、簡単にいうと、誰もやったことのない方法でエヴェレストに登頂しようとする男の物語です。そのなかに、こんなことが書かれています。「八000メートルを越えると、一歩足を踏み出しては、一分近くも喘ぎ、次にまた一歩踏み出す、その無限の繰り返しになる。」。
読んだとき、これは今のぼくの状況に近いな、と思いました。
ぼくはシェフになって27年目に入りました。その間、実に多くの料理を考案して提供してきました。自分のスタイルといったものが自然と出来上がるには充分な時間をぼくは過ごしてきたのです。それは、決して平坦ではなかったし、喜びよりも苦しみのほうが多かったような気がします。そうして、ぼくは62歳になった。
フェイスブックで繋がっているかつての同級生達のプロフィール写真は、孫をだいているものが多い。そして、なんだか余裕の表情に見えます。ぼくのひがみも入っているのでしょうが、これは当然かもしれません。なぜなら、すでに彼等の多くは定年の歳を経ているのですから。それをみるにつけ、ぼくは思います。「オレ、自分の歳、忘れてるな。」。
体力は衰えて当然なのに、ぼくは自分が怠けていると思っている。だから気力を奮い立たせて動こうとするのだけれど、思うにまかせない。これではいかん、といつも思っているのだけれど。
ぼくのやっていることは、極端な言い方をすれば、若手との戦いであると思います。毎年、海外に修行にでていた、あるいは有力店に勤めていた若い料理人が独立したりシェフを任せられたりして注目を集めます。この業界、長いことやってるというだけで「古い」と決め付けられたりもする。フランス出自のランク本などにその傾向は顕著です。そして、非常に悔しいことに、人はその評価に導かれて食事の場所を選び、その評価にしたがって納得しようとする。
だから、気を抜いてると、「あの人は今」状態になってしまう。「昔は有名だった人」になってしまうのです。ましてや、ネットで情報が溢れる現代、飲食店はどんどん消費されて消えていきます。
ぼくは、生涯現役でありたいと思っています。そのためには、常に情報を収集し、分析して手を打っていかなければならないのだけれど。
自分の築き上げてきたスタイルは捨てられないのです。それを捨てなかったからこそ、ぼくはこの業界で生き延びてこられたわけだし。だから、この年齢になって、まだ己の限界を超える仕事を達成するということは、八000メートルの場所で、まだ上に登ろうとするくらい困難です。でも、このままでは終われない。まだ自分は終わってはいないということを証明しなければならない。たとえ這ってでも、力の続く限り前に進まなければならない。命とは、多分そういうものだから。
無謀な計画を達成するためにいくつも料理の原案を描き、細部にいたるまで考えぬいて設計図を仕上げる。次にそれぞれのパーツを用意する。それから、実際に組み立てて修正していく。料理を提供する寸前までそれは続きます。そして本番。
狙ったとおりの結果は出せたと思います。すこぶる好評のうちに会は終了となりました。杉本君も随分喜んでくれました。散会後、彼がこんな投稿をFBにしていました。
「王道のフレンチの技量を持ちながら、より新しいことに挑戦するそのひたむきで前向きな道野ワールドを堪能してきました。こんな素敵な同級生を持っている喜びと、負けられへんなぁという感情が入り混じった素敵な一夜でした。」。
翌日は定休日だったのですが、まったくなにもできないほど、ぼくは疲れてしまいました。でも達成感はあったはず、なのですが、たしかにやりつくしたはず、なのですが、なんだか面白くない。何故だろうと考えて、ぼくは気付きました。ぼくは一歩進んで、もう次の一歩のことを考えている。
自分が一生懸命やっている姿と、その結果生み出されたものが人に勇気を与えることができるなら、ぼくは頂上が見えなくても登ろうと思う。ゴールなんか見えなくても、最後まで走り続けようと思います。